欧州磁器戦争史 秘法漏洩-番外編 ヘレンド窯
秘法漏洩-番外編 ヘレンド窯
マイセンの 懸命の 防御にもかかわらず 18世紀半ば 秘法は 遍く 人の知るところと
成りました。19世紀 創窯のヘレンドにとって 秘法漏洩とは 全く無縁なのですが ハプス
ブルグ家の ウィーン窯とは 深い関わりがあります(ウィーン窯閉窯に際しても モールドの
1部を引き継いで おりますが それの活用の形跡は 見られません。 金緑彩パセリ文,
ワインリーフなど 絵柄は引き継いでおります。)ので ここでヘレンドを 挿入します。
ウィーン窯に遅れる事 100年の民間・バハン陶器窯として 創立(1826)したヘレンドですが
1839年 皇帝フランツ・ヨゼフ一世に 実質的創業者モール・フィシェルが 磁器の制作を
許されました。当時のハプスブルク王家をめぐる国際情勢の中 筆頭スポンサーであった
エステルハージ伯爵(ハイドンを楽長とするオーケストラも持つ 芸術に造詣の深い貴族)達
の依頼を受け マイセン等の コピー窯として腕を磨き 遂に 1851年 第1回万国博覧会が
ロンドンで開かれた折 英国のヴィクトリア女王に ヘレンド独自の シノワズリが見出され
世に出る事になりました。後には 中世絶世の美女と 謳われた エリザベート王女や 夫君
のフランツ・ヨーゼフ一世にも こよなく愛される銘窯となりました。モール・フィシェルは 18
55年のパリ万博で 受賞し 英国の万博で 1等を受賞し 皇帝より ウィーン王宮で 騎士
勲章を 授けられております。1867年 ご夫妻の戴冠式の年 貴族に列せられ 遂に187
2年には 皇室御用達窯の 栄誉を受けております。彼の作品は 歴史主義様式でヨーロッ
パ銘窯の マスターピースの復刻と オリジナリティー・シノワズリと この二つの流れを
良くしました。以来 今日まで 偉大なマンネリズムを標榜するマイセンと同じく 彼の作品は
脈々と 継承され続けております。しかし オーストリア・ハンガリー二重帝国 最初の経済
恐慌に ヘレンドも埒外たり得ず 傷心の中 引退したモール・フィシェルの偉大な継承は
革新を阻み 彼の息子達の後継は 文字通りの後継で 引き続く経済恐慌に なす術もなく
1884年 国に身売りする 羽目に至りました。1896年 フランスやドイツで 磁器芸術を修得
した 孫のファルカシャージは 国より工場を買戻し 祖父フィシェルの呪縛を 解き放ち
新風を吹き込み 再びヘレンドに活気を取り戻しました。
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいないが。1996年は 建国1100年記念年で 清の花籠, 2001年 ヘレンド創立175周年記念に カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがてオリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
ハンガリーとフン族。
漢字表記では洪牙利で、洪と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。
歴史上、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。
「ハンガリー」の語源として一般に認められているのは、俗説にある「フン族」ではなく、7世紀のテュルク系のオノグルという語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。
ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。
フン族は北アジアの遊牧騎馬民族。中央アジアのステップ地帯が出拠と考えられるが、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的にはテュルク語族に属すると考えられている。
4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動を誘発、4世紀後半にはフン族がハンガリー平原に侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。フン族はその後アッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めた。さらには西ローマ帝国崩壊の遠因ともなった。5世紀中頃のアッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めた統一帝国を築いて最盛期を迎えた。451年、アッティラは西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入した。カタラウヌムの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇レオ1世の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている)。この事件をキリスト教が異教徒フン族への神の天罰として 布教活動に利用し、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになった。
アッティラが40歳で死亡した後、後継者不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァール(突厥に敗れた柔然)の侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいないが。(現ハンガリー第三共和国は 896年をもって建国としている。いかに調べてもこの根拠が判らないのですが・・・・・
「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
12世紀のハンガリー王国
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。
ハンガリー王国時代(カトリック諸王国の一員 1000年 - 1918年)
1236年に始まったモンゴル帝国ジュチ家の東欧侵攻 いわゆる「バトゥの西征」で モンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け壊滅的な被害を受けた。1242年に大ハーンオゴデイの死による遠征軍の帰還命令を受けるとバトゥはやむなくハンガリーを放棄し、モンゴル軍はハンガリーから撤退した。
14世紀から15世紀頃には周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。
1396年、オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北 1526年モハーチの戦いに敗れ 1541年 オスマン帝国に3分の2 ハプスブルク王家に3分の1を 分割支配され 両帝国のぶつかりあう最前線となった。
三十年戦争(1618年 - 1648年)には、プロテスタント側と カトリック側に分裂して参加。
1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。1848年のハンガリー革命はウィーン体制の事実上の崩壊となった1848年革命の一つであり、ハプスブルク朝の下にあるオーストリア帝国からハンガリー王国が独立しようとした革命である。また、ペテーフィ・シャーンドル等を含むこの革命の参加者はハンガリーの歴史に於いて国家的な英雄と見做されている。また、この革命が始まった3月15日はハンガリーで国民の祝日となっている。1867年にオーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、キエッジェズィーシュ(和協 調停役を果たした エリザベート)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。
岡本は 2000年の大ヘレンド展を 見に行ったとき 1864年のウィーン窯 閉窯を境に
景色が一変し ヘレンドが ウィーン窯(ヘレンドの矜持からか 社史には何故かありませんが
ペインターや 職人の1部を 受け入れたことは 想像に難くありません)を継承?して 大い
なる洗練を遂げたのを 目の当たりにして 大変驚かされました。
ヘレンドには オジア, ロカイユ, リッセ, エステルハージ, シェープがあります。
面白いのはバロックを代表する(マイセン#02, ジノリのベッキオ)を ロカイユ(ロココ)と名付け
ています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分時代を読み誤ったのでしょう。
もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは 誇張が過ぎるし ロココどまりにしたので
しょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説は ありますが バロックを ロココと
するのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフ
etc.) で シェープは デコラティブで 箔付けを 旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ
機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は 見られません。
ウィーンを嫌い ヘレンドに 親しんだエリザベート
中世絶世の美女と謳われたエリザベート愛称シシーは 悲劇のヒロインでした。オーストリア
皇太子フランツヨーゼフ1世と お見合いをした姉ヘレーネにかわり 身長172cm ウェスト
48cmという 素晴らしい容姿。更に類稀な美貌は 皇太子を 一目で恋の虜となし あれよ
あれよという間に 結婚の運びとなしたのです。王女としての 花嫁修業も受けぬまま 御年
15歳で ヨーロッパ一のウィーン宮廷に デビュウすることになりました。姑(叔母として ヘレ
ーネを 許嫁としていた)のゾフィは バイエルンの田舎領主の娘 その上 宮廷儀礼を知らぬ
無教養な望まぬ嫁として 何かと2人の間に 確執が 生まれます(彼女には 何の罪も無く
有るとすれば その美貌が生んだ 急ごしらえの結婚に ありましたのに)。エリザベートは
ウィーンを離れ ハンガリー貴族院から 贈られた ゲデレー城へ しばしば 傷心を癒しに
訪れました。そんな彼女の心を 癒したのが このゲデレーで嗜む 一杯の紅茶だったので
しょうか? (姑への反発と オーストリアに抑圧されるハンガリーに自分を重ね ハンガリー
に親しみ ハンガリーを贔屓し オーストリアとの懸け橋となりました。1867年 アウスグラ
イヒの調停役を果たした エリザベートを ハンガリー国民は 敬慕しました。)
一子ルドルフ皇太子も 姑に取り上げられ 悲しみに くれる彼女に 追い討ちをかけるかの
ルドルフ皇太子の 心中事件がおきるのです。打ちひしがれる彼女には さらに 心の友 従
兄のルートヴィヒの溺死と続き 遂には自らも 外遊中のスイスで 暴漢に襲われ この世を
身罷るという 悲劇に 終わるのです。この麗しの美女 エリザベートの悲劇は 宝塚歌劇の
格好の演目として よく公演されます。
マイセンの 懸命の 防御にもかかわらず 18世紀半ば 秘法は 遍く 人の知るところと
成りました。19世紀 創窯のヘレンドにとって 秘法漏洩とは 全く無縁なのですが ハプス
ブルグ家の ウィーン窯とは 深い関わりがあります(ウィーン窯閉窯に際しても モールドの
1部を引き継いで おりますが それの活用の形跡は 見られません。 金緑彩パセリ文,
ワインリーフなど 絵柄は引き継いでおります。)ので ここでヘレンドを 挿入します。
ウィーン窯に遅れる事 100年の民間・バハン陶器窯として 創立(1826)したヘレンドですが
1839年 皇帝フランツ・ヨゼフ一世に 実質的創業者モール・フィシェルが 磁器の制作を
許されました。当時のハプスブルク王家をめぐる国際情勢の中 筆頭スポンサーであった
エステルハージ伯爵(ハイドンを楽長とするオーケストラも持つ 芸術に造詣の深い貴族)達
の依頼を受け マイセン等の コピー窯として腕を磨き 遂に 1851年 第1回万国博覧会が
ロンドンで開かれた折 英国のヴィクトリア女王に ヘレンド独自の シノワズリが見出され
世に出る事になりました。後には 中世絶世の美女と 謳われた エリザベート王女や 夫君
のフランツ・ヨーゼフ一世にも こよなく愛される銘窯となりました。モール・フィシェルは 18
55年のパリ万博で 受賞し 英国の万博で 1等を受賞し 皇帝より ウィーン王宮で 騎士
勲章を 授けられております。1867年 ご夫妻の戴冠式の年 貴族に列せられ 遂に187
2年には 皇室御用達窯の 栄誉を受けております。彼の作品は 歴史主義様式でヨーロッ
パ銘窯の マスターピースの復刻と オリジナリティー・シノワズリと この二つの流れを
良くしました。以来 今日まで 偉大なマンネリズムを標榜するマイセンと同じく 彼の作品は
脈々と 継承され続けております。しかし オーストリア・ハンガリー二重帝国 最初の経済
恐慌に ヘレンドも埒外たり得ず 傷心の中 引退したモール・フィシェルの偉大な継承は
革新を阻み 彼の息子達の後継は 文字通りの後継で 引き続く経済恐慌に なす術もなく
1884年 国に身売りする 羽目に至りました。1896年 フランスやドイツで 磁器芸術を修得
した 孫のファルカシャージは 国より工場を買戻し 祖父フィシェルの呪縛を 解き放ち
新風を吹き込み 再びヘレンドに活気を取り戻しました。
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいないが。1996年は 建国1100年記念年で 清の花籠, 2001年 ヘレンド創立175周年記念に カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがてオリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
ハンガリーとフン族。
漢字表記では洪牙利で、洪と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。
歴史上、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。
「ハンガリー」の語源として一般に認められているのは、俗説にある「フン族」ではなく、7世紀のテュルク系のオノグルという語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。
ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。
フン族は北アジアの遊牧騎馬民族。中央アジアのステップ地帯が出拠と考えられるが、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的にはテュルク語族に属すると考えられている。
4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動を誘発、4世紀後半にはフン族がハンガリー平原に侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。フン族はその後アッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めた。さらには西ローマ帝国崩壊の遠因ともなった。5世紀中頃のアッティラの時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めた統一帝国を築いて最盛期を迎えた。451年、アッティラは西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入した。カタラウヌムの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇レオ1世の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている)。この事件をキリスト教が異教徒フン族への神の天罰として 布教活動に利用し、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになった。
アッティラが40歳で死亡した後、後継者不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァール(突厥に敗れた柔然)の侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいないが。(現ハンガリー第三共和国は 896年をもって建国としている。いかに調べてもこの根拠が判らないのですが・・・・・
「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
12世紀のハンガリー王国
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。
ハンガリー王国時代(カトリック諸王国の一員 1000年 - 1918年)
1236年に始まったモンゴル帝国ジュチ家の東欧侵攻 いわゆる「バトゥの西征」で モンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け壊滅的な被害を受けた。1242年に大ハーンオゴデイの死による遠征軍の帰還命令を受けるとバトゥはやむなくハンガリーを放棄し、モンゴル軍はハンガリーから撤退した。
14世紀から15世紀頃には周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。
1396年、オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北 1526年モハーチの戦いに敗れ 1541年 オスマン帝国に3分の2 ハプスブルク王家に3分の1を 分割支配され 両帝国のぶつかりあう最前線となった。
三十年戦争(1618年 - 1648年)には、プロテスタント側と カトリック側に分裂して参加。
1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。1848年のハンガリー革命はウィーン体制の事実上の崩壊となった1848年革命の一つであり、ハプスブルク朝の下にあるオーストリア帝国からハンガリー王国が独立しようとした革命である。また、ペテーフィ・シャーンドル等を含むこの革命の参加者はハンガリーの歴史に於いて国家的な英雄と見做されている。また、この革命が始まった3月15日はハンガリーで国民の祝日となっている。1867年にオーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、キエッジェズィーシュ(和協 調停役を果たした エリザベート)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。
岡本は 2000年の大ヘレンド展を 見に行ったとき 1864年のウィーン窯 閉窯を境に
景色が一変し ヘレンドが ウィーン窯(ヘレンドの矜持からか 社史には何故かありませんが
ペインターや 職人の1部を 受け入れたことは 想像に難くありません)を継承?して 大い
なる洗練を遂げたのを 目の当たりにして 大変驚かされました。
ヘレンドには オジア, ロカイユ, リッセ, エステルハージ, シェープがあります。
面白いのはバロックを代表する(マイセン#02, ジノリのベッキオ)を ロカイユ(ロココ)と名付け
ています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分時代を読み誤ったのでしょう。
もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは 誇張が過ぎるし ロココどまりにしたので
しょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説は ありますが バロックを ロココと
するのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフ
etc.) で シェープは デコラティブで 箔付けを 旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ
機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は 見られません。
ウィーンを嫌い ヘレンドに 親しんだエリザベート
中世絶世の美女と謳われたエリザベート愛称シシーは 悲劇のヒロインでした。オーストリア
皇太子フランツヨーゼフ1世と お見合いをした姉ヘレーネにかわり 身長172cm ウェスト
48cmという 素晴らしい容姿。更に類稀な美貌は 皇太子を 一目で恋の虜となし あれよ
あれよという間に 結婚の運びとなしたのです。王女としての 花嫁修業も受けぬまま 御年
15歳で ヨーロッパ一のウィーン宮廷に デビュウすることになりました。姑(叔母として ヘレ
ーネを 許嫁としていた)のゾフィは バイエルンの田舎領主の娘 その上 宮廷儀礼を知らぬ
無教養な望まぬ嫁として 何かと2人の間に 確執が 生まれます(彼女には 何の罪も無く
有るとすれば その美貌が生んだ 急ごしらえの結婚に ありましたのに)。エリザベートは
ウィーンを離れ ハンガリー貴族院から 贈られた ゲデレー城へ しばしば 傷心を癒しに
訪れました。そんな彼女の心を 癒したのが このゲデレーで嗜む 一杯の紅茶だったので
しょうか? (姑への反発と オーストリアに抑圧されるハンガリーに自分を重ね ハンガリー
に親しみ ハンガリーを贔屓し オーストリアとの懸け橋となりました。1867年 アウスグラ
イヒの調停役を果たした エリザベートを ハンガリー国民は 敬慕しました。)
一子ルドルフ皇太子も 姑に取り上げられ 悲しみに くれる彼女に 追い討ちをかけるかの
ルドルフ皇太子の 心中事件がおきるのです。打ちひしがれる彼女には さらに 心の友 従
兄のルートヴィヒの溺死と続き 遂には自らも 外遊中のスイスで 暴漢に襲われ この世を
身罷るという 悲劇に 終わるのです。この麗しの美女 エリザベートの悲劇は 宝塚歌劇の
格好の演目として よく公演されます。
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