欧州磁器戦争史 秘法漏洩-1 ウィーン窯
秘法漏洩-1 ウィーン窯
ヨーロッパで いち早く マイセンの秘法を基に 磁器の焼成に成功したのが ウィーン窯の
前身です。1717年頃から オランダ生まれの ウィーン軍務宮廷官 デュ・パキエは マイセ
ンの成功を聞き イェズス会神父フランソワ・グザヴィエルが パリで発刊した 中国磁器の
製法を基に 独自で 秘法発見に 挑戦しました。しかし 天才ならぬパキエに うまくいく
はずも無く やむなく地位を利用して ドレスデン宮廷に 手を回しました。堅固な防御を
潜り抜け 金細工師フンガーを 共同経営者の餌で釣って マイセンから引き抜きました。
1718年 パキエは オーストリア皇帝から 領内での磁器独占権を 与えられました。その特
権は 皇帝の資金援助無しの 条件付でしたので,資産家のウィーン商人と ツェルダー大臣
を共同経営者に募り フンガーと4人で窯を立上げました。
それから1年 酔ったベトガーから 秘法を聞きだしたという 自称アルカニスト(秘法師)
フンガーは 結局 磁器の焼成を 成し遂げられませんでした。
パキエは 又 マイセンに 色々手を回し 遂に ベトガーの一番弟子 シュテルツェルに
辿り着きました。 1719年 死の床にあったベトガーは 10年の苦労を共にした弟子の離反を
知る由も無く かえって悩み 悲しむ事もありませんでした。
パキエの窯に移ったシュテルツェルは さすがに経験を積んでおり すぐに 問題が磁土に有
ると見抜きました。そこで ベトガーが 文字どうり 身を焦がす実験の成果で得た 磁土を
使えば 成功は手っ取り早いと,かつて知ったる マイセンの弱点を突き 磁土を獲得しまし
た。シュテルツェルは この磁土の届くのを待つ間に 窯もベトガーの 開発したものに替え
ました。当然 パキエは ヨーロッパで2番目に マイセン磁器を手に入れる事ができました。
アウグスト王は 決して手を拱いて 見ていた訳では有りませんが 事を荒立てることは出来
ませんでした。丁度 嫡出子(後の3世)と オーストリア皇帝の姪 マリアヨゼファとの縁
談をまとめ,神聖ローマ帝国ハプスブルク家と縁戚となり,有力な立場を得ようと 画策して
いた時期ですから 皇帝と事を構えるわけにはいかなかったのです。王は 腹心のアナカーを
シュテルツェルに近ずけ 命の保障と引き換えに マイセンに戻る事を 勧めました。シュテ
ルツェルは 良心の呵責と パキエの財政難から 約束の金が払われなかった事にも 嫌気を
さしていましたので これ幸いと 1720年 元来た道を戻りました。マイセンへの忠誠を示す
為 パキエの窯で 新進気鋭の絵付師であった ヘロルトを 引き抜いて 連れていきました。
シュテルツェルに 不十分なまま おいて行かれたパキエは 余り出来のよくない磁器に シ
ュヴァルツロット(黒絵装飾)を 細々と続けながら,シュテルツェルの成功を踏まえ 自分の
有たけの化学的知識を駆使し 1年後には マイセン磁器の再現に成功しました。
やがては フンガーの残した数少ない功績 顔料の開発に弾みをつけ,ヘロルトが残した シ
ノワズリを 彩り豊なシノワズリにして 良くするようになりました。
マイセンの 独占は この時を以って 破れたのです。
マイセンでもそうであったように 磁器の開発と それに続く商品化には 莫大な資金がか
かり 絶えず財政難にあったパキエに 遂に倒産の危機が迫りました。
1740年 ハプスブルク王家は 神聖ローマ帝国皇帝カール6世が崩御し マリアテレジアが
女帝として後継しました。この年 ドイツ最強のプロイセンでも フリードリヒ1世が 身罷
った後を 後の大王 フリードリヒ2世が 襲任しておりました。彼は 大変な節制家・富国
強兵主義者であり かねてより オーストリアの肥沃なシュレジェンに領土的野心を 抱いて
おりました。女帝の皇位継承権に 異議を唱え 国本勅令を無視し この時とばかり シュレ
ジェンに侵攻しました。(この戦争に勝利したフリードリは アーヘン条約により シュレジ
ェンと 大王の称号を 勝ち取りました)片や アウグスト強襲王の跡を 継いでいた3世は
縁戚・同盟関係にある ハプスブルグ王家に対し 日和見を決め込み,プロイセンに 恩を売
ることで そのお余りを望んでおりました。ところが 戦勝したフリードリヒは シュレジェ
ンを 領有し アウグストには何の恩恵も与えませんでした。屈辱にまみれたアウグストは
オーストリアと同盟を結び フリードリヒに対抗しました。1744年 フリードリヒは 同盟
軍に対し 戦火を開きました。ザクセンは瞬く間に プロイセンに侵略され 遂にはマイセ
ンのアルブレヒト城まで蹂躙されました。アウグストは 磁器の秘法を守る為 隠せる素地
土や顔料など以外 枢要な窯まで自ら破壊しました。残された大量の磁器は フリードリヒ
の戦利品になりました。 この年 戦争に巻き込まれ 財政逼迫の マリアテレジアであり
ましたが 名声をあげつつ有った パキエの窯を見殺しにして 敵に侮られることを嫌った
ので 救わざるを得ませんでした。勿論 マイセンの 成功を見て 名誉と 巨利を 期待
してのことでした。1744年 帝立ウィーン窯の誕生です。
ヨーロッパで いち早く マイセンの秘法を基に 磁器の焼成に成功したのが ウィーン窯の
前身です。1717年頃から オランダ生まれの ウィーン軍務宮廷官 デュ・パキエは マイセ
ンの成功を聞き イェズス会神父フランソワ・グザヴィエルが パリで発刊した 中国磁器の
製法を基に 独自で 秘法発見に 挑戦しました。しかし 天才ならぬパキエに うまくいく
はずも無く やむなく地位を利用して ドレスデン宮廷に 手を回しました。堅固な防御を
潜り抜け 金細工師フンガーを 共同経営者の餌で釣って マイセンから引き抜きました。
1718年 パキエは オーストリア皇帝から 領内での磁器独占権を 与えられました。その特
権は 皇帝の資金援助無しの 条件付でしたので,資産家のウィーン商人と ツェルダー大臣
を共同経営者に募り フンガーと4人で窯を立上げました。
それから1年 酔ったベトガーから 秘法を聞きだしたという 自称アルカニスト(秘法師)
フンガーは 結局 磁器の焼成を 成し遂げられませんでした。
パキエは 又 マイセンに 色々手を回し 遂に ベトガーの一番弟子 シュテルツェルに
辿り着きました。 1719年 死の床にあったベトガーは 10年の苦労を共にした弟子の離反を
知る由も無く かえって悩み 悲しむ事もありませんでした。
パキエの窯に移ったシュテルツェルは さすがに経験を積んでおり すぐに 問題が磁土に有
ると見抜きました。そこで ベトガーが 文字どうり 身を焦がす実験の成果で得た 磁土を
使えば 成功は手っ取り早いと,かつて知ったる マイセンの弱点を突き 磁土を獲得しまし
た。シュテルツェルは この磁土の届くのを待つ間に 窯もベトガーの 開発したものに替え
ました。当然 パキエは ヨーロッパで2番目に マイセン磁器を手に入れる事ができました。
アウグスト王は 決して手を拱いて 見ていた訳では有りませんが 事を荒立てることは出来
ませんでした。丁度 嫡出子(後の3世)と オーストリア皇帝の姪 マリアヨゼファとの縁
談をまとめ,神聖ローマ帝国ハプスブルク家と縁戚となり,有力な立場を得ようと 画策して
いた時期ですから 皇帝と事を構えるわけにはいかなかったのです。王は 腹心のアナカーを
シュテルツェルに近ずけ 命の保障と引き換えに マイセンに戻る事を 勧めました。シュテ
ルツェルは 良心の呵責と パキエの財政難から 約束の金が払われなかった事にも 嫌気を
さしていましたので これ幸いと 1720年 元来た道を戻りました。マイセンへの忠誠を示す
為 パキエの窯で 新進気鋭の絵付師であった ヘロルトを 引き抜いて 連れていきました。
シュテルツェルに 不十分なまま おいて行かれたパキエは 余り出来のよくない磁器に シ
ュヴァルツロット(黒絵装飾)を 細々と続けながら,シュテルツェルの成功を踏まえ 自分の
有たけの化学的知識を駆使し 1年後には マイセン磁器の再現に成功しました。
やがては フンガーの残した数少ない功績 顔料の開発に弾みをつけ,ヘロルトが残した シ
ノワズリを 彩り豊なシノワズリにして 良くするようになりました。
マイセンの 独占は この時を以って 破れたのです。
マイセンでもそうであったように 磁器の開発と それに続く商品化には 莫大な資金がか
かり 絶えず財政難にあったパキエに 遂に倒産の危機が迫りました。
1740年 ハプスブルク王家は 神聖ローマ帝国皇帝カール6世が崩御し マリアテレジアが
女帝として後継しました。この年 ドイツ最強のプロイセンでも フリードリヒ1世が 身罷
った後を 後の大王 フリードリヒ2世が 襲任しておりました。彼は 大変な節制家・富国
強兵主義者であり かねてより オーストリアの肥沃なシュレジェンに領土的野心を 抱いて
おりました。女帝の皇位継承権に 異議を唱え 国本勅令を無視し この時とばかり シュレ
ジェンに侵攻しました。(この戦争に勝利したフリードリは アーヘン条約により シュレジ
ェンと 大王の称号を 勝ち取りました)片や アウグスト強襲王の跡を 継いでいた3世は
縁戚・同盟関係にある ハプスブルグ王家に対し 日和見を決め込み,プロイセンに 恩を売
ることで そのお余りを望んでおりました。ところが 戦勝したフリードリヒは シュレジェ
ンを 領有し アウグストには何の恩恵も与えませんでした。屈辱にまみれたアウグストは
オーストリアと同盟を結び フリードリヒに対抗しました。1744年 フリードリヒは 同盟
軍に対し 戦火を開きました。ザクセンは瞬く間に プロイセンに侵略され 遂にはマイセ
ンのアルブレヒト城まで蹂躙されました。アウグストは 磁器の秘法を守る為 隠せる素地
土や顔料など以外 枢要な窯まで自ら破壊しました。残された大量の磁器は フリードリヒ
の戦利品になりました。 この年 戦争に巻き込まれ 財政逼迫の マリアテレジアであり
ましたが 名声をあげつつ有った パキエの窯を見殺しにして 敵に侮られることを嫌った
ので 救わざるを得ませんでした。勿論 マイセンの 成功を見て 名誉と 巨利を 期待
してのことでした。1744年 帝立ウィーン窯の誕生です。
欧州磁器戦争史 秘法漏洩-2 ウィーン窯
秘法漏洩-2 ウィーン窯
マリア・テレジア (1717年 - 1780年)は、神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号は「女王)」と(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていた。しかし彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナのみであったことから後継者問題が表面化してくる。
ロートリンゲン家は第二次ウィーン包囲においてオスマントルコを敗走せしめた英雄カール5世の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。ロートリンゲン公レオポルトの次男フランツ・シュテファンが婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、1736年、アウグスティーナ教会で2人は婚礼をあげた。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地をフランスへ割譲し 代わりにトスカーナ公の地位を得た。
カール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」と言う反対を尻目に、国本勅諚を出して国内および各国に、彼女のハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であり、結婚後4年のうちに連続して3人の大公女が誕生したため、フランツが批判の矢面に立たせられることとなる。1737年、フランツはトスカーナ公となり、1739年に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後、オーストリアの財政基盤となった。
相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後すぐに露呈する。1740年、国本勅諚を公然と無視し、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、(カール6世が王国に昇格させた)プロイセン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯らも叛旗を翻した。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。1740年、プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、シュレージエンに侵攻した。プロイセン王は、孤立しているハンガリー女王マリア・テレジアを守護するための出兵であるとして、代償として300万グルテンとシュレージエン割譲を求めた。これに対して動揺する老臣らに、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。さらに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
1741年に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。しかし4月10日にはモルヴィッツの戦いで大敗する。西側を包囲された四面楚歌の状況にあって、マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求める。ハンガリーは異民族であり、心情的には長年対立していた。マリア・テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルクへ赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。美しく力強い女王の姿は、好印象を与えた。ここでハンガリー議会と交渉を開始する。9月には幼いヨーゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。数か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特権と引き換えに資金と兵力を差し出した。ハンガリーは、後世までオーストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる。
在位 ハンガリー女王、オーストリア女大公:1740年10月20日 - 1780年11月29日
神聖ローマ皇后: 1745年9月13日 - 1765年8月18日
戴冠 ハンガリー女王:1741年6月25日 ボヘミア女王:1743年5月12日
別号 トスカーナ大公妃、パルマ女公
全名 マリア・テレジア・ヴァルブルガ・アマーリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ
出生 1717年5月13日
死去 1780年11月29日(満63歳没)
埋葬 ウィーン、カプツィーナー納骨堂
マリア・テレジアと マリー・アントワネット
ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)アウグスト強襲ポーランド王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争に 巻き込まれていきます。結果 シュレジェンは 大王に 略奪されるのですが それを許す事の出来ない 賢明なマリア・テレジアさんは 群がる群雄の中 当時最強のフランス・ブルボン王朝と結び 奪還を画策しました。フランスは プロイセンと同盟関係にあったのですが プロイセンが 植民地などで対立関係にあった イギリスと軍事同盟・ウェストミンスター条約を結んだことで プロイセンとの同盟関係を解消し オーストリアと第一次ヴェルサイユ条約を結び マリアテレジアさん側に付いたのです。(1756年 ルイ15世公妾ポンパドール伯爵夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝と図り 反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。)特に宿敵フランスとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットをフランス王室に嫁がせることとなる。1756年 ロシアとオーストリアの挟撃作戦の危険を知った大王は 機先を制して ザクセンに侵攻しました。戦費調達に まずマイセンを狙ってのことです。ヨーロッパ中を巻き込んだ7年戦争が 勃発しました。鎧袖一触の緒戦も やがて旗色悪くなり 大王は 自決を考えるまで 追い込まれるのですが 1762年 ロシアの大王側への寝返りで 息を吹き返し 1763年 フベルトゥスブルク条約で7年戦争を終結し 勝利を収めたのです。シェレジェンを永久割譲され ハプスブルク王家 の権威が陰ると 帝立ウィーン窯に 過剰な権威付けが求められ マリアテレジアが 亡くなる1780年頃には 窯も慢性的な赤字に 落ち込んでいきました。窯は 息子のフランツ二世皇帝に引き継がれるのですが 苦しい帝国の台所事情に 輪をかけて逼迫さすのです。
有名な 娘マリーアントワネットの政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが マリアテレ
ジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として(太陽王・ルイ
14世の曾孫にあたる ルイ15世の王太子の息子)ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族
ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられたでしょう。
ちなみに ルイ16世の母親は ルイ15世の王太子に 2番目の王太子妃として嫁いだ
かのアウグスト強襲王の 孫娘マリア・ヨゼファ磁器王女に なります。彼女は2番目なが
ら 王の生母として 大いに権勢を振るったそうです。
マリアテレジアは 女帝であったのか?
女帝に付いたマリアテレジアさんに 周辺・関係国から 皇位継承権上 異議が唱えられ 夫
君ロートリンゲン公フランツ・シュテファン が皇帝になります。しかし この難局を収拾で
きず 結局 彼女が 有能人士を指揮して 次々収拾していきました。優秀な彼女の働きに
国民達は快哉を叫び 「皇帝妃」と呼ぶ事無く 女帝kaiserinと呼び 支持応援した
のです。
マリア・テレジア (1717年 - 1780年)は、神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号は「女王)」と(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていた。しかし彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナのみであったことから後継者問題が表面化してくる。
ロートリンゲン家は第二次ウィーン包囲においてオスマントルコを敗走せしめた英雄カール5世の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。ロートリンゲン公レオポルトの次男フランツ・シュテファンが婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、1736年、アウグスティーナ教会で2人は婚礼をあげた。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地をフランスへ割譲し 代わりにトスカーナ公の地位を得た。
カール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」と言う反対を尻目に、国本勅諚を出して国内および各国に、彼女のハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であり、結婚後4年のうちに連続して3人の大公女が誕生したため、フランツが批判の矢面に立たせられることとなる。1737年、フランツはトスカーナ公となり、1739年に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後、オーストリアの財政基盤となった。
相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後すぐに露呈する。1740年、国本勅諚を公然と無視し、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、(カール6世が王国に昇格させた)プロイセン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯らも叛旗を翻した。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。1740年、プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、シュレージエンに侵攻した。プロイセン王は、孤立しているハンガリー女王マリア・テレジアを守護するための出兵であるとして、代償として300万グルテンとシュレージエン割譲を求めた。これに対して動揺する老臣らに、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。さらに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
1741年に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。しかし4月10日にはモルヴィッツの戦いで大敗する。西側を包囲された四面楚歌の状況にあって、マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求める。ハンガリーは異民族であり、心情的には長年対立していた。マリア・テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルクへ赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。美しく力強い女王の姿は、好印象を与えた。ここでハンガリー議会と交渉を開始する。9月には幼いヨーゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。数か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特権と引き換えに資金と兵力を差し出した。ハンガリーは、後世までオーストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる。
在位 ハンガリー女王、オーストリア女大公:1740年10月20日 - 1780年11月29日
神聖ローマ皇后: 1745年9月13日 - 1765年8月18日
戴冠 ハンガリー女王:1741年6月25日 ボヘミア女王:1743年5月12日
別号 トスカーナ大公妃、パルマ女公
全名 マリア・テレジア・ヴァルブルガ・アマーリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ
出生 1717年5月13日
死去 1780年11月29日(満63歳没)
埋葬 ウィーン、カプツィーナー納骨堂
マリア・テレジアと マリー・アントワネット
ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)アウグスト強襲ポーランド王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争に 巻き込まれていきます。結果 シュレジェンは 大王に 略奪されるのですが それを許す事の出来ない 賢明なマリア・テレジアさんは 群がる群雄の中 当時最強のフランス・ブルボン王朝と結び 奪還を画策しました。フランスは プロイセンと同盟関係にあったのですが プロイセンが 植民地などで対立関係にあった イギリスと軍事同盟・ウェストミンスター条約を結んだことで プロイセンとの同盟関係を解消し オーストリアと第一次ヴェルサイユ条約を結び マリアテレジアさん側に付いたのです。(1756年 ルイ15世公妾ポンパドール伯爵夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝と図り 反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。)特に宿敵フランスとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットをフランス王室に嫁がせることとなる。1756年 ロシアとオーストリアの挟撃作戦の危険を知った大王は 機先を制して ザクセンに侵攻しました。戦費調達に まずマイセンを狙ってのことです。ヨーロッパ中を巻き込んだ7年戦争が 勃発しました。鎧袖一触の緒戦も やがて旗色悪くなり 大王は 自決を考えるまで 追い込まれるのですが 1762年 ロシアの大王側への寝返りで 息を吹き返し 1763年 フベルトゥスブルク条約で7年戦争を終結し 勝利を収めたのです。シェレジェンを永久割譲され ハプスブルク王家 の権威が陰ると 帝立ウィーン窯に 過剰な権威付けが求められ マリアテレジアが 亡くなる1780年頃には 窯も慢性的な赤字に 落ち込んでいきました。窯は 息子のフランツ二世皇帝に引き継がれるのですが 苦しい帝国の台所事情に 輪をかけて逼迫さすのです。
有名な 娘マリーアントワネットの政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが マリアテレ
ジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として(太陽王・ルイ
14世の曾孫にあたる ルイ15世の王太子の息子)ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族
ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられたでしょう。
ちなみに ルイ16世の母親は ルイ15世の王太子に 2番目の王太子妃として嫁いだ
かのアウグスト強襲王の 孫娘マリア・ヨゼファ磁器王女に なります。彼女は2番目なが
ら 王の生母として 大いに権勢を振るったそうです。
マリアテレジアは 女帝であったのか?
女帝に付いたマリアテレジアさんに 周辺・関係国から 皇位継承権上 異議が唱えられ 夫
君ロートリンゲン公フランツ・シュテファン が皇帝になります。しかし この難局を収拾で
きず 結局 彼女が 有能人士を指揮して 次々収拾していきました。優秀な彼女の働きに
国民達は快哉を叫び 「皇帝妃」と呼ぶ事無く 女帝kaiserinと呼び 支持応援した
のです。
欧州磁器戦争史 秘法漏洩-3 ウィーン・アウガルテン窯
秘法漏洩-3 ウィーン・アウガルテン窯
ここで少し 話は変わりますが ウィーン窯の 閉窯にいたるまでを 簡単に記します。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりまし
た。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨き
がかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博して
いきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を
飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨー
ゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけ
ました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付け
ました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他
の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1
804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ
帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに 三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で惨敗した
フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝フランツ1世
となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。
1815年 ウィーン会議締結後 平和な30年ウィーン体制・王制(1848年革命・反王制により体制崩壊)が このピーターマイヤー様式を 花咲かせました。
「高貴なる素朴と静かな 偉大さ」を求める動きが啓蒙の芸術的創造を決定します。ともかく新古典主義はオーストリアでは、フランスのアンピール様式のような豊富な形態とはならず、 むしろ上品で簡素な変種となり、これがほとんど段階を踏むことなくビーダーマイヤー様式に移行していきます。
ピーターマイヤー(架空の人物 ビーダーマンとブンメルマイヤーの造語、「愚直な人」との意)ドイツの判事アイヒロットによる 1850年のドイツ風刺週刊誌に登場する、架空の小学校教員ゴットリープ・ビーダーマイヤー由来。小説の小市民ビーダーマイヤーは 政治や 国際情勢などに無関心。家庭の団欒や身の回りの食器や家具などに関心を持ち 心地よい簡素を好み 華美な装飾を 揶揄した。
ビーダーマイヤー 市民革命 主に独墺圏に生まれた市民文化
フランス革命後 生まれた市民社会は ナポレオン台頭による王政復古へとなっていく中で
閉塞社会に戻る息苦しさから 市井の人達の諦念に生まれた 観念的なものを捨て 日常的
簡素に美を求めた様式
産業革命により台頭する 市民社会に迎合するかに ビーダーマイヤーと名付けられた この
作品は フラグランスのお花こそ 簡素化して 描かれておりますが ブルーや手描き金彩の
バンドにより 陰りゆくハブスブルグ王家の虚栄いっぱいの 王侯趣味あふれる威厳に満ちた
作品で 時代こそ ビーダーマイヤーですが 凡そ 名前に そぐわぬ 美術品です。
最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮
徒花となり 1864年 120年の栄光の幕を 閉じることになりました。
正統性の証 モールドは 1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯 やがて ワーリス等に
流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は 引き継がれず 贋作
のみ盛んになりました。
アウガルテン窯
1864年 ウィーン窯 廃窯後 60年を経て 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説
と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して 23年説に改めます。)
オーストリア政府の肝いりで 創窯・継承したアウガルテン・ウィーン窯(アウガルテン城は
マリアテレジアの夏の離宮 バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章と Wienを許されて
おります。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ
杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう。ましてやアウガルテン窯制は ウィ
ーン窯製より さらに薄胎です。モールドの継承が 無かった事が 幸いした 怪我の功名と
いえませんか?当時のマイセンを手本とすれば ウィーン窯は厚手にならざるを得なかった
のでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通る様な モスリン胎 卵殻胎が
行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 奇を衒わ
ない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点
だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィ
ーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ
・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を
掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。
ここで少し 話は変わりますが ウィーン窯の 閉窯にいたるまでを 簡単に記します。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりまし
た。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨き
がかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博して
いきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を
飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨー
ゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけ
ました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付け
ました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他
の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1
804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ
帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに 三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で惨敗した
フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝フランツ1世
となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。
1815年 ウィーン会議締結後 平和な30年ウィーン体制・王制(1848年革命・反王制により体制崩壊)が このピーターマイヤー様式を 花咲かせました。
「高貴なる素朴と静かな 偉大さ」を求める動きが啓蒙の芸術的創造を決定します。ともかく新古典主義はオーストリアでは、フランスのアンピール様式のような豊富な形態とはならず、 むしろ上品で簡素な変種となり、これがほとんど段階を踏むことなくビーダーマイヤー様式に移行していきます。
ピーターマイヤー(架空の人物 ビーダーマンとブンメルマイヤーの造語、「愚直な人」との意)ドイツの判事アイヒロットによる 1850年のドイツ風刺週刊誌に登場する、架空の小学校教員ゴットリープ・ビーダーマイヤー由来。小説の小市民ビーダーマイヤーは 政治や 国際情勢などに無関心。家庭の団欒や身の回りの食器や家具などに関心を持ち 心地よい簡素を好み 華美な装飾を 揶揄した。
ビーダーマイヤー 市民革命 主に独墺圏に生まれた市民文化
フランス革命後 生まれた市民社会は ナポレオン台頭による王政復古へとなっていく中で
閉塞社会に戻る息苦しさから 市井の人達の諦念に生まれた 観念的なものを捨て 日常的
簡素に美を求めた様式
産業革命により台頭する 市民社会に迎合するかに ビーダーマイヤーと名付けられた この
作品は フラグランスのお花こそ 簡素化して 描かれておりますが ブルーや手描き金彩の
バンドにより 陰りゆくハブスブルグ王家の虚栄いっぱいの 王侯趣味あふれる威厳に満ちた
作品で 時代こそ ビーダーマイヤーですが 凡そ 名前に そぐわぬ 美術品です。
最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮
徒花となり 1864年 120年の栄光の幕を 閉じることになりました。
正統性の証 モールドは 1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯 やがて ワーリス等に
流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は 引き継がれず 贋作
のみ盛んになりました。
アウガルテン窯
1864年 ウィーン窯 廃窯後 60年を経て 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説
と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して 23年説に改めます。)
オーストリア政府の肝いりで 創窯・継承したアウガルテン・ウィーン窯(アウガルテン城は
マリアテレジアの夏の離宮 バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章と Wienを許されて
おります。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ
杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう。ましてやアウガルテン窯制は ウィ
ーン窯製より さらに薄胎です。モールドの継承が 無かった事が 幸いした 怪我の功名と
いえませんか?当時のマイセンを手本とすれば ウィーン窯は厚手にならざるを得なかった
のでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通る様な モスリン胎 卵殻胎が
行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 奇を衒わ
ない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点
だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィ
ーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ
・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を
掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。
欧州磁器戦争史 秘法漏洩-番外編 ヘレンド窯
秘法漏洩-番外編 ヘレンド窯
マイセンの 懸命の 防御にもかかわらず 18世紀半ば 秘法は 遍く 人の知るところと
成りました。19世紀 創窯のヘレンドにとって 秘法漏洩とは 全く無縁なのですが ハプス
ブルグ家の ウィーン窯とは 深い関わりがあります(ウィーン窯閉窯に際しても モールドの
1部を引き継いで おりますが それの活用の形跡は 見られません。 金緑彩パセリ文,
ワインリーフなど 絵柄は引き継いでおります。)ので ここでヘレンドを 挿入します。
ウィーン窯に遅れる事 100年の民間・バハン陶器窯として 創立(1826)したヘレンドですが
1839年 皇帝フランツ・ヨゼフ一世に 実質的創業者モール・フィシェルが 磁器の制作を
許されました。当時のハプスブルク王家をめぐる国際情勢の中 筆頭スポンサーであった
エステルハージ伯爵(ハイドンを楽長とするオーケストラも持つ 芸術に造詣の深い貴族)達
の依頼を受け マイセン等の コピー窯として腕を磨き 遂に 1851年 第1回万国博覧会が
ロンドンで開かれた折 英国のヴィクトリア女王に ヘレンド独自の シノワズリが見出され
世に出る事になりました。後には 中世絶世の美女と 謳われた エリザベート王女や 夫君
のフランツ・ヨーゼフ一世にも こよなく愛される銘窯となりました。モール・フィシェルは 18
55年のパリ万博で 受賞し 英国の万博で 1等を受賞し 皇帝より ウィーン王宮で 騎士
勲章を 授けられております。1867年 ご夫妻の戴冠式の年 貴族に列せられ 遂に187
2年には 皇室御用達窯の 栄誉を受けております。彼の作品は 歴史主義様式でヨーロッ
パ銘窯の マスターピースの復刻と オリジナリティー・シノワズリと この二つの流れを
良くしました。以来 今日まで 偉大なマンネリズムを標榜するマイセンと同じく 彼の作品は
脈々と 継承され続けております。しかし オーストリア・ハンガリー二重帝国 最初の経済
恐慌に ヘレンドも埒外たり得ず 傷心の中 引退したモール・フィシェルの偉大な継承は
革新を阻み 彼の息子達の後継は 文字通りの後継で 引き続く経済恐慌に なす術もなく
1884年 国に身売りする 羽目に至りました。1896年 フランスやドイツで 磁器芸術を修得
した 孫のファルカシャージは 国より工場を買戻し 祖父フィシェルの呪縛を 解き放ち
新風を吹き込み 再びヘレンドに活気を取り戻しました。
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいないが。1996年は 建国1100年記念年で 清の花籠, 2001年 ヘレンド創立175周年記念に カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがてオリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
ハンガリーとフン族。
漢字表記では洪牙利で、洪と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。
歴史上、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。
「ハンガリー」の語源として一般に認められているのは、俗説にある「フン族」ではなく、7世紀のテュルク系のオノグルという語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。
ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。
フン族は北アジアの遊牧騎馬民族。中央アジアのステップ地帯が出拠と考えられるが、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的にはテュルク語族に属すると考えられている。
4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動を誘発、4世紀後半にはフン族がハンガリー平原に侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。フン族はその後アッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めた。さらには西ローマ帝国崩壊の遠因ともなった。5世紀中頃のアッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めた統一帝国を築いて最盛期を迎えた。451年、アッティラは西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入した。カタラウヌムの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇レオ1世の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている)。この事件をキリスト教が異教徒フン族への神の天罰として 布教活動に利用し、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになった。
アッティラが40歳で死亡した後、後継者不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァール(突厥に敗れた柔然)の侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいないが。(現ハンガリー第三共和国は 896年をもって建国としている。いかに調べてもこの根拠が判らないのですが・・・・・
「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
12世紀のハンガリー王国
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。
ハンガリー王国時代(カトリック諸王国の一員 1000年 - 1918年)
1236年に始まったモンゴル帝国ジュチ家の東欧侵攻 いわゆる「バトゥの西征」で モンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け壊滅的な被害を受けた。1242年に大ハーンオゴデイの死による遠征軍の帰還命令を受けるとバトゥはやむなくハンガリーを放棄し、モンゴル軍はハンガリーから撤退した。
14世紀から15世紀頃には周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。
1396年、オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北 1526年モハーチの戦いに敗れ 1541年 オスマン帝国に3分の2 ハプスブルク王家に3分の1を 分割支配され 両帝国のぶつかりあう最前線となった。
三十年戦争(1618年 - 1648年)には、プロテスタント側と カトリック側に分裂して参加。
1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。1848年のハンガリー革命はウィーン体制の事実上の崩壊となった1848年革命の一つであり、ハプスブルク朝の下にあるオーストリア帝国からハンガリー王国が独立しようとした革命である。また、ペテーフィ・シャーンドル等を含むこの革命の参加者はハンガリーの歴史に於いて国家的な英雄と見做されている。また、この革命が始まった3月15日はハンガリーで国民の祝日となっている。1867年にオーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、キエッジェズィーシュ(和協 調停役を果たした エリザベート)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。
岡本は 2000年の大ヘレンド展を 見に行ったとき 1864年のウィーン窯 閉窯を境に
景色が一変し ヘレンドが ウィーン窯(ヘレンドの矜持からか 社史には何故かありませんが
ペインターや 職人の1部を 受け入れたことは 想像に難くありません)を継承?して 大い
なる洗練を遂げたのを 目の当たりにして 大変驚かされました。
ヘレンドには オジア, ロカイユ, リッセ, エステルハージ, シェープがあります。
面白いのはバロックを代表する(マイセン#02, ジノリのベッキオ)を ロカイユ(ロココ)と名付け
ています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分時代を読み誤ったのでしょう。
もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは 誇張が過ぎるし ロココどまりにしたので
しょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説は ありますが バロックを ロココと
するのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフ
etc.) で シェープは デコラティブで 箔付けを 旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ
機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は 見られません。
ウィーンを嫌い ヘレンドに 親しんだエリザベート
中世絶世の美女と謳われたエリザベート愛称シシーは 悲劇のヒロインでした。オーストリア
皇太子フランツヨーゼフ1世と お見合いをした姉ヘレーネにかわり 身長172cm ウェスト
48cmという 素晴らしい容姿。更に類稀な美貌は 皇太子を 一目で恋の虜となし あれよ
あれよという間に 結婚の運びとなしたのです。王女としての 花嫁修業も受けぬまま 御年
15歳で ヨーロッパ一のウィーン宮廷に デビュウすることになりました。姑(叔母として ヘレ
ーネを 許嫁としていた)のゾフィは バイエルンの田舎領主の娘 その上 宮廷儀礼を知らぬ
無教養な望まぬ嫁として 何かと2人の間に 確執が 生まれます(彼女には 何の罪も無く
有るとすれば その美貌が生んだ 急ごしらえの結婚に ありましたのに)。エリザベートは
ウィーンを離れ ハンガリー貴族院から 贈られた ゲデレー城へ しばしば 傷心を癒しに
訪れました。そんな彼女の心を 癒したのが このゲデレーで嗜む 一杯の紅茶だったので
しょうか? (姑への反発と オーストリアに抑圧されるハンガリーに自分を重ね ハンガリー
に親しみ ハンガリーを贔屓し オーストリアとの懸け橋となりました。1867年 アウスグラ
イヒの調停役を果たした エリザベートを ハンガリー国民は 敬慕しました。)
一子ルドルフ皇太子も 姑に取り上げられ 悲しみに くれる彼女に 追い討ちをかけるかの
ルドルフ皇太子の 心中事件がおきるのです。打ちひしがれる彼女には さらに 心の友 従
兄のルートヴィヒの溺死と続き 遂には自らも 外遊中のスイスで 暴漢に襲われ この世を
身罷るという 悲劇に 終わるのです。この麗しの美女 エリザベートの悲劇は 宝塚歌劇の
格好の演目として よく公演されます。
マイセンの 懸命の 防御にもかかわらず 18世紀半ば 秘法は 遍く 人の知るところと
成りました。19世紀 創窯のヘレンドにとって 秘法漏洩とは 全く無縁なのですが ハプス
ブルグ家の ウィーン窯とは 深い関わりがあります(ウィーン窯閉窯に際しても モールドの
1部を引き継いで おりますが それの活用の形跡は 見られません。 金緑彩パセリ文,
ワインリーフなど 絵柄は引き継いでおります。)ので ここでヘレンドを 挿入します。
ウィーン窯に遅れる事 100年の民間・バハン陶器窯として 創立(1826)したヘレンドですが
1839年 皇帝フランツ・ヨゼフ一世に 実質的創業者モール・フィシェルが 磁器の制作を
許されました。当時のハプスブルク王家をめぐる国際情勢の中 筆頭スポンサーであった
エステルハージ伯爵(ハイドンを楽長とするオーケストラも持つ 芸術に造詣の深い貴族)達
の依頼を受け マイセン等の コピー窯として腕を磨き 遂に 1851年 第1回万国博覧会が
ロンドンで開かれた折 英国のヴィクトリア女王に ヘレンド独自の シノワズリが見出され
世に出る事になりました。後には 中世絶世の美女と 謳われた エリザベート王女や 夫君
のフランツ・ヨーゼフ一世にも こよなく愛される銘窯となりました。モール・フィシェルは 18
55年のパリ万博で 受賞し 英国の万博で 1等を受賞し 皇帝より ウィーン王宮で 騎士
勲章を 授けられております。1867年 ご夫妻の戴冠式の年 貴族に列せられ 遂に187
2年には 皇室御用達窯の 栄誉を受けております。彼の作品は 歴史主義様式でヨーロッ
パ銘窯の マスターピースの復刻と オリジナリティー・シノワズリと この二つの流れを
良くしました。以来 今日まで 偉大なマンネリズムを標榜するマイセンと同じく 彼の作品は
脈々と 継承され続けております。しかし オーストリア・ハンガリー二重帝国 最初の経済
恐慌に ヘレンドも埒外たり得ず 傷心の中 引退したモール・フィシェルの偉大な継承は
革新を阻み 彼の息子達の後継は 文字通りの後継で 引き続く経済恐慌に なす術もなく
1884年 国に身売りする 羽目に至りました。1896年 フランスやドイツで 磁器芸術を修得
した 孫のファルカシャージは 国より工場を買戻し 祖父フィシェルの呪縛を 解き放ち
新風を吹き込み 再びヘレンドに活気を取り戻しました。
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいないが。1996年は 建国1100年記念年で 清の花籠, 2001年 ヘレンド創立175周年記念に カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがてオリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
ハンガリーとフン族。
漢字表記では洪牙利で、洪と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。
歴史上、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。
「ハンガリー」の語源として一般に認められているのは、俗説にある「フン族」ではなく、7世紀のテュルク系のオノグルという語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。
ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。
フン族は北アジアの遊牧騎馬民族。中央アジアのステップ地帯が出拠と考えられるが、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的にはテュルク語族に属すると考えられている。
4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動を誘発、4世紀後半にはフン族がハンガリー平原に侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。フン族はその後アッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めた。さらには西ローマ帝国崩壊の遠因ともなった。5世紀中頃のアッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めた統一帝国を築いて最盛期を迎えた。451年、アッティラは西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入した。カタラウヌムの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇レオ1世の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている)。この事件をキリスト教が異教徒フン族への神の天罰として 布教活動に利用し、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになった。
アッティラが40歳で死亡した後、後継者不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァール(突厥に敗れた柔然)の侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいないが。(現ハンガリー第三共和国は 896年をもって建国としている。いかに調べてもこの根拠が判らないのですが・・・・・
「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
12世紀のハンガリー王国
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。
ハンガリー王国時代(カトリック諸王国の一員 1000年 - 1918年)
1236年に始まったモンゴル帝国ジュチ家の東欧侵攻 いわゆる「バトゥの西征」で モンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け壊滅的な被害を受けた。1242年に大ハーンオゴデイの死による遠征軍の帰還命令を受けるとバトゥはやむなくハンガリーを放棄し、モンゴル軍はハンガリーから撤退した。
14世紀から15世紀頃には周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。
1396年、オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北 1526年モハーチの戦いに敗れ 1541年 オスマン帝国に3分の2 ハプスブルク王家に3分の1を 分割支配され 両帝国のぶつかりあう最前線となった。
三十年戦争(1618年 - 1648年)には、プロテスタント側と カトリック側に分裂して参加。
1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。1848年のハンガリー革命はウィーン体制の事実上の崩壊となった1848年革命の一つであり、ハプスブルク朝の下にあるオーストリア帝国からハンガリー王国が独立しようとした革命である。また、ペテーフィ・シャーンドル等を含むこの革命の参加者はハンガリーの歴史に於いて国家的な英雄と見做されている。また、この革命が始まった3月15日はハンガリーで国民の祝日となっている。1867年にオーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、キエッジェズィーシュ(和協 調停役を果たした エリザベート)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。
岡本は 2000年の大ヘレンド展を 見に行ったとき 1864年のウィーン窯 閉窯を境に
景色が一変し ヘレンドが ウィーン窯(ヘレンドの矜持からか 社史には何故かありませんが
ペインターや 職人の1部を 受け入れたことは 想像に難くありません)を継承?して 大い
なる洗練を遂げたのを 目の当たりにして 大変驚かされました。
ヘレンドには オジア, ロカイユ, リッセ, エステルハージ, シェープがあります。
面白いのはバロックを代表する(マイセン#02, ジノリのベッキオ)を ロカイユ(ロココ)と名付け
ています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分時代を読み誤ったのでしょう。
もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは 誇張が過ぎるし ロココどまりにしたので
しょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説は ありますが バロックを ロココと
するのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフ
etc.) で シェープは デコラティブで 箔付けを 旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ
機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は 見られません。
ウィーンを嫌い ヘレンドに 親しんだエリザベート
中世絶世の美女と謳われたエリザベート愛称シシーは 悲劇のヒロインでした。オーストリア
皇太子フランツヨーゼフ1世と お見合いをした姉ヘレーネにかわり 身長172cm ウェスト
48cmという 素晴らしい容姿。更に類稀な美貌は 皇太子を 一目で恋の虜となし あれよ
あれよという間に 結婚の運びとなしたのです。王女としての 花嫁修業も受けぬまま 御年
15歳で ヨーロッパ一のウィーン宮廷に デビュウすることになりました。姑(叔母として ヘレ
ーネを 許嫁としていた)のゾフィは バイエルンの田舎領主の娘 その上 宮廷儀礼を知らぬ
無教養な望まぬ嫁として 何かと2人の間に 確執が 生まれます(彼女には 何の罪も無く
有るとすれば その美貌が生んだ 急ごしらえの結婚に ありましたのに)。エリザベートは
ウィーンを離れ ハンガリー貴族院から 贈られた ゲデレー城へ しばしば 傷心を癒しに
訪れました。そんな彼女の心を 癒したのが このゲデレーで嗜む 一杯の紅茶だったので
しょうか? (姑への反発と オーストリアに抑圧されるハンガリーに自分を重ね ハンガリー
に親しみ ハンガリーを贔屓し オーストリアとの懸け橋となりました。1867年 アウスグラ
イヒの調停役を果たした エリザベートを ハンガリー国民は 敬慕しました。)
一子ルドルフ皇太子も 姑に取り上げられ 悲しみに くれる彼女に 追い討ちをかけるかの
ルドルフ皇太子の 心中事件がおきるのです。打ちひしがれる彼女には さらに 心の友 従
兄のルートヴィヒの溺死と続き 遂には自らも 外遊中のスイスで 暴漢に襲われ この世を
身罷るという 悲劇に 終わるのです。この麗しの美女 エリザベートの悲劇は 宝塚歌劇の
格好の演目として よく公演されます。
欧州磁器戦争史 秘法漏洩-5 アルカニスト
秘法漏洩-5 アルカニスト
財政難のパキエに 見切りを付けたフンガーも 出奔し イタリアのヴェッツィ窯に秘法を
売り込みました。ここからフンガーの マイセン秘法漏洩の 旅が始まり 利を求めて スゥ
エーデン,デンマーク,ロシアへと続きました。本間ものの アルカニストでない フンガーは
マイセンにとって 余り脅威で 有りませんでしたが,ウィーン窯で マイセン秘法を会得し
アルカニストとなった モテ男リングラー(欧州磁器の義父)の恋の放浪は マイセンにとって
大変な脅威でした。1747年 弱冠17歳のリングラーは ウィーン窯の工場支配人の娘である恋
人から 騙し取った ベトガーの窯の設計図を携え マイセンの絵付師レーベンフィンクの興
した ヘキスト窯に行き 秘法を伝えました。ここには ウィーン窯の先輩ペンクグラフが
先に移っていたのですが 未完の彼は リングラーから 秘法を完全に会得し 1763年フリー
ドリヒ大王立ベルリン窯の 創立に 秘法を伝えております。
ヘキスト窯
紀元前1世紀 ローマ軍の駐屯地として開かれた町ヘキスト。ケルンに次ぐ ドイツ2番目の
歴史を持つ町に ドイツ2番目の古い歴史を持つ 窯として生まれました。
1746年 マイセン出身のレーベンフィンクは アルカニストでもあるとして 2人の出資者を
募り 3人で 稀な民窯として創業しました。しかし マイセンで 絵付師であったレーベンフ
ィンクは 磁器の秘法を 金彩師フンガー同様 甘く見ていて 結果 白磁焼成をなしえず
2人の出資者と 諍いになり 1749年 ヘキストを離れました。翌年 恋の放浪アルカニスト
・リングラーにより 秘法を伝授されたヘキストは 2年たたずして 白磁焼成に 成功しま
した。マイセンのロココ様式を模倣していた初期 やがて フランスに近く ドイツにおいて
逸早く ネオクラシズムを 花咲かせました。1770年には マインツ選帝候の御用達窯になり
以後 候の紋章 車軸の輪印を バックロゴに許されるほどの銘窯になりました。
栄光のヘキストも 打続く18世紀の大戦 7年戦争 ナポレオン戦争の荒波に 翻弄され
1796年 閉窯を余儀なくされました。
1965年 閉窯を惜しむ 熱心な市民達に支えられて 遂に「幻の窯」が復窯。以後 伝統を
重んじ 今だに 全工程手作り 職人魂の花を咲かせ続けて おります。
一方 マイセン最大の脅威 リングラーがアウグスト強襲王の孫娘 マリア・アンナ・ゾフィ
ア嫁ぐところのバイエルン・ニンフェンブルク窯の前身設立に 秘法を伝えたと言うのも 秘
法漏洩により マイセンの独占が 脅かされることを嫌った 祖父の故アウグスト強襲王にと
っては 皮肉な話です。
又一方 秘法師リングラーの噂を聞きつけた フュルステンベルグ公カール・オイゲンが ル
ードヴィヒスブルグに呼び寄せて 名誉と名声に欠くべからざる 磁器窯を 1759年に開
設しました。これが ドイツ七大最重要古窯のひとつ フュルステンベルグ窯です。工場長に
任命されたリングラーの放浪は ここに終わりをつげました。
ロイヤルコペンハーゲン
1737年 クリスチャン王のもと 創窯のコペンハーゲンでは 1755年デンマークのボーン
ホルン島で発見されたカオリンを使って 1771年 薬剤師ミュラーにより ポースレーンの
焼成に成功(口舌の徒 フンガーの悪評を嫌い 彼の誘いを断り 独自の開発を 目ざしたので
カオリン発見から 永い歳月が かかりました)カール侯の妹 デンマーク王妃 ジュリアン・
マリーは 兄のフュルステンベルグ窯(ドイツ七大重要古窯)の名声に 刺激され 王に勧めて
コペンハーゲン窯を 兄に負けない 名声を博する窯にするべく 1775年 王立窯 ロイヤ
ルコペンハーゲンを 誕生させました。王立になった この年から マイセンに 影響を受けた
ブルーフルーテッドのはじまり。1885年から アーツ&クラフツ運動の一方の旗頭 アーノ
ルドクロにより 徐々に完成を見る。
ビングオーグレンダール
1853年 当時 王立ロイヤルコペンハーゲンの 繁忙から 一般人用に ビング兄弟と
グレンダールにより 民窯として創立。生地の堅牢さと お手ごろ価格が受けて 日常食器と
して 人気を呼び 定着していきました。19世紀末 花柄と 古典的連続柄が お決まりの
時代に フラニー・ガーダー女史により 発表された 青海波上にたゆたう 鴎「シーガル」
が その斬新さから 好評を博しました。
又 ロイヤルコペンハーゲンに(1908) 先立つ1895年以来 1年も 途絶えたことの
無い クリスマスプレートも B&G社の 誇りです。
名作の誉れ高い 復刻版5イヤージュビリープレートは 1915年以来です。
マイセンの堅固な秘法防御は 自国の財力の強大化と 何よりも 自国の文化教養度を 誇り
たい国王達の前に 僅か半世紀を経ずして 破られていきました。余談ですが アウグスト強
襲王の強襲は 多くのご婦人方の貞操を破った 強精力をも 言っていると 半ば呆れ 半ば
羨ましがられておったそうです。何せ 男の幸せの時代 でもご婦人方も パブ犬秘密結社と
か 結構オープンな時代でした。ケンドラー作の ご婦人方のクリノリンスカートの下から
のぞくパグ犬は 可愛いだけではないのです。恥ずかしげも無く おおらかな時代は 打続く
戦いの死の危険にさらされた 刹那的反面でもあるでしょう。
死後の アウグスト強襲王の 心臓が納められた 教会の地下室の近くを 妙齢の女性が通る
と 王の心臓の鼓動が聞こえたとの言い伝えは 彼の行いに 悪意のないユーモアです。
財政難のパキエに 見切りを付けたフンガーも 出奔し イタリアのヴェッツィ窯に秘法を
売り込みました。ここからフンガーの マイセン秘法漏洩の 旅が始まり 利を求めて スゥ
エーデン,デンマーク,ロシアへと続きました。本間ものの アルカニストでない フンガーは
マイセンにとって 余り脅威で 有りませんでしたが,ウィーン窯で マイセン秘法を会得し
アルカニストとなった モテ男リングラー(欧州磁器の義父)の恋の放浪は マイセンにとって
大変な脅威でした。1747年 弱冠17歳のリングラーは ウィーン窯の工場支配人の娘である恋
人から 騙し取った ベトガーの窯の設計図を携え マイセンの絵付師レーベンフィンクの興
した ヘキスト窯に行き 秘法を伝えました。ここには ウィーン窯の先輩ペンクグラフが
先に移っていたのですが 未完の彼は リングラーから 秘法を完全に会得し 1763年フリー
ドリヒ大王立ベルリン窯の 創立に 秘法を伝えております。
ヘキスト窯
紀元前1世紀 ローマ軍の駐屯地として開かれた町ヘキスト。ケルンに次ぐ ドイツ2番目の
歴史を持つ町に ドイツ2番目の古い歴史を持つ 窯として生まれました。
1746年 マイセン出身のレーベンフィンクは アルカニストでもあるとして 2人の出資者を
募り 3人で 稀な民窯として創業しました。しかし マイセンで 絵付師であったレーベンフ
ィンクは 磁器の秘法を 金彩師フンガー同様 甘く見ていて 結果 白磁焼成をなしえず
2人の出資者と 諍いになり 1749年 ヘキストを離れました。翌年 恋の放浪アルカニスト
・リングラーにより 秘法を伝授されたヘキストは 2年たたずして 白磁焼成に 成功しま
した。マイセンのロココ様式を模倣していた初期 やがて フランスに近く ドイツにおいて
逸早く ネオクラシズムを 花咲かせました。1770年には マインツ選帝候の御用達窯になり
以後 候の紋章 車軸の輪印を バックロゴに許されるほどの銘窯になりました。
栄光のヘキストも 打続く18世紀の大戦 7年戦争 ナポレオン戦争の荒波に 翻弄され
1796年 閉窯を余儀なくされました。
1965年 閉窯を惜しむ 熱心な市民達に支えられて 遂に「幻の窯」が復窯。以後 伝統を
重んじ 今だに 全工程手作り 職人魂の花を咲かせ続けて おります。
一方 マイセン最大の脅威 リングラーがアウグスト強襲王の孫娘 マリア・アンナ・ゾフィ
ア嫁ぐところのバイエルン・ニンフェンブルク窯の前身設立に 秘法を伝えたと言うのも 秘
法漏洩により マイセンの独占が 脅かされることを嫌った 祖父の故アウグスト強襲王にと
っては 皮肉な話です。
又一方 秘法師リングラーの噂を聞きつけた フュルステンベルグ公カール・オイゲンが ル
ードヴィヒスブルグに呼び寄せて 名誉と名声に欠くべからざる 磁器窯を 1759年に開
設しました。これが ドイツ七大最重要古窯のひとつ フュルステンベルグ窯です。工場長に
任命されたリングラーの放浪は ここに終わりをつげました。
ロイヤルコペンハーゲン
1737年 クリスチャン王のもと 創窯のコペンハーゲンでは 1755年デンマークのボーン
ホルン島で発見されたカオリンを使って 1771年 薬剤師ミュラーにより ポースレーンの
焼成に成功(口舌の徒 フンガーの悪評を嫌い 彼の誘いを断り 独自の開発を 目ざしたので
カオリン発見から 永い歳月が かかりました)カール侯の妹 デンマーク王妃 ジュリアン・
マリーは 兄のフュルステンベルグ窯(ドイツ七大重要古窯)の名声に 刺激され 王に勧めて
コペンハーゲン窯を 兄に負けない 名声を博する窯にするべく 1775年 王立窯 ロイヤ
ルコペンハーゲンを 誕生させました。王立になった この年から マイセンに 影響を受けた
ブルーフルーテッドのはじまり。1885年から アーツ&クラフツ運動の一方の旗頭 アーノ
ルドクロにより 徐々に完成を見る。
ビングオーグレンダール
1853年 当時 王立ロイヤルコペンハーゲンの 繁忙から 一般人用に ビング兄弟と
グレンダールにより 民窯として創立。生地の堅牢さと お手ごろ価格が受けて 日常食器と
して 人気を呼び 定着していきました。19世紀末 花柄と 古典的連続柄が お決まりの
時代に フラニー・ガーダー女史により 発表された 青海波上にたゆたう 鴎「シーガル」
が その斬新さから 好評を博しました。
又 ロイヤルコペンハーゲンに(1908) 先立つ1895年以来 1年も 途絶えたことの
無い クリスマスプレートも B&G社の 誇りです。
名作の誉れ高い 復刻版5イヤージュビリープレートは 1915年以来です。
マイセンの堅固な秘法防御は 自国の財力の強大化と 何よりも 自国の文化教養度を 誇り
たい国王達の前に 僅か半世紀を経ずして 破られていきました。余談ですが アウグスト強
襲王の強襲は 多くのご婦人方の貞操を破った 強精力をも 言っていると 半ば呆れ 半ば
羨ましがられておったそうです。何せ 男の幸せの時代 でもご婦人方も パブ犬秘密結社と
か 結構オープンな時代でした。ケンドラー作の ご婦人方のクリノリンスカートの下から
のぞくパグ犬は 可愛いだけではないのです。恥ずかしげも無く おおらかな時代は 打続く
戦いの死の危険にさらされた 刹那的反面でもあるでしょう。
死後の アウグスト強襲王の 心臓が納められた 教会の地下室の近くを 妙齢の女性が通る
と 王の心臓の鼓動が聞こえたとの言い伝えは 彼の行いに 悪意のないユーモアです。