マイセン 【ブルーオーキッド・824001】 21cmプレート・23472 15%Off
マイセン 【ブルーオーキッド・824001】 21cmプレート・23472 15%Off
祝勤労感謝の日フェア(本日~ 11/23) ラッキーセブン 7枚限定
通常10%Off 祝勤労感謝の日フェア(本日~ 11/23) 15%Off
フラゴナール プティ21cmプレート『プロポーズ』
ジャン・オノレ・フラゴナール(1732年 - 1806年)は、ロココ期のフランスの画家。
西洋美術史において、18世紀はロココの世紀であった。フラゴナールは、その18世紀の後半のフランスを代表する画家である。フランス・ロココ美術の典型的な画家であるとともに、時代の変化のなかで、ロココ時代の最後を飾った画家ともいえる。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べまして 今作を入れている2軒(30%Off )を見つけましたが どうやら旧作新品在庫は お熟成アインにしかないようです。 その美しい旧作を見劣りのする今作よりお安くしております。
マイセン社は制作を半分に抑えて プライスを大幅に上げております。なかなか誰も手が出ないようです。 無理して入れても 損を覚悟で 30%Offがせいぜいです。 お安いのは 流石 お熟成アインさん。
それでは お熟成アインは何故お安く売れるんでしょう。それは 欧州のマイセン王国と仲良しで在庫過多の旧作美品を 昔価格に毛の生えたぐらいで割愛してもらえたからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりしてさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お熟成アインの真骨頂 ! !
蘭の花 女
すずらんの花姿 と人気です。
花木や蘭を和風にした ジャポニスムの佳作品
ラン科の種はラン(蘭)と総称される。英語ではオーキッドで、ギリシア語の睾丸を意味するorchisが語源であるが、これはランの塊茎(バルブ)が睾丸に似ていることに由来する。南極をのぞくすべての大陸の熱帯から亜寒帯に自生する。被子植物の中では最も後に地球上に現れた植物である。被子植物の中で、もっとも種数の多い科となっている。花は左右対称で、虫媒花の中では特異なほど効率の良い花形を発達させ、特定の昆虫との共進化を見せるものも知られている。また根や種子の発芽では菌類との共生が大きな役割を担う。花の美しさや姿のおもしろさから、多くのものが観賞用とされており、またそのための採集圧から絶滅の危機が問題になっているものも多い。
自然には 青い蘭は存在せず 青い胡蝶蘭は 遺伝子組み換えでツユクサの色を入れ 10年かけて成功。
又 色は薄いが吸い上げ染付による 青い胡蝶蘭 ブルーエレガンスもある。
タスマニアン・オーキッド これ 天然?
調べました。オーストラリア大陸にだけある青い蘭。オーストラリアの砂漠で見つけた方がおられます。
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
アガサ燕子花
在原業平朝臣 伊勢物語 第九段、東下り・その壱。 古今和歌集 羇旅歌 410
むかし、男ありけり。
その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。
もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。
三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの木の蔭に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。
その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」といひければよめる。
からころも 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ とよめりければ みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。
(昔男がいた。その男は、自分を(都にいても)役に立たない男だと思い込み、京にはおるまい、東国の方に、住むのに適当な国を見つけに行こうと思って出かけた。 以前から友としている人、一・二人といっしょに出かけた。(東国への)道を知っている人もなくて、迷いながら行った。三河の国・八橋というところに着いた。そこを八橋というのは、流れ行く川の水が蜘蛛の手足のように八つに分かれて流れているので、橋を八つ渡してある、それで八橋といったのである。その沢のほとりの木の蔭に(馬から)下りて腰を下ろし、干し飯(ほしいい)を食べた。その沢にかきつばたが、たいそう美しく咲いていた。それを見て、ある人が言うには、「かきつばたという五文字を(それぞれの)句のはじめにおいて、旅の心を詠んでごらんなさい」といったので、詠んだ。
唐衣の着慣れたように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、 遥々やってきたこの旅を(しみじみと悲しく)思うことだと詠んだので、人々は皆、干し飯の上に涙を落として、(干し飯)がふやけてしまった。)
修辞 盛り沢山(折句 枕詞 掛詞 縁語 係り結び)の 万葉集とは真逆の歌。
同じ情景を詠った 万葉集 巻(2-142) 有間皇子
家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
家にいると器によそうご飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛ります。
この歌は、斉明天皇・飛鳥時代に有間皇子(孝徳天皇の皇子)が詠んだ歌です。大化の改新で活躍した中大兄皇子(後の天智天皇)と同じ時代の人物です。有間皇子は中大兄皇子と不仲で、謀反をたくらんでいました。しかし一緒に計画をしていたはずの蘇我赤兄(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)に裏切られ、計画がばれて捕まってしまいます。この句に詠まれている「旅」とは、捕まったあと護送されているときのことです。都で中大兄皇子に尋問され 藤白坂で絞首刑に処せられた。
いずれがアヤメかカキツバタ(美女の品定め 甲乙つけ難し)
グロッサー・アウシュニット型
偉大なマンネリズムを 標榜する一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニット型に ハインツ・ヴェルナー絵付けによる「アラビアンナイト1001夜」や「ブルーオーキッド」等のヒット作が ここから生まれました。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に1400゜Cもの高温の焼き付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋ではティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグをヒントに 熱さ避けのハンドルを 付ける様になり 飲用器としてのカップが出来ました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器ジャグから C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
他店 今作 色淡く 筆静かで 平面的
マイセン 【ブルーオーキッド・824001】 21cmプレート・23472 15%Off のお求めはコチラ
当店所蔵品 二昔前制作品 墨痕鮮やかに 躍動感あり 重厚 立体的
シェープ
3人の天才ヨハン-2
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
天才は 狂気なり。
ヘロルトは 出世欲の権化でした。出世のための 名誉であり 守銭奴でもありました。マイセン ひいては 窯業界に与えた 今に生きる功績は 一将功成り 万骨枯る 功罪相半ばするでしょう。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-2 ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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ジャン・オノレ・フラゴナール(1732年 - 1806年)は、ロココ期のフランスの画家。
西洋美術史において、18世紀はロココの世紀であった。フラゴナールは、その18世紀の後半のフランスを代表する画家である。フランス・ロココ美術の典型的な画家であるとともに、時代の変化のなかで、ロココ時代の最後を飾った画家ともいえる。
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ラン科の種はラン(蘭)と総称される。英語ではオーキッドで、ギリシア語の睾丸を意味するorchisが語源であるが、これはランの塊茎(バルブ)が睾丸に似ていることに由来する。南極をのぞくすべての大陸の熱帯から亜寒帯に自生する。被子植物の中では最も後に地球上に現れた植物である。被子植物の中で、もっとも種数の多い科となっている。花は左右対称で、虫媒花の中では特異なほど効率の良い花形を発達させ、特定の昆虫との共進化を見せるものも知られている。また根や種子の発芽では菌類との共生が大きな役割を担う。花の美しさや姿のおもしろさから、多くのものが観賞用とされており、またそのための採集圧から絶滅の危機が問題になっているものも多い。
自然には 青い蘭は存在せず 青い胡蝶蘭は 遺伝子組み換えでツユクサの色を入れ 10年かけて成功。
又 色は薄いが吸い上げ染付による 青い胡蝶蘭 ブルーエレガンスもある。
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アガサ燕子花
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むかし、男ありけり。
その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。
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三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの木の蔭に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。
その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」といひければよめる。
からころも 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ とよめりければ みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。
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唐衣の着慣れたように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、 遥々やってきたこの旅を(しみじみと悲しく)思うことだと詠んだので、人々は皆、干し飯の上に涙を落として、(干し飯)がふやけてしまった。)
修辞 盛り沢山(折句 枕詞 掛詞 縁語 係り結び)の 万葉集とは真逆の歌。
同じ情景を詠った 万葉集 巻(2-142) 有間皇子
家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
家にいると器によそうご飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛ります。
この歌は、斉明天皇・飛鳥時代に有間皇子(孝徳天皇の皇子)が詠んだ歌です。大化の改新で活躍した中大兄皇子(後の天智天皇)と同じ時代の人物です。有間皇子は中大兄皇子と不仲で、謀反をたくらんでいました。しかし一緒に計画をしていたはずの蘇我赤兄(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)に裏切られ、計画がばれて捕まってしまいます。この句に詠まれている「旅」とは、捕まったあと護送されているときのことです。都で中大兄皇子に尋問され 藤白坂で絞首刑に処せられた。
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偉大なマンネリズムを 標榜する一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニット型に ハインツ・ヴェルナー絵付けによる「アラビアンナイト1001夜」や「ブルーオーキッド」等のヒット作が ここから生まれました。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に1400゜Cもの高温の焼き付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・)
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ヘロルトは 出世欲の権化でした。出世のための 名誉であり 守銭奴でもありました。マイセン ひいては 窯業界に与えた 今に生きる功績は 一将功成り 万骨枯る 功罪相半ばするでしょう。
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
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