欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-4
3人の天才ヨハン-4
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは またもや占領されました。
アウグストは ワルシャワに避難するのですが マイセンには 前回同様 隠せるものは隠し
窯などは 破壊して 秘法を守れとの 命令を下しました。そして職人達には 避難命令が下
されました。南のババリア地方に逃れた人たちによって 後のフッチェンロイターや ローゼ
ンタール誕生の種がまかれました。一方 閉鎖された マイセンを占領したフリードリヒは
ザクセンの大臣に 窯を再開させ 製品を略奪するのです。(サンスーシーの三悪人の本領を
発揮したフリードリヒ大王は ザクセンの若き女性を 自国プロイセンの辺境へ拉致し 嫁の
来ての無い男達に 妻合わすのです。18世紀の国際法にさえ 明白に違反する暴挙を 平然
とやってのけております。1763年の和約で戦争は 終わるのですが フリードリヒの完膚
なき砲撃により ドレスデンの町は廃墟と化しました。第2次世界大戦を予兆するかのように)
避難命令を受けたヘロルトは これ幸いとフランクフルトに 避難しましたが ケンドラーは
マイセンの火を消すまいと踏み止まりました。ケンドラーは アウグスト三世の 巨大な磁器
の騎馬像を作り遂げたいと 執念を燃やしていましたので 尚更 マイセンを離れられなかっ
たのです。ヘロルトとの長年の確執に 決着をつけるべく 完成すれば 9Mを超える 磁器
の巨像を 是が非でも完成させたかったのです。(ドレスデン磁器博物館には 前哨戦として
作られた 小型版が 今も展示されていて 館の目玉的 展示品になっております。)
マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を立ち上げ やがて
ジャーマンロココを 確立していきました。ロココに取って代る ネオクラシックの大波は
海を越えて 英国から襲ってきました。1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発する
のですが これの大ブレークの前に マイセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいまし
た。一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシック
の新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられま
した。傷心のケンドラーは アシェの立場で かって追い落とした ヘロルト(享年78歳)の
後を追うように 同1775年 享年68歳で 失意のうちに この世を去りました。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは またもや占領されました。
アウグストは ワルシャワに避難するのですが マイセンには 前回同様 隠せるものは隠し
窯などは 破壊して 秘法を守れとの 命令を下しました。そして職人達には 避難命令が下
されました。南のババリア地方に逃れた人たちによって 後のフッチェンロイターや ローゼ
ンタール誕生の種がまかれました。一方 閉鎖された マイセンを占領したフリードリヒは
ザクセンの大臣に 窯を再開させ 製品を略奪するのです。(サンスーシーの三悪人の本領を
発揮したフリードリヒ大王は ザクセンの若き女性を 自国プロイセンの辺境へ拉致し 嫁の
来ての無い男達に 妻合わすのです。18世紀の国際法にさえ 明白に違反する暴挙を 平然
とやってのけております。1763年の和約で戦争は 終わるのですが フリードリヒの完膚
なき砲撃により ドレスデンの町は廃墟と化しました。第2次世界大戦を予兆するかのように)
避難命令を受けたヘロルトは これ幸いとフランクフルトに 避難しましたが ケンドラーは
マイセンの火を消すまいと踏み止まりました。ケンドラーは アウグスト三世の 巨大な磁器
の騎馬像を作り遂げたいと 執念を燃やしていましたので 尚更 マイセンを離れられなかっ
たのです。ヘロルトとの長年の確執に 決着をつけるべく 完成すれば 9Mを超える 磁器
の巨像を 是が非でも完成させたかったのです。(ドレスデン磁器博物館には 前哨戦として
作られた 小型版が 今も展示されていて 館の目玉的 展示品になっております。)
マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を立ち上げ やがて
ジャーマンロココを 確立していきました。ロココに取って代る ネオクラシックの大波は
海を越えて 英国から襲ってきました。1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発する
のですが これの大ブレークの前に マイセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいまし
た。一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシック
の新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられま
した。傷心のケンドラーは アシェの立場で かって追い落とした ヘロルト(享年78歳)の
後を追うように 同1775年 享年68歳で 失意のうちに この世を去りました。
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