欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-1
3人の天才ヨハン-1
この3人を語らずして マイセンを語ることは出来ません。
まず1人目は ヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)錬金術師にて ヨーロッパに
東洋の白磁を もたらした天才です。彼の名は マイセンとともに 永久不滅です。
錬金術師 1~5 に詳述
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11
世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい
白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが
美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありました
ので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。
それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手してい
た アラブの王様から 自分の威光を誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋
からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は 高すぎて
手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀
の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが
曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂
ガラス 水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に 成功するのですが やはり
東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い
黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に
惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする
軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方
本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では
千数百年の長きにわたる 多くの職人達の勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として
花開きました。
片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における科学
者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国宮廷
科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ
軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と実験の王道により
白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられ
たとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみに
とどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。
今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
この3人を語らずして マイセンを語ることは出来ません。
まず1人目は ヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)錬金術師にて ヨーロッパに
東洋の白磁を もたらした天才です。彼の名は マイセンとともに 永久不滅です。
錬金術師 1~5 に詳述
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11
世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい
白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが
美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありました
ので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。
それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手してい
た アラブの王様から 自分の威光を誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋
からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は 高すぎて
手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀
の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが
曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂
ガラス 水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に 成功するのですが やはり
東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い
黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に
惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする
軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方
本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では
千数百年の長きにわたる 多くの職人達の勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として
花開きました。
片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における科学
者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国宮廷
科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ
軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と実験の王道により
白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられ
たとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみに
とどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。
今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-2
3人の天才ヨハン-2
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い
難く ベトガーや シュテルツェルやケラーらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。
(ベトガーが 持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウグスブルグ
のハウスマーレライ・無所属の絵付師らに 売り渡されておりました。マイセン社史では 贋
作に手を貸す この不名誉な事は あえて触れられておりません。)
アウクスブルク水路 こんな磁器街道だったのでしょうか?
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて 高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグスト王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門 (ヨーロッパにおいて高値を呼んだ) にも 臆せず挑み 王の満足する ヘロルトの 「柿右衛門写し」 は 欧州二大ジャポネズリの筆頭として マイセンの名声を 弥が上にも高めました。ちなみにもう一方は ロイヤルクラウンダービーの 伊万里金襴手写しです。
天才は 狂気なり。
ヘロルトは 出世欲の権化でした。出世のための 名誉であり 守銭奴でもありました。マイセン ひいては 窯業界に与えた 今に生きる功績は 一将功成り 万骨枯る 功罪相半ばするでしょう。
ヘロルトは ベトガー亡き後 非凡な絵付けの才と ケーラーや シュテルツェルを踏み台に 調合しえた極彩色の顔料で為しえたシノワズリやジャポネズリを武器に マイセン委員会を慇懃無礼に 我が意に添わせ 宮廷画家の地位と 高額の分け前を 確保していった。肩書に見合う 裕福な町の名士の娘と結婚もしたが あまり幸せな結婚ではなかった。10年の間に 7人の子を生したが 皆7歳を見ずなくなった。彼の意固地な性格は さらに助長され 親方の徒弟いびりに輪をかけ マイセン内では この早死には 不行跡の報いと噂の花を咲かせた。彼は職人たちの腕を食い物にし マイセンから受け取る金のほんの1分しか払わなかった。挙句 腕のいい職人たちが 独自の画風を確立して 1本立ちして 自分の立場を脅かすことを恐れ 画題を制限して才能の開花を妨げ 作品への署名などは 勿論禁じておりました。中には うまく隠しサインを入れたものもおり 今も その名残で 意匠の中にサインを隠した作品を見ますが それは作品に秘密性を持たせ 高価を装う話題作りになっております。彼は 新米への教育手当も受け取りながら 才能の開花を恐れ 訓練はおざなりで マイセン委員会の指摘には 腕をあげて転籍され秘密漏洩の防衛手段としてと言いひらきしていました。そんな中で 多少なり腕を磨いたものは ヘロルトに離反して 結果マイセンを離れ マイセンは多大の損害を被った。権力者ヘロルトの魔の手からうまく逃げ出せた者は良いが 最初からの弟子ハインツェは 才能がありながら 虐げられ 生活の糧の為 白磁をこっそり盗み出し 家で絵付けをし それを捌き 生活にあてた。露見して獄につながれるのですが ヘロルトの手から逃れるために脱獄し成功し 作品の1つは シュットガルト州立博物館に収蔵されております。逃亡に失敗した1人 遠縁のクリスティアン・フリードリヒ等は 前職の腕を生かし 生活の為 銅板の琺瑯絵付けの内職をしたのですが 実力に懸念を抱いていたヘロルトは 罪に陥れ逮捕させました。彼はこの場は磁器への絵付けではないと言い逃れ すきを見ては逃亡を図るのですがいつも阻止され 40年を耐えさされました。しかし40年後に 生活の為 昇給を願い出るのですが ヘロルトは 秩序転覆罪で 彼を獄につないだのです。1779年 79歳で亡くなるのですが 無名の親方クリスティアンは 後世マイセンに最高の絵付けの典型を残しました。
ジャポネズリ
欧州磁器の草創期 日本を写したものの 総称です。やはり 同時期の中国を模したシノワズ
リと共に 以後延々と 現代まで作り続けられております。
代表的 有田の 小麦菊文は 今でこそ ロイヤルコペンハーゲンの十八番と なっておりま
すが 洋食器ファンの ご明察どおり 昔から たくさんの 銘窯で焼かれております。
例えば マイセンの ストローフラワー。
ジャポニスム
鎖国を解いた明治維新後 堰を切ったかの勢いで 欧米の各種博覧会に 美術品 工芸品が
出展されていきました。漆器や 浮世絵版画などの その繊細な匠が 又 欧米人から見て
新鮮に写る柔和な表現が 高く評価され 彼らの 美術 工芸 (アーツ&クラフツ,アール・
ヌーヴォー,フランス印象派)に多大の影響を 及ぼしました。科学 工業で劣る 日本としては
技や 美において引けをとらない道で 押寄せる欧米の科学工業品に 対抗輸出したのです。
チャイナ・磁器に比し 漆器は ジャパンと訳される程でした。日本にとって 中国伝来の漆器
ですが 維新後日本漆器に触れた 欧米人は 本家を勘違いする程の 鮮烈な印象を受けた
ようです。この時期 彼らは日本風の美を ジャポニスムと 総称しております。
19世紀後半 産業革命後 窯業界に 行き過ぎた 工業製品化の質の低下に
警鐘を鳴らす運動が 洋の東西 どちらからとも無く 相呼応して 起こりました。
アーツ&クラフツ 生活革命
英国の ウィリアム・モリス バーナード・リーチ(尾形乾山の弟子)
アール・ヌーヴォーの萌芽
北欧の アーノルド・クロ(浮世絵収集) ヴィルヘルム・コウ
民芸運動 用の美
日本の 柳 宗悦 板谷波山(米国ロックウッド窯を目標) 濱田庄司 河井寛次朗
彼らは互いの交流を通じて 切磋琢磨し 運動は 現代まで その影響を及ぼしている。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い
難く ベトガーや シュテルツェルやケラーらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。
(ベトガーが 持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウグスブルグ
のハウスマーレライ・無所属の絵付師らに 売り渡されておりました。マイセン社史では 贋
作に手を貸す この不名誉な事は あえて触れられておりません。)
アウクスブルク水路 こんな磁器街道だったのでしょうか?
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて 高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグスト王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門 (ヨーロッパにおいて高値を呼んだ) にも 臆せず挑み 王の満足する ヘロルトの 「柿右衛門写し」 は 欧州二大ジャポネズリの筆頭として マイセンの名声を 弥が上にも高めました。ちなみにもう一方は ロイヤルクラウンダービーの 伊万里金襴手写しです。
天才は 狂気なり。
ヘロルトは 出世欲の権化でした。出世のための 名誉であり 守銭奴でもありました。マイセン ひいては 窯業界に与えた 今に生きる功績は 一将功成り 万骨枯る 功罪相半ばするでしょう。
ヘロルトは ベトガー亡き後 非凡な絵付けの才と ケーラーや シュテルツェルを踏み台に 調合しえた極彩色の顔料で為しえたシノワズリやジャポネズリを武器に マイセン委員会を慇懃無礼に 我が意に添わせ 宮廷画家の地位と 高額の分け前を 確保していった。肩書に見合う 裕福な町の名士の娘と結婚もしたが あまり幸せな結婚ではなかった。10年の間に 7人の子を生したが 皆7歳を見ずなくなった。彼の意固地な性格は さらに助長され 親方の徒弟いびりに輪をかけ マイセン内では この早死には 不行跡の報いと噂の花を咲かせた。彼は職人たちの腕を食い物にし マイセンから受け取る金のほんの1分しか払わなかった。挙句 腕のいい職人たちが 独自の画風を確立して 1本立ちして 自分の立場を脅かすことを恐れ 画題を制限して才能の開花を妨げ 作品への署名などは 勿論禁じておりました。中には うまく隠しサインを入れたものもおり 今も その名残で 意匠の中にサインを隠した作品を見ますが それは作品に秘密性を持たせ 高価を装う話題作りになっております。彼は 新米への教育手当も受け取りながら 才能の開花を恐れ 訓練はおざなりで マイセン委員会の指摘には 腕をあげて転籍され秘密漏洩の防衛手段としてと言いひらきしていました。そんな中で 多少なり腕を磨いたものは ヘロルトに離反して 結果マイセンを離れ マイセンは多大の損害を被った。権力者ヘロルトの魔の手からうまく逃げ出せた者は良いが 最初からの弟子ハインツェは 才能がありながら 虐げられ 生活の糧の為 白磁をこっそり盗み出し 家で絵付けをし それを捌き 生活にあてた。露見して獄につながれるのですが ヘロルトの手から逃れるために脱獄し成功し 作品の1つは シュットガルト州立博物館に収蔵されております。逃亡に失敗した1人 遠縁のクリスティアン・フリードリヒ等は 前職の腕を生かし 生活の為 銅板の琺瑯絵付けの内職をしたのですが 実力に懸念を抱いていたヘロルトは 罪に陥れ逮捕させました。彼はこの場は磁器への絵付けではないと言い逃れ すきを見ては逃亡を図るのですがいつも阻止され 40年を耐えさされました。しかし40年後に 生活の為 昇給を願い出るのですが ヘロルトは 秩序転覆罪で 彼を獄につないだのです。1779年 79歳で亡くなるのですが 無名の親方クリスティアンは 後世マイセンに最高の絵付けの典型を残しました。
ジャポネズリ
欧州磁器の草創期 日本を写したものの 総称です。やはり 同時期の中国を模したシノワズ
リと共に 以後延々と 現代まで作り続けられております。
代表的 有田の 小麦菊文は 今でこそ ロイヤルコペンハーゲンの十八番と なっておりま
すが 洋食器ファンの ご明察どおり 昔から たくさんの 銘窯で焼かれております。
例えば マイセンの ストローフラワー。
ジャポニスム
鎖国を解いた明治維新後 堰を切ったかの勢いで 欧米の各種博覧会に 美術品 工芸品が
出展されていきました。漆器や 浮世絵版画などの その繊細な匠が 又 欧米人から見て
新鮮に写る柔和な表現が 高く評価され 彼らの 美術 工芸 (アーツ&クラフツ,アール・
ヌーヴォー,フランス印象派)に多大の影響を 及ぼしました。科学 工業で劣る 日本としては
技や 美において引けをとらない道で 押寄せる欧米の科学工業品に 対抗輸出したのです。
チャイナ・磁器に比し 漆器は ジャパンと訳される程でした。日本にとって 中国伝来の漆器
ですが 維新後日本漆器に触れた 欧米人は 本家を勘違いする程の 鮮烈な印象を受けた
ようです。この時期 彼らは日本風の美を ジャポニスムと 総称しております。
19世紀後半 産業革命後 窯業界に 行き過ぎた 工業製品化の質の低下に
警鐘を鳴らす運動が 洋の東西 どちらからとも無く 相呼応して 起こりました。
アーツ&クラフツ 生活革命
英国の ウィリアム・モリス バーナード・リーチ(尾形乾山の弟子)
アール・ヌーヴォーの萌芽
北欧の アーノルド・クロ(浮世絵収集) ヴィルヘルム・コウ
民芸運動 用の美
日本の 柳 宗悦 板谷波山(米国ロックウッド窯を目標) 濱田庄司 河井寛次朗
彼らは互いの交流を通じて 切磋琢磨し 運動は 現代まで その影響を及ぼしている。
欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-3
3人の天才ヨハン-3
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1727年 アウグスト強襲王は 磁器宮殿内の2階回廊に 磁器動物園を思い立ちました。さてそうなると ベテラン造形師が必要になります。当時マイセンには 絵付け師ヘロルトが シノワズリ ジャポネズリを確立し 権威をふるっておりました。造形は 絵付けの引き立て役程度に 抑えられておりました。そこで ヨハン・ゴットリーブ・キルヒナーやヨハン・クリストフ・リュッケなどの彫刻家を 招聘して 動物造形に挑ましたのですが 磁器の扱いは難しく 思うようにはいきませんでした。1728年 21歳の彫刻士キルヒナーの自信は 数ヶ月で造形士たちの侮辱の的と化した。嘲笑と不評化に耐えられなくなったキルヒナーは 売春宿通いで憂さを晴らすのですが悪いことに重い性病に侵されるのです。業を煮やしたマイセン特別委員会はキルヒナーを解雇決定しました。
ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイの銅版画 ?
1515年 アルブレヒト・デューラーの有名な木版画
1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。肩に実物にはない「デューラーのちび角」と呼ばれるものがある。
アルブレヒト・デューラー(1471年 - 1528年)は、ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。代表作『四人の使徒』
1583年 アブラハム・デ・ブルンの銅版画 デューラーを手本にしたのか「デューラーのちび角」がある。
1728年 マイセンを首になったキルヒナーは ワイマール公爵邸で石造彫刻師の職を得 性病も治ったのか 妻をめとりそれなりの幸せにあった。マイセンはキルヒナーの代わりに入れたリュッケも ものの役に立たず首にしており 困った工場査察官のラインハルトは まだましなキルヒナーを呼び戻そうと画策しました。造形の親方の地位を餌に復帰にこぎつけました。親方になってようやく作り上げたライオン エレファントやインドサイも実物を知らぬとはいえ 静的で精彩を欠いたもので滑稽でさえありました。
ライオン H53.3cm 1730
エレファント H61cm 1731 実物を見てないとはいえ どちらも人の顔
インドサイ 1732年原作。2010年 復刻 H28cm。 アブラハム・デ・ブルンの銅版画を手本にしたので「デューラーのちび角」がある。
2010年 落第生のキルヒナーをもてはやし 落第作のインドサイを鳴り物入りで復刻するに至っては 偉大な3人のヨハンのマイセンを貶めるものです。
キルヒナーにつづきリュッケもマイセン特別委員会が解雇通知するにいたり 不甲斐なさに立腹するアウグスト強襲王は 灯台下暗し 宝物庫「緑の丸天井」で 宮廷彫刻家の若い助手 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの仕事ぶりに マイセンの造形問題解決への閃きを 見出しました。1731年 アルブレヒト城に やってきたケンドラーは たちどころに 如何なく天分を発揮し 成功を収めていきました。王は 自らの先見の明を立証した この若者を 親方に任じ 寵遇しました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。
格下の親方であったケンドラーが 次々に成功をおさめ 王の覚え芽出度いうえ 給料が少なかったことに憤慨して キルヒナーは1733年 自らマイセンを去りました。ケンドラーに満足するマイセンからは体の良い厄介払いと 慰留の声もかかりませんでした
写実的迫力ある白磁像を前にして 宮廷官ヘロルトは 天才絵付師の立場が 脅かされる危機感を持ちました。眼力を賞賛された王の ケンドラーへの寵遇にも 今まで マイセンの賞賛を 一身に浴びてきたヘロルトにとって 好ましからざる事でした。しかし ヘロルトのシノワズリも 月日を経て ケンドラーの新鮮さに 叶わなくなっていました。ケンドラーを贔屓にするブリュール伯(ヴィルトシャフテン・山羊に乗った仕立て屋さんの注文主)が 「白鳥のサービス」を 注文する頃 2人の優劣は ケンドラーに軍配が上っておりました。この中世最大のサービスは バロック様式を 代表する窯業界の 佳作でしたが 時は これを厳格なバロックの 最後の徒花となし 優雅なロココ様式のセーヴルが マイセンに取って代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝放蕩王ルイ15世は 東洋の磁器でマイセンの 後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。15世は 1738年設立のヴァンサンヌ窯を 1756年(7年戦争勃発年) 寵妃ポンパドール夫人のセーヴルの地に 王立窯にして移しました。(ロココ生みの親とも賞賛される ポンパドール夫人の 贅の限りを尽くした制作注文に ヴァンサンヌ窯は 経営破綻にいたりました。8人の共同経営者から 王が 寵妃の不始末の責任を とらされたというのが 王立窯誕生の内実でした。どの王立窯でも 国の面目をかけて 採算無視の 銘品を競っておりました。以来 銘窯は 王無き後 国や 公的機関 又 文化芸術を愛する 民間の富豪に支えられて 存続しております。)セーヴルとしては フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 中国は勿論 マイセンにも 勝ち目の無いのは 明らかです。やがて時代は セーヴルの欧風ロココが シノワズリ・バロックのマイセンを旧となし 新潮流となっていきました。(結局 セーヴルは 捜し求めた カオリンを 1768年に リモージュ近郊の サン・イリョーで 発見するまで 硬質磁器を 焼成出来ませんでした)
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1727年 アウグスト強襲王は 磁器宮殿内の2階回廊に 磁器動物園を思い立ちました。さてそうなると ベテラン造形師が必要になります。当時マイセンには 絵付け師ヘロルトが シノワズリ ジャポネズリを確立し 権威をふるっておりました。造形は 絵付けの引き立て役程度に 抑えられておりました。そこで ヨハン・ゴットリーブ・キルヒナーやヨハン・クリストフ・リュッケなどの彫刻家を 招聘して 動物造形に挑ましたのですが 磁器の扱いは難しく 思うようにはいきませんでした。1728年 21歳の彫刻士キルヒナーの自信は 数ヶ月で造形士たちの侮辱の的と化した。嘲笑と不評化に耐えられなくなったキルヒナーは 売春宿通いで憂さを晴らすのですが悪いことに重い性病に侵されるのです。業を煮やしたマイセン特別委員会はキルヒナーを解雇決定しました。
ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイの銅版画 ?
1515年 アルブレヒト・デューラーの有名な木版画
1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。肩に実物にはない「デューラーのちび角」と呼ばれるものがある。
アルブレヒト・デューラー(1471年 - 1528年)は、ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。代表作『四人の使徒』
1583年 アブラハム・デ・ブルンの銅版画 デューラーを手本にしたのか「デューラーのちび角」がある。
1728年 マイセンを首になったキルヒナーは ワイマール公爵邸で石造彫刻師の職を得 性病も治ったのか 妻をめとりそれなりの幸せにあった。マイセンはキルヒナーの代わりに入れたリュッケも ものの役に立たず首にしており 困った工場査察官のラインハルトは まだましなキルヒナーを呼び戻そうと画策しました。造形の親方の地位を餌に復帰にこぎつけました。親方になってようやく作り上げたライオン エレファントやインドサイも実物を知らぬとはいえ 静的で精彩を欠いたもので滑稽でさえありました。
ライオン H53.3cm 1730
エレファント H61cm 1731 実物を見てないとはいえ どちらも人の顔
インドサイ 1732年原作。2010年 復刻 H28cm。 アブラハム・デ・ブルンの銅版画を手本にしたので「デューラーのちび角」がある。
2010年 落第生のキルヒナーをもてはやし 落第作のインドサイを鳴り物入りで復刻するに至っては 偉大な3人のヨハンのマイセンを貶めるものです。
キルヒナーにつづきリュッケもマイセン特別委員会が解雇通知するにいたり 不甲斐なさに立腹するアウグスト強襲王は 灯台下暗し 宝物庫「緑の丸天井」で 宮廷彫刻家の若い助手 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの仕事ぶりに マイセンの造形問題解決への閃きを 見出しました。1731年 アルブレヒト城に やってきたケンドラーは たちどころに 如何なく天分を発揮し 成功を収めていきました。王は 自らの先見の明を立証した この若者を 親方に任じ 寵遇しました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。
格下の親方であったケンドラーが 次々に成功をおさめ 王の覚え芽出度いうえ 給料が少なかったことに憤慨して キルヒナーは1733年 自らマイセンを去りました。ケンドラーに満足するマイセンからは体の良い厄介払いと 慰留の声もかかりませんでした
写実的迫力ある白磁像を前にして 宮廷官ヘロルトは 天才絵付師の立場が 脅かされる危機感を持ちました。眼力を賞賛された王の ケンドラーへの寵遇にも 今まで マイセンの賞賛を 一身に浴びてきたヘロルトにとって 好ましからざる事でした。しかし ヘロルトのシノワズリも 月日を経て ケンドラーの新鮮さに 叶わなくなっていました。ケンドラーを贔屓にするブリュール伯(ヴィルトシャフテン・山羊に乗った仕立て屋さんの注文主)が 「白鳥のサービス」を 注文する頃 2人の優劣は ケンドラーに軍配が上っておりました。この中世最大のサービスは バロック様式を 代表する窯業界の 佳作でしたが 時は これを厳格なバロックの 最後の徒花となし 優雅なロココ様式のセーヴルが マイセンに取って代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝放蕩王ルイ15世は 東洋の磁器でマイセンの 後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。15世は 1738年設立のヴァンサンヌ窯を 1756年(7年戦争勃発年) 寵妃ポンパドール夫人のセーヴルの地に 王立窯にして移しました。(ロココ生みの親とも賞賛される ポンパドール夫人の 贅の限りを尽くした制作注文に ヴァンサンヌ窯は 経営破綻にいたりました。8人の共同経営者から 王が 寵妃の不始末の責任を とらされたというのが 王立窯誕生の内実でした。どの王立窯でも 国の面目をかけて 採算無視の 銘品を競っておりました。以来 銘窯は 王無き後 国や 公的機関 又 文化芸術を愛する 民間の富豪に支えられて 存続しております。)セーヴルとしては フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 中国は勿論 マイセンにも 勝ち目の無いのは 明らかです。やがて時代は セーヴルの欧風ロココが シノワズリ・バロックのマイセンを旧となし 新潮流となっていきました。(結局 セーヴルは 捜し求めた カオリンを 1768年に リモージュ近郊の サン・イリョーで 発見するまで 硬質磁器を 焼成出来ませんでした)
欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-4
3人の天才ヨハン-4
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは またもや占領されました。
アウグストは ワルシャワに避難するのですが マイセンには 前回同様 隠せるものは隠し
窯などは 破壊して 秘法を守れとの 命令を下しました。そして職人達には 避難命令が下
されました。南のババリア地方に逃れた人たちによって 後のフッチェンロイターや ローゼ
ンタール誕生の種がまかれました。一方 閉鎖された マイセンを占領したフリードリヒは
ザクセンの大臣に 窯を再開させ 製品を略奪するのです。(サンスーシーの三悪人の本領を
発揮したフリードリヒ大王は ザクセンの若き女性を 自国プロイセンの辺境へ拉致し 嫁の
来ての無い男達に 妻合わすのです。18世紀の国際法にさえ 明白に違反する暴挙を 平然
とやってのけております。1763年の和約で戦争は 終わるのですが フリードリヒの完膚
なき砲撃により ドレスデンの町は廃墟と化しました。第2次世界大戦を予兆するかのように)
避難命令を受けたヘロルトは これ幸いとフランクフルトに 避難しましたが ケンドラーは
マイセンの火を消すまいと踏み止まりました。ケンドラーは アウグスト三世の 巨大な磁器
の騎馬像を作り遂げたいと 執念を燃やしていましたので 尚更 マイセンを離れられなかっ
たのです。ヘロルトとの長年の確執に 決着をつけるべく 完成すれば 9Mを超える 磁器
の巨像を 是が非でも完成させたかったのです。(ドレスデン磁器博物館には 前哨戦として
作られた 小型版が 今も展示されていて 館の目玉的 展示品になっております。)
マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を立ち上げ やがて
ジャーマンロココを 確立していきました。ロココに取って代る ネオクラシックの大波は
海を越えて 英国から襲ってきました。1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発する
のですが これの大ブレークの前に マイセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいまし
た。一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシック
の新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられま
した。傷心のケンドラーは アシェの立場で かって追い落とした ヘロルト(享年78歳)の
後を追うように 同1775年 享年68歳で 失意のうちに この世を去りました。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは またもや占領されました。
アウグストは ワルシャワに避難するのですが マイセンには 前回同様 隠せるものは隠し
窯などは 破壊して 秘法を守れとの 命令を下しました。そして職人達には 避難命令が下
されました。南のババリア地方に逃れた人たちによって 後のフッチェンロイターや ローゼ
ンタール誕生の種がまかれました。一方 閉鎖された マイセンを占領したフリードリヒは
ザクセンの大臣に 窯を再開させ 製品を略奪するのです。(サンスーシーの三悪人の本領を
発揮したフリードリヒ大王は ザクセンの若き女性を 自国プロイセンの辺境へ拉致し 嫁の
来ての無い男達に 妻合わすのです。18世紀の国際法にさえ 明白に違反する暴挙を 平然
とやってのけております。1763年の和約で戦争は 終わるのですが フリードリヒの完膚
なき砲撃により ドレスデンの町は廃墟と化しました。第2次世界大戦を予兆するかのように)
避難命令を受けたヘロルトは これ幸いとフランクフルトに 避難しましたが ケンドラーは
マイセンの火を消すまいと踏み止まりました。ケンドラーは アウグスト三世の 巨大な磁器
の騎馬像を作り遂げたいと 執念を燃やしていましたので 尚更 マイセンを離れられなかっ
たのです。ヘロルトとの長年の確執に 決着をつけるべく 完成すれば 9Mを超える 磁器
の巨像を 是が非でも完成させたかったのです。(ドレスデン磁器博物館には 前哨戦として
作られた 小型版が 今も展示されていて 館の目玉的 展示品になっております。)
マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を立ち上げ やがて
ジャーマンロココを 確立していきました。ロココに取って代る ネオクラシックの大波は
海を越えて 英国から襲ってきました。1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発する
のですが これの大ブレークの前に マイセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいまし
た。一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシック
の新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられま
した。傷心のケンドラーは アシェの立場で かって追い落とした ヘロルト(享年78歳)の
後を追うように 同1775年 享年68歳で 失意のうちに この世を去りました。
欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-5
3人の天才ヨハン-5
3人の偉業により マイセンは ヨーロッパ諸窯に そして世界に 多大の影響を 与えてき
ました。創窯300年のマイセンは 偉大なマンネリズムを標榜し 3人の残した業績を 踏
襲し続けてきました。
伝統を受け継ぐ一方で 創作美術集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げまし
た。新グロッサー・アウシュニット型に ハインツ・ヴェルナー絵付けによる「アラビアンナ
イト1001夜」や「ブルーオーキッド」等のヒット作が ここから生まれました。
1975年には 更に若い世代によるクンストラー・コレクティヴが立ち上げられ ヴェレンシュ
ピール型「波の戯れ」や「青い花」を 生み出しております。
時の流れは 変われども
(バロック,ロココ,ユーゲント・シュティル,ネオクラシック,エンパイア,
ビーダーマイイヤ,ア ールヌーボー,アーツ&クラフツ,アールデコ)
マイセンに対する 尊敬と その高い地位は 変わることが ありませんでした。
栄えあるマイセンに 3人は 今もなお 生き続けているのです。
1817 緑色の染付顔料 酸化クロム発明
1827 グランツゴールド 金彩を完成 H・G・キューン
1833ごろから 銅版転写染付・印判手
1839 焼成燃料に 石炭
1852 虹色のシラー彩(ラスター) H・G・キューン
1853 蒸気機関 採用
1860~1865 新トリービッシュタール工場へ移転
18世紀、中国人により編み出され 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士(マイセン ウェッジウッドのネオクラシックの華 ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。博士はこの事実を知らなかったのか もしくは知っていたがこれもパテ・シュール・パテだと気が付かなかったのか ? 隣の華は赤い, 灯台下暗し。)は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。 これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
マイセン ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。
拡大写真
マイセン・翠の月931689 パテ・シュール・パテ G・アーノルド作 金箔額装磁板画 当店所蔵
マイセン・翠の月(パテ・シュール・パテ)931689 G・アーノルド作 磁板画95168 30%Off のお求めはコチラ
余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 商売人にあっては 名窯セーヴルのルイ・ソロンを引き合いに 誇大宣伝したいのでしょう。山高きが故に 貴からず。セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、
ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート,
ブリュッセルの壁画は、「ズグラッフィート」2層漆喰(泥漿)を重ね塗りと、掻き落としの装飾技法。(巷にあふれる「セーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作」は誇大宣伝。この名画と言えど古代ローマのポートランドの壺やカメオと同技法)
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレース(早くから釉薬の下絵付けと書いています。)です。
イギリス スリップウェア鳥文鉢 1769
最近ある同業者から「泥漿で絵を描き釉薬をかけた絵付けがルイソロンの発明ですよ」と言われましたが 間違っています。
未だに多くのパテシュールパテ ソロン党の方に 蒙昧な信仰から目を覚ましてもらいたい。
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿があります。泥漿と釉薬の組み合わせはイギリス スリップウェア鳥文鉢 1769をご覧になればお判りの様に 1860年代のマリク・ルイ・ソロンの発明でも何でもありません。ただ彼の名誉のために言いますが 道半ばとはいえ 芸術への進歩 それが素晴らしいのです。
ルイ・ソロンの功績は本家英国陶器のスリップウェアをさておいて 新手法でもあるかの如く磁器世界ミントンにパテ・シュール・パテを持ち込みました。ご存知のようにミントンで花開き素晴らしい芸術への昇華を遂げるのです。その先鞭をつけた功績です。
ちなみに英国スリップウェア、は日本でも大いに賞賛されています。バーナード・リーチ(スリップウェアをはるかに凌駕しているミントンのパテ・シュール・パテを知らなかった ? )や富本憲吉は1913年に東京の丸善で購入したチャールズ・ロマックスの『古風な英国陶器』という本の中で、初めてスリップウェアの存在を知った。リーチと濱田庄司は1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰った。柳宗悦や河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えた。(隣の華は赤い, 灯台下暗し。スリップと呼ばれる泥漿でもって筆で描いたり、スポイトから垂らす手法は日本の作陶における「筒描き」「いっちん盛り」と同じ手法であり、古くから日本の染色でも行われていた。)
1900年初頭 ミントンのパテ・シュール・パテ
ヘレンドでも 1860~1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛)を加飾しております。
19世紀末 KPMのテオドールヘルマンは ズグラッフィート(パテシュールパテ)を独自に応用開発しておりました。
20世紀のリチャードジノリでも パールブルーにある 私命名の粉彩リングは 中国の泥彩由来のパテシュールパテの転写版です。 陶器などでは普通に行われていた自然釉期待の素焼をヒントにしたのか マイセンが 18世紀の中世を席捲したウェッジウッドのジャスバーに対抗して焼き締め陶器(ハードストーンウェア)に先祖返りしたのがビスク焼と呼んでいるものです。
マイセン ウェッジウッドのネオクラシックの華 ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。
ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
1773年頃の エトラスカン・ダンサーズ・プラクウ ウェッジウッド美術館蔵
本日 私は大変なことに気が付きました。ヨーロッパ中を席捲したこのジャスバーウェアーこそ 紛れもなく パテシュールパテ そのものです。筆描きアンダーグレースと型押し無施釉の違いはありますが 100年も前にジョサイアは ルイ・ソロンをはるかに絵画的表現において凌駕しております。近代になってミントンの進化したパテシュールパテにも遜色はありません。ただ残念なのは 今のジャスパーはルイ・ソロン並みに退化しております。それにしてもジャスパーに痛めつけられて模倣までした(1817~24)マイセンに所属したハインツェ博士は ルイ・ソロンのパテシュールパテを見たとき(1873)に 何故気が付かなかったのでしょうか ? まさか釉薬に惑わされたというのでしょうか ? ルイ・ソロンが猛威を振るったジャスパーを知らなかったのは確かと思われますのは 知っていれば 恥ずかしくて創作などとは言えなかったでしょう。かくいう岡本もパテシュールパテの研究を始めて1年半 折に付け ジャスパーを俎上に載せながら パテシュールパテのすべてが見えていなかったようです。
セーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作説が巷に蔓延しております。赤信号みんなで渡れば怖く無い てんで 子引き孫引き 流布しております。「一犬 虚に吠ゆれば 万犬 実を伝う(一人がいいかげんなことを言うと、世間の多くの人はそれを真実のこととして広めてしまう)」如く 間違いが蔓延しております。もし異論 反論有ればどうぞ申し出てください。
(ルイ・ソロン教の方々が陥っておられる頑迷を晴らすために ルイソロンの泥彩画のアンダーグレースをもって発明とされる方々には 既に17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアはアンダーグレースですから発明とは言えない事を明記します。又 スリップウェアの最古のものは紀元前5000年以来の歴史を持ち 到底ルイ・ソロンの発明とは言えません。美術的にも勿論言えません。ルイソロンは発明だと言わず 祭り上げられたルイソロンにはいい迷惑でその彼の名誉のためにも敢えて申します。)
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 パテ・シュール・パテ技法を習得し セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
中国泥彩象嵌鶴文水指 高さ18、8cm 白泥鉄絵緑彩松樹鶴文(遠景の山々は白泥)
セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺 1880年 ジュール・アンドレア作
初期のセーブル窯パテ・シュール・パテは 中国泥彩とあまり大差はありません。
ミントンは 大陸の王立窯 特にフランスのセーヴルから 工芸家を招聘して 腕に磨きをかけておりました。工場内では 英語に引けを取らないぐらいフランス語が飛び交っておりました。1871年 ルイ・ソロン(18世紀、中国人により編み出された泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立したパテ・シュール・パテ技法)を招聘して 美しいパテ・シュール・パテ技法を マイセンに先駆けて 自家薬籠中のものにして 更に 世界の王侯貴族をうならす 貴族趣味の芸術品をものにした 「パテ・シュール・パテのミントン」の名声は セーヴルを 出し抜くほどでした。)
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-5」 詳しくは コチラをクリック してください。
1918 第1次世界大戦末期 ザクセン王国瓦解 マイセンは 国立窯に
3人の偉業により マイセンは ヨーロッパ諸窯に そして世界に 多大の影響を 与えてき
ました。創窯300年のマイセンは 偉大なマンネリズムを標榜し 3人の残した業績を 踏
襲し続けてきました。
伝統を受け継ぐ一方で 創作美術集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げまし
た。新グロッサー・アウシュニット型に ハインツ・ヴェルナー絵付けによる「アラビアンナ
イト1001夜」や「ブルーオーキッド」等のヒット作が ここから生まれました。
1975年には 更に若い世代によるクンストラー・コレクティヴが立ち上げられ ヴェレンシュ
ピール型「波の戯れ」や「青い花」を 生み出しております。
時の流れは 変われども
(バロック,ロココ,ユーゲント・シュティル,ネオクラシック,エンパイア,
ビーダーマイイヤ,ア ールヌーボー,アーツ&クラフツ,アールデコ)
マイセンに対する 尊敬と その高い地位は 変わることが ありませんでした。
栄えあるマイセンに 3人は 今もなお 生き続けているのです。
1817 緑色の染付顔料 酸化クロム発明
1827 グランツゴールド 金彩を完成 H・G・キューン
1833ごろから 銅版転写染付・印判手
1839 焼成燃料に 石炭
1852 虹色のシラー彩(ラスター) H・G・キューン
1853 蒸気機関 採用
1860~1865 新トリービッシュタール工場へ移転
18世紀、中国人により編み出され 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士(マイセン ウェッジウッドのネオクラシックの華 ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。博士はこの事実を知らなかったのか もしくは知っていたがこれもパテ・シュール・パテだと気が付かなかったのか ? 隣の華は赤い, 灯台下暗し。)は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。 これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
マイセン ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。
拡大写真
マイセン・翠の月931689 パテ・シュール・パテ G・アーノルド作 金箔額装磁板画 当店所蔵
マイセン・翠の月(パテ・シュール・パテ)931689 G・アーノルド作 磁板画95168 30%Off のお求めはコチラ
余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 商売人にあっては 名窯セーヴルのルイ・ソロンを引き合いに 誇大宣伝したいのでしょう。山高きが故に 貴からず。セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、
ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート,
ブリュッセルの壁画は、「ズグラッフィート」2層漆喰(泥漿)を重ね塗りと、掻き落としの装飾技法。(巷にあふれる「セーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作」は誇大宣伝。この名画と言えど古代ローマのポートランドの壺やカメオと同技法)
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレース(早くから釉薬の下絵付けと書いています。)です。
イギリス スリップウェア鳥文鉢 1769
最近ある同業者から「泥漿で絵を描き釉薬をかけた絵付けがルイソロンの発明ですよ」と言われましたが 間違っています。
未だに多くのパテシュールパテ ソロン党の方に 蒙昧な信仰から目を覚ましてもらいたい。
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿があります。泥漿と釉薬の組み合わせはイギリス スリップウェア鳥文鉢 1769をご覧になればお判りの様に 1860年代のマリク・ルイ・ソロンの発明でも何でもありません。ただ彼の名誉のために言いますが 道半ばとはいえ 芸術への進歩 それが素晴らしいのです。
ルイ・ソロンの功績は本家英国陶器のスリップウェアをさておいて 新手法でもあるかの如く磁器世界ミントンにパテ・シュール・パテを持ち込みました。ご存知のようにミントンで花開き素晴らしい芸術への昇華を遂げるのです。その先鞭をつけた功績です。
ちなみに英国スリップウェア、は日本でも大いに賞賛されています。バーナード・リーチ(スリップウェアをはるかに凌駕しているミントンのパテ・シュール・パテを知らなかった ? )や富本憲吉は1913年に東京の丸善で購入したチャールズ・ロマックスの『古風な英国陶器』という本の中で、初めてスリップウェアの存在を知った。リーチと濱田庄司は1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰った。柳宗悦や河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えた。(隣の華は赤い, 灯台下暗し。スリップと呼ばれる泥漿でもって筆で描いたり、スポイトから垂らす手法は日本の作陶における「筒描き」「いっちん盛り」と同じ手法であり、古くから日本の染色でも行われていた。)
1900年初頭 ミントンのパテ・シュール・パテ
ヘレンドでも 1860~1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛)を加飾しております。
19世紀末 KPMのテオドールヘルマンは ズグラッフィート(パテシュールパテ)を独自に応用開発しておりました。
20世紀のリチャードジノリでも パールブルーにある 私命名の粉彩リングは 中国の泥彩由来のパテシュールパテの転写版です。 陶器などでは普通に行われていた自然釉期待の素焼をヒントにしたのか マイセンが 18世紀の中世を席捲したウェッジウッドのジャスバーに対抗して焼き締め陶器(ハードストーンウェア)に先祖返りしたのがビスク焼と呼んでいるものです。
マイセン ウェッジウッドのネオクラシックの華 ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。
ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
1773年頃の エトラスカン・ダンサーズ・プラクウ ウェッジウッド美術館蔵
本日 私は大変なことに気が付きました。ヨーロッパ中を席捲したこのジャスバーウェアーこそ 紛れもなく パテシュールパテ そのものです。筆描きアンダーグレースと型押し無施釉の違いはありますが 100年も前にジョサイアは ルイ・ソロンをはるかに絵画的表現において凌駕しております。近代になってミントンの進化したパテシュールパテにも遜色はありません。ただ残念なのは 今のジャスパーはルイ・ソロン並みに退化しております。それにしてもジャスパーに痛めつけられて模倣までした(1817~24)マイセンに所属したハインツェ博士は ルイ・ソロンのパテシュールパテを見たとき(1873)に 何故気が付かなかったのでしょうか ? まさか釉薬に惑わされたというのでしょうか ? ルイ・ソロンが猛威を振るったジャスパーを知らなかったのは確かと思われますのは 知っていれば 恥ずかしくて創作などとは言えなかったでしょう。かくいう岡本もパテシュールパテの研究を始めて1年半 折に付け ジャスパーを俎上に載せながら パテシュールパテのすべてが見えていなかったようです。
セーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作説が巷に蔓延しております。赤信号みんなで渡れば怖く無い てんで 子引き孫引き 流布しております。「一犬 虚に吠ゆれば 万犬 実を伝う(一人がいいかげんなことを言うと、世間の多くの人はそれを真実のこととして広めてしまう)」如く 間違いが蔓延しております。もし異論 反論有ればどうぞ申し出てください。
(ルイ・ソロン教の方々が陥っておられる頑迷を晴らすために ルイソロンの泥彩画のアンダーグレースをもって発明とされる方々には 既に17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアはアンダーグレースですから発明とは言えない事を明記します。又 スリップウェアの最古のものは紀元前5000年以来の歴史を持ち 到底ルイ・ソロンの発明とは言えません。美術的にも勿論言えません。ルイソロンは発明だと言わず 祭り上げられたルイソロンにはいい迷惑でその彼の名誉のためにも敢えて申します。)
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 パテ・シュール・パテ技法を習得し セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
中国泥彩象嵌鶴文水指 高さ18、8cm 白泥鉄絵緑彩松樹鶴文(遠景の山々は白泥)
セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺 1880年 ジュール・アンドレア作
初期のセーブル窯パテ・シュール・パテは 中国泥彩とあまり大差はありません。
ミントンは 大陸の王立窯 特にフランスのセーヴルから 工芸家を招聘して 腕に磨きをかけておりました。工場内では 英語に引けを取らないぐらいフランス語が飛び交っておりました。1871年 ルイ・ソロン(18世紀、中国人により編み出された泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立したパテ・シュール・パテ技法)を招聘して 美しいパテ・シュール・パテ技法を マイセンに先駆けて 自家薬籠中のものにして 更に 世界の王侯貴族をうならす 貴族趣味の芸術品をものにした 「パテ・シュール・パテのミントン」の名声は セーヴルを 出し抜くほどでした。)
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-5」 詳しくは コチラをクリック してください。
1918 第1次世界大戦末期 ザクセン王国瓦解 マイセンは 国立窯に