欧州磁器戦争史 ウェッジウッド-1
欧州磁器戦争史 ウェッジウッド-1
1756年 ドイツ・プロイセンのフリードリヒ大王は イギリスと軍事同盟(ウェストミン
スター条約)を結び ザクセン(マイセン)・ロシア・フランス・オーストリアを敵に回し
7年戦争の火蓋を切りました。鎧袖一触 又も マイセンを狙って ドレスデンを占領しまし
た。この時 大王は マイセン窯から 職人を引き抜き 挙句は 戦費調達に 瀕死のマイセ
ンを 売り飛ばすのです。
ウェッジウッドは ヨーロッパ中を捲き込んだ 7年戦争真っ只中の1759年 バースレム
の地に ジョサイアによって 生み出されました。ジョサイアは 製陶を生業とする ウェッ
ジウッド家の 第13子として 1730年に誕生しましたが 11歳の少年の頃 天然痘にかかり
右足が不自由になり 1768年には 悪化した右足膝下を 切断しております。しかし 強い
意志の彼は このハンディをものともせず 倦まず弛まず 天分に磨きをかけ 後に「英国
陶工の父」と尊称される程の人物になりました。
初代ジョサイアウェッジウッドの 手になる無貫乳の鉛釉陶器。1765年 シャーロット
王妃より 「クィーンズウェア」と言う 特別名称を授与さる。 人呼んで「女王様のクリ
ーム色」 又 彼にも「王妃御用達陶工」という名誉称号が授与されました。
中世 世界三大ディナーセットの一つ フロッグサービス(残り2つは マイセン・スワ
ンサービス ロイヤルコペンハーゲン・フローラダニカ)も ロシア女帝 エカテリーナ
2世・チェスミー宮殿(チェスミー宮殿には 蛙の盛んな沼が有名で 宮殿の愛称は
フロッグパレスと 呼ばれていました。英国の田園風景画が描かれた 952点から
なる総てのサービスに 蛙の紋章が 施されておりました。) の 特別注文による
クィーンズウェアでした。当時 ヨーロッパ中を 席捲し 磁器で先行する マイセンや
セーブルも 余りの猛威を前にして なす術も無かった。
1769年 古典芸術に造詣の深い パートナー・ベントリーと スタッフォードの地に エトルリア(古代美術の栄えた イタリアの都市名)工場開設。ジョサイアの 古典芸術に対する憧憬と その復刻に燃える情熱から 命名された。この年 この地で行われていた 無釉黒色炻器を改良して ブラックバサルト(玄武岩)を完成(1707年 ベトガー完成の朱泥炻器に同じ)。ジャスパーウェアの魁です。
リバプール港への 運河を開鑿したことも有名です。彼の進取の気性は 女王御用達陶工でありながら 反するアメリカ独立戦争・奴隷解放運動への大口基金寄贈者であった事からも 見て取れます。1795年 王立協会員・初代ジョサイアは 栄光と賞賛の中 惜しまれながら この世を去りました。彼の天分は 息子ジョサイアⅡ世に受け継がれ 脈々と生き続けました。エトルリア工場は 1950年 現在のバーラストン工場(ストーク・オン・トレント)に 180年の長き 伝統を引き継ぐまで 繁栄を続けました。
1756年 ドイツ・プロイセンのフリードリヒ大王は イギリスと軍事同盟(ウェストミン
スター条約)を結び ザクセン(マイセン)・ロシア・フランス・オーストリアを敵に回し
7年戦争の火蓋を切りました。鎧袖一触 又も マイセンを狙って ドレスデンを占領しまし
た。この時 大王は マイセン窯から 職人を引き抜き 挙句は 戦費調達に 瀕死のマイセ
ンを 売り飛ばすのです。
ウェッジウッドは ヨーロッパ中を捲き込んだ 7年戦争真っ只中の1759年 バースレム
の地に ジョサイアによって 生み出されました。ジョサイアは 製陶を生業とする ウェッ
ジウッド家の 第13子として 1730年に誕生しましたが 11歳の少年の頃 天然痘にかかり
右足が不自由になり 1768年には 悪化した右足膝下を 切断しております。しかし 強い
意志の彼は このハンディをものともせず 倦まず弛まず 天分に磨きをかけ 後に「英国
陶工の父」と尊称される程の人物になりました。
初代ジョサイアウェッジウッドの 手になる無貫乳の鉛釉陶器。1765年 シャーロット
王妃より 「クィーンズウェア」と言う 特別名称を授与さる。 人呼んで「女王様のクリ
ーム色」 又 彼にも「王妃御用達陶工」という名誉称号が授与されました。
中世 世界三大ディナーセットの一つ フロッグサービス(残り2つは マイセン・スワ
ンサービス ロイヤルコペンハーゲン・フローラダニカ)も ロシア女帝 エカテリーナ
2世・チェスミー宮殿(チェスミー宮殿には 蛙の盛んな沼が有名で 宮殿の愛称は
フロッグパレスと 呼ばれていました。英国の田園風景画が描かれた 952点から
なる総てのサービスに 蛙の紋章が 施されておりました。) の 特別注文による
クィーンズウェアでした。当時 ヨーロッパ中を 席捲し 磁器で先行する マイセンや
セーブルも 余りの猛威を前にして なす術も無かった。
1769年 古典芸術に造詣の深い パートナー・ベントリーと スタッフォードの地に エトルリア(古代美術の栄えた イタリアの都市名)工場開設。ジョサイアの 古典芸術に対する憧憬と その復刻に燃える情熱から 命名された。この年 この地で行われていた 無釉黒色炻器を改良して ブラックバサルト(玄武岩)を完成(1707年 ベトガー完成の朱泥炻器に同じ)。ジャスパーウェアの魁です。
リバプール港への 運河を開鑿したことも有名です。彼の進取の気性は 女王御用達陶工でありながら 反するアメリカ独立戦争・奴隷解放運動への大口基金寄贈者であった事からも 見て取れます。1795年 王立協会員・初代ジョサイアは 栄光と賞賛の中 惜しまれながら この世を去りました。彼の天分は 息子ジョサイアⅡ世に受け継がれ 脈々と生き続けました。エトルリア工場は 1950年 現在のバーラストン工場(ストーク・オン・トレント)に 180年の長き 伝統を引き継ぐまで 繁栄を続けました。
欧州磁器戦争史 ウェッジウッド-2
欧州磁器戦争史 ウェッジウッド-2
ネオクラシックを代表するジャスパーと 英国ボーンチャイナ
ローマの カメオガラスを模して 4年の歳月 1万回にも及ぶ 焼成実験の結果 セッ器
藍地に 白いレリーフを貼付する ジャスパーウェアを発明(1774年) 宝石並みの扱いを
受けるほど 男女を問わず 英国人に 憧れ求められました。当時 ギリシヤ,ローマ遺跡の
発掘とあいまって 典雅なロココから 端正なネオクラシックが 勃興の中 ジョサイアの
古代文明への博学と憧憬が 生み出した ジャスパーウェアは 時流に乗って ヨーロッパ
中を席捲しました。磁器に先駆けたマイセンやセーブルを襲ったこの猛威を前に マイセン
らは なす術も無く かえって ビスク焼きで後追いするほどでした。
ポートランドの壷
古代ローマ(紀元前27年~紀元14年頃)作のカメオガラス。1582年 古代ローマ皇帝の墓所
で 発掘。めぐりめぐって英国国宝となった この壷を 5年の歳月をかけて 1790年 ジャ
スパーウェアで ジョサイアが 完全復刻に成功。彼の名声は 弥が上にもまし 彼の誇り
の象徴となつた ポートランドの壷が 末永く ブランドロゴに採用されております。
英国ボーンチャイナ
英国では 磁土(カオリン)の産出がなく 硬質磁器を作るのに 大陸から輸入して いく
つかの窯で 細々と試みられていました。一方で カオリンに代わるものを求めて 試行錯誤
の末 1749年 トーマス・フレイが 牛骨を焼いた骨灰にたどり着きました。1795年頃 この
軟質磁器の 工業製品化に成功した1人が ジョサイア・スポード二世でした。さらに1819年
現ザロップで フェルスパー(長石)が発見され 多くの窯で フェルスパー・ポースレーンの
開発競争の中 この時代を リードしたのが 又 逸早く工業製品化に成功した ジョサイア・
スポード二世でした。英国ボーンチャイナ確立
クィーンズウェアに続く このジャスパーウェアの 大ブレークが 先見の明あるはずの ジ
ョサイアの目を曇らしたのか 後に隆盛を見る ボーンチャイナの開発に 余り関心なく(17
80年 ブリストル硬質磁器窯の 買収提案を拒絶)結局ジョサイア二世による 1812年にと
大幅に遅れることに なりました。しかしこれとても 先発するスポード社などに 及ばず
1828年には 取りやめました。今 ウェッジウッドの 中核をなすボーンチャイナへの 再
チャレンジは 1878年の遅きになりました。やがて 研究熱心なウェッジウッドでは ワイル
ドストロベリー(初代 ジョサイア・ウェッジウッドが残した 8冊 約10000点の パターン
ブック 初版1769年頃 再版1810年 から 1806年に発表された ワイルドストロベリー。
現在のパターンは 1965年発売)を はじめ 多くのヒット作の 中核的素材となる 美しい
ファインボーンチャイナを 完成させました。
余談になりますが ウェッジウッド家の科学研究的優秀さは 中世最高の科学者「進化論」
のダーウィンを 血脈としたこと(ジョサイアが アストバリーの地で サラと結婚し 2人の間
に儲けた 娘スザンナの子が チャールズ・ ダーウィン すなわちジョサイアの孫になります)
でも有名で 世に喧伝されました。
ネオクラシックを代表するジャスパーと 英国ボーンチャイナ
ローマの カメオガラスを模して 4年の歳月 1万回にも及ぶ 焼成実験の結果 セッ器
藍地に 白いレリーフを貼付する ジャスパーウェアを発明(1774年) 宝石並みの扱いを
受けるほど 男女を問わず 英国人に 憧れ求められました。当時 ギリシヤ,ローマ遺跡の
発掘とあいまって 典雅なロココから 端正なネオクラシックが 勃興の中 ジョサイアの
古代文明への博学と憧憬が 生み出した ジャスパーウェアは 時流に乗って ヨーロッパ
中を席捲しました。磁器に先駆けたマイセンやセーブルを襲ったこの猛威を前に マイセン
らは なす術も無く かえって ビスク焼きで後追いするほどでした。
ポートランドの壷
古代ローマ(紀元前27年~紀元14年頃)作のカメオガラス。1582年 古代ローマ皇帝の墓所
で 発掘。めぐりめぐって英国国宝となった この壷を 5年の歳月をかけて 1790年 ジャ
スパーウェアで ジョサイアが 完全復刻に成功。彼の名声は 弥が上にもまし 彼の誇り
の象徴となつた ポートランドの壷が 末永く ブランドロゴに採用されております。
英国ボーンチャイナ
英国では 磁土(カオリン)の産出がなく 硬質磁器を作るのに 大陸から輸入して いく
つかの窯で 細々と試みられていました。一方で カオリンに代わるものを求めて 試行錯誤
の末 1749年 トーマス・フレイが 牛骨を焼いた骨灰にたどり着きました。1795年頃 この
軟質磁器の 工業製品化に成功した1人が ジョサイア・スポード二世でした。さらに1819年
現ザロップで フェルスパー(長石)が発見され 多くの窯で フェルスパー・ポースレーンの
開発競争の中 この時代を リードしたのが 又 逸早く工業製品化に成功した ジョサイア・
スポード二世でした。英国ボーンチャイナ確立
クィーンズウェアに続く このジャスパーウェアの 大ブレークが 先見の明あるはずの ジ
ョサイアの目を曇らしたのか 後に隆盛を見る ボーンチャイナの開発に 余り関心なく(17
80年 ブリストル硬質磁器窯の 買収提案を拒絶)結局ジョサイア二世による 1812年にと
大幅に遅れることに なりました。しかしこれとても 先発するスポード社などに 及ばず
1828年には 取りやめました。今 ウェッジウッドの 中核をなすボーンチャイナへの 再
チャレンジは 1878年の遅きになりました。やがて 研究熱心なウェッジウッドでは ワイル
ドストロベリー(初代 ジョサイア・ウェッジウッドが残した 8冊 約10000点の パターン
ブック 初版1769年頃 再版1810年 から 1806年に発表された ワイルドストロベリー。
現在のパターンは 1965年発売)を はじめ 多くのヒット作の 中核的素材となる 美しい
ファインボーンチャイナを 完成させました。
余談になりますが ウェッジウッド家の科学研究的優秀さは 中世最高の科学者「進化論」
のダーウィンを 血脈としたこと(ジョサイアが アストバリーの地で サラと結婚し 2人の間
に儲けた 娘スザンナの子が チャールズ・ ダーウィン すなわちジョサイアの孫になります)
でも有名で 世に喧伝されました。
欧州磁器戦争史 リチャードジノリ
欧州磁器戦争史 リチャードジノリ
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポディモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。パルマ公は 1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世と神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の長女マリア・ヨーゼファの娘としてドレスデンで生まれた マリア・アマリア・フォン・ザクセン(1724年- 1760年)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。セーヴルがそうであったように カポディモンテ窯も芸術的には素晴らしかったが カオリンに恵まれず軟質磁器でした。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのブエン・レティーロ (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
もう1人のマリーア・アマーリア
オーストリアの「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の六女 マリア・アマーリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(1746年 - 1804年)マリーア・アマーリア・ダズブルゴ神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある。プファルツ選帝侯の一族であるプファルツ=ツヴァイブリュッケン公子カール・アウグストとの恋愛結婚を認められず、1769年に粗野なパルマ公フェルディナンドに嫁がされた。姉のマリア・クリスティーナが恋愛結婚を認められたこともあり、マリア・アマーリアはパルマで荒れた生活を送った。再三の母からの注意を無視したため、オーストリアへ帰国禁止となり勘当された。2人の間には7人の子供がいた。
更にもう1人のマリア・アマーリア
マリア・アマーリア・フォン・ザクセン(1757年 - 1831年)は、ドイツのザクセン選帝侯家の公女で、1774年にドレスデンにおいて プファルツ=ツヴァイブリュッケン公カール・アウグストと結婚した。全名はマリア・アマーリア・アンナ・ヨゼフィーナ・アントニア・ユスティーナ・アウグスタ・クサヴェリア・アロイジア・ヨハンナ・ネポムツェーナ・マグダレーナ・ヴァルプルギス・カタリーナ(寿限無じゃないけど長いですね。)
ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンとその妻で神聖ローマ皇帝(バイエルン選帝侯)カール7世アルブレヒトの娘であるマリア・アントーニアの間の第6子、長女として生まれた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は マリア・カロリーナであった。
マリア・カロリーナ
マリーア・カロリーナ・ダスブルゴ(1752年 - 1814年)は、「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の十女で、ドイツ語名はマリア・カロリーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
大いなる権勢のもと 母似といわれるマリア・カロリーナは 母を超えんとして 母のウィーン窯や 義祖父のカポデモンテ窯や 母に手ほどきを受けたジノリ窯に 触発され 匹敵・超越を期し 1771年 ナポリ窯を立ち上げております。窯印の王冠はジノリの王冠と同じものにしておりました。カポデモンテ窯の真贋 継承を言うジノリ窯の真偽 ナポリ王家の混同 等々 窯印の王冠は 作為か 無作為かは詮議なしにしても 多くの先生や 巷の愛好家に多くの混乱をきたしておるようです。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポディモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポディモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポディモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
2008年 リーマン・ショック後 多くの銘窯に 倒産 買収の嵐が吹き荒れました。元来各窯は 万年赤字で 功成り名を遂げた人たちのステイタスシンボルとして 維持継続されてきました。
御他聞に漏れず リチャードジノリも 近年は多額の負債に加え金融危機で経営難に陥っており、2012年7月には陶磁器の製造を中止。 2013年1月7日、イタリアのフィレンツェ裁判所は、リチャードジノリに対して破産宣告を行った。身売り交渉を進めている最中だった。
2013年4月5日、グッチがリチャードジノリに対して、1300万ユーロ(約16億円)で買収を提案したと報道された。
2013年4月29日、買収が承認され、グッチの子会社GRG S.r.l.(グッチリチャードジノリ)となった。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポディモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。パルマ公は 1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世と神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の長女マリア・ヨーゼファの娘としてドレスデンで生まれた マリア・アマリア・フォン・ザクセン(1724年- 1760年)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。セーヴルがそうであったように カポディモンテ窯も芸術的には素晴らしかったが カオリンに恵まれず軟質磁器でした。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのブエン・レティーロ (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
もう1人のマリーア・アマーリア
オーストリアの「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の六女 マリア・アマーリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(1746年 - 1804年)マリーア・アマーリア・ダズブルゴ神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある。プファルツ選帝侯の一族であるプファルツ=ツヴァイブリュッケン公子カール・アウグストとの恋愛結婚を認められず、1769年に粗野なパルマ公フェルディナンドに嫁がされた。姉のマリア・クリスティーナが恋愛結婚を認められたこともあり、マリア・アマーリアはパルマで荒れた生活を送った。再三の母からの注意を無視したため、オーストリアへ帰国禁止となり勘当された。2人の間には7人の子供がいた。
更にもう1人のマリア・アマーリア
マリア・アマーリア・フォン・ザクセン(1757年 - 1831年)は、ドイツのザクセン選帝侯家の公女で、1774年にドレスデンにおいて プファルツ=ツヴァイブリュッケン公カール・アウグストと結婚した。全名はマリア・アマーリア・アンナ・ヨゼフィーナ・アントニア・ユスティーナ・アウグスタ・クサヴェリア・アロイジア・ヨハンナ・ネポムツェーナ・マグダレーナ・ヴァルプルギス・カタリーナ(寿限無じゃないけど長いですね。)
ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンとその妻で神聖ローマ皇帝(バイエルン選帝侯)カール7世アルブレヒトの娘であるマリア・アントーニアの間の第6子、長女として生まれた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は マリア・カロリーナであった。
マリア・カロリーナ
マリーア・カロリーナ・ダスブルゴ(1752年 - 1814年)は、「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の十女で、ドイツ語名はマリア・カロリーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
大いなる権勢のもと 母似といわれるマリア・カロリーナは 母を超えんとして 母のウィーン窯や 義祖父のカポデモンテ窯や 母に手ほどきを受けたジノリ窯に 触発され 匹敵・超越を期し 1771年 ナポリ窯を立ち上げております。窯印の王冠はジノリの王冠と同じものにしておりました。カポデモンテ窯の真贋 継承を言うジノリ窯の真偽 ナポリ王家の混同 等々 窯印の王冠は 作為か 無作為かは詮議なしにしても 多くの先生や 巷の愛好家に多くの混乱をきたしておるようです。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポディモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポディモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポディモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
2008年 リーマン・ショック後 多くの銘窯に 倒産 買収の嵐が吹き荒れました。元来各窯は 万年赤字で 功成り名を遂げた人たちのステイタスシンボルとして 維持継続されてきました。
御他聞に漏れず リチャードジノリも 近年は多額の負債に加え金融危機で経営難に陥っており、2012年7月には陶磁器の製造を中止。 2013年1月7日、イタリアのフィレンツェ裁判所は、リチャードジノリに対して破産宣告を行った。身売り交渉を進めている最中だった。
2013年4月5日、グッチがリチャードジノリに対して、1300万ユーロ(約16億円)で買収を提案したと報道された。
2013年4月29日、買収が承認され、グッチの子会社GRG S.r.l.(グッチリチャードジノリ)となった。
欧州磁器戦争史 KPM(王立窯) ロイヤル・ベルリン-1
欧州磁器戦争史 KPM(王立窯) ロイヤル・ベルリン-1
1701年 錬金術師ベトガーは フリードリヒ1世(後の大王の祖父)のベルリン王宮から
呼び出しがかかった時 賢者の石を持っていない事が 露見するのを恐れ ザクセンへ逃亡し
ました。フリードリヒ王は 逮捕に ザクセンへ出兵しました。ザクセンのアウグスト強襲王
は ベトガーが自国出生の 臣民であると主張し 逮捕を免れ 錬金術師を手に入れました。
1709年 ベトガーが 黄金ならぬ 白い黄金の焼成成功をしたと 聞いた時 フリードリ
ヒ王の心は いかばかりであったことでしょう。王が皆そうであったように フリードリヒ王
も白磁焼成の成功を 夢見ていた一人ですから 成功者が自分の手から奪われた思いは 想像
に難くはありません。それは 息子フリードリヒ・ヴィルヘルム一世 孫である後のフリード
リヒ2世にとっても同じことです。
1740年 ハプスブルク王家は 神聖ローマ帝国皇帝カール6世が崩御し マリアテレジアが
女帝として後継しました。この年 ドイツ最強のプロイセンでも フリードリヒ1世が 身罷
った後を 後の大王 フリードリヒ2世が 襲任しておりました。彼は 大変な節制家・富国
強兵主義者であり かねてより オーストリアの肥沃なシュレジェンに領土的野心を抱いてお
りました。マリア・テレジア女帝の皇位継承権に 異議を唱え 国本勅令を無視し この時と
ばかり シュレジェンに侵攻しました。(この戦争に勝利したフリードリヒは アーヘン条約に
より シュレジェンと 大王の称号を 勝ち取りました)1745年に フリードリヒ2世は
オーストリア方に付いた ドレスデンを占領した時 マイセン窯を襲って 沢山の戦利品をせ
しめました。磁器は 美しい上に 巨利を生みました。1751年 フリードリヒ大王は 織
物商ウェジェリーに 資金応援して窯を開かせました。ヘキスト窯出身の ペンクグラフから
秘法を伝えられ 窯は白磁焼成に 成功しました。しかし まだ 大王の満足できる 絵付け
造型の出来る前に ベルリン窯は王の財政逼迫から 1757年 援助を打ち切られ 閉窯に
至り 残った職人達で 細々と制作を 続けていました。
1701年 錬金術師ベトガーは フリードリヒ1世(後の大王の祖父)のベルリン王宮から
呼び出しがかかった時 賢者の石を持っていない事が 露見するのを恐れ ザクセンへ逃亡し
ました。フリードリヒ王は 逮捕に ザクセンへ出兵しました。ザクセンのアウグスト強襲王
は ベトガーが自国出生の 臣民であると主張し 逮捕を免れ 錬金術師を手に入れました。
1709年 ベトガーが 黄金ならぬ 白い黄金の焼成成功をしたと 聞いた時 フリードリ
ヒ王の心は いかばかりであったことでしょう。王が皆そうであったように フリードリヒ王
も白磁焼成の成功を 夢見ていた一人ですから 成功者が自分の手から奪われた思いは 想像
に難くはありません。それは 息子フリードリヒ・ヴィルヘルム一世 孫である後のフリード
リヒ2世にとっても同じことです。
1740年 ハプスブルク王家は 神聖ローマ帝国皇帝カール6世が崩御し マリアテレジアが
女帝として後継しました。この年 ドイツ最強のプロイセンでも フリードリヒ1世が 身罷
った後を 後の大王 フリードリヒ2世が 襲任しておりました。彼は 大変な節制家・富国
強兵主義者であり かねてより オーストリアの肥沃なシュレジェンに領土的野心を抱いてお
りました。マリア・テレジア女帝の皇位継承権に 異議を唱え 国本勅令を無視し この時と
ばかり シュレジェンに侵攻しました。(この戦争に勝利したフリードリヒは アーヘン条約に
より シュレジェンと 大王の称号を 勝ち取りました)1745年に フリードリヒ2世は
オーストリア方に付いた ドレスデンを占領した時 マイセン窯を襲って 沢山の戦利品をせ
しめました。磁器は 美しい上に 巨利を生みました。1751年 フリードリヒ大王は 織
物商ウェジェリーに 資金応援して窯を開かせました。ヘキスト窯出身の ペンクグラフから
秘法を伝えられ 窯は白磁焼成に 成功しました。しかし まだ 大王の満足できる 絵付け
造型の出来る前に ベルリン窯は王の財政逼迫から 1757年 援助を打ち切られ 閉窯に
至り 残った職人達で 細々と制作を 続けていました。
欧州磁器戦争史 KPM(王立窯) ロイヤル・ベルリン-2
欧州磁器戦争史 KPM(王立窯) ロイヤル・ベルリン-2
1756年 大王は イギリスを味方に ロシア・フランス・ザクセンを敵に回し 7年戦争の火蓋
を切りました。鎧袖一触 又も ドレスデンを 占領しました。マイセン窯の設備や職人を ベル
リン窯に移し 大王に相応しい銘窯を 考えました。しかし 工場は 既に もぬけの殻でした。
大王は ザクセンの大臣ヘルビッヒに アルブレヒト城ごと 賃貸し マイセン窯を 再興させま
した。再興なった窯に 自分用の磁器を 大量に作らせ 搾取するのです。マイセンの伝統の
灯を消すまいと 残っていたケンドラーや職人をベルリンに引き抜こうとし 占領者の権力で
多くの職人を プロイセンのために働かせました。(フリードリヒ大王は ザクセンの若き女性を
自国プロイセンの辺境へ拉致し 嫁の来ての無い男達に 妻合わすのです。18世紀の国際
法にさえ 明白に違反する行為を 平然とやってのけております。)
祖父の代からの 錬金術師ベトガーにまつわる 積年の恨みとはいえ サンスーシーの三悪人
と呼ばれた 頭目の 面目躍如足るところです。
1759年 大王は 旗色一変して 各地で大敗を喫し イギリスの援助も打ち切られ 死を
覚悟したほどでした。ところが幸運にも ロシアのエリザベータ女王(王立ペテルスブルグ窯
の創立者)の死去を機に 1762年 ロシアがプロイセン側へ 寝返る方針転換に 大王は救わ
れました。
その前年 大王は商人ゴッコウスキーに ベルリン窯の再開を 下命しました。ゴッコウス
キーは マイセンから引き抜いた職人達の 尽力により 大王の満足する作品を 完成させま
した。しかし 大王の威信をかけた 作品作りに 莫大な資金を費やし 破産の危機に瀕しま
した。大王は面子にかけて ゴッコウスキーを助ける為に 窯を買収し ロイヤル・ベルリン
窯を 設立しました。1763年 7年戦争 戦勝終結 の年でした。荒廃した国家再興に
大王は 美術磁器の 制作に 自ら携わり ジャーマンロココを確立し 巨利を得たのです。
ビーダーマイヤー時代には カール・フリードリヒ・シンケルを得て 窯は 時のリーダーと
して 名声は上る一方でした。それは セーヴルと共に マイセンをしのぐ勢いでした。
その後も ネオクラシック期には ベルリン・エンパイアスタイル, ビーダーマイヤー期のカルル
・フリードリヒ・シンケルによる 斬新な実用デザイン, 短期間ながら 世界の美術界に多大の
影響を与えたアールヌーヴォー期には いち早くユーゲント・シュティル(バウハウスへ影響)を
確立し 造型・装飾において 他の追随を許さぬほどの 銘窯となりました。今も昔変わらぬ
全工程手作りを一貫しております。近年 1年ほど 工場の制作が 止まったことがあります。
資本家側が 大手マイセン並みの機械化をなし コストカットを企図したため 文化・芸術の
伝統を 自負するマイスター達が 叛旗を翻したのです。ベルリン市は マイスター側に立ち
資本家たちに譲歩を 求めました。王立窯の美術食器は 元来 採算無視を承知の上 男の
ロマンから窯を持った資本家側が折れ 今も昔変わらぬ 全工程手作りを一貫しております。
1756年 大王は イギリスを味方に ロシア・フランス・ザクセンを敵に回し 7年戦争の火蓋
を切りました。鎧袖一触 又も ドレスデンを 占領しました。マイセン窯の設備や職人を ベル
リン窯に移し 大王に相応しい銘窯を 考えました。しかし 工場は 既に もぬけの殻でした。
大王は ザクセンの大臣ヘルビッヒに アルブレヒト城ごと 賃貸し マイセン窯を 再興させま
した。再興なった窯に 自分用の磁器を 大量に作らせ 搾取するのです。マイセンの伝統の
灯を消すまいと 残っていたケンドラーや職人をベルリンに引き抜こうとし 占領者の権力で
多くの職人を プロイセンのために働かせました。(フリードリヒ大王は ザクセンの若き女性を
自国プロイセンの辺境へ拉致し 嫁の来ての無い男達に 妻合わすのです。18世紀の国際
法にさえ 明白に違反する行為を 平然とやってのけております。)
祖父の代からの 錬金術師ベトガーにまつわる 積年の恨みとはいえ サンスーシーの三悪人
と呼ばれた 頭目の 面目躍如足るところです。
1759年 大王は 旗色一変して 各地で大敗を喫し イギリスの援助も打ち切られ 死を
覚悟したほどでした。ところが幸運にも ロシアのエリザベータ女王(王立ペテルスブルグ窯
の創立者)の死去を機に 1762年 ロシアがプロイセン側へ 寝返る方針転換に 大王は救わ
れました。
その前年 大王は商人ゴッコウスキーに ベルリン窯の再開を 下命しました。ゴッコウス
キーは マイセンから引き抜いた職人達の 尽力により 大王の満足する作品を 完成させま
した。しかし 大王の威信をかけた 作品作りに 莫大な資金を費やし 破産の危機に瀕しま
した。大王は面子にかけて ゴッコウスキーを助ける為に 窯を買収し ロイヤル・ベルリン
窯を 設立しました。1763年 7年戦争 戦勝終結 の年でした。荒廃した国家再興に
大王は 美術磁器の 制作に 自ら携わり ジャーマンロココを確立し 巨利を得たのです。
ビーダーマイヤー時代には カール・フリードリヒ・シンケルを得て 窯は 時のリーダーと
して 名声は上る一方でした。それは セーヴルと共に マイセンをしのぐ勢いでした。
その後も ネオクラシック期には ベルリン・エンパイアスタイル, ビーダーマイヤー期のカルル
・フリードリヒ・シンケルによる 斬新な実用デザイン, 短期間ながら 世界の美術界に多大の
影響を与えたアールヌーヴォー期には いち早くユーゲント・シュティル(バウハウスへ影響)を
確立し 造型・装飾において 他の追随を許さぬほどの 銘窯となりました。今も昔変わらぬ
全工程手作りを一貫しております。近年 1年ほど 工場の制作が 止まったことがあります。
資本家側が 大手マイセン並みの機械化をなし コストカットを企図したため 文化・芸術の
伝統を 自負するマイスター達が 叛旗を翻したのです。ベルリン市は マイスター側に立ち
資本家たちに譲歩を 求めました。王立窯の美術食器は 元来 採算無視を承知の上 男の
ロマンから窯を持った資本家側が折れ 今も昔変わらぬ 全工程手作りを一貫しております。