マイセン 【太湖石に花鳥文341110】 兼用C/S 00582 10%Off
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太湖石とは、中国蘇州 太湖周辺の丘陵に産する穴の多い複雑な形の奇石。太湖付近の丘や湖に浮かぶ島は 青白い石灰岩でできているが、かつて内海だった太湖の水による 長年の侵食によって岩 には多くの穴が開き、複雑な形と化した。
太湖石は 蘇州はじめ 中国各地の庭園で 鑑賞や瞑想などのために置かれている。北宋末期の第8代徽宗皇帝は人民を徴用して、太湖石などを都に運ばせた。これを、花石綱(庭園を造るための珍花・名木・奇石などのこと)という。(鳥の下の石)
太湖石庭園
色絵(太湖石)花鳥文深鉢 酒井田柿右衛門
マイセン 【太湖石に花鳥文341110】はシノワズリ分類ですから 中国の【太湖石に花鳥文】を写したものでしょう。
柿右衛門の「色絵(太湖石)花鳥文」もあまりにも同じ写しですから たぶんマイセンと同じ中国の【太湖石に花鳥文】絵付けを写したものでしょう。それにしても 洋の東西 同じものを見ていたとは 磁器の世界は広い様で狭かったのですね。
ところで これの簡易絵付け版に インドの鳥 とのネーミングを散見しますが 随分 貧相なネーミングですね。名は体を表すといいますから しっかり名付けないと 名作が泣きますよ。簡易絵付け版は随分見劣りしますから いいのかな。只 柿右衛門でも(太湖石)を外したネーミングになっているのが気がかりですが 気持ちは判りますので許しましょう。(私見ですが 傾向として 最初期は本家支那作を騙っていたのが やがて本家支那を超えた独自性を言うために太湖石を 和風染付繋ぎ文と呼称し始めました。)
春爛漫の万歳山。玉清教主微妙道君皇帝は“天界”にいた。
万歳山とは、宮城の東北に築かれた、人工の築山である。その山裾は十余里、高さは九十歩。江南から取り寄せた太湖石や、珍奇な花鳥草木で飾り、この世ならぬ壮麗幻想な景観を呈している。まさに、この世の仙界──であった。
これをヘレンド流に 焼き直したのが ヘレンドのソングです。
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マイセン 人気のシノワズリ
ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い難く ベトガーや シュテルツェルやケラーらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。(ベトガーが 持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウクスブルクのハウスマーレライ・無所属の絵付師らに 売り渡されておりました。マイセン社史では 贋作に手を貸す この不名誉な事は あえて触れられておりません。) ヘロルトは パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料に 自らも開発した顔料を以って 彼独特のシノワズリを確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグスト王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門(ヨーロッパにおいて高値を呼んだ)にも 臆せず挑み 王の満足するヘロルトの「柿右衛門写し」は 欧州二大ジャポネズリの筆頭として マイセンの名声を 弥が上にも高めました。ちなみに もう一方は ロイヤルクラウンダービーの 伊万里金襴手写しです。
エンツゥィーステッドハンドル(把手は後)
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型
マイセン 【太湖石に花鳥文341110】 兼用C/S 00582 10%Off のお求めはコチラ
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シェープ 反対面 把手面
錬金術師-5
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や 男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は 死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐらいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産業スパイを 図らずも呼び集めました。固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 ベトガー 5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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ところで これの簡易絵付け版に インドの鳥 とのネーミングを散見しますが 随分 貧相なネーミングですね。名は体を表すといいますから しっかり名付けないと 名作が泣きますよ。簡易絵付け版は随分見劣りしますから いいのかな。只 柿右衛門でも(太湖石)を外したネーミングになっているのが気がかりですが 気持ちは判りますので許しましょう。(私見ですが 傾向として 最初期は本家支那作を騙っていたのが やがて本家支那を超えた独自性を言うために太湖石を 和風染付繋ぎ文と呼称し始めました。)
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万歳山とは、宮城の東北に築かれた、人工の築山である。その山裾は十余里、高さは九十歩。江南から取り寄せた太湖石や、珍奇な花鳥草木で飾り、この世ならぬ壮麗幻想な景観を呈している。まさに、この世の仙界──であった。
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ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。
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