欧州磁器戦争史 王権と民窯-1 英国
欧州磁器戦争史 王権と民窯-1 英国
欧州大陸に比し 英国では 王権が弱く 権勢を誇示する為の 王立窯もなく 従って 王の
許認可を 必要とせず 多くの民窯が 輩出し 活発な競争が 繰り広げられました。王に
秀逸のお墨付き・ワラントを授与され 王室の御用達窯に登用され ロイヤルやクラウンを
冠する名誉を 競い合っておりました。名誉欲は 自窯に箔をつけ 利益を得る手段でも
ありました。
王侯間の 領土的野心から惹起する 戦火も無く 平和な環境下 民窯の多くは 会社経営の
利益追求に 重きを成しておりました。逸早く 産業革命を成し遂げた英国の民窯は 大陸の
王立窯に比し 美術を実用化した 「用の美」作品を 手がけました。しかし 民窯としての
利益追求の余り 次第に 工業製品化 大量生産化に走り コストカットに励みました。結果
余りある「用の美」作品は 価格のみのアピールとなり かえって 経営危機に陥る民窯が
多くなりました。生き残りをかけて 規模の拡大を図り 離合集散を繰り返すなか 消えていく
民窯も 少なくありませんでした。
19世紀初頭
当時は ナポレオン全盛の アンピール(エンパイア)様式が 大陸を席捲しておりました。
そんな中 専制君主ナポレオンを好とせぬ(第二,三,四,五,六次対仏大同盟を主導。
ワーテルローの戦いで百日天下のナポレオンに引導を渡しております。)ジョンブル気質は
それに媚びずに 反する少し野暮ったさのロンドンシェープに 人気を博しました。ごく1部
の窯が 華麗なアンピール様式に 迎合しましたもの それを リージェンシー(1811~1820
家具などの 英国摂政期様式)と 呼ぶ事がありますが 磁器においては正式名称ではあり
ません。
手工芸美術磁器の廃れゆく英国で 1920年代 手描きラスター彩が 薄胎にアンティック
の光芒を 放った。しかし 時 既に遅く 最後の徒花として 散ってゆきました。
(1852 マイセンでシラー彩 開発)
「英国銘窯の離合集散」
ロイヤルクラウンダービー
1743 チェルシー窯 英国初の軟質磁器窯
1750 ブランシェ窯 ダービー窯の前身
1770 チェルシー窯を買収し チェルシー・ダービー窯に
1773 ジョージ3世より クラウンの窯印を許される
1775 伊万里・金襴手を模した イマリ・ジャパン
マイセンの柿右衛門写しと並び 欧州二大ジャポネズリと称される。
1776 ボウ窯 を吸収 異説有
1815 ブルア主導の下 ブルア・ダービー
1848 廃窯 残党により オールドクラウンダービ(キングスリート)継承
1876 ダービー・クラウン創窯(ロイヤルウースター出身者)
1890 ヴィクトリア女王よりワラント ロイヤルクラウンダービーに改称
1935 キングストリート工場買収 旧ブルアダービーの血脈を 正式に継承
ロイヤル・ウースター
1748年 前期ブリストル窯 ルンド創立
1751年 ウースター㈱創立 ジョン・ウォール医師 ウィリアム・ディビス薬剤師
1752年 ルンド-ブリストル窯を合併
1783年 トーマス・フライトにより買収さる
1788年 チェンバレンズ・ウースター分立
1789年 国王ジョージ3世より、英国陶磁器界初のロイヤルワラント(王室御用達勅許状)を授与さる
1792年 マーティン・バー参画
1807年 ウースター バー フライト&バー
1813年 ウースター フライト バー&バー
1840年 チェンバレンズ・ウースターに統合
1852年 ロイヤル・ウースターに改称 カー&ビーンズ
1902年 グレンジャー工房 合併
1904年 ロック工房 合併
1905年 ハードレイ工房 合併
20世紀後半 アラブ石油王の下 スポードと兄弟会社に
現存するイギリス最古の名窯
スポード
1770年頃 ジョサイア・スポード 創窯
1785年頃 銅版転写染付・印判手 ブルーイタリアン(オランダ人画家・モゥヘロン
原画を 伊万里で縁取り)
1795年頃 軟質磁器の 工業製品化に成功した1人が ジョサイア・スポード二世でした。
(カオリンに代わるものとして 牛骨を焼いた骨灰に 最初にたどり着いたのは
1749年 トーマス・フレイでした。)
1805年頃 ストーン・チャイナ創製 コープランド共同経営者に
1806年、ジョージ4世より英国王室御用達の栄誉を得ました。
1819年 現ザロップで フェルスパー(長石)が発見され 多くの窯で フェルスパー・
ポースレーンの開発競争の中 この時代を リードしたのが 又 逸早く工業
製品化に成功した ジョサイア・スポード二世でした。英国ボーンチャイナ確立
ミントン
シュルズベリー 27cmプレート 400万円
用の美 を追求する窯の多い英国で 大陸の王立窯に 引けをとらない 貴族趣味の 芸術
品を 創立1793年以来 ものにしてきたのが トーマス・ミントンによる ミントン窯
である。特許をもっていたアシッドゴールドをはじめ ライズドゴールドなど ギルディン
グ技術を駆使して 世界の王侯貴族をうならす 芸術品を 創造しておりました。
18世紀、中国人により編み出され 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士(マイセン ウェッジウッドのネオクラシックの華 ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。博士はこの事実を知らなかったのか もしくは知っていたがこれもパテ・シュール・パテだと気が付かなかったのか ? 隣の華は赤い, 灯台下暗し。)は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。 これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
マイセン ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。
余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 商売人にあっては 名窯セーヴルのルイ・ソロンを引き合いに 誇大宣伝したいのでしょう。山高きが故に 貴からず。セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート, 17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレース(早くから釉薬の下絵付けと書いています。)です。
イギリス スリップウェア鳥文鉢 1769
最近ある同業者から「泥漿で絵を描き釉薬をかけた絵付けがルイソロンの発明ですよ」と言われましたが 間違っています。
未だに多くのパテシュールパテ ソロン党の方に 蒙昧な信仰から目を覚ましてもらいたい。
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿があります。泥漿と釉薬の組み合わせはイギリス スリップウェア鳥文鉢 1769をご覧になればお判りの様に 1860年代のマリク・ルイ・ソロンの発明でも何でもありません。ただ彼の名誉のために言いますが 道半ばとはいえ 芸術への進歩 それが素晴らしいのです。
ルイ・ソロンの功績は本家英国陶器のスリップウェアをさておいて 新手法でもあるかの如く磁器世界ミントンにパテ・シュール・パテを持ち込みました。ご存知のようにミントンで花開き素晴らしい芸術への昇華を遂げるのです。その先鞭をつけた功績です。
ちなみに英国スリップウェア、は日本でも大いに賞賛されています。バーナード・リーチ(スリップウェアをはるかに凌駕しているミントンのパテ・シュール・パテを知らなかった ? )や富本憲吉は1913年に東京の丸善で購入したチャールズ・ロマックスの『古風な英国陶器』という本の中で、初めてスリップウェアの存在を知った。リーチと濱田庄司は1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰った。柳宗悦や河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えた。(隣の華は赤い, 灯台下暗し。スリップと呼ばれる泥漿でもって筆で描いたり、スポイトから垂らす手法は日本の作陶における「筒描き」「いっちん盛り」と同じ手法であり、古くから日本の染色でも行われていた。)
1900年初頭 ミントンのパテ・シュール・パテ
ヘレンドでも 1860~1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛) を加飾しております。20世紀のリチャードジノリでも パールブルーにある 私命名の粉彩リングは 中国の泥彩由来のパテシュールパテの転写版です。粉彩は主に水泥(スリップ状磁土)を地に施したものです。 陶器などでは普通に行われていた自然釉期待の素焼をヒントにしたのか マイセンが 18世紀の中世を席捲したウェッジウッドのジャスバーに対抗して焼き締め陶器(ハードストーンウェア)に先祖返りしたのがビスク焼と呼んでいるものです。ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 パテ・シュール・パテ技法を習得し セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
マイセン 翠の月 拡大 当店所蔵 これも釉薬の下絵付
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
中国泥彩象嵌鶴文水指 高さ18、8cm 白泥鉄絵緑彩松樹鶴文(遠景の山々は白泥)
セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺 1880年 ジュール・アンドレア作初期のセーブル窯パテ・シュール・パテは 中国泥彩とあまり大差はありません。
ミントンは 大陸の王立窯 特にフランスのセーヴルから 工芸家を招聘して 腕に磨きをかけておりました。工場内では 英語に引けを取らないぐらいフランス語が飛び交っておりました。1871年 ルイ・ソロンを招聘して 美しいパテ・シュール・パテ技法を マイセンに先駆けて 自家薬籠中のものにして 更に 世界の王侯貴族をうならす 貴族趣味の芸術品をものにして 「パテ・シュール・パテのミントン」の名声は セーヴルを 出し抜くほどでした。
片や一方で カーフレイ窯の 銅版彫刻師であった トーマスにより 銅版転写を用いた 印判手のウィロウパターン(英スタッフォードシャー地方の子守唄から)が創作されたのも ミントン窯によります。後に市民階級に愛好され 広く多くの窯でコピーされました。
銅版転写を 始めて絵付けに用いたのは 1750年頃 ボウ窯のブルックスですが その技法は カーフレイ窯に始まり 多くの窯に用いられ やがて銅版転写染付・印判手によるミントンのウィロウパターンや スポードのブルーイタリアンにと発展していくのです。
(マイセンでは 1833年ごろから 銅版転写染付・印判手を 始めております。)
最後に ミントンを語るに ハドンホールを語らずには終われません。
1948年 ハドンホール城のタペストリーに想を得た ジョン・ワズワース(英国陶磁器界の多大な貢献者)により デザインされました。ブルーは 45年間行方不明に なっておりましたのが ミントン社200周年の1993年に発見され 記念復刻されました。
英国製には 彼の誇りのサインが 付いています。
ロイヤルドルトン
1815 ドルトン窯 ロンドン都市計画の基礎 排水土管等の研究開発により 巨富
1882 ストークオントレント・パースレム新工場 磁器制作に 着手
1887 ヘンリー ヴィクトリア女王より 窯業界 初の ナイトに叙せらる
1901 エドワード七世より ワラント授与され ロイヤル・ドルトンの名乗
20世紀後半 ミントン,ロイヤルクラウンダービー,ロイヤルアルバート,を傘下に
ロイヤルアルバート
1896 アルバート窯
1904 ヴィクトリア女王よりワラント授与され ロイヤルアルバートの名乗
1978 輸出貢献によりエリザベス女王より 表彰を受けております。
ウェッジウッド
1960年代 ジョンソンブラザース,コールポート,メイソンズ,を傘下に
1986年 コングロマリットであるロンドン・インターナショナル・グループ(現・SSLインターナショナル)がウェッジウッド社に対する敵対的買収を試みた。これに対抗するためにブライアン会長は、アイルランドのクリスタルガラスメーカーであるウォーターフォード・クリスタル社をホワイトナイトとし、同社との合併を選択した。これにより、ウォーターフォード・ウェッジウッド社が誕生し、ウェッジウッドはその傘下に入った。
ウォーターフォード・ウェッジウッド社 ロイヤルドルトン・グループ(Rドルトン,ミントン, Rアルバート,) ドイツ ローゼンタール,フッチェンロイター,を傘下に
ウォーターフォード社は同じ食器メーカーであり合併のシナジー効果が強く期待されたが、ウォーターフォード社のリストラによる経営の停滞などからすぐに十分な効果は生まれなかった。しかしウェッジウッド社は1995年に低価格の硬質陶器を発売するなどの戦略を取り、陶磁器メーカーとして世界のトップシェアを争う存在であり続けている。
2009年1月5日、アイルランドの本社はグループの中核である英国とアイルランドの子会社について法定管財人による管理を裁判所に申請し、事実上経営破綻した。
2009年3月26日、ニューヨークを本拠地とするKPS キャピタルパートナーズ社によって設立された新会社WWRD Holdings Limitedが、ウォーターフォード ウェッジウッドplc(ウォーターフォード・ウェッジウッド グループの全ての子会社を含む)の特定の資産を買収したことを発表した。
2015年7月、フィンランド企業、フィスカースに買収され、ロイヤルドルトン、ロイヤルアルバートと共にWWRDグループホールディングスの一員となった。
王権の盛衰 体制の変革に 運命付けられた大陸諸窯にたいし 民間経済活動の結果として 英国民窯は 多少の強弱はあれど 総て等しく 運命を共にしてきております。
ご安心ください。
お熟成洋食器店アインには 一昔もっと前の いい仕事をしていた銘品が まだございます。
ウェッジウッド,ロイヤルクラウンダービー,ロイヤルドルトン,ミントン,
スポード,ロイヤルアルバート,ロイヤルウースター,エインズレイ等々 英国製の花盛り。
勿論 新作手工芸品の原点回帰作品も 厳選して お取り揃えしておりますから ご安心を!!
欧州大陸に比し 英国では 王権が弱く 権勢を誇示する為の 王立窯もなく 従って 王の
許認可を 必要とせず 多くの民窯が 輩出し 活発な競争が 繰り広げられました。王に
秀逸のお墨付き・ワラントを授与され 王室の御用達窯に登用され ロイヤルやクラウンを
冠する名誉を 競い合っておりました。名誉欲は 自窯に箔をつけ 利益を得る手段でも
ありました。
王侯間の 領土的野心から惹起する 戦火も無く 平和な環境下 民窯の多くは 会社経営の
利益追求に 重きを成しておりました。逸早く 産業革命を成し遂げた英国の民窯は 大陸の
王立窯に比し 美術を実用化した 「用の美」作品を 手がけました。しかし 民窯としての
利益追求の余り 次第に 工業製品化 大量生産化に走り コストカットに励みました。結果
余りある「用の美」作品は 価格のみのアピールとなり かえって 経営危機に陥る民窯が
多くなりました。生き残りをかけて 規模の拡大を図り 離合集散を繰り返すなか 消えていく
民窯も 少なくありませんでした。
19世紀初頭
当時は ナポレオン全盛の アンピール(エンパイア)様式が 大陸を席捲しておりました。
そんな中 専制君主ナポレオンを好とせぬ(第二,三,四,五,六次対仏大同盟を主導。
ワーテルローの戦いで百日天下のナポレオンに引導を渡しております。)ジョンブル気質は
それに媚びずに 反する少し野暮ったさのロンドンシェープに 人気を博しました。ごく1部
の窯が 華麗なアンピール様式に 迎合しましたもの それを リージェンシー(1811~1820
家具などの 英国摂政期様式)と 呼ぶ事がありますが 磁器においては正式名称ではあり
ません。
手工芸美術磁器の廃れゆく英国で 1920年代 手描きラスター彩が 薄胎にアンティック
の光芒を 放った。しかし 時 既に遅く 最後の徒花として 散ってゆきました。
(1852 マイセンでシラー彩 開発)
「英国銘窯の離合集散」
ロイヤルクラウンダービー
1743 チェルシー窯 英国初の軟質磁器窯
1750 ブランシェ窯 ダービー窯の前身
1770 チェルシー窯を買収し チェルシー・ダービー窯に
1773 ジョージ3世より クラウンの窯印を許される
1775 伊万里・金襴手を模した イマリ・ジャパン
マイセンの柿右衛門写しと並び 欧州二大ジャポネズリと称される。
1776 ボウ窯 を吸収 異説有
1815 ブルア主導の下 ブルア・ダービー
1848 廃窯 残党により オールドクラウンダービ(キングスリート)継承
1876 ダービー・クラウン創窯(ロイヤルウースター出身者)
1890 ヴィクトリア女王よりワラント ロイヤルクラウンダービーに改称
1935 キングストリート工場買収 旧ブルアダービーの血脈を 正式に継承
ロイヤル・ウースター
1748年 前期ブリストル窯 ルンド創立
1751年 ウースター㈱創立 ジョン・ウォール医師 ウィリアム・ディビス薬剤師
1752年 ルンド-ブリストル窯を合併
1783年 トーマス・フライトにより買収さる
1788年 チェンバレンズ・ウースター分立
1789年 国王ジョージ3世より、英国陶磁器界初のロイヤルワラント(王室御用達勅許状)を授与さる
1792年 マーティン・バー参画
1807年 ウースター バー フライト&バー
1813年 ウースター フライト バー&バー
1840年 チェンバレンズ・ウースターに統合
1852年 ロイヤル・ウースターに改称 カー&ビーンズ
1902年 グレンジャー工房 合併
1904年 ロック工房 合併
1905年 ハードレイ工房 合併
20世紀後半 アラブ石油王の下 スポードと兄弟会社に
現存するイギリス最古の名窯
スポード
1770年頃 ジョサイア・スポード 創窯
1785年頃 銅版転写染付・印判手 ブルーイタリアン(オランダ人画家・モゥヘロン
原画を 伊万里で縁取り)
1795年頃 軟質磁器の 工業製品化に成功した1人が ジョサイア・スポード二世でした。
(カオリンに代わるものとして 牛骨を焼いた骨灰に 最初にたどり着いたのは
1749年 トーマス・フレイでした。)
1805年頃 ストーン・チャイナ創製 コープランド共同経営者に
1806年、ジョージ4世より英国王室御用達の栄誉を得ました。
1819年 現ザロップで フェルスパー(長石)が発見され 多くの窯で フェルスパー・
ポースレーンの開発競争の中 この時代を リードしたのが 又 逸早く工業
製品化に成功した ジョサイア・スポード二世でした。英国ボーンチャイナ確立
ミントン
シュルズベリー 27cmプレート 400万円
用の美 を追求する窯の多い英国で 大陸の王立窯に 引けをとらない 貴族趣味の 芸術
品を 創立1793年以来 ものにしてきたのが トーマス・ミントンによる ミントン窯
である。特許をもっていたアシッドゴールドをはじめ ライズドゴールドなど ギルディン
グ技術を駆使して 世界の王侯貴族をうならす 芸術品を 創造しておりました。
18世紀、中国人により編み出され 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士(マイセン ウェッジウッドのネオクラシックの華 ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。博士はこの事実を知らなかったのか もしくは知っていたがこれもパテ・シュール・パテだと気が付かなかったのか ? 隣の華は赤い, 灯台下暗し。)は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。 これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
マイセン ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。
余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 商売人にあっては 名窯セーヴルのルイ・ソロンを引き合いに 誇大宣伝したいのでしょう。山高きが故に 貴からず。セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート, 17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレース(早くから釉薬の下絵付けと書いています。)です。
イギリス スリップウェア鳥文鉢 1769
最近ある同業者から「泥漿で絵を描き釉薬をかけた絵付けがルイソロンの発明ですよ」と言われましたが 間違っています。
未だに多くのパテシュールパテ ソロン党の方に 蒙昧な信仰から目を覚ましてもらいたい。
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿があります。泥漿と釉薬の組み合わせはイギリス スリップウェア鳥文鉢 1769をご覧になればお判りの様に 1860年代のマリク・ルイ・ソロンの発明でも何でもありません。ただ彼の名誉のために言いますが 道半ばとはいえ 芸術への進歩 それが素晴らしいのです。
ルイ・ソロンの功績は本家英国陶器のスリップウェアをさておいて 新手法でもあるかの如く磁器世界ミントンにパテ・シュール・パテを持ち込みました。ご存知のようにミントンで花開き素晴らしい芸術への昇華を遂げるのです。その先鞭をつけた功績です。
ちなみに英国スリップウェア、は日本でも大いに賞賛されています。バーナード・リーチ(スリップウェアをはるかに凌駕しているミントンのパテ・シュール・パテを知らなかった ? )や富本憲吉は1913年に東京の丸善で購入したチャールズ・ロマックスの『古風な英国陶器』という本の中で、初めてスリップウェアの存在を知った。リーチと濱田庄司は1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰った。柳宗悦や河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えた。(隣の華は赤い, 灯台下暗し。スリップと呼ばれる泥漿でもって筆で描いたり、スポイトから垂らす手法は日本の作陶における「筒描き」「いっちん盛り」と同じ手法であり、古くから日本の染色でも行われていた。)
1900年初頭 ミントンのパテ・シュール・パテ
ヘレンドでも 1860~1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛) を加飾しております。20世紀のリチャードジノリでも パールブルーにある 私命名の粉彩リングは 中国の泥彩由来のパテシュールパテの転写版です。粉彩は主に水泥(スリップ状磁土)を地に施したものです。 陶器などでは普通に行われていた自然釉期待の素焼をヒントにしたのか マイセンが 18世紀の中世を席捲したウェッジウッドのジャスバーに対抗して焼き締め陶器(ハードストーンウェア)に先祖返りしたのがビスク焼と呼んでいるものです。ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 パテ・シュール・パテ技法を習得し セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
マイセン 翠の月 拡大 当店所蔵 これも釉薬の下絵付
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
中国泥彩象嵌鶴文水指 高さ18、8cm 白泥鉄絵緑彩松樹鶴文(遠景の山々は白泥)
セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺 1880年 ジュール・アンドレア作初期のセーブル窯パテ・シュール・パテは 中国泥彩とあまり大差はありません。
ミントンは 大陸の王立窯 特にフランスのセーヴルから 工芸家を招聘して 腕に磨きをかけておりました。工場内では 英語に引けを取らないぐらいフランス語が飛び交っておりました。1871年 ルイ・ソロンを招聘して 美しいパテ・シュール・パテ技法を マイセンに先駆けて 自家薬籠中のものにして 更に 世界の王侯貴族をうならす 貴族趣味の芸術品をものにして 「パテ・シュール・パテのミントン」の名声は セーヴルを 出し抜くほどでした。
片や一方で カーフレイ窯の 銅版彫刻師であった トーマスにより 銅版転写を用いた 印判手のウィロウパターン(英スタッフォードシャー地方の子守唄から)が創作されたのも ミントン窯によります。後に市民階級に愛好され 広く多くの窯でコピーされました。
銅版転写を 始めて絵付けに用いたのは 1750年頃 ボウ窯のブルックスですが その技法は カーフレイ窯に始まり 多くの窯に用いられ やがて銅版転写染付・印判手によるミントンのウィロウパターンや スポードのブルーイタリアンにと発展していくのです。
(マイセンでは 1833年ごろから 銅版転写染付・印判手を 始めております。)
最後に ミントンを語るに ハドンホールを語らずには終われません。
1948年 ハドンホール城のタペストリーに想を得た ジョン・ワズワース(英国陶磁器界の多大な貢献者)により デザインされました。ブルーは 45年間行方不明に なっておりましたのが ミントン社200周年の1993年に発見され 記念復刻されました。
英国製には 彼の誇りのサインが 付いています。
ロイヤルドルトン
1815 ドルトン窯 ロンドン都市計画の基礎 排水土管等の研究開発により 巨富
1882 ストークオントレント・パースレム新工場 磁器制作に 着手
1887 ヘンリー ヴィクトリア女王より 窯業界 初の ナイトに叙せらる
1901 エドワード七世より ワラント授与され ロイヤル・ドルトンの名乗
20世紀後半 ミントン,ロイヤルクラウンダービー,ロイヤルアルバート,を傘下に
ロイヤルアルバート
1896 アルバート窯
1904 ヴィクトリア女王よりワラント授与され ロイヤルアルバートの名乗
1978 輸出貢献によりエリザベス女王より 表彰を受けております。
ウェッジウッド
1960年代 ジョンソンブラザース,コールポート,メイソンズ,を傘下に
1986年 コングロマリットであるロンドン・インターナショナル・グループ(現・SSLインターナショナル)がウェッジウッド社に対する敵対的買収を試みた。これに対抗するためにブライアン会長は、アイルランドのクリスタルガラスメーカーであるウォーターフォード・クリスタル社をホワイトナイトとし、同社との合併を選択した。これにより、ウォーターフォード・ウェッジウッド社が誕生し、ウェッジウッドはその傘下に入った。
ウォーターフォード・ウェッジウッド社 ロイヤルドルトン・グループ(Rドルトン,ミントン, Rアルバート,) ドイツ ローゼンタール,フッチェンロイター,を傘下に
ウォーターフォード社は同じ食器メーカーであり合併のシナジー効果が強く期待されたが、ウォーターフォード社のリストラによる経営の停滞などからすぐに十分な効果は生まれなかった。しかしウェッジウッド社は1995年に低価格の硬質陶器を発売するなどの戦略を取り、陶磁器メーカーとして世界のトップシェアを争う存在であり続けている。
2009年1月5日、アイルランドの本社はグループの中核である英国とアイルランドの子会社について法定管財人による管理を裁判所に申請し、事実上経営破綻した。
2009年3月26日、ニューヨークを本拠地とするKPS キャピタルパートナーズ社によって設立された新会社WWRD Holdings Limitedが、ウォーターフォード ウェッジウッドplc(ウォーターフォード・ウェッジウッド グループの全ての子会社を含む)の特定の資産を買収したことを発表した。
2015年7月、フィンランド企業、フィスカースに買収され、ロイヤルドルトン、ロイヤルアルバートと共にWWRDグループホールディングスの一員となった。
王権の盛衰 体制の変革に 運命付けられた大陸諸窯にたいし 民間経済活動の結果として 英国民窯は 多少の強弱はあれど 総て等しく 運命を共にしてきております。
ご安心ください。
お熟成洋食器店アインには 一昔もっと前の いい仕事をしていた銘品が まだございます。
ウェッジウッド,ロイヤルクラウンダービー,ロイヤルドルトン,ミントン,
スポード,ロイヤルアルバート,ロイヤルウースター,エインズレイ等々 英国製の花盛り。
勿論 新作手工芸品の原点回帰作品も 厳選して お取り揃えしておりますから ご安心を!!
欧州磁器戦争史 王権と民窯-2 欧州大陸
欧州磁器戦争史 王権と民窯-2 欧州大陸
片や 大陸では王権が強く 王公間の覇権争いに為する 権威誇示の象徴として 銘窯の
創立を 競って 画策しました。大方は スパイなどを放って(デュパキエ・ウィーン窯)
先行するマイセンを 追うのですが プロイセンのフリードリヒ大王(ロイヤルベルリン・
KPM)にいたっては 積年の恨みとはいえ 武力に物を言わしてまで 秘法を奪ったの
です。兎角 大陸においては 諸公の領土的野心から 戦火が絶えず 多くの民窯が 戦
場に曝されました。王権の盛衰・交替や 革命などによる 支配体制の変遷に 王立・民
窯を問わず 運命を同じくされました。
七年戦争(1756-1763)ヨーロッパ、アフリカ、インド、北アメリカ、フィリピンにまたがる世界戦争
(ヨーロッパの人々が 打続く 戦火の中から 平和への悲願 それこそ国境無き ヨーロ
ッパ統一 すなわち ユーロの誕生です。1番激しく対立抗争を繰り返した独仏が 旗振り
役であったのも 頷けます。それに比べて英国は 半身構えです。ギリシヤに端を発する
現在のユーロ危機に瀕しても なりふり構わず ユーロを守ろうとする独仏に対して 英
国は 大陸の平和に 火の粉を被ってまで 関与する熱意は無いようです。)
諸公は 自国領土内の一流工芸家たちを召集し(セーヴル) 己と国の 名誉にかけて
他に先んじて 究極の白い黄金を勝ち得んと 窯に惜しまず 資金投入するのです。
それは戦費とともに 往々にして 国を危うくするほどでした。東洋の磁器収集は 膏血
の受け皿と 揶揄されました時 諸公は この高価な 白い黄金・磁器焼成に 成功すれば
豊な戦費を稼げ もって 大国成就の夢が 叶えられると 邁進するのです。国内のめぼ
しい民窯を 王立に買収したり 民窯の優れた職人を引き抜いて お城に王立窯をつくり
夢に邁進するのです。諸公は 夢の成就の妨げを嫌い 競合する民窯を許さず 磁器の
独占を発令するのです。未だ磁器を見る前から!中には それでも足らじと 民窯に窯印
さえ許さぬ公も おりました。
エルメス 王権には無関係な現代窯ですが 工業製品化の波に健気に抗う この窯の掲載は必須です。
エルメスは、フランスのエルメス・アンテルナショナル社が展開するファッションブランド、商標である。エルメス社は 1837年 ティエリ・エルメスが馬具工房として創業したが、自動車の発展による馬車の衰退を予見し、鞄や財布などの皮革製品に事業の軸足を移して成功しました。
現在でも馬具工房に由来するデュックとタイガーがロゴに描かれています。デュックは四輪馬車で、タイガーは従者のことです。主人が描かれていないのは「エルメスは最高の品質の馬車を用意しますが、それを御すのはお客様ご自身です」という意味が込められているためです。エルメスのクリエイションがテーブルウェアの世界にも広がったのは1984年のことです。彩り鮮やかなエルメスファッションのイメージを 磁器の世界で表現、魅力的なコレクションを 次々に発表し 独自の世界を作り上げ、「食卓の歓び」をコンセプトに、総合的なテーブルウェアの提案を続けております。この世界では 最後発ながら エルメスの伝統にかけて 採算無視で 手工芸品にこだわり続けております。
片や 大陸では王権が強く 王公間の覇権争いに為する 権威誇示の象徴として 銘窯の
創立を 競って 画策しました。大方は スパイなどを放って(デュパキエ・ウィーン窯)
先行するマイセンを 追うのですが プロイセンのフリードリヒ大王(ロイヤルベルリン・
KPM)にいたっては 積年の恨みとはいえ 武力に物を言わしてまで 秘法を奪ったの
です。兎角 大陸においては 諸公の領土的野心から 戦火が絶えず 多くの民窯が 戦
場に曝されました。王権の盛衰・交替や 革命などによる 支配体制の変遷に 王立・民
窯を問わず 運命を同じくされました。
七年戦争(1756-1763)ヨーロッパ、アフリカ、インド、北アメリカ、フィリピンにまたがる世界戦争
(ヨーロッパの人々が 打続く 戦火の中から 平和への悲願 それこそ国境無き ヨーロ
ッパ統一 すなわち ユーロの誕生です。1番激しく対立抗争を繰り返した独仏が 旗振り
役であったのも 頷けます。それに比べて英国は 半身構えです。ギリシヤに端を発する
現在のユーロ危機に瀕しても なりふり構わず ユーロを守ろうとする独仏に対して 英
国は 大陸の平和に 火の粉を被ってまで 関与する熱意は無いようです。)
諸公は 自国領土内の一流工芸家たちを召集し(セーヴル) 己と国の 名誉にかけて
他に先んじて 究極の白い黄金を勝ち得んと 窯に惜しまず 資金投入するのです。
それは戦費とともに 往々にして 国を危うくするほどでした。東洋の磁器収集は 膏血
の受け皿と 揶揄されました時 諸公は この高価な 白い黄金・磁器焼成に 成功すれば
豊な戦費を稼げ もって 大国成就の夢が 叶えられると 邁進するのです。国内のめぼ
しい民窯を 王立に買収したり 民窯の優れた職人を引き抜いて お城に王立窯をつくり
夢に邁進するのです。諸公は 夢の成就の妨げを嫌い 競合する民窯を許さず 磁器の
独占を発令するのです。未だ磁器を見る前から!中には それでも足らじと 民窯に窯印
さえ許さぬ公も おりました。
エルメス 王権には無関係な現代窯ですが 工業製品化の波に健気に抗う この窯の掲載は必須です。
エルメスは、フランスのエルメス・アンテルナショナル社が展開するファッションブランド、商標である。エルメス社は 1837年 ティエリ・エルメスが馬具工房として創業したが、自動車の発展による馬車の衰退を予見し、鞄や財布などの皮革製品に事業の軸足を移して成功しました。
現在でも馬具工房に由来するデュックとタイガーがロゴに描かれています。デュックは四輪馬車で、タイガーは従者のことです。主人が描かれていないのは「エルメスは最高の品質の馬車を用意しますが、それを御すのはお客様ご自身です」という意味が込められているためです。エルメスのクリエイションがテーブルウェアの世界にも広がったのは1984年のことです。彩り鮮やかなエルメスファッションのイメージを 磁器の世界で表現、魅力的なコレクションを 次々に発表し 独自の世界を作り上げ、「食卓の歓び」をコンセプトに、総合的なテーブルウェアの提案を続けております。この世界では 最後発ながら エルメスの伝統にかけて 採算無視で 手工芸品にこだわり続けております。
欧州磁器戦争史 王権と民窯-3 フッチェンロイター&ローゼンタール
欧州磁器戦争史 王権と民窯-3 フッチェンロイター&ローゼンタール
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは 1745年に続き またもや
占領されました。アウグスト強襲王は ワルシャワに避難するのですが マイセンには 前回
同様 隠せるものは隠し 窯などは 破壊して 秘法を守れとの 命令を下しました。そして
職人達には 避難命令が下されました。南のババリア地方に逃れた 職人たちによって ゼル
プに 後のフッチェンロイターや ローゼンタール誕生の種がまかれました。チェコの国境に
近いゼルプは チェコの豊富な石炭に恵まれ 又 近くのホーエンブルグに良質のカオリンが
産したことも幸いして 二つの銘窯が 生まれました。
ニンフェンブルク窯(ドイツ七大古窯の一つ。 前身のノイディック窯は 1753年にいたる
7年間の苦闘の後 放浪のアルカニスト リングラー・ドイツ磁器の義父により 白磁焼成を
成就)を 擁する バイエルン王は 1814年 絵付け工房を 設立した フッチェンロイター
からの 磁器工場設立の申請を 不許可にしました。ドイツ最重要古窯ニンフェンブルク窯の
名声毀損を 慮ったからです。何度かの許可申請が 却下されましたが ようやく 1822年
バイエルン王 ヨゼフ・マキシミリアン一世の勅命により 許可が下されました。その条件は
「いかなるものよりも 優れた銘品を作ること」でした。王家の勅許を汚さぬことを 誓わ
されたのです。かくて どの王国においても 白い黄金・磁器は 権威の象徴だったのです。
ローゼンタール
王権の衰えた 1879年 誰はばかる事無く ローゼンタールが 生まれました。制約の無い中
旧に囚われず 実用よりデザインを主張する ユニークな道を 切り開いていきました。
やがて 1960年に スタジオ・ラインに いたりました。それは 各界の有名デザイナーに
最高の磁器製作現場を提供し 斬新なデザイン 伝統のしがらみを 解き放つ絵柄を 試みる
ものです。ビョルン・ヴィンブラッド,ダリ,ピカソ,ベルサーチ.ブルガリ,等が有名です。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは 1745年に続き またもや
占領されました。アウグスト強襲王は ワルシャワに避難するのですが マイセンには 前回
同様 隠せるものは隠し 窯などは 破壊して 秘法を守れとの 命令を下しました。そして
職人達には 避難命令が下されました。南のババリア地方に逃れた 職人たちによって ゼル
プに 後のフッチェンロイターや ローゼンタール誕生の種がまかれました。チェコの国境に
近いゼルプは チェコの豊富な石炭に恵まれ 又 近くのホーエンブルグに良質のカオリンが
産したことも幸いして 二つの銘窯が 生まれました。
ニンフェンブルク窯(ドイツ七大古窯の一つ。 前身のノイディック窯は 1753年にいたる
7年間の苦闘の後 放浪のアルカニスト リングラー・ドイツ磁器の義父により 白磁焼成を
成就)を 擁する バイエルン王は 1814年 絵付け工房を 設立した フッチェンロイター
からの 磁器工場設立の申請を 不許可にしました。ドイツ最重要古窯ニンフェンブルク窯の
名声毀損を 慮ったからです。何度かの許可申請が 却下されましたが ようやく 1822年
バイエルン王 ヨゼフ・マキシミリアン一世の勅命により 許可が下されました。その条件は
「いかなるものよりも 優れた銘品を作ること」でした。王家の勅許を汚さぬことを 誓わ
されたのです。かくて どの王国においても 白い黄金・磁器は 権威の象徴だったのです。
ローゼンタール
王権の衰えた 1879年 誰はばかる事無く ローゼンタールが 生まれました。制約の無い中
旧に囚われず 実用よりデザインを主張する ユニークな道を 切り開いていきました。
やがて 1960年に スタジオ・ラインに いたりました。それは 各界の有名デザイナーに
最高の磁器製作現場を提供し 斬新なデザイン 伝統のしがらみを 解き放つ絵柄を 試みる
ものです。ビョルン・ヴィンブラッド,ダリ,ピカソ,ベルサーチ.ブルガリ,等が有名です。
欧州磁器戦争史 王権と民窯-4 セーヴル
欧州磁器戦争史 王権と民窯-4 セーヴル
フランスでは コンデ親王のシャンティイ窯で軟質磁器に柿右衛門風の写しを施していたデュポア兄弟は 窯を追われたが フルビー蔵相の協力を得て 1738年 ヴァンサンヌ城に 磁器工房を 開きました。1745年 フリット軟質磁器を完成。しかし、デュポア兄弟のもつ技術は充分なものではなかった。開設4年後に デュポア兄弟を追放する形で 陶工のフランソワ・グラヴァンが組織を再編成し、その後の成果で貴族達の関心を集めた。ヴァンサンヌ窯を庇護するルイ15世は 恋の放浪アルカニスト・リングラーより 磁器焼成秘法を授かり 硬質磁器で ヴァンサンヌを脅かす アノンのストラスブール窯に 王権をもって 磁器製造と 多彩色絵付けを 禁じました。挙句の果て ヴァンサンヌ窯に 秘法伝授を下命しました。アノンは やむなく窯を閉じ 翌1755年 ドイツのフランケーンタールに 磁器の独占製造権を許され フランケーンタール窯を 開きました。この後ヴァンサンヌ窯は ルイ15世や、その公妾ポンパドゥール夫人などの出資を受け、パリとヴェルサイユの中間に位置するセーヴルの町の夫人の館に移って 1756年に王立セーヴル窯となった。ロココ様式の第一人者ポンパドール夫人の 飽くなき美への情熱と 夫人を寵愛する放蕩王ルイ15世は ヴァンサンヌ・セーヴル窯に競合する民窯の台頭を封じ セーヴル窯にのみ 色絵金彩を許した事で 究極の銘品を
独占し得たのです。この時期の成果として中でも有名だったのが 夫人命名の「ブリュ・ド・ロワ(国王の青 マイセンでは これに次ぎます。)」と「ポンパドゥールの薔薇色」と呼ばれる釉薬だった。ブリュ・ド・ロワは酸化コバルトを顔料とした濃紺色で、他の何人も使えない禁色とされた。ポンパドゥールの薔薇色は中国の彩釉の影響を受けた優雅で洗練された色で、ポンパドゥール夫人が特に好んだと言われる。その調合法は科学アカデミー総裁のエローが握っており、彼の死とともに失われている。
ポンパドール夫人
1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まり ポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて夫と別居し、1745年 正式に公妾として認められた。ヴァンセンヌ窯を自分の別荘地のセーヴルに写し 王30%陶工のグラヴァンを始めとする7人の民間人70%の株式会社セーブル窯を立ち上げました。彼女のあくなき 美の追求は ついにはセーヴル窯の存亡の危機を招いたほどです。民間人7人は 王に願い出て「あなたの寵姫が 仕出かした事ですから 責任を取ってください」ということでセーブルは放蕩王ルイ15世の王立窯になりました。夫人は 湯水のように金を使い(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅)などあちこちに邸宅を建てさせ やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。
ポンパドゥール夫人(モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール、1755年、ルーヴル美術館蔵)
1756年には、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなる。夫人は美貌ばかりでなく ヴォルテールなどの啓蒙思想家と親交を結び フランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった。30歳を越えたころからルイ15世へのお褥ご辞退となったが、代わりに息のかかった女性を紹介した。ルイ15世は夫人が42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。鹿の園を建ててルイ15世好みの女を住まわせたというが、いわゆるハーレムのようなものではなかったという。当時の貴族の女性はこぞってポンパドゥール夫人のファッションを真似、その髪型をポンパドゥール と呼ぶようになった。
磁器に 遅れをとった セーヴルは 東洋磁器シノワズリを良くする マイセンを尻目に ひたすら 欧風ロココの確立に 専念するのです。夫人の美術に対する感性と それに注ぎ込んだ王の財力は やがて白磁完成により賞賛を一人占めしていたマイセンを 凌駕し 欧州人の琴線に触れる磁器芸術で 主導権を奪っていったのです。しかし 決して 硬質磁器をあきらめていた訳では有りません。時 既に多くの王立窯が乱立し硬質磁器で 文化度と 財力を 競っていたのです。美を確立した上は 品質においても 他公に負けておられません。 長年の探索が功を奏し 1768年 リモージュ近郊のサンイリョウで良質の磁土カオリンが見つけられました。はじめ 知事のダルトア伯爵は 磁器窯を 保護育成しょうとしましたが 王権の発動により 磁土の産地と 絵付け工房は セーヴル窯に 買収されてしまうのです。白磁の一部は セーヴルに運ばれ 絵付けされました。この絵付けに 無名時代の ルノアールが従事したそうです。
美術磁器で一世を風靡したセーヴルも ブルボン王朝の衰退と 1789年のフランス革命による
王権の終焉に 運命を共にしました。(その後のセーヴルは マリーアントワネットが 1793年
処刑され 1804年 ナポレオンが 皇帝に即位し 帝立窯になりました。ネオクラシック勃興の
中 ナポレオン好みの アンピール様式を よくする様になり 今に至っております。王風美術
食器に拘るセーヴルは フランス国立窯の名誉にかけても 採算主義に迎合して用の美作品に
お茶を濁すことは 出来ませんでした。20世紀掉尾 あわよくば 資金確保の機会を 磁器先
進国の日本に求めて バカラ・ジャパンを通じての販売を 図ったことがありました。しかし
その値 余りにも高価で ジャパン・アズ・ナンバーワンを謳歌していた 日本でも多くは望め
ず 泡沫の露と 立ち消えていきました。以後 歴史的に見ても 美術食器の 採算に見合う販
売は 王侯貴族の没落と共に かなわぬ夢と セーブルは 国賓へのプレゼントと 宮殿の国賓
接待用食器のみを制作しております。)
王権の呪縛を解き放たれたリモージュに 多くの民窯が 生まれたのは 美の究極セーヴルで
培われた 多くの名工達の存在による 必然です。
1842年 アビランド
1849年 レイノー ナポレオン3世時代
1863年 ベルナルド
1910年 ジョルジュボワイエ
フランスでは コンデ親王のシャンティイ窯で軟質磁器に柿右衛門風の写しを施していたデュポア兄弟は 窯を追われたが フルビー蔵相の協力を得て 1738年 ヴァンサンヌ城に 磁器工房を 開きました。1745年 フリット軟質磁器を完成。しかし、デュポア兄弟のもつ技術は充分なものではなかった。開設4年後に デュポア兄弟を追放する形で 陶工のフランソワ・グラヴァンが組織を再編成し、その後の成果で貴族達の関心を集めた。ヴァンサンヌ窯を庇護するルイ15世は 恋の放浪アルカニスト・リングラーより 磁器焼成秘法を授かり 硬質磁器で ヴァンサンヌを脅かす アノンのストラスブール窯に 王権をもって 磁器製造と 多彩色絵付けを 禁じました。挙句の果て ヴァンサンヌ窯に 秘法伝授を下命しました。アノンは やむなく窯を閉じ 翌1755年 ドイツのフランケーンタールに 磁器の独占製造権を許され フランケーンタール窯を 開きました。この後ヴァンサンヌ窯は ルイ15世や、その公妾ポンパドゥール夫人などの出資を受け、パリとヴェルサイユの中間に位置するセーヴルの町の夫人の館に移って 1756年に王立セーヴル窯となった。ロココ様式の第一人者ポンパドール夫人の 飽くなき美への情熱と 夫人を寵愛する放蕩王ルイ15世は ヴァンサンヌ・セーヴル窯に競合する民窯の台頭を封じ セーヴル窯にのみ 色絵金彩を許した事で 究極の銘品を
独占し得たのです。この時期の成果として中でも有名だったのが 夫人命名の「ブリュ・ド・ロワ(国王の青 マイセンでは これに次ぎます。)」と「ポンパドゥールの薔薇色」と呼ばれる釉薬だった。ブリュ・ド・ロワは酸化コバルトを顔料とした濃紺色で、他の何人も使えない禁色とされた。ポンパドゥールの薔薇色は中国の彩釉の影響を受けた優雅で洗練された色で、ポンパドゥール夫人が特に好んだと言われる。その調合法は科学アカデミー総裁のエローが握っており、彼の死とともに失われている。
ポンパドール夫人
1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まり ポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて夫と別居し、1745年 正式に公妾として認められた。ヴァンセンヌ窯を自分の別荘地のセーヴルに写し 王30%陶工のグラヴァンを始めとする7人の民間人70%の株式会社セーブル窯を立ち上げました。彼女のあくなき 美の追求は ついにはセーヴル窯の存亡の危機を招いたほどです。民間人7人は 王に願い出て「あなたの寵姫が 仕出かした事ですから 責任を取ってください」ということでセーブルは放蕩王ルイ15世の王立窯になりました。夫人は 湯水のように金を使い(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅)などあちこちに邸宅を建てさせ やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。
ポンパドゥール夫人(モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール、1755年、ルーヴル美術館蔵)
1756年には、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなる。夫人は美貌ばかりでなく ヴォルテールなどの啓蒙思想家と親交を結び フランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった。30歳を越えたころからルイ15世へのお褥ご辞退となったが、代わりに息のかかった女性を紹介した。ルイ15世は夫人が42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。鹿の園を建ててルイ15世好みの女を住まわせたというが、いわゆるハーレムのようなものではなかったという。当時の貴族の女性はこぞってポンパドゥール夫人のファッションを真似、その髪型をポンパドゥール と呼ぶようになった。
磁器に 遅れをとった セーヴルは 東洋磁器シノワズリを良くする マイセンを尻目に ひたすら 欧風ロココの確立に 専念するのです。夫人の美術に対する感性と それに注ぎ込んだ王の財力は やがて白磁完成により賞賛を一人占めしていたマイセンを 凌駕し 欧州人の琴線に触れる磁器芸術で 主導権を奪っていったのです。しかし 決して 硬質磁器をあきらめていた訳では有りません。時 既に多くの王立窯が乱立し硬質磁器で 文化度と 財力を 競っていたのです。美を確立した上は 品質においても 他公に負けておられません。 長年の探索が功を奏し 1768年 リモージュ近郊のサンイリョウで良質の磁土カオリンが見つけられました。はじめ 知事のダルトア伯爵は 磁器窯を 保護育成しょうとしましたが 王権の発動により 磁土の産地と 絵付け工房は セーヴル窯に 買収されてしまうのです。白磁の一部は セーヴルに運ばれ 絵付けされました。この絵付けに 無名時代の ルノアールが従事したそうです。
美術磁器で一世を風靡したセーヴルも ブルボン王朝の衰退と 1789年のフランス革命による
王権の終焉に 運命を共にしました。(その後のセーヴルは マリーアントワネットが 1793年
処刑され 1804年 ナポレオンが 皇帝に即位し 帝立窯になりました。ネオクラシック勃興の
中 ナポレオン好みの アンピール様式を よくする様になり 今に至っております。王風美術
食器に拘るセーヴルは フランス国立窯の名誉にかけても 採算主義に迎合して用の美作品に
お茶を濁すことは 出来ませんでした。20世紀掉尾 あわよくば 資金確保の機会を 磁器先
進国の日本に求めて バカラ・ジャパンを通じての販売を 図ったことがありました。しかし
その値 余りにも高価で ジャパン・アズ・ナンバーワンを謳歌していた 日本でも多くは望め
ず 泡沫の露と 立ち消えていきました。以後 歴史的に見ても 美術食器の 採算に見合う販
売は 王侯貴族の没落と共に かなわぬ夢と セーブルは 国賓へのプレゼントと 宮殿の国賓
接待用食器のみを制作しております。)
王権の呪縛を解き放たれたリモージュに 多くの民窯が 生まれたのは 美の究極セーヴルで
培われた 多くの名工達の存在による 必然です。
1842年 アビランド
1849年 レイノー ナポレオン3世時代
1863年 ベルナルド
1910年 ジョルジュボワイエ
欧州磁器戦争史 王権と民窯-5 アビランド・ジョルジュボワイエ
欧州磁器戦争史 王権と民窯-5 アビランド・ジョルジュボワイエ ビレロイ&ボッホ
人口に膾炙する アビランドもその一つです。
1839年のある日 ニューヨークの貿易商である デビッド・アビランドの元を 薄胎の
白いカップを携えた 1人の客が訪れ 同じものでティーセットを 揃えたいと 申し出た
のです。バックロゴは無かったのですが 稀に見る高品質に デビッドは 英国を 尻目に
台頭するフランスに 目星をつけました。海を渡り フランスはリモージュ(紀元3世紀に
ローマ人により開かれた 千数百年の歴史の重みある佇みに ボトルキルンの白煙が 溶け
込む街)に辿り着きました。貿易商であったデビッドですが この街と 産する磁器に魅せ
られて 遂に病膏肓 1842年磁器製造・絵付工房(それまで 白磁成型は リモージュで
絵付は パリ工房でなされていた)を 創設するのです。鋳型成型や 石炭焼成窯の実現等
フランス初の功績は 以後 リモージュの アメリカ市場への拡大(レイノー1849年,ベル
ナルド1863年,ジョルジュボワイエ1910年などの 後身続出)の先鞭に 大いに資するとこ
ろとなりました。
直 ジョルジュボワイエ窯は アビランド社の 傘下に入り 現在にいたっております。
ビレロイ&ボッホ社
1748 ボッホ陶器工場 自治ロレーヌ公国(現フランス領ロレーヌ)に 開設
1767 ロレーヌがフランス領となり 特権を剥奪されたため 現ルクセンブルグ(旧オーストリア領)に陶磁器工場を移設 マリア・テレジア帝室御用達窯となり 王室紋章を許される。
1791 ビレロイ陶磁器工場設立
1836 ビレロイ窯とボッホ窯合併 ビレロイ&ボッホ社設立 1825年まで 総ての陶磁器は 手描きであったのを 大陸で初めて(ビレロイ&ボッホ社 公式サイト) 青色銅版転写 彩色石版転写を採用(マイセンでは 1833年ごろから 銅版転写染付・印判手を 始めております。)
1976 ハインリッヒ窯(ボーンチャイナ)を吸収合併 高級品路線を強化
より良いものを より多くの人にを モットーに
人口に膾炙する アビランドもその一つです。
1839年のある日 ニューヨークの貿易商である デビッド・アビランドの元を 薄胎の
白いカップを携えた 1人の客が訪れ 同じものでティーセットを 揃えたいと 申し出た
のです。バックロゴは無かったのですが 稀に見る高品質に デビッドは 英国を 尻目に
台頭するフランスに 目星をつけました。海を渡り フランスはリモージュ(紀元3世紀に
ローマ人により開かれた 千数百年の歴史の重みある佇みに ボトルキルンの白煙が 溶け
込む街)に辿り着きました。貿易商であったデビッドですが この街と 産する磁器に魅せ
られて 遂に病膏肓 1842年磁器製造・絵付工房(それまで 白磁成型は リモージュで
絵付は パリ工房でなされていた)を 創設するのです。鋳型成型や 石炭焼成窯の実現等
フランス初の功績は 以後 リモージュの アメリカ市場への拡大(レイノー1849年,ベル
ナルド1863年,ジョルジュボワイエ1910年などの 後身続出)の先鞭に 大いに資するとこ
ろとなりました。
直 ジョルジュボワイエ窯は アビランド社の 傘下に入り 現在にいたっております。
ビレロイ&ボッホ社
1748 ボッホ陶器工場 自治ロレーヌ公国(現フランス領ロレーヌ)に 開設
1767 ロレーヌがフランス領となり 特権を剥奪されたため 現ルクセンブルグ(旧オーストリア領)に陶磁器工場を移設 マリア・テレジア帝室御用達窯となり 王室紋章を許される。
1791 ビレロイ陶磁器工場設立
1836 ビレロイ窯とボッホ窯合併 ビレロイ&ボッホ社設立 1825年まで 総ての陶磁器は 手描きであったのを 大陸で初めて(ビレロイ&ボッホ社 公式サイト) 青色銅版転写 彩色石版転写を採用(マイセンでは 1833年ごろから 銅版転写染付・印判手を 始めております。)
1976 ハインリッヒ窯(ボーンチャイナ)を吸収合併 高級品路線を強化
より良いものを より多くの人にを モットーに