アウガルテン 【プリンスオイゲン】 ティーC/S・シューベルト型 10%Off
アウガルテン 【プリンスオイゲン】 ティーC/S・シューベルト型 10%Off
ホワイトデーフェア ( 本日~ 3/14) ラッキーセブン 7客限定
通常5%Off ホワイトデーフェア ( 本日~ 3/14) 10%Off

まるでディズ○ープリンセスのような超絶美少女のおっぱいが美し過ぎる

ロセス公爵夫人(カミラ) ダイアナ
プリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)がカミラ夫人とテレフォンセックスしているという噂は、これまでも浮上したことが……。1992年にはチャールズ皇太子がカミラ夫人に「僕は君のタンポンになりたい」と電話で言っていたという盗聴データが流出し、大スキャンダルになった。
ダイアナ妃はカミラ夫人との関係を続けるチャールズ皇太子を責めたと告白。その際、皇太子からはこのような返事があったという。「ウェールズ公は愛人を持つのが普通 愛人を持たぬ唯一のウェールズ公になるだなんて、僕は拒否する。」
ダイアナ妃は「チャールズ皇太子との性生活は3週間に1回の割合でした。それが6年か7年前くらいに、どんどん減っていったのです。…

あの時のプリンス女優たち
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが 旧作のいい物なのに 今作よりお安くしていますから お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。

オイゲン公とは オスマントルコに 包囲された 神聖ローマ帝国オーストリアの危機をドイツ諸侯を募り救った大将軍であり その英雄に捧げられたのが このサービスです。ヴェルベデール宮殿のガーデン・ルーム用に作られたウィーン窯のこの作品は マイセンに倣い 厚手の 装飾過多の奇をてらったものでした。

ヴェルベデール シェープ
(ウィンナーコーヒーある所 トルココーヒーあり なぜか? 敗走するオスマントルコ軍は オーストリアに 沢山のコーヒー豆と トルココーヒーを 飲む習慣を 残していったのです。深煎りのブラックは やがてオーストリア人好みの ウィーンナーコーヒーへと変貌したのです。)
近代では 紀子様お輿入れ道具になった事でも 有名です。
ところが日本では アウガルテン は余り知られてないらしく 紀子様お輿入れ道具のお話をしますと お客様は「えっ マイセンでもないのに一客10万もするんですか?」と驚かれます。ウィーン御留学の経験ある紀子様は ヨーロッパにおけるアウガルテン窯の名声をご存じだったのですね。又 高松宮家も古くからこの窯のご愛用者でした。
実際 オーストリアのウィーンへ行かれた方は 安い物価の中で ひときわ燦然と輝く高価なアウガルテンを目の当たりにして驚かれますが 現地の人は当たり前で驚く人を怪訝に見ます。

2019/09/20、オーストリアを公式訪問中の秋篠宮家の次女、佳子さまが、首都ウィーンのベルヴェデーレ宮殿を訪問されました。
ユネスコ世界文化遺産に登録されているバロック様式の宮殿は、18世紀初頭に夏の離宮として建てられ、現在はオーストリアの美術品などを展示している美術館となっています。
佳子さまは、オーストリアを代表する画家、巨匠グスタフ・クリムトが描いた「接吻」などを鑑賞されました。

マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました(よくお客様に このプリンスオイゲンが 紀子様 お輿入れ道具になった事を お話しますと お客様は マイセンでもないのに 1客10万もするの? と 聞かれます。ウィーン御留学の経験ある 紀子さまは さすが ヨーロッパにおける この窯の名声と 磁器として 食器としても 最高のお品であると ご存じだったのですね。)
しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。
最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。
モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハプスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。

羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(何 ?)(小説の題名と判りました。)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。

オスマントルコ帝国軍による第二次ウィーン包囲
オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(1663年 - 1736年)は、オーストリアに仕えた名高き軍人で、政治家でもある。プリンツ・オイゲンの呼び名で知られる。サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。
オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争(大トルコ戦争)から始まった。長期に渡って続いたこの戦争においてオイゲンはロレーヌ(ロートリンゲン)公シャルル5世に従いハンガリー戦線で活躍し、1687年のモハーチの戦いでは騎兵隊を指揮して手柄を上げた。この戦いでオスマン帝国軍がハンガリーに勝利した結果、ハンガリー領は三分割され ハプスブルク家が統治する王領ハンガリー(1526年 - 1867年)は残された。
第二次ウィーン包囲(なお、この包囲戦について、ルイ14世は親オスマン派だったため救援を送らなかったが、キリスト教徒防衛のため自発的に参加するフランス貴族もいた。その中にプリンツ・オイゲンも含まれていて、従兄に当たるルートヴィヒ・ヴィルヘルムの下で従軍して竜騎兵隊長に任命され、やがてオーストリアを代表する名将へと成長していった。)は、オスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍は 神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した(これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世が応え、ヤン3世ソビェスキはポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、らも救援軍に合流した。)中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり(到着した9月12日にオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いたヤン3世は 夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を正確に把握していたポーランド・リトアニア共和国軍精鋭の有翼重装騎兵「フサリア」の3000騎はオスマン軍陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。)、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。以後 両国の間は平和であったが、オスマン帝国はスルタン・アフメト3世が対外戦争に乗り出し、1710年にピョートル1世のロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争で勝利、1711年のプルト条約でアゾフを取り戻し、1714年にヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り争うと(オスマン・ヴェネツィア戦争)、オーストリアはオスマン帝国の脅威を取り除くためヴェネツィア側に立ち、1716年に宣戦布告した。戦争準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進め、オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。一方のオスマン帝国も周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった。1716年7月、オイゲンを司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍していった。一方オスマン帝国側は、アフメト3世の娘婿である 大宰相アリ・パシャが15万の軍勢でベオグラードから北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲したが、オイゲンは8月にペーターヴァルダインに到着すると、守備部隊の援護と合わせてオスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い)。ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは軍を北へ向けてティサ川を北上、トランシルヴァニアへ進軍してティミショアラを落とし、11月にウィーンへ引き上げた。アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、ハジ・ハリル・パシャが後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。翌1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下、6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい8月に包囲軍へ砲撃、包囲軍は疫病が流行して崩壊の危機が迫ったが、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた。ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。

今作 他店 本来 上掲のヴェルベデール シェープの絵でしたのですが 随分稚拙になりました。カップ ソーサー 分厚く 鈍重。
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旧作 当店 絵の技量が違います。カップ ソーサー 薄胎で優美。


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反対面 ソーサー絵 把手面
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第二次ウィーン包囲(なお、この包囲戦について、ルイ14世は親オスマン派だったため救援を送らなかったが、キリスト教徒防衛のため自発的に参加するフランス貴族もいた。その中にプリンツ・オイゲンも含まれていて、従兄に当たるルートヴィヒ・ヴィルヘルムの下で従軍して竜騎兵隊長に任命され、やがてオーストリアを代表する名将へと成長していった。)は、オスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍は 神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した(これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世が応え、ヤン3世ソビェスキはポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、らも救援軍に合流した。)中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり(到着した9月12日にオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いたヤン3世は 夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を正確に把握していたポーランド・リトアニア共和国軍精鋭の有翼重装騎兵「フサリア」の3000騎はオスマン軍陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。)、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。以後 両国の間は平和であったが、オスマン帝国はスルタン・アフメト3世が対外戦争に乗り出し、1710年にピョートル1世のロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争で勝利、1711年のプルト条約でアゾフを取り戻し、1714年にヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り争うと(オスマン・ヴェネツィア戦争)、オーストリアはオスマン帝国の脅威を取り除くためヴェネツィア側に立ち、1716年に宣戦布告した。戦争準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進め、オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。一方のオスマン帝国も周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった。1716年7月、オイゲンを司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍していった。一方オスマン帝国側は、アフメト3世の娘婿である 大宰相アリ・パシャが15万の軍勢でベオグラードから北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲したが、オイゲンは8月にペーターヴァルダインに到着すると、守備部隊の援護と合わせてオスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い)。ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは軍を北へ向けてティサ川を北上、トランシルヴァニアへ進軍してティミショアラを落とし、11月にウィーンへ引き上げた。アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、ハジ・ハリル・パシャが後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。翌1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下、6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい8月に包囲軍へ砲撃、包囲軍は疫病が流行して崩壊の危機が迫ったが、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた。ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。

今作 他店 本来 上掲のヴェルベデール シェープの絵でしたのですが 随分稚拙になりました。カップ ソーサー 分厚く 鈍重。
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旧作 当店 絵の技量が違います。カップ ソーサー 薄胎で優美。



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アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
うたい文句を死守するため お熟成品をまだ沢山持ってるので 再入荷品は 赤字
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手に高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
"私を喰べると死にます"

'86上演の、岸田理生作・山口小夜子主演の舞台『忘れな草』の映像上映へ。岸田理生の描く妖しい狂気と小夜子さんの美、しなやかさ、色気と子供っぽさの完全調和。月並みな言葉だけれど、素晴らしいに尽きる。

山口小夜子
忘れな草をあなたに
1 別れても別れても 心の奥に いつまでも いつまでも 憶えておいて ほしいから
幸せ祈る 言葉にかえて 忘れな草を あなたに あなたに
本の一節口づさみ
田原総一朗「嘘が常識の安倍内閣をなぜ国民は支持するのか」
重い責任のある人物たちが堂々と嘘を言い、それがまかり通っている。なぜ、日本はこんな国になってしまったのか。
安倍首相の“私や妻が森友学園の認可や土地売却に関わっていたら、首相も議員も辞める”との国会での発言を受けるかたちで、財務省は決裁文書を改ざんした。しかも、朝日新聞の報道がなければ、財務省は隠蔽するつもりだったのである。改ざんというのは、事実を隠し、ねじまげるということだ。しかも、なぜ改ざんをしたのか、と記者に問われて、最高責任者である麻生財務相は“それがわかれば苦労しない。わからないから答えようがない”と言い、“個人がやったことで、そういうことはよくある。財務省に責任はない”と平気で答えている。堂々と嘘をつき、最高責任者が、何の責任もとらないのである。財務省の元局長も、経産省の元首相秘書官も、平気で嘘をついている。まるで嘘をつくのが常識になってしまったようだ。それでいて、朝日新聞をはじめ、どの新聞社の世論調査でも、安倍内閣の支持率は、何と上昇している。少なからぬ国民が安倍内閣を是認しているのである。これは一体どういうことなのか。私は困惑している。
※週刊朝日 2018年7月13日号
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。

花咲く乙女たち

カトレアのように 派手なひと 鈴蘭のように 愛らしく
また 忘れな草の 花に似て 気弱でさみしい 眼をした子
みんなみんな どこへ行く 街に花咲く 乙女たちよ
みんなみんな どこへ行く 街に花咲く 乙女たちよ
ヘレンド 【忘れな草】 ティーC/S 724 5%Off のお求めはコチラ

ヘレンド 【忘れな草】 ティーC/S 724
忘れな草
忘れな草 ヨーロッパ原産で、北半球の温帯から亜寒帯(ユーラシア大陸・アフリカ大陸・オセアニア)に約50種が分布している。日本に渡来したのは、明治時代に園芸業者がノハラワスレナグサを輸入したのが最初と言われている。しかしワスレナグサ属ということでは、日本には元来、エゾムラサキ一種が自生分布している。


忘れな草 エゾムラサキ
古来 欧米では 誠実や友愛の象徴として広く親しまれ 米国 アラスカ州の洲花にもなっています。ちなみに属名のMyosotisは 葉が細くて多毛で柔らかいのがネズミの耳に似ているところから ギリシャ語の二十日鼠myos耳otisから来ています。
銘窯 アウガルテン・ウィーン 初入荷
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来の お熟成品をまだたくさん持っていますので 新入荷は 儲けておりません。ピカピカの新品です。
19世紀初頭創作 奇を衒わず 楚々とした雅は いかにもウィーン好み
1804年 ナポレオン1世 フランス第1帝政の皇帝位に即位 その膨張は 近隣国に多大の圧迫となり 苦しみの中から 生まれた 美の追求作です。
和名 勿忘草
フォーゲット ミー ノット forget-me-not
花言葉は 私を 忘れないで
中世ドイツ 悲恋伝説の主人公の言葉から。

昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲く この花を、恋人ベルタのために 摘もうと岸を降りたが、誤って 川の流れに呑まれてしまう。ルドルフは 最後の力を尽くして 花を岸に投げ、 Vergiss-mein-nicht ! (僕を忘れないで)と いう言葉を残して死んだ。残されたベルタは ルドルフの墓に その花を供え、彼の最期の言葉を 花の名にした。
ハプスブルク王家の マリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章・Wien。モールドの継承が無いとはいえ 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう)。ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美
しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際 その白さは 手工芸品時代に近く マイセンの乳白色とは また一味違った美しさです。)
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。

羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(小説の表紙)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。

今作 一般店 名前は同じですが これ別物 ?

旧作 当店
アウガルテン 【忘れな草】 コーヒーC/S シューベルト型 37%Off のお求めはコチラ



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ソーサー絵 反対面 把手面
アウガルテン 【 忘れな草 】 祝父の日フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
「欧州磁器戦争史 (ウィーン・アウガルテン窯) 秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 蒐集した現物と照らし合わせ 研鑽します。文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 蒐集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 蒐集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。
当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できるようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
ホワイトデーフェア ( 本日~ 3/14) ラッキーセブン 7客限定
通常10%Off ホワイトデーフェア ( 本日~ 3/14) 10%Off


坂野麻美写真集 忘れな草
ユーロなき シリング時代に仕込んだ お熟成品が売り切。 再入荷
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
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山口小夜子
忘れな草をあなたに
1 別れても別れても 心の奥に いつまでも いつまでも 憶えておいて ほしいから
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「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。

花咲く乙女たち

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忘れな草
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忘れな草 エゾムラサキ
古来 欧米では 誠実や友愛の象徴として広く親しまれ 米国 アラスカ州の洲花にもなっています。ちなみに属名のMyosotisは 葉が細くて多毛で柔らかいのがネズミの耳に似ているところから ギリシャ語の二十日鼠myos耳otisから来ています。
銘窯 アウガルテン・ウィーン 初入荷
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1804年 ナポレオン1世 フランス第1帝政の皇帝位に即位 その膨張は 近隣国に多大の圧迫となり 苦しみの中から 生まれた 美の追求作です。
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ハプスブルク王家の マリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章・Wien。モールドの継承が無いとはいえ 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう)。ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美
しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際 その白さは 手工芸品時代に近く マイセンの乳白色とは また一味違った美しさです。)
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。

羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(小説の表紙)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。

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ソーサー絵 反対面 把手面
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アウガルテン 【オールドウィーンナーローズ】 24cmスーププレート・シューベルト型 10%Off
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ホワイトデーフェア (本日~ 314) ラッキーセブン 7枚限定
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100年前のヌード・モデル、オードリー・マンソン(1891-1996)
"芸術家のモデルになるとはどういうことでしょうか?読者のみなさまの多くは、ヌードによって女性の慎み深さや純潔が損われているよりも、むしろ女性の慎みと純潔が表現されている美しい彫刻や印象的な絵画を目の前にすれば、「この女性は今どこにいるのだろう、とても美しかったこのモデルは?」と想いにふけるのではないでしょうか。"
(当時のマンソン自身の新聞連載エッセイより)
本来 スーププレート カレーにも最適です。
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
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あるご夫婦のお客さんから
「アインさんは 他所にない良い物をたくさんお持ちですが あまり有名にならないでいてほしい。買いたいものが色々あるのですが 自分たちは そんなに余裕がないから 少しずつしか買えないので あまり有名になられて どんどん売切れていくのが心配です。」と言われました。当店の返事は「大丈夫ですよ。宣伝広告するぐらいなら その広告代をいつか巡り合うお客さんに還元したいので 宣伝広告したことありませんから」でした。
でも宣伝の力って凄いですね。宣伝して有名になると高くても売れるんですから
手持ちの不動産を売っては 洋食器を仕込み 耐震力のある店舗倉庫ビルを買い求め 大好きな洋食器を大切に展示備蓄しておりますが 一生の仕事と一所懸命「楽しく」頑張っております。今では この高級ブランド洋食器の世界では 品揃え世界一と羨ましがられております。
6月18日の朝7時58分ごろ、大阪府北部を震源とするM6.1、最大震度6弱の地震が発生した。大阪では1923年の観測開始以来最大の地震となり、死者や数百人の負傷者などの被害も報告されている。
ご報告
ご心配おかけしましたが 頑丈が取り柄のこの耐震ビルは 食器さんたちをピクリとも揺らさず 安全に守ってくれました。
地震当時 岡本は パソコンに向かっていたのですが 突き上げる揺れをかすかに感じ 地震かと思い お店を見ました。食器さんたちは こともなく 静かに佇んでおりました。次々飛び込んでくる 地震のニュースやお見舞いに このビルを選んだ安堵と さあ来い 南海トラフと構えております。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。

薔薇参題

バラの花びらと美女 ルイ・マリ・ド・シュリーヴァー 1901
ルイ・マリ・ド・シュリーヴァー (1862-1942) フランス印象派の画家
バラ女


バラの宮廷画家 ルドゥーテ
ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (1759年 - 1840年)は、南ネーデルラント出身のベルギーの画家、植物学者。 ユリやバラなどの植物を描いた博物画を多く残しており、「バラの画家」「花の画家」「花のラファエロ」として知られる。 銅版画による多色刷り印刷を確立した人物と言われる場合もあるが、彼の作品はすべて手彩色による修正が施されている。
ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌがマルメゾン城にバラ園を営み、世界中からバラを蒐集していることを知ったルドゥーテはバラの絵を描く事を思い立ち、ジョゼフィーヌからバラ園の出入りの許可を得た。以来、ルドゥーテはマルメゾン城のバラや他の植物の絵を描くことになった。ルドゥーテはいくつかの植物図譜を著すが、その中でも「バラ図譜(Les Roses)」は最高傑作と言われる。「バラ図譜」はジョゼフィーヌの死後の1817年から1824年にかけて全3巻に分けて出版される。「バラ図譜」には169種のバラが精密に描かれ、芸術的価値だけではなく植物学上も重要な資料となっている。「バラ図譜」の原画は1837年にベリー公妃マリー=カロリーヌの口利きで国家に買い上げられることとなるが、1871年のルーブルの図書館の火災で焼失したと言われている。

ウィーン様式 島国様式
ヨーロッパ大陸のバラは ウィーン様式が元祖で 花と茎枝と葉が自然に描かれ ロココに乗り遅れたマイセンでも 同列です。
島国英国は 連ねたバラの両端に葉を添え花のみの美しさを引き立てるのが主流で 大陸とは1線を画しております。
オスマン帝国 スレイマン1世 第一次ウィーン包囲網

当時のフランス王はフランソワ1世で、オーストリアとイタリアの利権を激しく争っており、ローマ教皇及びイタリア諸都市を巻き込む大紛争に発展していた。これがイタリア戦争である。1519年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が亡くなると、フランソワはマクシミリアン1世の孫でハプスブルク家の当主カール(スペイン王カルロス1世。後の神聖ローマ皇帝カール5世)に対抗して次の皇帝を決める皇帝選挙に出馬する事になった。もしカールがスペイン王と同時に神聖ローマ皇帝を兼ねた場合、フランスは東西からハプスブルクの勢力に挟み撃ちにされる危険性が非常に高かったからである。しかしこの目論見は失敗し、カールが帝位を獲得する。結果、先の懸念は現実の物となりフランスはハプスブルク家によって東はオーストリア、西はスペインから挟まれてしまう格好になった。この事態に対して、敵の敵は味方とばかりにフランソワ1世はドイツ国内のザクセン選帝侯などのルター派勢力、ローマ教皇クレメンス7世などカール5世の敵対勢力と次々に手を結び包囲網を築きあげていった。その中でも最も強い軍事力を持っていたのがオスマン帝国である。これには挟み撃ちになったフランスの起死回生の策として、フランスとオスマン帝国が同盟を結ぶことによって逆にオーストリア本国を挟み撃ちにする狙いがあった。第一次ウィーン包囲は、1529年、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くに渡って神聖ローマ帝国皇帝にしてハプスブルク家の当主、オーストリア大公であるカール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦。オーストリア軍の頑強な抵抗によりウィーンの陥落だけは免れた。ここに至るまでの当時の国際関係は非常に複雑であり、この戦い自体は1494年から続けられていたイタリア戦争の一環として、そのハイライトとして行われた戦いである。また、ドイツ国内での宗教改革も複雑に絡んでいた。歴史的に見れば、この包囲戦の結果、オスマン帝国のバルカン半島の領有が確定し、その支配は17世紀終わりまで続く。ハンガリー王国はその領土の大部分を削られ、その国土の回復は18世紀まで待たねばならなかった。またイスラームの脅威を広くヨーロッパ全土に知らしめる事にもなった。
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シェーンブルン宮殿 宮廷専用
このシリーズは ウィーン宮廷専用として ウィーン窯で作られておりました。第1次世界大戦で ハブスブルグ王家が退位するまで 一般には 禁じられておりました。これを元に 1923年 創窯のアウガルテンにて ウィンナーローズが 生まれました。

24cmスーププレート
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。

羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(何 ?)(小説の題名と判りました。)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン・アウガルテン窯) 秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
ホワイトデーフェア (本日~ 314) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日~ 314) 10%Off ラッキーセブン 7枚限定


100年前のヌード・モデル、オードリー・マンソン(1891-1996)
"芸術家のモデルになるとはどういうことでしょうか?読者のみなさまの多くは、ヌードによって女性の慎み深さや純潔が損われているよりも、むしろ女性の慎みと純潔が表現されている美しい彫刻や印象的な絵画を目の前にすれば、「この女性は今どこにいるのだろう、とても美しかったこのモデルは?」と想いにふけるのではないでしょうか。"
(当時のマンソン自身の新聞連載エッセイより)
本来 スーププレート カレーにも最適です。
アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが 持っているお店は無く 従ってお熟成アインが一番お安くなります。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
あるご夫婦のお客さんから
「アインさんは 他所にない良い物をたくさんお持ちですが あまり有名にならないでいてほしい。買いたいものが色々あるのですが 自分たちは そんなに余裕がないから 少しずつしか買えないので あまり有名になられて どんどん売切れていくのが心配です。」と言われました。当店の返事は「大丈夫ですよ。宣伝広告するぐらいなら その広告代をいつか巡り合うお客さんに還元したいので 宣伝広告したことありませんから」でした。
でも宣伝の力って凄いですね。宣伝して有名になると高くても売れるんですから
手持ちの不動産を売っては 洋食器を仕込み 耐震力のある店舗倉庫ビルを買い求め 大好きな洋食器を大切に展示備蓄しておりますが 一生の仕事と一所懸命「楽しく」頑張っております。今では この高級ブランド洋食器の世界では 品揃え世界一と羨ましがられております。
6月18日の朝7時58分ごろ、大阪府北部を震源とするM6.1、最大震度6弱の地震が発生した。大阪では1923年の観測開始以来最大の地震となり、死者や数百人の負傷者などの被害も報告されている。
ご報告
ご心配おかけしましたが 頑丈が取り柄のこの耐震ビルは 食器さんたちをピクリとも揺らさず 安全に守ってくれました。
地震当時 岡本は パソコンに向かっていたのですが 突き上げる揺れをかすかに感じ 地震かと思い お店を見ました。食器さんたちは こともなく 静かに佇んでおりました。次々飛び込んでくる 地震のニュースやお見舞いに このビルを選んだ安堵と さあ来い 南海トラフと構えております。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン窯のオーナー クリスティアン・ヤーニシュ氏(貴族の出自)と貿易部長 カタリーナ・ブリーム=クハルスキー女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。
「岡本は 二氏の訪問を証明する名刺を持っております。今 巷では 加計学園獣医学部開設に当たり安倍首相への忖度問題が佳境に入り 首相秘書官・柳瀬が愛媛県の官邸訪問について頑なに否定し続けてきたが 愛媛県知事の中村時広が首相秘書官・柳瀬唯夫の名刺(27.4..-2 朱印)を提出に及び証拠ここに極まれり。もう安倍総理(柳瀬は"首相"案件に違和感)は潔く退陣すべき時至れり。未だ居座らんと画策するは鉄面皮 これ如何。」
当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。

薔薇参題

バラの花びらと美女 ルイ・マリ・ド・シュリーヴァー 1901
ルイ・マリ・ド・シュリーヴァー (1862-1942) フランス印象派の画家
バラ女


バラの宮廷画家 ルドゥーテ
ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (1759年 - 1840年)は、南ネーデルラント出身のベルギーの画家、植物学者。 ユリやバラなどの植物を描いた博物画を多く残しており、「バラの画家」「花の画家」「花のラファエロ」として知られる。 銅版画による多色刷り印刷を確立した人物と言われる場合もあるが、彼の作品はすべて手彩色による修正が施されている。
ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌがマルメゾン城にバラ園を営み、世界中からバラを蒐集していることを知ったルドゥーテはバラの絵を描く事を思い立ち、ジョゼフィーヌからバラ園の出入りの許可を得た。以来、ルドゥーテはマルメゾン城のバラや他の植物の絵を描くことになった。ルドゥーテはいくつかの植物図譜を著すが、その中でも「バラ図譜(Les Roses)」は最高傑作と言われる。「バラ図譜」はジョゼフィーヌの死後の1817年から1824年にかけて全3巻に分けて出版される。「バラ図譜」には169種のバラが精密に描かれ、芸術的価値だけではなく植物学上も重要な資料となっている。「バラ図譜」の原画は1837年にベリー公妃マリー=カロリーヌの口利きで国家に買い上げられることとなるが、1871年のルーブルの図書館の火災で焼失したと言われている。

ウィーン様式 島国様式
ヨーロッパ大陸のバラは ウィーン様式が元祖で 花と茎枝と葉が自然に描かれ ロココに乗り遅れたマイセンでも 同列です。
島国英国は 連ねたバラの両端に葉を添え花のみの美しさを引き立てるのが主流で 大陸とは1線を画しております。
オスマン帝国 スレイマン1世 第一次ウィーン包囲網

当時のフランス王はフランソワ1世で、オーストリアとイタリアの利権を激しく争っており、ローマ教皇及びイタリア諸都市を巻き込む大紛争に発展していた。これがイタリア戦争である。1519年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が亡くなると、フランソワはマクシミリアン1世の孫でハプスブルク家の当主カール(スペイン王カルロス1世。後の神聖ローマ皇帝カール5世)に対抗して次の皇帝を決める皇帝選挙に出馬する事になった。もしカールがスペイン王と同時に神聖ローマ皇帝を兼ねた場合、フランスは東西からハプスブルクの勢力に挟み撃ちにされる危険性が非常に高かったからである。しかしこの目論見は失敗し、カールが帝位を獲得する。結果、先の懸念は現実の物となりフランスはハプスブルク家によって東はオーストリア、西はスペインから挟まれてしまう格好になった。この事態に対して、敵の敵は味方とばかりにフランソワ1世はドイツ国内のザクセン選帝侯などのルター派勢力、ローマ教皇クレメンス7世などカール5世の敵対勢力と次々に手を結び包囲網を築きあげていった。その中でも最も強い軍事力を持っていたのがオスマン帝国である。これには挟み撃ちになったフランスの起死回生の策として、フランスとオスマン帝国が同盟を結ぶことによって逆にオーストリア本国を挟み撃ちにする狙いがあった。第一次ウィーン包囲は、1529年、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くに渡って神聖ローマ帝国皇帝にしてハプスブルク家の当主、オーストリア大公であるカール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦。オーストリア軍の頑強な抵抗によりウィーンの陥落だけは免れた。ここに至るまでの当時の国際関係は非常に複雑であり、この戦い自体は1494年から続けられていたイタリア戦争の一環として、そのハイライトとして行われた戦いである。また、ドイツ国内での宗教改革も複雑に絡んでいた。歴史的に見れば、この包囲戦の結果、オスマン帝国のバルカン半島の領有が確定し、その支配は17世紀終わりまで続く。ハンガリー王国はその領土の大部分を削られ、その国土の回復は18世紀まで待たねばならなかった。またイスラームの脅威を広くヨーロッパ全土に知らしめる事にもなった。
ピカピカの 新品です。 現品 即納

シェーンブルン宮殿 宮廷専用
このシリーズは ウィーン宮廷専用として ウィーン窯で作られておりました。第1次世界大戦で ハブスブルグ王家が退位するまで 一般には 禁じられておりました。これを元に 1923年 創窯のアウガルテンにて ウィンナーローズが 生まれました。

24cmスーププレート
ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。

羊頭狗肉 雲散と皆無の羊頭狗肉(何 ?)(小説の題名と判りました。)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン・アウガルテン窯) 秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
アウガルテン 【マリアテレジア】 20cmプレート・モーツァルト型 10%Off
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ホワイトデーフェア (本日~ 314) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日~ 314) 10%Off
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナーが 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。手土産に いただいた マリアテレジアのスクェアディッシュは 今も本店に つつましく展示されております。


森崎幸 「薔薇飾る裸女」
ハプスブルク王家の マリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯
(1717 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して 23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯。ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが
知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際 その白さは 手工芸品時代に近く マイセンの乳白色とは また一味違った美しさです。)
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉)挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。

羊頭狗肉
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になったことでも有名です。アウガルテン開窯前からですから ウィーン少年合唱団のほうが 先輩になります。
ピカピカの 新品です。
このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。
6柄そろいます。
Aバラ Bデイジー C野バラ D麦藁草 E水仙 F菫

小さい写真もクリック拡大
シェープ
「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」
「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
「マリアテレジアは 女帝であったのか?」
「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」
「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」
「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 研鑽します。
文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。
洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 収集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。
実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 収集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できるようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
ホワイトデーフェア (本日~ 314) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日~ 314) 10%Off
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナーが 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。手土産に いただいた マリアテレジアのスクェアディッシュは 今も本店に つつましく展示されております。


森崎幸 「薔薇飾る裸女」
ハプスブルク王家の マリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯
(1717 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して 23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯。ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが
知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際 その白さは 手工芸品時代に近く マイセンの乳白色とは また一味違った美しさです。)
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉)挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。

羊頭狗肉
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になったことでも有名です。アウガルテン開窯前からですから ウィーン少年合唱団のほうが 先輩になります。
ピカピカの 新品です。
このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。
6柄そろいます。
Aバラ Bデイジー C野バラ D麦藁草 E水仙 F菫


シェープ
「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」
「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
「マリアテレジアは 女帝であったのか?」
「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」
「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」
「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 研鑽します。
文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。
洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 収集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。
実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 収集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できるようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
アウガルテン 【ウィーンナーローズ】 シュガーボンボン・シューベルト型 300cc 10%Off
アウガルテン 【ウィーンナーローズ】 シュガーボンボン・シューベルト型 300cc 10%Off
ホワイトデーフェア (本日~ 314) 2壺限定
通常10%Off ホワイトデーフェア (本日~ 314) 10%Off

甘ーいシュガーボィンボィン
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナーが 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
このシリーズは アウガルテン開窯の年 1924年に ウィーン宮廷用であった オールドウィンナーローズを 元に 作られました。カントリー調のバラは よりデザイン化され 一回り大きく 後作らしき洗練が 見て取れます。オールドウィンナーローズのピンクのラインの位置を 口縁の頂上にグリーンに替えて移し 簡略化した分 価格を下げています。

ハプスブルク王家の マリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯
(1717 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して 23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯。ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際 その白さは 手工芸品時代に近く マイセンの乳白色とは また一味違った美しさです。)
アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWien。 モールドの継承が無いとはいえ 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になったことでも 有名です。アウガルテン開窯前からですから ウィーン少年合唱団のほうが 先輩になります
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になったことでも有名です。
アウガルテン開窯前からですから ウィーン少年合唱団のほうが 先輩になります。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 研鑽します。
文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。
洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 収集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破し
ます。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 収集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という
人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。
当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できる
ようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」 加筆しました。
「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」
「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。
マリアテレジアさんに付いて
ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)アウグスト王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争に 巻き込まれていきます。賢明なマリアテレジアさんは 群がる群雄の中 当時最強のフランス・ブルボン王朝と結び 対抗しました。有名な 娘マリーアントワネットの政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが マリアテレジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として 太陽王の孫ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族 ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられた
ことでしょう
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甘ーいシュガーボィンボィン
今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナーが 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
このシリーズは アウガルテン開窯の年 1924年に ウィーン宮廷用であった オールドウィンナーローズを 元に 作られました。カントリー調のバラは よりデザイン化され 一回り大きく 後作らしき洗練が 見て取れます。オールドウィンナーローズのピンクのラインの位置を 口縁の頂上にグリーンに替えて移し 簡略化した分 価格を下げています。

ハプスブルク王家の マリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯
(1717 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して 23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯。ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際 その白さは 手工芸品時代に近く マイセンの乳白色とは また一味違った美しさです。)
アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWien。 モールドの継承が無いとはいえ 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になったことでも 有名です。アウガルテン開窯前からですから ウィーン少年合唱団のほうが 先輩になります
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になったことでも有名です。
アウガルテン開窯前からですから ウィーン少年合唱団のほうが 先輩になります。
当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 研鑽します。
文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。
洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 収集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破し
ます。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 収集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という
人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。
当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できる
ようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」 加筆しました。
「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」
「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。
マリアテレジアさんに付いて
ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)アウグスト王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争に 巻き込まれていきます。賢明なマリアテレジアさんは 群がる群雄の中 当時最強のフランス・ブルボン王朝と結び 対抗しました。有名な 娘マリーアントワネットの政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが マリアテレジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として 太陽王の孫ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族 ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられた
ことでしょう