アウガルテン 【マリアテレジア】 24cmスーププレート・モーツアルト型 10%Off
アウガルテン 【マリアテレジア】 24cmスーププレート・モーツアルト型 10%Off
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 10%Off
《スープを飲む老人》は、画家のフランシスコ・デ・ゴヤ。制作年は1819年から1823年で、プラド美術館
裸のマジャ (1,671).. 作: フランシスコ・デ・ゴヤ
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告に金をかけたり ポイントで釣ったたりして高くさばいていかれます。(本当は45%Off もする必要はないのですが 世界一安いをうたい文句にしておりますので) 売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
薔薇参題
バラの宮廷画家 ルドゥーテ
ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (1759年 - 1840年)は、南ネーデルラント出身のベルギーの画家、植物学者。 ユリやバラなどの植物を描いた博物画を多く残しており、「バラの画家」「花の画家」「花のラファエロ」として知られる。 銅版画による多色刷り印刷を確立した人物と言われる場合もあるが、彼の作品はすべて手彩色による修正が施されている。
ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌがマルメゾン城にバラ園を営み、世界中からバラを蒐集していることを知ったルドゥーテはバラの絵を描く事を思い立ち、ジョゼフィーヌからバラ園の出入りの許可を得た。以来、ルドゥーテはマルメゾン城のバラや他の植物の絵を描くことになった。ルドゥーテはいくつかの植物図譜を著すが、その中でも「バラ図譜(Les Roses)」は最高傑作と言われる。「バラ図譜」はジョゼフィーヌの死後の1817年から1824年にかけて全3巻に分けて出版される。「バラ図譜」には169種のバラが精密に描かれ、芸術的価値だけではなく植物学上も重要な資料となっている。「バラ図譜」の原画は1837年にベリー公妃マリー=カロリーヌの口利きで国家に買い上げられることとなるが、1871年のルーブルの図書館の火災で焼失したと言われている。
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
マリア・テレジア (1717年 - 1780年)は、神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号は「女王)」と(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていた。しかし彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナのみであったことから後継者問題が表面化してくる。
ロートリンゲン家は第二次ウィーン包囲においてオスマントルコを敗走せしめた英雄カール5世の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。ロートリンゲン公レオポルトの次男フランツ・シュテファンが婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、1736年、アウグスティーナ教会で2人は婚礼をあげた。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地をフランスへ割譲し 代わりにトスカーナ公の地位を得た。
マリア・テレジア、夫のフランク・シュテファン、小さい頃のヨーゼフ2世
カール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」と言う反対を尻目に、国本勅諚を出して国内および各国に、彼女のハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であり、結婚後4年のうちにに連続して3人の大公女が誕生したため、フランツが批判の矢面に立たせられることとなる。1737年、フランツはトスカーナ公となり、1739年に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後、オーストリアの財政基盤となった。
相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後すぐに露呈する。1740年、国本勅諚を公然と無視し、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、(カール6世が王国に昇格させた)プロイセン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯らも叛旗を翻した。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。1740年、プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、シュレージエンに侵攻した。プロイセン王は、孤立しているハンガリー女王マリア・テレジアを守護するための出兵であるとして、代償として300万グルテンとシュレージエン割譲を求めた。これに対して動揺する老臣らに、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。さらに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
1741年に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。しかし4月10日にはモルヴィッツの戦いで大敗する。西側を包囲された四面楚歌の状況にあって、マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求める。ハンガリーは異民族であり、心情的には長年対立していた。マリア・テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルクへ赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。美しく力強い女王の姿は、好印象を与えた。
ここでハンガリー議会と交渉を開始する。9月には幼いヨーゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。数か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特権と引き換えに資金と兵力を差し出した。ハンガリーは、後世までオーストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる。
このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。
珍しいシューベルトシェイプも少しあります
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも 有名です。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
マリアテレジアさんに付いて
ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)アウグスト王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争や 7年戦争に 巻き込まれていきます。賢明なマリアテレジアさんは 群がる群雄の中 1756年 ルイ15世公妾ポンパドール伯爵夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝と図り 反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵フランスとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットをフランス王室に嫁がせることとなる。有名な 娘の政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが マリアテレジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として 太陽王の孫ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族 ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられたことでしょう。
個人的には、当時の王族としては珍しく、初恋の人である夫フランツ・シュテファンとは恋愛結婚で結ばれ(夫の方はこの結婚のために、家領ロレーヌ公国を手放さなければならなかった)、夫婦生活は非常に円満だった。結婚の4日前にフランツにしたためた手紙が現在も残り、未来の夫への情熱的な想いを今に伝える。この手紙はラテン語やフランス語などの様々な言語で書かれ、彼女の教養の深さを窺い知ることができる。フランツは時折他の女性と浮き名を流すことがあったが、政治家として多忙な彼女はそれらをすべて把握した上で目をつむった。また、夫が亡くなると、彼女はそれまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与えてしまい、以後15年間、自らの死まで喪服だけの生活を送ったと言われる。
喪服のマリア・テレジア
多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした。子供に関しては、四女マリア・クリスティーナを最も可愛がり、彼女にだけは相愛のポーランド王アウグスト3世の息子アルベルト・カジミールとの恋愛結婚を1766年に許している。このためマリア・テレジアの死後、この夫婦はヨーゼフ2世から冷遇された。また、身体障害者で病弱であった次女マリア・アンナに対しては生涯を通じて酷薄であった。死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリー・アントワネットの身を案じていた。夫フランツ譲りの遊び好きな娘に対し、フランス革命の発生を警告する手紙を送っている。また、プファルツ選帝侯家傍系のツヴァイブリュッケン公カール・アウグスト(バイエルン王マクシミリアン1世の兄)との恋愛結婚を認められないままパルマ公フェルディナンド妃となった六女マリア・アマーリア()は、嫁ぎ先で傍若無人な振る舞いをしたため帰国禁止となっている。
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 10%Off
《スープを飲む老人》は、画家のフランシスコ・デ・ゴヤ。制作年は1819年から1823年で、プラド美術館
裸のマジャ (1,671).. 作: フランシスコ・デ・ゴヤ
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告に金をかけたり ポイントで釣ったたりして高くさばいていかれます。(本当は45%Off もする必要はないのですが 世界一安いをうたい文句にしておりますので) 売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
薔薇参題
バラの宮廷画家 ルドゥーテ
ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (1759年 - 1840年)は、南ネーデルラント出身のベルギーの画家、植物学者。 ユリやバラなどの植物を描いた博物画を多く残しており、「バラの画家」「花の画家」「花のラファエロ」として知られる。 銅版画による多色刷り印刷を確立した人物と言われる場合もあるが、彼の作品はすべて手彩色による修正が施されている。
ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌがマルメゾン城にバラ園を営み、世界中からバラを蒐集していることを知ったルドゥーテはバラの絵を描く事を思い立ち、ジョゼフィーヌからバラ園の出入りの許可を得た。以来、ルドゥーテはマルメゾン城のバラや他の植物の絵を描くことになった。ルドゥーテはいくつかの植物図譜を著すが、その中でも「バラ図譜(Les Roses)」は最高傑作と言われる。「バラ図譜」はジョゼフィーヌの死後の1817年から1824年にかけて全3巻に分けて出版される。「バラ図譜」には169種のバラが精密に描かれ、芸術的価値だけではなく植物学上も重要な資料となっている。「バラ図譜」の原画は1837年にベリー公妃マリー=カロリーヌの口利きで国家に買い上げられることとなるが、1871年のルーブルの図書館の火災で焼失したと言われている。
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
マリア・テレジア (1717年 - 1780年)は、神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号は「女王)」と(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていた。しかし彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナのみであったことから後継者問題が表面化してくる。
ロートリンゲン家は第二次ウィーン包囲においてオスマントルコを敗走せしめた英雄カール5世の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。ロートリンゲン公レオポルトの次男フランツ・シュテファンが婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、1736年、アウグスティーナ教会で2人は婚礼をあげた。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地をフランスへ割譲し 代わりにトスカーナ公の地位を得た。
マリア・テレジア、夫のフランク・シュテファン、小さい頃のヨーゼフ2世
カール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」と言う反対を尻目に、国本勅諚を出して国内および各国に、彼女のハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であり、結婚後4年のうちにに連続して3人の大公女が誕生したため、フランツが批判の矢面に立たせられることとなる。1737年、フランツはトスカーナ公となり、1739年に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後、オーストリアの財政基盤となった。
相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後すぐに露呈する。1740年、国本勅諚を公然と無視し、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、(カール6世が王国に昇格させた)プロイセン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯らも叛旗を翻した。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。1740年、プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、シュレージエンに侵攻した。プロイセン王は、孤立しているハンガリー女王マリア・テレジアを守護するための出兵であるとして、代償として300万グルテンとシュレージエン割譲を求めた。これに対して動揺する老臣らに、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。さらに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
1741年に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。しかし4月10日にはモルヴィッツの戦いで大敗する。西側を包囲された四面楚歌の状況にあって、マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求める。ハンガリーは異民族であり、心情的には長年対立していた。マリア・テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルクへ赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。美しく力強い女王の姿は、好印象を与えた。
ここでハンガリー議会と交渉を開始する。9月には幼いヨーゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。数か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特権と引き換えに資金と兵力を差し出した。ハンガリーは、後世までオーストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる。
このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。
珍しいシューベルトシェイプも少しあります
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも 有名です。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
マリアテレジアさんに付いて
ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)アウグスト王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争や 7年戦争に 巻き込まれていきます。賢明なマリアテレジアさんは 群がる群雄の中 1756年 ルイ15世公妾ポンパドール伯爵夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝と図り 反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵フランスとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットをフランス王室に嫁がせることとなる。有名な 娘の政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが マリアテレジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として 太陽王の孫ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族 ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられたことでしょう。
個人的には、当時の王族としては珍しく、初恋の人である夫フランツ・シュテファンとは恋愛結婚で結ばれ(夫の方はこの結婚のために、家領ロレーヌ公国を手放さなければならなかった)、夫婦生活は非常に円満だった。結婚の4日前にフランツにしたためた手紙が現在も残り、未来の夫への情熱的な想いを今に伝える。この手紙はラテン語やフランス語などの様々な言語で書かれ、彼女の教養の深さを窺い知ることができる。フランツは時折他の女性と浮き名を流すことがあったが、政治家として多忙な彼女はそれらをすべて把握した上で目をつむった。また、夫が亡くなると、彼女はそれまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与えてしまい、以後15年間、自らの死まで喪服だけの生活を送ったと言われる。
喪服のマリア・テレジア
多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした。子供に関しては、四女マリア・クリスティーナを最も可愛がり、彼女にだけは相愛のポーランド王アウグスト3世の息子アルベルト・カジミールとの恋愛結婚を1766年に許している。このためマリア・テレジアの死後、この夫婦はヨーゼフ2世から冷遇された。また、身体障害者で病弱であった次女マリア・アンナに対しては生涯を通じて酷薄であった。死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリー・アントワネットの身を案じていた。夫フランツ譲りの遊び好きな娘に対し、フランス革命の発生を警告する手紙を送っている。また、プファルツ選帝侯家傍系のツヴァイブリュッケン公カール・アウグスト(バイエルン王マクシミリアン1世の兄)との恋愛結婚を認められないままパルマ公フェルディナンド妃となった六女マリア・アマーリア()は、嫁ぎ先で傍若無人な振る舞いをしたため帰国禁止となっている。
アウガルテン 【プリンスオイゲン】 29cmプレート・シューベルト型 10%Off
アウガルテン 【プリンスオイゲン】 29cmプレート・シューベルト型 10%Off
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 6枚限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日 ~ 3/14) 10%Off
プリンセスネパール
ピカピカの 新品です。
現品 即納
今を去る 一昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナーが 表敬
訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。手土産にいただいた マリアテ
レジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
オイゲン公とは オスマントルコに 包囲された 神聖ローマ帝国オーストリアの 危機を
ドイツ諸侯を募り 救った大将軍であり その英雄に捧げられたのが このサービスです。
(ウィンナーコーヒーある所 トルココーヒーあり なぜか? 敗走するオスマントルコ軍は
オーストリアに 沢山のコーヒー豆と トルココーヒーを 飲む習慣を 残していったのです。
深煎りのブラックは やがてオーストリア人好みの ウィーンナーコーヒーへと変貌したので
す。)
近代では 紀子様お輿入れ道具になった事でも 有名です。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンを凌駕し 時代を リードするほどになりました。(よくお客様に このプリンスオイゲンが 紀子様お輿入れ道具になった事を お話しますと お客様は マイセンでもないのに 1客10万もするの? と 聞かれます。ウィーン御留学の経験ある 紀子さまは さすが ヨーロッパにおける この窯の名声と 磁器として 食器としても 最高のお品であると ご存じだったのですね。)
ハプスブルク王家の マリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯
絶頂の ウィーン窯・第2黄金期
1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝はゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯
の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を
掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを
貶めるものです。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の寄宿舎になっている事でも有名です。
29cmプレート
「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」
「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
「マリアテレジアは 女帝であったのか?」
「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。
「欧州磁器戦争史アウガルテン (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」
「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」
「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 蒐集した現物と照らし合わせ研鑽します。
文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対の
ものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。洋食器愛好
家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸
い 当店には 四半世紀にわたり 収集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日
この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには
当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 収集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できるようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 6枚限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日 ~ 3/14) 10%Off
プリンセスネパール
ピカピカの 新品です。
現品 即納
今を去る 一昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナーが 表敬
訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。手土産にいただいた マリアテ
レジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
オイゲン公とは オスマントルコに 包囲された 神聖ローマ帝国オーストリアの 危機を
ドイツ諸侯を募り 救った大将軍であり その英雄に捧げられたのが このサービスです。
(ウィンナーコーヒーある所 トルココーヒーあり なぜか? 敗走するオスマントルコ軍は
オーストリアに 沢山のコーヒー豆と トルココーヒーを 飲む習慣を 残していったのです。
深煎りのブラックは やがてオーストリア人好みの ウィーンナーコーヒーへと変貌したので
す。)
近代では 紀子様お輿入れ道具になった事でも 有名です。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンを凌駕し 時代を リードするほどになりました。(よくお客様に このプリンスオイゲンが 紀子様お輿入れ道具になった事を お話しますと お客様は マイセンでもないのに 1客10万もするの? と 聞かれます。ウィーン御留学の経験ある 紀子さまは さすが ヨーロッパにおける この窯の名声と 磁器として 食器としても 最高のお品であると ご存じだったのですね。)
ハプスブルク王家の マリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯
絶頂の ウィーン窯・第2黄金期
1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝はゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯
の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を
掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを
貶めるものです。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の寄宿舎になっている事でも有名です。
29cmプレート
「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」
「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
「マリアテレジアは 女帝であったのか?」
「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。
「欧州磁器戦争史アウガルテン (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」
「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」
「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 蒐集した現物と照らし合わせ研鑽します。
文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対の
ものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。洋食器愛好
家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸
い 当店には 四半世紀にわたり 収集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日
この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには
当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 収集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できるようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
アウガルテン 【マリアテレジア】 29cmプレート・モーツァルト型 10%Off
アウガルテン 【マリアテレジア】 29cmプレート・モーツァルト型 10%Off
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 10%Off
ドレスデン モーツァルトの噴水 ドイツ ゴールデン 女性 ヌード 形 ゴールド 彫刻 銅像
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナーが
表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。手土産に いただいた
マリアテレジアのスクェアディッシュは 今も本店に つつましく展示されております。
このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で
マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。
ティーC/S 6柄そろいます。
Aバラ Bデイジー C野バラ D麦藁草 E水仙 F菫
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも 有名です。
25cmプレート 68000→57800円 本体価格
29cmプレート 85000→72250
24cmスーププレート 80000→68000円
20cmプレート 写真右
「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
「マリアテレジアは 女帝であったのか?」
「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。
「欧州磁器戦争史 アウガルテン (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」 加筆しました。
「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」
「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。
マリアテレジアさんに付いて
ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに
難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)
アウグスト王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争に 巻き込まれていきます。
賢明なマリアテレジアさんは 群がる群雄の中 当時最強のフランス・ブルボン王朝と結び
対抗しました。有名な 娘マリーアントワネットの政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが
マリアテレジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として 太陽
王の孫ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族 ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられた
ことでしょう
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 10%Off
ドレスデン モーツァルトの噴水 ドイツ ゴールデン 女性 ヌード 形 ゴールド 彫刻 銅像
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナーが
表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。手土産に いただいた
マリアテレジアのスクェアディッシュは 今も本店に つつましく展示されております。
このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で
マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。
ティーC/S 6柄そろいます。
Aバラ Bデイジー C野バラ D麦藁草 E水仙 F菫
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも 有名です。
25cmプレート 68000→57800円 本体価格
29cmプレート 85000→72250
24cmスーププレート 80000→68000円
20cmプレート 写真右
「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
「マリアテレジアは 女帝であったのか?」
「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。
「欧州磁器戦争史 アウガルテン (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」 加筆しました。
「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」
「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。
マリアテレジアさんに付いて
ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに
難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)
アウグスト王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争に 巻き込まれていきます。
賢明なマリアテレジアさんは 群がる群雄の中 当時最強のフランス・ブルボン王朝と結び
対抗しました。有名な 娘マリーアントワネットの政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが
マリアテレジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として 太陽
王の孫ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族 ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられた
ことでしょう
アウガルテン 【ビーダーマイヤー】 38.5cmオーバルプラター・シューベルト型 10%Off
アウガルテン 【ビーダーマイヤー】 38.5cmオーバルプラター・シューベルト型 10%Off
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 1枚限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日 ~ 3/14) 10%Off
歌曲「魔王」やピアノ五重奏「鱒」など、後世に受け継がれる数々の名曲を生み出したことで知られる音楽家「フランツ・シューベルト」。学校の音楽室に展示された肖像画を覚えている方も多いと思いますが、そんなシューベルトの肖像をなんと「おにぎり」で表現した作品がツイッターで注目を集めています。
クリスティーヌ・シュベール
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが 一軒だけ僅かな在庫を持っているお店がありましたが 今作です。 したがって 旧作の優美なお品があるお熟成アインが一番お安くなります(42%Offもする必要はないのですが「世界中でどこより安い」をうたい文句にしておりますので今作のプライスよりお安くしております)。何故 お熟成アインはお安いのでしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告に金をかけ ポイントで釣ったりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
あるご夫婦のお客さんから
「アインさんは 他所にない良い物をたくさんお持ちですが あまり有名にならないでいてほしい。買いたいものが色々あるのですが 自分たちは そんなに余裕がないから 少しずつしか買えないので あまり有名になられて どんどん売切れていくのが心配です。」と言われました。当店の返事は「大丈夫ですよ。宣伝広告するぐらいなら その広告代をいつか巡り合うお客さんに還元したいので 宣伝広告したことありませんから」でした。
でも宣伝の力って凄いですね。宣伝して有名になると高くても売れるんですから
手持ちの不動産を売っては 洋食器を仕込み 耐震力のある店舗倉庫ビルを買い求め 大好きな洋食器を大切に展示備蓄しておりますが 一生の仕事と一所懸命「楽しく」頑張っております。今では この高級ブランド洋食器の世界では 品揃え世界一と羨ましがられております。
昨年の10月からビルの外装を全面改装しております。1月末には美しい外観に生まれ変わります。ごついでの折はお立ち寄りください。
6月18日の朝7時58分ごろ、大阪府北部を震源とするM6.1、最大震度6弱の地震が発生した。大阪では1923年の観測開始以来最大の地震となり、死者や数百人の負傷者などの被害も報告されている。
ご報告
ご心配おかけしましたが 頑丈が取り柄のこの耐震ビルは 食器さんたちをピクリとも揺らさず 安全に守ってくれました。
地震当時 岡本は パソコンに向かっていたのですが 突き上げる揺れをかすかに感じ 地震かと思い お店を見ました。食器さんたちは こともなく 静かに佇んでおりました。次々飛び込んでくる 地震のニュースやお見舞いに このビルを選んだ安堵と さあ来い 南海トラフと構えております。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
フェルディナント・ゲーオルク・ヴァルトミュラー作「バラの花と三美神」
ビーダーマイヤー様式に変容したオーストリア新古典主義
1815年 ウィーン会議締結後 平和な30年ウィーン体制・王制(1848年革命・反王制により 体制崩壊)が このピーターマイヤー様式を 花咲かせました。
「高貴なる素朴と静かな 偉大さ」を求める動きが啓蒙の芸術的創造を決定します。ともかく新古典主義はオーストリアでは、フランスのアンピール様式のような豊富な形態とはならず、 むしろ上品で簡素な変種となり、これがほとんど段階を踏むことなくビーダーマイヤー様式に移行していきます。
ピーターマイヤー(架空の人物 ビーダーマンとブンメルマイヤーの造語、「愚直な人」との意) ドイツの判事アイヒロットによる 1850年のドイツ風刺週刊誌に登場する、架空の小学校教員 ゴットリープ・ビーダーマイヤー由来。小説の小市民ビーダーマイヤーは 政治や 国際情勢 などに無関心。家庭の団欒や身の回りの食器や家具などに関心を持ち 心地よい簡素を好み 華美な装飾を 揶揄した。
ビーダーマイヤー 市民革命 主に独墺圏に生まれた市民文化 。フランス革命後 生まれた市民社会は ナポレオン台頭による王政復古へとなっていく中で 閉塞社会に戻る息苦しさから 市井の人達の諦念に生まれた 観念的なものを捨て 日常的 簡素に美を求めた様式
産業革命により台頭する 市民社会に迎合するかに ビーダーマイヤーと名付けられた この作品は フラグランスのお花こそ 簡素化して 描かれておりますが ブルーや手描き金彩のバンドにより 陰りゆくハブスブルグ王家の虚栄いっぱいの 王侯趣味あふれる威厳に満ちた作品で 時代こそ ビーダーマイヤーですが 凡そ 名前に そぐわぬ 美術品です。
ユディトは、旧約聖書外典の1つである『ユディト記』に登場するユダヤ人女性。
メラリの娘ユディトはマナセと結婚したが、夫を日射病で失って寡婦となった。彼女は美しく魅力的な女性で多くの財産を持っていたが、唯一の神に対して強い信仰を持っていたため、人々から尊敬されていた。
アッシリアの王ネブカドネツァルはメディア王との戦いにおいて自分に協力しなかった諸民族を攻撃するため、司令官ホロフェルネスを派遣する。ホロフェルネスは軍勢を率いてユダヤへやってくるとベトリアという町を囲んだ。水源を絶たれたため町の指導者オジアは降伏を決意するが、ベトリアに住んでいたユディトはオジアと民を励まし、神への信頼を訴える。
ユディトはそこである作戦をたてる。それはユディト自身が着飾ってホロフェルネスのもとに赴くというものだった。ユディトは神に祈って、ホロフェルネスのもとへ向かう。エルサレム進軍の道案内を申し出た美しいユディトをホロフェルネスは喜んで迎えた。ユディトは陣中で出される異邦人の食べ物を決して口にせず、四日待った。四日目にホロフェルネスは酒宴にユディトを呼び出した。ホロフェルネスは泥酔し、やがて天幕のうちにユディトは眠るホロフェルネスと二人だけで残された。ユディトは眠っていたホロフェルネスの短剣をとって彼の首を切り落とした。ユディトは侍女と共に、首を携えてベトリアの町へ戻り、事の次第を報告した。やがて、司令官殺害は包囲軍の知るところになり、激しい動揺を引き起こす。ユダヤ人はこの機会を逃さず、出撃し、敗走するアッシリア軍を打ち破った。ユディトは105歳でなくなるまで、静かにベトリアの町で一人暮らした。
グスタフ・クリムト(1862年 - 1918年)は、世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリアの画家。ウィーン分離派(左)
フランツ・フォン・シュトゥック(1863-1928) ドイツ 象徴主義、 世紀末芸術 ウィーン分離派(右)
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家程の資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(何 ?)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
「欧州磁器戦争史 (アウガルテン・ウィーン窯) 秘法漏洩 3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 研鑽します。 文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正 反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。 洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張も いただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 収集してきた 膨大な実物がござい ます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。
実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破し ます。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには 当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それには それなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 収集して来た強い味方 さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という 人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。 当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えており ます。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロ ッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できる
ようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ち しております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
ハッピーホワイトデー (本日 ~ 3/14) 1枚限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日 ~ 3/14) 10%Off
歌曲「魔王」やピアノ五重奏「鱒」など、後世に受け継がれる数々の名曲を生み出したことで知られる音楽家「フランツ・シューベルト」。学校の音楽室に展示された肖像画を覚えている方も多いと思いますが、そんなシューベルトの肖像をなんと「おにぎり」で表現した作品がツイッターで注目を集めています。
クリスティーヌ・シュベール
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが 一軒だけ僅かな在庫を持っているお店がありましたが 今作です。 したがって 旧作の優美なお品があるお熟成アインが一番お安くなります(42%Offもする必要はないのですが「世界中でどこより安い」をうたい文句にしておりますので今作のプライスよりお安くしております)。何故 お熟成アインはお安いのでしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告に金をかけ ポイントで釣ったりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
あるご夫婦のお客さんから
「アインさんは 他所にない良い物をたくさんお持ちですが あまり有名にならないでいてほしい。買いたいものが色々あるのですが 自分たちは そんなに余裕がないから 少しずつしか買えないので あまり有名になられて どんどん売切れていくのが心配です。」と言われました。当店の返事は「大丈夫ですよ。宣伝広告するぐらいなら その広告代をいつか巡り合うお客さんに還元したいので 宣伝広告したことありませんから」でした。
でも宣伝の力って凄いですね。宣伝して有名になると高くても売れるんですから
手持ちの不動産を売っては 洋食器を仕込み 耐震力のある店舗倉庫ビルを買い求め 大好きな洋食器を大切に展示備蓄しておりますが 一生の仕事と一所懸命「楽しく」頑張っております。今では この高級ブランド洋食器の世界では 品揃え世界一と羨ましがられております。
昨年の10月からビルの外装を全面改装しております。1月末には美しい外観に生まれ変わります。ごついでの折はお立ち寄りください。
6月18日の朝7時58分ごろ、大阪府北部を震源とするM6.1、最大震度6弱の地震が発生した。大阪では1923年の観測開始以来最大の地震となり、死者や数百人の負傷者などの被害も報告されている。
ご報告
ご心配おかけしましたが 頑丈が取り柄のこの耐震ビルは 食器さんたちをピクリとも揺らさず 安全に守ってくれました。
地震当時 岡本は パソコンに向かっていたのですが 突き上げる揺れをかすかに感じ 地震かと思い お店を見ました。食器さんたちは こともなく 静かに佇んでおりました。次々飛び込んでくる 地震のニュースやお見舞いに このビルを選んだ安堵と さあ来い 南海トラフと構えております。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
フェルディナント・ゲーオルク・ヴァルトミュラー作「バラの花と三美神」
ビーダーマイヤー様式に変容したオーストリア新古典主義
1815年 ウィーン会議締結後 平和な30年ウィーン体制・王制(1848年革命・反王制により 体制崩壊)が このピーターマイヤー様式を 花咲かせました。
「高貴なる素朴と静かな 偉大さ」を求める動きが啓蒙の芸術的創造を決定します。ともかく新古典主義はオーストリアでは、フランスのアンピール様式のような豊富な形態とはならず、 むしろ上品で簡素な変種となり、これがほとんど段階を踏むことなくビーダーマイヤー様式に移行していきます。
ピーターマイヤー(架空の人物 ビーダーマンとブンメルマイヤーの造語、「愚直な人」との意) ドイツの判事アイヒロットによる 1850年のドイツ風刺週刊誌に登場する、架空の小学校教員 ゴットリープ・ビーダーマイヤー由来。小説の小市民ビーダーマイヤーは 政治や 国際情勢 などに無関心。家庭の団欒や身の回りの食器や家具などに関心を持ち 心地よい簡素を好み 華美な装飾を 揶揄した。
ビーダーマイヤー 市民革命 主に独墺圏に生まれた市民文化 。フランス革命後 生まれた市民社会は ナポレオン台頭による王政復古へとなっていく中で 閉塞社会に戻る息苦しさから 市井の人達の諦念に生まれた 観念的なものを捨て 日常的 簡素に美を求めた様式
産業革命により台頭する 市民社会に迎合するかに ビーダーマイヤーと名付けられた この作品は フラグランスのお花こそ 簡素化して 描かれておりますが ブルーや手描き金彩のバンドにより 陰りゆくハブスブルグ王家の虚栄いっぱいの 王侯趣味あふれる威厳に満ちた作品で 時代こそ ビーダーマイヤーですが 凡そ 名前に そぐわぬ 美術品です。
ユディトは、旧約聖書外典の1つである『ユディト記』に登場するユダヤ人女性。
メラリの娘ユディトはマナセと結婚したが、夫を日射病で失って寡婦となった。彼女は美しく魅力的な女性で多くの財産を持っていたが、唯一の神に対して強い信仰を持っていたため、人々から尊敬されていた。
アッシリアの王ネブカドネツァルはメディア王との戦いにおいて自分に協力しなかった諸民族を攻撃するため、司令官ホロフェルネスを派遣する。ホロフェルネスは軍勢を率いてユダヤへやってくるとベトリアという町を囲んだ。水源を絶たれたため町の指導者オジアは降伏を決意するが、ベトリアに住んでいたユディトはオジアと民を励まし、神への信頼を訴える。
ユディトはそこである作戦をたてる。それはユディト自身が着飾ってホロフェルネスのもとに赴くというものだった。ユディトは神に祈って、ホロフェルネスのもとへ向かう。エルサレム進軍の道案内を申し出た美しいユディトをホロフェルネスは喜んで迎えた。ユディトは陣中で出される異邦人の食べ物を決して口にせず、四日待った。四日目にホロフェルネスは酒宴にユディトを呼び出した。ホロフェルネスは泥酔し、やがて天幕のうちにユディトは眠るホロフェルネスと二人だけで残された。ユディトは眠っていたホロフェルネスの短剣をとって彼の首を切り落とした。ユディトは侍女と共に、首を携えてベトリアの町へ戻り、事の次第を報告した。やがて、司令官殺害は包囲軍の知るところになり、激しい動揺を引き起こす。ユダヤ人はこの機会を逃さず、出撃し、敗走するアッシリア軍を打ち破った。ユディトは105歳でなくなるまで、静かにベトリアの町で一人暮らした。
グスタフ・クリムト(1862年 - 1918年)は、世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリアの画家。ウィーン分離派(左)
フランツ・フォン・シュトゥック(1863-1928) ドイツ 象徴主義、 世紀末芸術 ウィーン分離派(右)
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家程の資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(何 ?)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
「欧州磁器戦争史 (アウガルテン・ウィーン窯) 秘法漏洩 3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 研鑽します。 文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正 反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。 洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張も いただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 収集してきた 膨大な実物がござい ます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。
実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破し ます。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには 当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それには それなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 収集して来た強い味方 さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という 人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。 当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えており ます。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロ ッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できる
ようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ち しております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
アウガルテン 【プリンスオイゲン】 コーヒーC/S・シューベルト型 10%Off
アウガルテン 【プリンスオイゲン】 コーヒーC/S・シューベルト型 10%Off
ホワイトデーフェア (本日~ 314) ラッキーセブン 7客限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日~ 314) 10%Off
酒癖の悪くないCamila Alves 知らんけど
キャサリン妃に対抗心むき出しだと言われているカミラ夫人が、クイーン・マザーの形見であるティアラを勝手に着用。次期王位を継ぐのは夫のプリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)だと意思表示したつもりが、エリザベス女王はおかんむり。女王が吐き捨てた本音「カミラは“性悪女”」
エリザベス女王は、かねてからカミラ夫人の酒癖の悪さに辟易していました。飲むとコントロールが効かないほど泥酔してしまうのです。エリザベス女王は、カミラ夫人が、夫のチャールズ皇太子が王位を継承することを望んでいるのを知っているので、そのためにお酒をやめてくれるのではないかという希望を抱いていたようですが、ひどくなるばかりのようで、周囲の関係者も、酔っぱらったカミラ夫人の態度に愛想をつかし、今では辟易するほどです。
カミラ夫人の酒癖
躊躇うことなく皇太子に刃先を向け威嚇 わかった?
ウィリアム王子とキャサリン妃の結婚後にふたりの人気は高まるばかりなので、カミラ夫人は気が気ではありません。英国民の間でも、エリザベス王女が退いた後は、チャールズ皇太子よりウィリアム王子に王位を継承して欲しいという希望がある一方で、まだ子供が小さいため時期尚早という声もあります。しかしチャールズ皇太子も、カミラ夫人の酒癖の悪さから、『王位はウィリアム王子に譲りたい』とエリザベス女王に申し入れをしたと言われております。
ダイアナ ティアラは実家スペンサー伯爵家伝来のダイヤモンドの物、イヤリングは母から贈られたダイヤモンドの物
「高価な贈り物はいらない。お金の力にはなびかないの。私は欲しいものは何でも持っている。ただ、自分が安心出来るように誰かに側にいて欲しいだけ」
ダイアのティアラをしていても あの妃は悲しい恋になく
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが 美しい旧作なのに お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
オイゲン公とは オスマントルコに 包囲された 神聖ローマ帝国オーストリアの危機をドイツ諸侯を募り救った大将軍であり その英雄に捧げられたのが このサービスです。ヴェルベデール宮殿のガーデン・ルーム用に作られたウィーン窯のこの作品は マイセンに倣い 厚手の 装飾過多の奇をてらったものでした。
ヴェルベデール シェープ
2019/09/20、オーストリアを公式訪問中の秋篠宮家の次女、佳子さまが、首都ウィーンのベルヴェデーレ宮殿を訪問されました。
ユネスコ世界文化遺産に登録されているバロック様式の宮殿は、18世紀初頭に夏の離宮として建てられ、現在はオーストリアの美術品などを展示している美術館となっています。
佳子さまは、オーストリアを代表する画家、巨匠グスタフ・クリムトが描いた「接吻」などを鑑賞されました。
(ウィンナーコーヒーある所 トルココーヒーあり なぜか? 敗走するオスマントルコ軍は オーストリアに 沢山のコーヒー豆と トルココーヒーを 飲む習慣を 残していったのです。深煎りのブラックは やがてオーストリア人好みの ウィーンナーコーヒーへと変貌したのです。)
近代では 紀子様お輿入れ道具になった事でも 有名です。
(よくお客様に このプリンスオイゲンが 紀子様 お輿入れ道具になった事を お話しますと お客様は マイセンでもないのに 1客10万もするの? と 聞かれます。ウィーン御留学の経験ある 紀子さまは さすが ヨーロッパにおける この窯の名声と 磁器として 食器としても 最高のお品であると ご存じだったのですね。)
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンを凌駕し 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。
実際 オーストリアのウィーンへ行かれた方は 安い物価の中で ひときわ燦然と輝く高価なアウガルテンを目の当たりにして驚かれますが 現地の人は当たり前で驚く人を怪訝に見ます。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。
フランス・オーストリア・ロシア三帝アウステルリッツ会戦 ナポレオンが完勝し 多額の賠償金と領土の割譲を受け 第三次対仏大同盟は崩壊。
フランス・オーストリア・ロシア三帝アウステルリッツ会戦 アントワーヌ=ジャン・グロ画
アントワーヌ=ジャン・グロ(1771年 - 1835年)は、フランスの画家。
神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。
ユーロなき オーストリアシリング時代に仕込んだ お熟成洋食器店アインが貴方に創業30周年謝恩価格でご提供
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
第二次ウィーン包囲
オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(1663年 - 1736年)は、オーストリアに仕えた名高き軍人で、政治家でもある。プリンツ・オイゲンの呼び名で知られる。サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。
オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争(大トルコ戦争)から始まった。長期に渡って続いたこの戦争においてオイゲンはロレーヌ(ロートリンゲン)公シャルル5世に従いハンガリー戦線で活躍し、1687年のモハーチの戦いでは騎兵隊を指揮して手柄を上げた。この戦いでオスマン帝国軍がハンガリーに勝利した結果、ハンガリー領は三分割され ハプスブルク家が統治する王領ハンガリー(1526年 - 1867年)は残された。
第二次ウィーン包囲(なお、この包囲戦について、ルイ14世は親オスマン派だったため救援を送らなかったが、キリスト教徒防衛のため自発的に参加するフランス貴族もいた。その中にプリンツ・オイゲンも含まれていて、従兄に当たるルートヴィヒ・ヴィルヘルムの下で従軍して竜騎兵隊長に任命され、やがてオーストリアを代表する名将へと成長していった。)は、オスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍は 神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した(これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世が応え、ヤン3世ソビエスキはポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。
ローマ教皇に勝利の手紙を送る ヤン3世ソビエスキ
ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、らも救援軍に合流した。)中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり(到着した9月12日にオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いたヤン3世は 夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を正確に把握していたポーランド・リトアニア共和国軍精鋭の有翼重装騎兵「フサリア」の3000騎はオスマン軍陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。)、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。以後 両国の間は平和であったが、オスマン帝国はスルタン・アフメト3世が対外戦争に乗り出し、1710年にピョートル1世のロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争で勝利、1711年のプルト条約でアゾフを取り戻し、1714年にヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り争うと(オスマン・ヴェネツィア戦争)、オーストリアはオスマン帝国の脅威を取り除くためヴェネツィア側に立ち、1716年に宣戦布告した。戦争準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進め、オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。一方のオスマン帝国も周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった。1716年7月、オイゲンを司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍していった。一方オスマン帝国側は、アフメト3世の娘婿である 大宰相アリ・パシャが15万の軍勢でベオグラードから北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲したが、オイゲンは8月にペーターヴァルダインに到着すると、守備部隊の援護と合わせてオスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い)。ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは 軍を北へ向けてティサ川を北上、トランシルヴァニアへ進軍してティミショアラを落とし、11月にウィーンへ引き上げた。アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、ハジ・ハリル・パシャが後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。翌1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下、6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい8月に包囲軍へ砲撃、包囲軍は疫病が流行して崩壊の危機が迫ったが、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた。ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。
ベオグラードの戦いにおけるプリンツ・オイゲン(ヨハン・ゴットフリート・アウエルバッハ画)
今作 カップ カーブ緩く ソーサー 分厚い 絵はご覧のとおりです。
アウガルテン 【プリンスオイゲン】 コーヒーC/S・シューベルト型 10%Off のお求めはコチラ
旧作 当店 カップ カーブ湾曲 ソーサー薄胎 絵は言うことなし。
写真はクリック拡大
ソーサー絵 反対面 把手面
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(小説の表紙絵)
「欧州磁器戦争史 (ウィーン・アウガルテン窯) 秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
ホワイトデーフェア (本日~ 314) ラッキーセブン 7客限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日~ 314) 10%Off
酒癖の悪くないCamila Alves 知らんけど
キャサリン妃に対抗心むき出しだと言われているカミラ夫人が、クイーン・マザーの形見であるティアラを勝手に着用。次期王位を継ぐのは夫のプリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)だと意思表示したつもりが、エリザベス女王はおかんむり。女王が吐き捨てた本音「カミラは“性悪女”」
エリザベス女王は、かねてからカミラ夫人の酒癖の悪さに辟易していました。飲むとコントロールが効かないほど泥酔してしまうのです。エリザベス女王は、カミラ夫人が、夫のチャールズ皇太子が王位を継承することを望んでいるのを知っているので、そのためにお酒をやめてくれるのではないかという希望を抱いていたようですが、ひどくなるばかりのようで、周囲の関係者も、酔っぱらったカミラ夫人の態度に愛想をつかし、今では辟易するほどです。
カミラ夫人の酒癖
躊躇うことなく皇太子に刃先を向け威嚇 わかった?
ウィリアム王子とキャサリン妃の結婚後にふたりの人気は高まるばかりなので、カミラ夫人は気が気ではありません。英国民の間でも、エリザベス王女が退いた後は、チャールズ皇太子よりウィリアム王子に王位を継承して欲しいという希望がある一方で、まだ子供が小さいため時期尚早という声もあります。しかしチャールズ皇太子も、カミラ夫人の酒癖の悪さから、『王位はウィリアム王子に譲りたい』とエリザベス女王に申し入れをしたと言われております。
ダイアナ ティアラは実家スペンサー伯爵家伝来のダイヤモンドの物、イヤリングは母から贈られたダイヤモンドの物
「高価な贈り物はいらない。お金の力にはなびかないの。私は欲しいものは何でも持っている。ただ、自分が安心出来るように誰かに側にいて欲しいだけ」
ダイアのティアラをしていても あの妃は悲しい恋になく
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが 美しい旧作なのに お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
オイゲン公とは オスマントルコに 包囲された 神聖ローマ帝国オーストリアの危機をドイツ諸侯を募り救った大将軍であり その英雄に捧げられたのが このサービスです。ヴェルベデール宮殿のガーデン・ルーム用に作られたウィーン窯のこの作品は マイセンに倣い 厚手の 装飾過多の奇をてらったものでした。
ヴェルベデール シェープ
2019/09/20、オーストリアを公式訪問中の秋篠宮家の次女、佳子さまが、首都ウィーンのベルヴェデーレ宮殿を訪問されました。
ユネスコ世界文化遺産に登録されているバロック様式の宮殿は、18世紀初頭に夏の離宮として建てられ、現在はオーストリアの美術品などを展示している美術館となっています。
佳子さまは、オーストリアを代表する画家、巨匠グスタフ・クリムトが描いた「接吻」などを鑑賞されました。
(ウィンナーコーヒーある所 トルココーヒーあり なぜか? 敗走するオスマントルコ軍は オーストリアに 沢山のコーヒー豆と トルココーヒーを 飲む習慣を 残していったのです。深煎りのブラックは やがてオーストリア人好みの ウィーンナーコーヒーへと変貌したのです。)
近代では 紀子様お輿入れ道具になった事でも 有名です。
(よくお客様に このプリンスオイゲンが 紀子様 お輿入れ道具になった事を お話しますと お客様は マイセンでもないのに 1客10万もするの? と 聞かれます。ウィーン御留学の経験ある 紀子さまは さすが ヨーロッパにおける この窯の名声と 磁器として 食器としても 最高のお品であると ご存じだったのですね。)
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンを凌駕し 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。
実際 オーストリアのウィーンへ行かれた方は 安い物価の中で ひときわ燦然と輝く高価なアウガルテンを目の当たりにして驚かれますが 現地の人は当たり前で驚く人を怪訝に見ます。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。
フランス・オーストリア・ロシア三帝アウステルリッツ会戦 ナポレオンが完勝し 多額の賠償金と領土の割譲を受け 第三次対仏大同盟は崩壊。
フランス・オーストリア・ロシア三帝アウステルリッツ会戦 アントワーヌ=ジャン・グロ画
アントワーヌ=ジャン・グロ(1771年 - 1835年)は、フランスの画家。
神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。
ユーロなき オーストリアシリング時代に仕込んだ お熟成洋食器店アインが貴方に創業30周年謝恩価格でご提供
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
第二次ウィーン包囲
オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(1663年 - 1736年)は、オーストリアに仕えた名高き軍人で、政治家でもある。プリンツ・オイゲンの呼び名で知られる。サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。
オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争(大トルコ戦争)から始まった。長期に渡って続いたこの戦争においてオイゲンはロレーヌ(ロートリンゲン)公シャルル5世に従いハンガリー戦線で活躍し、1687年のモハーチの戦いでは騎兵隊を指揮して手柄を上げた。この戦いでオスマン帝国軍がハンガリーに勝利した結果、ハンガリー領は三分割され ハプスブルク家が統治する王領ハンガリー(1526年 - 1867年)は残された。
第二次ウィーン包囲(なお、この包囲戦について、ルイ14世は親オスマン派だったため救援を送らなかったが、キリスト教徒防衛のため自発的に参加するフランス貴族もいた。その中にプリンツ・オイゲンも含まれていて、従兄に当たるルートヴィヒ・ヴィルヘルムの下で従軍して竜騎兵隊長に任命され、やがてオーストリアを代表する名将へと成長していった。)は、オスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍は 神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した(これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世が応え、ヤン3世ソビエスキはポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。
ローマ教皇に勝利の手紙を送る ヤン3世ソビエスキ
ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、らも救援軍に合流した。)中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり(到着した9月12日にオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いたヤン3世は 夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を正確に把握していたポーランド・リトアニア共和国軍精鋭の有翼重装騎兵「フサリア」の3000騎はオスマン軍陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。)、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。以後 両国の間は平和であったが、オスマン帝国はスルタン・アフメト3世が対外戦争に乗り出し、1710年にピョートル1世のロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争で勝利、1711年のプルト条約でアゾフを取り戻し、1714年にヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り争うと(オスマン・ヴェネツィア戦争)、オーストリアはオスマン帝国の脅威を取り除くためヴェネツィア側に立ち、1716年に宣戦布告した。戦争準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進め、オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。一方のオスマン帝国も周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった。1716年7月、オイゲンを司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍していった。一方オスマン帝国側は、アフメト3世の娘婿である 大宰相アリ・パシャが15万の軍勢でベオグラードから北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲したが、オイゲンは8月にペーターヴァルダインに到着すると、守備部隊の援護と合わせてオスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い)。ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは 軍を北へ向けてティサ川を北上、トランシルヴァニアへ進軍してティミショアラを落とし、11月にウィーンへ引き上げた。アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、ハジ・ハリル・パシャが後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。翌1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下、6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい8月に包囲軍へ砲撃、包囲軍は疫病が流行して崩壊の危機が迫ったが、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた。ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。
ベオグラードの戦いにおけるプリンツ・オイゲン(ヨハン・ゴットフリート・アウエルバッハ画)
今作 カップ カーブ緩く ソーサー 分厚い 絵はご覧のとおりです。
アウガルテン 【プリンスオイゲン】 コーヒーC/S・シューベルト型 10%Off のお求めはコチラ
旧作 当店 カップ カーブ湾曲 ソーサー薄胎 絵は言うことなし。
写真はクリック拡大
ソーサー絵 反対面 把手面
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(小説の表紙絵)
「欧州磁器戦争史 (ウィーン・アウガルテン窯) 秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。