欧州磁器戦争史 錬金術師-5
錬金術師-5
ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りましたが 彼が求
める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費であり 心から喜べなかったようです。彼は 実
験室の壁に 自虐的に書いております。「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の商品化に
追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立て直す必要から ベト
ガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を 目論んだのです。しかし 商品
化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けておりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは 新しい強
力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。
この研磨機は その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
た 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐものの 出現はありませ
んでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付
用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て
中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程
困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の ま
ぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を
含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も
無いのですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨
金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)により
何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあった
ベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくの
ですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成
の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに ア
ルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガ
ーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の
出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や
男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は
死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐ
らいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の
為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産
業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りましたが 彼が求
める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費であり 心から喜べなかったようです。彼は 実
験室の壁に 自虐的に書いております。「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の商品化に
追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立て直す必要から ベト
ガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を 目論んだのです。しかし 商品
化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けておりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは 新しい強
力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。
この研磨機は その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
た 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐものの 出現はありませ
んでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付
用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て
中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程
困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の ま
ぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を
含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も
無いのですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨
金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)により
何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあった
ベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくの
ですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成
の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに ア
ルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガ
ーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の
出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や
男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は
死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐ
らいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の
為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産
業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
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