アウガルテン ビーダーマイヤー 29cmプレート
アウガルテン ビーダーマイヤー 29cmプレート
契りきな 片身に袖を濡らしつつすえのまつやまなみこさじとは
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝のウィーン窯を
継承したアウガルテン・ウィーン窯
ヨーロッパ社交界の花形が見せるこの上なき洗練の冴
1815年ウィーン会議締結後の平和な30年が
このピーターマイヤー様式を花咲かせました。
ユーロなきオーストリアシリング時代に仕込んだ
お熟成洋食器店アイン
アウガルテン ビーダーマイヤー 29cmプレート
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継承したアウガルテン・ウィーン窯
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1815年ウィーン会議締結後の平和な30年が
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アウガルテン 【真正カレッジ】 コーヒー(インペリアル)C/S 5%Off
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祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) ラッキーセブン 7客限定
通常10%Off 祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) 5%Off
ゴダイヴァ夫人(990年頃 - 1067年?)は、11世紀イングランドの女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を裸で行進したという有名な「勇気」ある伝説が残っているが、中世を専門とする歴史家の見解は、これは史実ではないことで一致している。同時代頃(?)の偽イングルフの年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる。
英米で広く信じられている漠然とした伝説は、領民に対して情けぶかい夫人が、理不尽な夫に難癖をいわれて素裸で長髪をなびかせ馬に乗って町内を横断する羽目になり、町人は夫人に恩義を感じて目をそむけ野次馬を差し控えた。
だが、ただ一人、トムという男が盗み見たため、以来、ピーピング・トムといえば覗き見をする人間の代名詞となった。
この伝説については、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(1236年没)の年代記、『歴史の花』がもっとも簡素かつ最古とされる典拠である。
レディゴディバ サイモンビズリー (1962年-)著名な英国の漫画家である 。
伯爵夫人ゴダイヴァは聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った。…伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬようと嗜めたが、(それでもなお粘るので)ついに「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡る、お前にその勇気があるならば 要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその勇気があればお許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた。そして馬にまたがり二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきったが、その美しいおみ足以外は誰にも見られなかった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として 驚愕する夫のところに舞い戻り、先の要求を叶えた。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令によってこれを認定した。
山の日は、日本の国民の祝日の一つである。日付は8月11日。2016年(平成28年)1月1日施行の改正祝日法で新設された。祝日法では、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としているが、山に関する特別な出来事などの明確な由来があるわけではない。
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが 真正な【カレッジ】は見当たりません。したがってお熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
あるご夫婦のお客さんから
「アインさんは 他所にない良い物をたくさんお持ちですが あまり有名にならないでいてほしい。買いたいものが色々あるのですが 自分たちは そんなに余裕がないから 少しずつしか買えないので あまり有名になられて どんどん売切れていくのが心配です。」と言われました。当店の返事は「大丈夫ですよ。宣伝広告するぐらいなら その広告代をいつか巡り合うお客さんに還元したいので 宣伝広告したことありませんから」でした。
でも宣伝の力って凄いですね。宣伝して有名になると高くても売れるんですから
手持ちの不動産を売っては 洋食器を仕込み 耐震力のある店舗倉庫ビルを買い求め 大好きな洋食器を大切に展示備蓄しておりますが 一生の仕事と一所懸命「楽しく」頑張っております。今では この高級ブランド洋食器の世界では 品揃え世界一と羨ましがられております。
6月18日の朝7時58分ごろ、大阪府北部を震源とするM6.1、最大震度6弱の地震が発生した。大阪では1923年の観測開始以来最大の地震となり、死者や数百人の負傷者などの被害も報告されている。
ご報告
ご心配おかけしましたが 頑丈が取り柄のこの耐震ビルは 食器さんたちをピクリとも揺らさず 安全に守ってくれました。
地震当時 岡本は パソコンに向かっていたのですが 突き上げる揺れをかすかに感じ 地震かと思い お店を見ました。食器さんたちは こともなく 静かに佇んでおりました。次々飛び込んでくる 地震のニュースやお見舞いに このビルを選んだ安堵と さあ来い 南海トラフと構えております。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
田原総一朗「嘘が常識の安倍内閣をなぜ国民は支持するのか」
重い責任のある人物たちが堂々と嘘を言い、それがまかり通っている。なぜ、日本はこんな国になってしまったのか。
安倍首相の“私や妻が森友学園の認可や土地売却に関わっていたら、首相も議員も辞める”との国会での発言を受けるかたちで、財務省は決裁文書を改ざんした。しかも、朝日新聞の報道がなければ、財務省は隠蔽するつもりだったのである。改ざんというのは、事実を隠し、ねじまげるということだ。しかも、なぜ改ざんをしたのか、と記者に問われて、最高責任者である麻生財務相は“それがわかれば苦労しない。わからないから答えようがない”と言い、“個人がやったことで、そういうことはよくある。財務省に責任はない”と平気で答えている。堂々と嘘をつき、最高責任者が、何の責任もとらないのである。財務省の元局長も、経産省の元首相秘書官も、平気で嘘をついている。まるで嘘をつくのが常識になってしまったようだ。それでいて、朝日新聞をはじめ、どの新聞社の世論調査でも、安倍内閣の支持率は、何と上昇している。少なからぬ国民が安倍内閣を是認しているのである。これは一体どういうことなのか。私は困惑している。
※週刊朝日 2018年7月13日号
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
ハプスブルグ王家の 秘宝コレクション「カレッジ(勇気)」 アウガルテン社 マスターカタログから
今作のカレッジは 反対面は ズンベラボウで 2頭のグリフィンがいません。カップ正面の細密な金彩アンセミオンも省略されています。深いソーサーにも6頭のグリフィンと6つの金彩絵が省略されております(真正カレッジ グリフィン10頭 金彩絵 9画。今作カレッジ グリフィン2頭 金彩絵 1画)。把手周りの始末も 転写を疑わせる雑な仕上げです。金彩も どうやら本金でなく 黒も漆黒でなく一目瞭然 貴賓に欠けます。
今作 他店 この品格のなさは如何ともしがたい代物です。
真正カレッジ
名前は同じカレッジですが 似て非なるものです。今作のカレッジは 当店の真正カレッジの10分の一の値段でもおかしくありません。何よりもこの真正なカレッジの新品は 世界広しといえど オーストリア応用美術博物館MAKと アインにしかありません。お熟成に懸ける アインの真骨頂を体現している逸品の1つです。
その表敬訪問の機会 名だたる ハプスブルグ王家の 秘宝コレクションから 最高の この「カレッジ(勇気)」を 6客復刻して頂きました。真紅に描かれているのは ギリシャ神話外伝の黄金の守護神 グリフィン(鷲の翼と上半身に ライオンの下半身。 伝説上の動物)で 漆黒かと見紛う手描き彩色に 見事なギルディング(金彩装飾)。 ネオクラシックに 高貴なウィーンスタイルを確立した ゾルゲンタール男爵が 著名な皇室専属の磁器絵付師,ガラス絵付師アントン・コートガッサー,細密画師等を集結し 他に並び無き 美術磁器「カレッジ(勇気)」を完成。その価値たるや 如何許りか 推して知るべし!
グリフィンには 黄金の守護と もう一つの役目 ゼウスやアポロン等の天上の神々の車を 引くことがあり 同じ役目の馬を 目の敵にしており、馬を喰うと言われる。そこから不可能なことを表すのに「グリフィンと馬を交配させるようなもの」という言葉が生まれた。また別の伝承には グリフィンが殺すのは牡馬だけであり、牝馬は殺さず犯して 仔を産ませる それをヒッポグリ(グリフィンと雌馬の間に生まれた、鷲の上半身に馬の下半身を持つ生物)という。
アウガルテン 【真正カレッジ】 コーヒー(インペリアル)C/S 5%Off のお求めはコチラ
当店 マスターカタログ掲載 オーストリア応用美術博物館収蔵に同等
アウガルテン 【 真正カレッジ 】 山の日記念 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家程の資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっているこ事でも有名です。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,」 詳しくは コチラをクリック してください。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 蒐集した現物と照らし合わせ 研鑽します。文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い当店には 四半世紀にわたり 蒐集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ来し方を 教わります。実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 蒐集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別ができるようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) ラッキーセブン 7客限定
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ゴダイヴァ夫人(990年頃 - 1067年?)は、11世紀イングランドの女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を裸で行進したという有名な「勇気」ある伝説が残っているが、中世を専門とする歴史家の見解は、これは史実ではないことで一致している。同時代頃(?)の偽イングルフの年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる。
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この伝説については、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(1236年没)の年代記、『歴史の花』がもっとも簡素かつ最古とされる典拠である。
レディゴディバ サイモンビズリー (1962年-)著名な英国の漫画家である 。
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今作のカレッジは 反対面は ズンベラボウで 2頭のグリフィンがいません。カップ正面の細密な金彩アンセミオンも省略されています。深いソーサーにも6頭のグリフィンと6つの金彩絵が省略されております(真正カレッジ グリフィン10頭 金彩絵 9画。今作カレッジ グリフィン2頭 金彩絵 1画)。把手周りの始末も 転写を疑わせる雑な仕上げです。金彩も どうやら本金でなく 黒も漆黒でなく一目瞭然 貴賓に欠けます。
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真正カレッジ
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ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家程の資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっているこ事でも有名です。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,」 詳しくは コチラをクリック してください。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 蒐集した現物と照らし合わせ 研鑽します。文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い当店には 四半世紀にわたり 蒐集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ来し方を 教わります。実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 蒐集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別ができるようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
アウガルテン 【プリンスオイゲン】 24cmスーププレート・シューベルト型 15%Off
アウガルテン 【プリンスオイゲン】 24cmスーププレート・シューベルト型 10%Off
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 10%Off
スープ パブロ・ピカソ
「プリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)は、ある夜、バルモラル邸でエリザベス女王と向かい合い、カミラ夫人との関係を公にしたいと頼んだ。だが、女王はカミラ夫人を『That Wicked Woman(あの性悪女)』と言い放った。皇太子は泣きながら、カミラ夫人に電話をしたそうです。女王の怒りはすさまじく、王室のイベントにカミラ夫人の参加を許さなかった。そんなチャールズ皇太子に王室関係者は冷たく、また彼は家族のなかでも孤立感を味わった。弟のアンドリュー王子に対しては、自分を差し置いて王位を狙っているのではないか、と疑心暗鬼に陥った。さらに暴露本には、妹のアン王女がカミラ夫人の当時の夫と親密な関係を楽しんでいた、とも書かれている。」
ダイアナ カミラ 美人順ではありません。結婚順
ダイアナさんは結婚前からカミラの存在を知り結婚を一瞬ためらったが チャールズが私を賞味すれば絶対勝つ !!
でもね 蓼食う虫も好き好きって知らなかった ?
プリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)がカミラ夫人とテレフォンセックスしているという噂は、これまでも浮上したことが……。1992年にはチャールズ皇太子がカミラ夫人に「僕は君のタンポンになりたい」と電話で言っていたという盗聴データが流出し、大スキャンダルになった。
ダイアナ妃はカミラ夫人との関係を続けるチャールズ皇太子を責めたと告白。その際、皇太子からはこのような返事があったという。「ウェールズ公は愛人を持つのが普通 愛人を持たぬ唯一のウェールズ公になるだなんて、僕は拒否する。」
ダイアナ妃は「チャールズ皇太子との性生活は3週間に1回の割合でした。それが6年か7年前くらいに、どんどん減っていったのです。…
ロセス公爵夫人(カミラ) アルバ公爵夫人 いずれが菖蒲か燕子花 ?
カイエターナ・フィツ=ハメス・ストゥアルト・イ・シルバ(1926年- 2014年)は、スペインの貴族女性、資産家。第18代アルバ公爵。存命中、アルバ公爵位の他にも40以上の爵位を有し、これによって現存する国家政府によって認められた貴族称号を世界で最も数多く有した人物として、ギネス世界記録に認定されている。
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが 旧作のいい物なのに 今作よりお安くしていますから お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
オイゲン公とは オスマントルコに 包囲された 神聖ローマ帝国オーストリアの危機をドイツ諸侯を募り救った大将軍であり その英雄に捧げられたのが このサービスです。ヴェルベデール宮殿のガーデン・ルーム用に作られたウィーン窯のこの作品は マイセンに倣い 厚手の 装飾過多の奇をてらったものでした。
ヴェルベデール シェープ
(ウィンナーコーヒーある所 トルココーヒーあり なぜか? 敗走するオスマントルコ軍は オーストリアに 沢山のコーヒー豆と トルココーヒーを 飲む習慣を 残していったのです。深煎りのブラックは やがてオーストリア人好みの ウィーンナーコーヒーへと変貌したのです。)
近代では 紀子様お輿入れ道具になった事でも 有名です。
ところが日本では アウガルテン は余り知られてないらしく 紀子様お輿入れ道具のお話をしますと お客様は「えっ マイセンでもないのに一客10万もするんですか?」と驚かれます。ウィーン御留学の経験ある紀子様は ヨーロッパにおけるアウガルテン窯の名声をご存じだったのですね。又 高松宮家も古くからこの窯のご愛用者でした。
実際 オーストリアのウィーンへ行かれた方は 安い物価の中で ひときわ燦然と輝く高価なアウガルテンを目の当たりにして驚かれますが 現地の人は当たり前で驚く人を怪訝に見ます。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました(よくお客様に このプリンスオイゲンが 紀子様 お輿入れ道具になった事を お話しますと お客様は マイセンでもないのに 1客10万もするの? と 聞かれます。ウィーン御留学の経験ある 紀子さまは さすが ヨーロッパにおける この窯の名声と 磁器として 食器としても 最高のお品であると ご存じだったのですね。)
しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。
最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。
モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハプスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。
アウガルテン城内 アウガルテン工房
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
ウィーン少年合唱団
オスマントルコ帝国軍による第二次ウィーン包囲
オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(1663年 - 1736年)は、オーストリアに仕えた名高き軍人で、政治家でもある。プリンツ・オイゲンの呼び名で知られる。サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。
オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争(大トルコ戦争)から始まった。長期に渡って続いたこの戦争においてオイゲンはロレーヌ(ロートリンゲン)公シャルル5世に従いハンガリー戦線で活躍し、1687年のモハーチの戦いでは騎兵隊を指揮して手柄を上げた。この戦いでオスマン帝国軍がハンガリーに勝利した結果、ハンガリー領は三分割され ハプスブルク家が統治する王領ハンガリー(1526年 - 1867年)は残された。
第二次ウィーン包囲(なお、この包囲戦について、ルイ14世は親オスマン派だったため救援を送らなかったが、キリスト教徒防衛のため自発的に参加するフランス貴族もいた。その中にプリンツ・オイゲンも含まれていて、従兄に当たるルートヴィヒ・ヴィルヘルムの下で従軍して竜騎兵隊長に任命され、やがてオーストリアを代表する名将へと成長していった。)は、オスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍は 神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した(これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世が応え、ヤン3世ソビェスキはポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、らも救援軍に合流した。)中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり(到着した9月12日にオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いたヤン3世は 夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を正確に把握していたポーランド・リトアニア共和国軍精鋭の有翼重装騎兵「フサリア」の3000騎はオスマン軍陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。)、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。以後 両国の間は平和であったが、オスマン帝国はスルタン・アフメト3世が対外戦争に乗り出し、1710年にピョートル1世のロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争で勝利、1711年のプルト条約でアゾフを取り戻し、1714年にヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り争うと(オスマン・ヴェネツィア戦争)、オーストリアはオスマン帝国の脅威を取り除くためヴェネツィア側に立ち、1716年に宣戦布告した。戦争準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進め、オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。一方のオスマン帝国も周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった。1716年7月、オイゲンを司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍していった。一方オスマン帝国側は、アフメト3世の娘婿である 大宰相アリ・パシャが15万の軍勢でベオグラードから北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲したが、オイゲンは8月にペーターヴァルダインに到着すると、守備部隊の援護と合わせてオスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い)。ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは軍を北へ向けてティサ川を北上、トランシルヴァニアへ進軍してティミショアラを落とし、11月にウィーンへ引き上げた。アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、ハジ・ハリル・パシャが後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。翌1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下、6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい8月に包囲軍へ砲撃、包囲軍は疫病が流行して崩壊の危機が迫ったが、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた。ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン・アウガルテン窯) 秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 10%Off
スープ パブロ・ピカソ
「プリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)は、ある夜、バルモラル邸でエリザベス女王と向かい合い、カミラ夫人との関係を公にしたいと頼んだ。だが、女王はカミラ夫人を『That Wicked Woman(あの性悪女)』と言い放った。皇太子は泣きながら、カミラ夫人に電話をしたそうです。女王の怒りはすさまじく、王室のイベントにカミラ夫人の参加を許さなかった。そんなチャールズ皇太子に王室関係者は冷たく、また彼は家族のなかでも孤立感を味わった。弟のアンドリュー王子に対しては、自分を差し置いて王位を狙っているのではないか、と疑心暗鬼に陥った。さらに暴露本には、妹のアン王女がカミラ夫人の当時の夫と親密な関係を楽しんでいた、とも書かれている。」
ダイアナ カミラ 美人順ではありません。結婚順
ダイアナさんは結婚前からカミラの存在を知り結婚を一瞬ためらったが チャールズが私を賞味すれば絶対勝つ !!
でもね 蓼食う虫も好き好きって知らなかった ?
プリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)がカミラ夫人とテレフォンセックスしているという噂は、これまでも浮上したことが……。1992年にはチャールズ皇太子がカミラ夫人に「僕は君のタンポンになりたい」と電話で言っていたという盗聴データが流出し、大スキャンダルになった。
ダイアナ妃はカミラ夫人との関係を続けるチャールズ皇太子を責めたと告白。その際、皇太子からはこのような返事があったという。「ウェールズ公は愛人を持つのが普通 愛人を持たぬ唯一のウェールズ公になるだなんて、僕は拒否する。」
ダイアナ妃は「チャールズ皇太子との性生活は3週間に1回の割合でした。それが6年か7年前くらいに、どんどん減っていったのです。…
ロセス公爵夫人(カミラ) アルバ公爵夫人 いずれが菖蒲か燕子花 ?
カイエターナ・フィツ=ハメス・ストゥアルト・イ・シルバ(1926年- 2014年)は、スペインの貴族女性、資産家。第18代アルバ公爵。存命中、アルバ公爵位の他にも40以上の爵位を有し、これによって現存する国家政府によって認められた貴族称号を世界で最も数多く有した人物として、ギネス世界記録に認定されている。
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが 旧作のいい物なのに 今作よりお安くしていますから お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
オイゲン公とは オスマントルコに 包囲された 神聖ローマ帝国オーストリアの危機をドイツ諸侯を募り救った大将軍であり その英雄に捧げられたのが このサービスです。ヴェルベデール宮殿のガーデン・ルーム用に作られたウィーン窯のこの作品は マイセンに倣い 厚手の 装飾過多の奇をてらったものでした。
ヴェルベデール シェープ
(ウィンナーコーヒーある所 トルココーヒーあり なぜか? 敗走するオスマントルコ軍は オーストリアに 沢山のコーヒー豆と トルココーヒーを 飲む習慣を 残していったのです。深煎りのブラックは やがてオーストリア人好みの ウィーンナーコーヒーへと変貌したのです。)
近代では 紀子様お輿入れ道具になった事でも 有名です。
ところが日本では アウガルテン は余り知られてないらしく 紀子様お輿入れ道具のお話をしますと お客様は「えっ マイセンでもないのに一客10万もするんですか?」と驚かれます。ウィーン御留学の経験ある紀子様は ヨーロッパにおけるアウガルテン窯の名声をご存じだったのですね。又 高松宮家も古くからこの窯のご愛用者でした。
実際 オーストリアのウィーンへ行かれた方は 安い物価の中で ひときわ燦然と輝く高価なアウガルテンを目の当たりにして驚かれますが 現地の人は当たり前で驚く人を怪訝に見ます。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました(よくお客様に このプリンスオイゲンが 紀子様 お輿入れ道具になった事を お話しますと お客様は マイセンでもないのに 1客10万もするの? と 聞かれます。ウィーン御留学の経験ある 紀子さまは さすが ヨーロッパにおける この窯の名声と 磁器として 食器としても 最高のお品であると ご存じだったのですね。)
しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。
最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。
モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハプスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。
アウガルテン城内 アウガルテン工房
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
ウィーン少年合唱団
オスマントルコ帝国軍による第二次ウィーン包囲
オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(1663年 - 1736年)は、オーストリアに仕えた名高き軍人で、政治家でもある。プリンツ・オイゲンの呼び名で知られる。サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。
オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争(大トルコ戦争)から始まった。長期に渡って続いたこの戦争においてオイゲンはロレーヌ(ロートリンゲン)公シャルル5世に従いハンガリー戦線で活躍し、1687年のモハーチの戦いでは騎兵隊を指揮して手柄を上げた。この戦いでオスマン帝国軍がハンガリーに勝利した結果、ハンガリー領は三分割され ハプスブルク家が統治する王領ハンガリー(1526年 - 1867年)は残された。
第二次ウィーン包囲(なお、この包囲戦について、ルイ14世は親オスマン派だったため救援を送らなかったが、キリスト教徒防衛のため自発的に参加するフランス貴族もいた。その中にプリンツ・オイゲンも含まれていて、従兄に当たるルートヴィヒ・ヴィルヘルムの下で従軍して竜騎兵隊長に任命され、やがてオーストリアを代表する名将へと成長していった。)は、オスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍は 神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した(これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世が応え、ヤン3世ソビェスキはポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、らも救援軍に合流した。)中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり(到着した9月12日にオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いたヤン3世は 夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を正確に把握していたポーランド・リトアニア共和国軍精鋭の有翼重装騎兵「フサリア」の3000騎はオスマン軍陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。)、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。以後 両国の間は平和であったが、オスマン帝国はスルタン・アフメト3世が対外戦争に乗り出し、1710年にピョートル1世のロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争で勝利、1711年のプルト条約でアゾフを取り戻し、1714年にヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り争うと(オスマン・ヴェネツィア戦争)、オーストリアはオスマン帝国の脅威を取り除くためヴェネツィア側に立ち、1716年に宣戦布告した。戦争準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進め、オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。一方のオスマン帝国も周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった。1716年7月、オイゲンを司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍していった。一方オスマン帝国側は、アフメト3世の娘婿である 大宰相アリ・パシャが15万の軍勢でベオグラードから北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲したが、オイゲンは8月にペーターヴァルダインに到着すると、守備部隊の援護と合わせてオスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い)。ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは軍を北へ向けてティサ川を北上、トランシルヴァニアへ進軍してティミショアラを落とし、11月にウィーンへ引き上げた。アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、ハジ・ハリル・パシャが後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。翌1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下、6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい8月に包囲軍へ砲撃、包囲軍は疫病が流行して崩壊の危機が迫ったが、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた。ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン・アウガルテン窯) 秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
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ピカピカの 新品です。
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナーが 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
このシリーズは アウガルテン開窯の年 1923年に ウィーン宮廷用であった オールドウィンナーローズを 元に 作られました。カントリー調のバラは よりデザイン化され 一回り大きく 後作らしき洗練が 見て取れます。オールドウィンナーローズのピンクのラインの位置を 口縁の頂上にグリーンに替えて移し 簡略化した分 価格を下げています。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家程の資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも 有名です。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯の
開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ
売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶める
ものです。
「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
「マリアテレジアは 女帝であったのか?」
「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」 加筆しました。
「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」
「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 蒐集した現物と照らし合わせ 研鑽し
ます。文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は
正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。
洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張も
いただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 蒐集してきた 膨大な実物がござい
ます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。
実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破し
ます。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには
当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それには
それなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 蒐集して来た強い味方
さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という
人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。
当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えており
ます。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロ
ッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や
伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できる
ようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ち
しております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
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アウガルテン 【マリアテレジア】 ティーC/S・モーツアルト 6柄セット 15%Off
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アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
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今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
マリア・テレジア (1717年 - 1780年)は、神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号は「女王)」と(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていた。しかし彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナのみであったことから後継者問題が表面化してくる。
ロートリンゲン家は第二次ウィーン包囲においてオスマントルコを敗走せしめた英雄カール5世の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。ロートリンゲン公レオポルトの次男フランツ・シュテファンが婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、1736年、アウグスティーナ教会で2人は婚礼をあげた。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地をフランスへ割譲し 代わりにトスカーナ公の地位を得た。
マリア・テレジア、夫のフランク・シュテファン、小さい頃のヨーゼフ2世
カール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」と言う反対を尻目に、国本勅諚を出して国内および各国に、彼女のハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であり、結婚後4年のうちにに連続して3人の大公女が誕生したため、フランツが批判の矢面に立たせられることとなる。1737年、フランツはトスカーナ公となり、1739年に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後、オーストリアの財政基盤となった。
相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後すぐに露呈する。1740年、国本勅諚を公然と無視し、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、(カール6世が王国に昇格させた)プロイセン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯らも叛旗を翻した。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。1740年、プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、シュレージエンに侵攻した。プロイセン王は、孤立しているハンガリー女王マリア・テレジアを守護するための出兵であるとして、代償として300万グルテンとシュレージエン割譲を求めた。これに対して動揺する老臣らに、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。さらに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
1741年に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。しかし4月10日にはモルヴィッツの戦いで大敗する。西側を包囲された四面楚歌の状況にあって、マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求める。ハンガリーは異民族であり、心情的には長年対立していた。マリア・テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルクへ赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。美しく力強い女王の姿は、好印象を与えた。
ここでハンガリー議会と交渉を開始する。9月には幼いヨーゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。数か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特権と引き換えに資金と兵力を差し出した。ハンガリーは、後世までオーストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる。
このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。
6柄セットもあります。
Aバラ Bデイジー C野バラ D麦藁草 E水仙 F菫
単品 B 売り切れ
珍しいシューベルトシェイプも少しあります
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(何 ?)
Aバラ 今作 他店 色薄く 筆勢弱い
アウガルテン 【マリアテレジア】 ティーC/S・モーツアルト 6柄セット 15%Off"> お求めはコチラ
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今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
マリア・テレジア (1717年 - 1780年)は、神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号は「女王)」と(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていた。しかし彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナのみであったことから後継者問題が表面化してくる。
ロートリンゲン家は第二次ウィーン包囲においてオスマントルコを敗走せしめた英雄カール5世の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。ロートリンゲン公レオポルトの次男フランツ・シュテファンが婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、1736年、アウグスティーナ教会で2人は婚礼をあげた。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地をフランスへ割譲し 代わりにトスカーナ公の地位を得た。
マリア・テレジア、夫のフランク・シュテファン、小さい頃のヨーゼフ2世
カール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」と言う反対を尻目に、国本勅諚を出して国内および各国に、彼女のハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であり、結婚後4年のうちにに連続して3人の大公女が誕生したため、フランツが批判の矢面に立たせられることとなる。1737年、フランツはトスカーナ公となり、1739年に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後、オーストリアの財政基盤となった。
相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後すぐに露呈する。1740年、国本勅諚を公然と無視し、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、(カール6世が王国に昇格させた)プロイセン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯らも叛旗を翻した。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。1740年、プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、シュレージエンに侵攻した。プロイセン王は、孤立しているハンガリー女王マリア・テレジアを守護するための出兵であるとして、代償として300万グルテンとシュレージエン割譲を求めた。これに対して動揺する老臣らに、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。さらに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
1741年に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。しかし4月10日にはモルヴィッツの戦いで大敗する。西側を包囲された四面楚歌の状況にあって、マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求める。ハンガリーは異民族であり、心情的には長年対立していた。マリア・テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルクへ赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。美しく力強い女王の姿は、好印象を与えた。
ここでハンガリー議会と交渉を開始する。9月には幼いヨーゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。数か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特権と引き換えに資金と兵力を差し出した。ハンガリーは、後世までオーストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる。
このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。
6柄セットもあります。
Aバラ Bデイジー C野バラ D麦藁草 E水仙 F菫
単品 B 売り切れ
珍しいシューベルトシェイプも少しあります
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(何 ?)
Aバラ 今作 他店 色薄く 筆勢弱い
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Aバラ 旧作 当店 色濃く 筆勢強い 絵が大きい。 器形は カーブ大きく 優雅。
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どの写真もクリックで拡大
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも 有名です。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。