欧州磁器戦争史 王権と民窯-4 セーヴル
欧州磁器戦争史 王権と民窯-4 セーヴル
フランスでは コンデ親王のシャンティイ窯で軟質磁器に柿右衛門風の写しを施していたデュポア兄弟は 窯を追われたが フルビー蔵相の協力を得て 1738年 ヴァンサンヌ城に 磁器工房を 開きました。1745年 フリット軟質磁器を完成。しかし、デュポア兄弟のもつ技術は充分なものではなかった。開設4年後に デュポア兄弟を追放する形で 陶工のフランソワ・グラヴァンが組織を再編成し、その後の成果で貴族達の関心を集めた。ヴァンサンヌ窯を庇護するルイ15世は 恋の放浪アルカニスト・リングラーより 磁器焼成秘法を授かり 硬質磁器で ヴァンサンヌを脅かす アノンのストラスブール窯に 王権をもって 磁器製造と 多彩色絵付けを 禁じました。挙句の果て ヴァンサンヌ窯に 秘法伝授を下命しました。アノンは やむなく窯を閉じ 翌1755年 ドイツのフランケーンタールに 磁器の独占製造権を許され フランケーンタール窯を 開きました。この後ヴァンサンヌ窯は ルイ15世や、その公妾ポンパドゥール夫人などの出資を受け、パリとヴェルサイユの中間に位置するセーヴルの町の夫人の館に移って 1756年に王立セーヴル窯となった。ロココ様式の第一人者ポンパドール夫人の 飽くなき美への情熱と 夫人を寵愛する放蕩王ルイ15世は ヴァンサンヌ・セーヴル窯に競合する民窯の台頭を封じ セーヴル窯にのみ 色絵金彩を許した事で 究極の銘品を
独占し得たのです。この時期の成果として中でも有名だったのが 夫人命名の「ブリュ・ド・ロワ(国王の青 マイセンでは これに次ぎます。)」と「ポンパドゥールの薔薇色」と呼ばれる釉薬だった。ブリュ・ド・ロワは酸化コバルトを顔料とした濃紺色で、他の何人も使えない禁色とされた。ポンパドゥールの薔薇色は中国の彩釉の影響を受けた優雅で洗練された色で、ポンパドゥール夫人が特に好んだと言われる。その調合法は科学アカデミー総裁のエローが握っており、彼の死とともに失われている。
ポンパドール夫人
1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まり ポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて夫と別居し、1745年 正式に公妾として認められた。ヴァンセンヌ窯を自分の別荘地のセーヴルに写し 王30%陶工のグラヴァンを始めとする7人の民間人70%の株式会社セーブル窯を立ち上げました。彼女のあくなき 美の追求は ついにはセーヴル窯の存亡の危機を招いたほどです。民間人7人は 王に願い出て「あなたの寵姫が 仕出かした事ですから 責任を取ってください」ということでセーブルは放蕩王ルイ15世の王立窯になりました。夫人は 湯水のように金を使い(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅)などあちこちに邸宅を建てさせ やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。
ポンパドゥール夫人(モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール、1755年、ルーヴル美術館蔵)
1756年には、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなる。夫人は美貌ばかりでなく ヴォルテールなどの啓蒙思想家と親交を結び フランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった。30歳を越えたころからルイ15世へのお褥ご辞退となったが、代わりに息のかかった女性を紹介した。ルイ15世は夫人が42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。鹿の園を建ててルイ15世好みの女を住まわせたというが、いわゆるハーレムのようなものではなかったという。当時の貴族の女性はこぞってポンパドゥール夫人のファッションを真似、その髪型をポンパドゥール と呼ぶようになった。
磁器に 遅れをとった セーヴルは 東洋磁器シノワズリを良くする マイセンを尻目に ひたすら 欧風ロココの確立に 専念するのです。夫人の美術に対する感性と それに注ぎ込んだ王の財力は やがて白磁完成により賞賛を一人占めしていたマイセンを 凌駕し 欧州人の琴線に触れる磁器芸術で 主導権を奪っていったのです。しかし 決して 硬質磁器をあきらめていた訳では有りません。時 既に多くの王立窯が乱立し硬質磁器で 文化度と 財力を 競っていたのです。美を確立した上は 品質においても 他公に負けておられません。 長年の探索が功を奏し 1768年 リモージュ近郊のサンイリョウで良質の磁土カオリンが見つけられました。はじめ 知事のダルトア伯爵は 磁器窯を 保護育成しょうとしましたが 王権の発動により 磁土の産地と 絵付け工房は セーヴル窯に 買収されてしまうのです。白磁の一部は セーヴルに運ばれ 絵付けされました。この絵付けに 無名時代の ルノアールが従事したそうです。
美術磁器で一世を風靡したセーヴルも ブルボン王朝の衰退と 1789年のフランス革命による
王権の終焉に 運命を共にしました。(その後のセーヴルは マリーアントワネットが 1793年
処刑され 1804年 ナポレオンが 皇帝に即位し 帝立窯になりました。ネオクラシック勃興の
中 ナポレオン好みの アンピール様式を よくする様になり 今に至っております。王風美術
食器に拘るセーヴルは フランス国立窯の名誉にかけても 採算主義に迎合して用の美作品に
お茶を濁すことは 出来ませんでした。20世紀掉尾 あわよくば 資金確保の機会を 磁器先
進国の日本に求めて バカラ・ジャパンを通じての販売を 図ったことがありました。しかし
その値 余りにも高価で ジャパン・アズ・ナンバーワンを謳歌していた 日本でも多くは望め
ず 泡沫の露と 立ち消えていきました。以後 歴史的に見ても 美術食器の 採算に見合う販
売は 王侯貴族の没落と共に かなわぬ夢と セーブルは 国賓へのプレゼントと 宮殿の国賓
接待用食器のみを制作しております。)
王権の呪縛を解き放たれたリモージュに 多くの民窯が 生まれたのは 美の究極セーヴルで
培われた 多くの名工達の存在による 必然です。
1842年 アビランド
1849年 レイノー ナポレオン3世時代
1863年 ベルナルド
1910年 ジョルジュボワイエ
フランスでは コンデ親王のシャンティイ窯で軟質磁器に柿右衛門風の写しを施していたデュポア兄弟は 窯を追われたが フルビー蔵相の協力を得て 1738年 ヴァンサンヌ城に 磁器工房を 開きました。1745年 フリット軟質磁器を完成。しかし、デュポア兄弟のもつ技術は充分なものではなかった。開設4年後に デュポア兄弟を追放する形で 陶工のフランソワ・グラヴァンが組織を再編成し、その後の成果で貴族達の関心を集めた。ヴァンサンヌ窯を庇護するルイ15世は 恋の放浪アルカニスト・リングラーより 磁器焼成秘法を授かり 硬質磁器で ヴァンサンヌを脅かす アノンのストラスブール窯に 王権をもって 磁器製造と 多彩色絵付けを 禁じました。挙句の果て ヴァンサンヌ窯に 秘法伝授を下命しました。アノンは やむなく窯を閉じ 翌1755年 ドイツのフランケーンタールに 磁器の独占製造権を許され フランケーンタール窯を 開きました。この後ヴァンサンヌ窯は ルイ15世や、その公妾ポンパドゥール夫人などの出資を受け、パリとヴェルサイユの中間に位置するセーヴルの町の夫人の館に移って 1756年に王立セーヴル窯となった。ロココ様式の第一人者ポンパドール夫人の 飽くなき美への情熱と 夫人を寵愛する放蕩王ルイ15世は ヴァンサンヌ・セーヴル窯に競合する民窯の台頭を封じ セーヴル窯にのみ 色絵金彩を許した事で 究極の銘品を
独占し得たのです。この時期の成果として中でも有名だったのが 夫人命名の「ブリュ・ド・ロワ(国王の青 マイセンでは これに次ぎます。)」と「ポンパドゥールの薔薇色」と呼ばれる釉薬だった。ブリュ・ド・ロワは酸化コバルトを顔料とした濃紺色で、他の何人も使えない禁色とされた。ポンパドゥールの薔薇色は中国の彩釉の影響を受けた優雅で洗練された色で、ポンパドゥール夫人が特に好んだと言われる。その調合法は科学アカデミー総裁のエローが握っており、彼の死とともに失われている。
ポンパドール夫人
1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まり ポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて夫と別居し、1745年 正式に公妾として認められた。ヴァンセンヌ窯を自分の別荘地のセーヴルに写し 王30%陶工のグラヴァンを始めとする7人の民間人70%の株式会社セーブル窯を立ち上げました。彼女のあくなき 美の追求は ついにはセーヴル窯の存亡の危機を招いたほどです。民間人7人は 王に願い出て「あなたの寵姫が 仕出かした事ですから 責任を取ってください」ということでセーブルは放蕩王ルイ15世の王立窯になりました。夫人は 湯水のように金を使い(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅)などあちこちに邸宅を建てさせ やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。
ポンパドゥール夫人(モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール、1755年、ルーヴル美術館蔵)
1756年には、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなる。夫人は美貌ばかりでなく ヴォルテールなどの啓蒙思想家と親交を結び フランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった。30歳を越えたころからルイ15世へのお褥ご辞退となったが、代わりに息のかかった女性を紹介した。ルイ15世は夫人が42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。鹿の園を建ててルイ15世好みの女を住まわせたというが、いわゆるハーレムのようなものではなかったという。当時の貴族の女性はこぞってポンパドゥール夫人のファッションを真似、その髪型をポンパドゥール と呼ぶようになった。
磁器に 遅れをとった セーヴルは 東洋磁器シノワズリを良くする マイセンを尻目に ひたすら 欧風ロココの確立に 専念するのです。夫人の美術に対する感性と それに注ぎ込んだ王の財力は やがて白磁完成により賞賛を一人占めしていたマイセンを 凌駕し 欧州人の琴線に触れる磁器芸術で 主導権を奪っていったのです。しかし 決して 硬質磁器をあきらめていた訳では有りません。時 既に多くの王立窯が乱立し硬質磁器で 文化度と 財力を 競っていたのです。美を確立した上は 品質においても 他公に負けておられません。 長年の探索が功を奏し 1768年 リモージュ近郊のサンイリョウで良質の磁土カオリンが見つけられました。はじめ 知事のダルトア伯爵は 磁器窯を 保護育成しょうとしましたが 王権の発動により 磁土の産地と 絵付け工房は セーヴル窯に 買収されてしまうのです。白磁の一部は セーヴルに運ばれ 絵付けされました。この絵付けに 無名時代の ルノアールが従事したそうです。
美術磁器で一世を風靡したセーヴルも ブルボン王朝の衰退と 1789年のフランス革命による
王権の終焉に 運命を共にしました。(その後のセーヴルは マリーアントワネットが 1793年
処刑され 1804年 ナポレオンが 皇帝に即位し 帝立窯になりました。ネオクラシック勃興の
中 ナポレオン好みの アンピール様式を よくする様になり 今に至っております。王風美術
食器に拘るセーヴルは フランス国立窯の名誉にかけても 採算主義に迎合して用の美作品に
お茶を濁すことは 出来ませんでした。20世紀掉尾 あわよくば 資金確保の機会を 磁器先
進国の日本に求めて バカラ・ジャパンを通じての販売を 図ったことがありました。しかし
その値 余りにも高価で ジャパン・アズ・ナンバーワンを謳歌していた 日本でも多くは望め
ず 泡沫の露と 立ち消えていきました。以後 歴史的に見ても 美術食器の 採算に見合う販
売は 王侯貴族の没落と共に かなわぬ夢と セーブルは 国賓へのプレゼントと 宮殿の国賓
接待用食器のみを制作しております。)
王権の呪縛を解き放たれたリモージュに 多くの民窯が 生まれたのは 美の究極セーヴルで
培われた 多くの名工達の存在による 必然です。
1842年 アビランド
1849年 レイノー ナポレオン3世時代
1863年 ベルナルド
1910年 ジョルジュボワイエ
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