欧州磁器戦争史 秘法漏洩-3 ウィーン・アウガルテン窯
秘法漏洩-3 ウィーン・アウガルテン窯
ここで少し 話は変わりますが ウィーン窯の 閉窯にいたるまでを 簡単に記します。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりまし
た。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨き
がかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博して
いきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を
飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨー
ゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけ
ました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付け
ました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他
の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1
804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ
帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに 三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で惨敗した
フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝フランツ1世
となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。
1815年 ウィーン会議締結後 平和な30年ウィーン体制・王制(1848年革命・反王制により体制崩壊)が このピーターマイヤー様式を 花咲かせました。
「高貴なる素朴と静かな 偉大さ」を求める動きが啓蒙の芸術的創造を決定します。ともかく新古典主義はオーストリアでは、フランスのアンピール様式のような豊富な形態とはならず、 むしろ上品で簡素な変種となり、これがほとんど段階を踏むことなくビーダーマイヤー様式に移行していきます。
ピーターマイヤー(架空の人物 ビーダーマンとブンメルマイヤーの造語、「愚直な人」との意)ドイツの判事アイヒロットによる 1850年のドイツ風刺週刊誌に登場する、架空の小学校教員ゴットリープ・ビーダーマイヤー由来。小説の小市民ビーダーマイヤーは 政治や 国際情勢などに無関心。家庭の団欒や身の回りの食器や家具などに関心を持ち 心地よい簡素を好み 華美な装飾を 揶揄した。
ビーダーマイヤー 市民革命 主に独墺圏に生まれた市民文化
フランス革命後 生まれた市民社会は ナポレオン台頭による王政復古へとなっていく中で
閉塞社会に戻る息苦しさから 市井の人達の諦念に生まれた 観念的なものを捨て 日常的
簡素に美を求めた様式
産業革命により台頭する 市民社会に迎合するかに ビーダーマイヤーと名付けられた この
作品は フラグランスのお花こそ 簡素化して 描かれておりますが ブルーや手描き金彩の
バンドにより 陰りゆくハブスブルグ王家の虚栄いっぱいの 王侯趣味あふれる威厳に満ちた
作品で 時代こそ ビーダーマイヤーですが 凡そ 名前に そぐわぬ 美術品です。
最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮
徒花となり 1864年 120年の栄光の幕を 閉じることになりました。
正統性の証 モールドは 1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯 やがて ワーリス等に
流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は 引き継がれず 贋作
のみ盛んになりました。
アウガルテン窯
1864年 ウィーン窯 廃窯後 60年を経て 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説
と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して 23年説に改めます。)
オーストリア政府の肝いりで 創窯・継承したアウガルテン・ウィーン窯(アウガルテン城は
マリアテレジアの夏の離宮 バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章と Wienを許されて
おります。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ
杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう。ましてやアウガルテン窯制は ウィ
ーン窯製より さらに薄胎です。モールドの継承が 無かった事が 幸いした 怪我の功名と
いえませんか?当時のマイセンを手本とすれば ウィーン窯は厚手にならざるを得なかった
のでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通る様な モスリン胎 卵殻胎が
行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 奇を衒わ
ない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点
だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィ
ーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ
・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を
掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。
ここで少し 話は変わりますが ウィーン窯の 閉窯にいたるまでを 簡単に記します。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードするほどになりまし
た。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨き
がかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博して
いきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を
飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨー
ゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけ
ました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付け
ました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他
の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1
804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ
帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに 三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で惨敗した
フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝フランツ1世
となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。
1815年 ウィーン会議締結後 平和な30年ウィーン体制・王制(1848年革命・反王制により体制崩壊)が このピーターマイヤー様式を 花咲かせました。
「高貴なる素朴と静かな 偉大さ」を求める動きが啓蒙の芸術的創造を決定します。ともかく新古典主義はオーストリアでは、フランスのアンピール様式のような豊富な形態とはならず、 むしろ上品で簡素な変種となり、これがほとんど段階を踏むことなくビーダーマイヤー様式に移行していきます。
ピーターマイヤー(架空の人物 ビーダーマンとブンメルマイヤーの造語、「愚直な人」との意)ドイツの判事アイヒロットによる 1850年のドイツ風刺週刊誌に登場する、架空の小学校教員ゴットリープ・ビーダーマイヤー由来。小説の小市民ビーダーマイヤーは 政治や 国際情勢などに無関心。家庭の団欒や身の回りの食器や家具などに関心を持ち 心地よい簡素を好み 華美な装飾を 揶揄した。
ビーダーマイヤー 市民革命 主に独墺圏に生まれた市民文化
フランス革命後 生まれた市民社会は ナポレオン台頭による王政復古へとなっていく中で
閉塞社会に戻る息苦しさから 市井の人達の諦念に生まれた 観念的なものを捨て 日常的
簡素に美を求めた様式
産業革命により台頭する 市民社会に迎合するかに ビーダーマイヤーと名付けられた この
作品は フラグランスのお花こそ 簡素化して 描かれておりますが ブルーや手描き金彩の
バンドにより 陰りゆくハブスブルグ王家の虚栄いっぱいの 王侯趣味あふれる威厳に満ちた
作品で 時代こそ ビーダーマイヤーですが 凡そ 名前に そぐわぬ 美術品です。
最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮
徒花となり 1864年 120年の栄光の幕を 閉じることになりました。
正統性の証 モールドは 1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯 やがて ワーリス等に
流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は 引き継がれず 贋作
のみ盛んになりました。
アウガルテン窯
1864年 ウィーン窯 廃窯後 60年を経て 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説
と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して 23年説に改めます。)
オーストリア政府の肝いりで 創窯・継承したアウガルテン・ウィーン窯(アウガルテン城は
マリアテレジアの夏の離宮 バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章と Wienを許されて
おります。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ
杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう。ましてやアウガルテン窯制は ウィ
ーン窯製より さらに薄胎です。モールドの継承が 無かった事が 幸いした 怪我の功名と
いえませんか?当時のマイセンを手本とすれば ウィーン窯は厚手にならざるを得なかった
のでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通る様な モスリン胎 卵殻胎が
行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 奇を衒わ
ない精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点
だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィ
ーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。)
余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ
・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を
掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。
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