リチャードジノリ 【ベッキオホワイト】 コーヒーC/S 200cc 10%Off
リチャードジノリ 【ベッキオホワイト】 コーヒーC/S 200cc 10%Off
【海の日・サマーフェア 本日 ~7/17】 ラッキーセブン7 1台限定
通常10%Off 【海の日・サマーフェア 本日 ~7/17】 %Off 各柄1客限定
アントワーヌ・ヴァトー(1684年 - 1721年)は、ロココ時代のフランスの画家。
18世紀のヨーロッパはロココの時代であり、前世紀のバロック様式に代わって、曲線的、装飾的で甘美なロココ様式が全盛となった。絵画の主題においても歴史画や宗教画から、男女の愛の駆け引きを主題にした風俗画が目立つようになる。
「雅びな宴」(フェート・ギャラント)の画家と呼ばれるヴァトーは、若くして亡くなったが、18世紀フランスのロココ様式を代表する画家と見なされている。
『シテール島への巡礼』 (1717年) ルーヴル美術館
ヴァトーの典型的な作品は、 『シテール島の巡礼』のような、田園に集い愛を語り合う若い男女の群れを描いたもので、これらは「雅びな宴」の絵と呼ばれた。
「ユピテルとアンティオペ」 ジャン・アントワーヌ・バトー (1715年)
「天なる父」ローマの主神ユピテルは、ユーノという正妻がありながら、多くの女神や人間の女性たちを誘惑して、数え切れないほどの子供をもうけている「懲りない」神でした。ギリシア神話では ゼウス。そのユピテルが今度は、テバイの摂政の娘のアンティオペを見初めてしまいます。ユピテルは森の精サテュロス(半人半獣)に化けて、眠っているアンティオペの背後から近づき、彼女の美しい裸身に見とれています。さて次は・・・・・・・
ワトー(ヴァトー)の「トワレ(生理的)身繕い インタイム」
『風姿花伝』 室町時代初期の猿楽師世阿弥が父観阿弥の教えにもとづいて書いた理論書です。世阿弥は「花と 面白きと めづらしきと、これ三つは同じ心なり」と書いています。
曰く 秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。
利休は 茶室に続く小道の落ち葉を掃き清めて客を迎えるに 掃き清めた後 2.3枚の落ち葉をさりげなく散らしたそうです。利休 侘び寂びの心です。谷崎潤一郎の「陰影礼賛」 皆然り。
間仕切りのないトイレがあったり モーツァルトのスカトロジーは有名です。日本人から見れば露悪趣味としか言えません。
と言いたいところですが今の東洋人に 慎みは無縁になってきているのでは・・・・・・・。素人の女の子が平気でポルノに出演します。まるで出演のお誘いがないと自分はそれほどのブスかと僻むがおち? 今 巷を騒がすリベンジ(雪辱を知らず ら抜き言葉が主流の若人。昨日の新聞発表)ポルノてなんですか。愛は永遠と信じていたというのですか? 離婚率が高いのを知りませんか? 東洋人の恥の文化 一概に良いとは言いませんが 少しはねー。きりがないのでここらでやめときます。
マイセン 【ワトーグリーン】 兼用C/S 3幅各1客の 写真は コチラをクリック してください。
手描き本金彩(セーヴルでも 金彩は 銅版転写です)
フランス・ロココの大家 アントワーヌ・ワトー原画
ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー原作 窓枠レリーフ エンツゥィーステッドハンドル
安物 安いのは当たり前
良いもの安いのが アインさん
セーヴルとしては フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 中国は勿論 マイセンにも 勝ち目の無いのは 明らかです。やがて時代は セーヴルの欧風ロココが シノワズリ・バロックのマイセンを旧となし 新潮流となっていきました。(結局 セーヴルは 捜し求めた カオリンを 1768年に リモージュ近郊の サン・イリョーで 発見するまで 硬質磁器を 焼成出来ませんでした)
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。磁器において先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりました。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
マイセン 【ワトーグリーン】 兼用C/S A 10%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
拡大写真 ソーサー絵 反対面
錬金術師-5
この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 ベトガー 5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
ラッキーセブン 7点限定。
通常5%Off 祝 新入学・新入社フェア ( 本日~ 4/10) 10%Off
新入荷
ブランド箱 330円 ギフト包装用に正規代理店から購入
グッチジノリより新入荷しました。何と 原価80%です。
品番も 2652に変更されました。
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
夜明けのコーヒー 二人で飲もうと あの人が言った 恋の季節よ~
ネッ スル ? (日本では1994年に、社名を「ネッスル日本」から、「ネスレ日本」に変更している。な~んでか ? ネッ スル ? )
後朝 (きぬぎぬ)の別れ 平安朝は妻問婚でした。夜這い(ヨバヒ)ともいう。
「後朝(きぬぎぬ)」とは、平安時代、まだ男女が通い婚だった時代に、お互いの衣と衣を重ねて一夜を共にした(当時まだ掛け布団はなく、衣を体の上に掛けて寝るのが一般的だった)翌朝、別れるときにそれまでひとつに重ねていた衣を別々に身につけることから転じて、愛を交わした男女が別れる朝の、余情のこと。「 衣衣」とも書く。
後朝 (きぬぎぬ)の別れ
有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし(百人一首 三十 壬生忠岑)
あけぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな (百人一首 五十二 藤原道信朝臣)
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
18年前 ヨーロッパ最大のドイツの リチャードジノリ代理店が代理店契約終了に当たり 在庫の処理を巡り リチャードジノリ社とトラブっておりましたので アインが 40フィートコンテナ2本分の在庫を引き受けました。超一流店として アインに足らざるブランド洋食器300年の歴史と伝統を買いました。
以来 グッチジノリになるまで フィレンツェ本店から 直接仕入れておりました..。
中間業者のマージンのいらないのもお安く売れる秘密の一つでした。
主だったお店を調べまして 一軒セール中のお店を見つけましたので やせ我慢価格で お熟成アインが一番お安くしております。
クッチシノリ社は 安売りをして倒産するのは嫌だと公言して 低価格帯のものは廃盤 継続するものはプライスを大幅に上げております。それではお熟成アインは 何故 何処にも無いお品を 惜しげもなくお安すくできるのでしょう ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 入手できたとしても 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりしてお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今では これだけの美品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !
バロック絵画
戦士(ゼウスの息子達)に略奪されるロイキポス王の娘達 ピーテル・パウル・ルーベンス 1618年 アルテ・ピナコテーク
ピーテル・パウル・ルーベンス 1577~1640
バロック最大の巨匠といえば、フランドルの画家ルーベンスにとどめを刺す。豊潤な色彩、流麗な筆さばき、官能的な裸体表現は見事である。
『レウキッボスの娘たちの略奪』は、ギリシャ神話の主神ゼウスと人間の王妃レダの間に生まれたディオスクーロイ(双子)カストルとポルックスの兄弟(のちに双子座になる)が、叔父レウキッボス王の娘ポイベーとヒーラエイラたちを妻にしようとさらってきた場面を描いた神話画。それぞれにムネーシレーオスとアノーゴーンという名の子供ができた。今ならさしずめ誘拐・婦女暴行事件だが、その現場を激しいポーズをとる男女2人ずつに馬2頭、愛の神キューピッド2人(一人は判りますがもう一人は何処に ? 下のステンドグラスを見ると判ります)をひとかたまりにして、ほぼ正方形の画面ぎりぎりにおさめた構成力は見事というほかない。
バロック期のヨーロッパを代表する画家ルーベンスの代表的神話画『レウキッポスの娘たちの略奪』のステンドグラスです。
なんとも神秘的で迫力のある作品ですね。このステンドグラスは、飯坂ホテル聚楽 ゆらりの入り口脇にあります。
このステンドグラス作者はルーベンスが キューピッドを2人描いているのを知らなかったんですね。
「相棒」の杉下右京さん(水谷 豊)じゃないけれど 小さなことが気になる岡本 笥椎の悪い癖。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
ディオスクーロイまたはジェミ(双子の兄弟)・カストルとポルックス
ふたご座は左右対称の端正な星座で、黄道十二星座としてもよく知られています。
冬の夜空に、東から起き上がるようにして昇り、立ちあっがっている姿で西の空へと沈んでいきます。
この双子の誕生は、やはり大神・ゼウスに関係していて、ゼウスとスパルタの王妃・レダとの間に誕生します。レダは大変美しい女性で、これに魅せられたゼウスは、白鳥の姿になってレダの元に舞い降りていきます。レダはその後ふたつの卵を産みますが、そのひとつからは双子の姉妹、トロイのヘレンと、後にトロイ戦争の時のギリシャの総大将・アガメムノンの妻となったクリュテムメストラが生まれました。そして、もうひとつの卵からは、双子の兄弟、カストルとポルクッスが誕生し、この兄弟が、冬の夜空にふたご座となって描かれることになります。また、レダの元に舞い降りた時の白鳥の姿は、夏の夜空に輝く、はくちょう座になっています。
紀元1世紀 ヴェスヴィオ火山の噴火に埋もれたポンペイ遺跡から出土のフレスコ画
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ティントレット、そして他の多くの芸術作品による絵画に影響を与えた。
ゼウス神は白鳥に変身し、スパルタの女王レダを強制性交した。
《レダと白鳥(失われたミケランジェロ作品に基づく)》 フランチェスコ・ブリーナ1575年頃 カーサ・ブオナローティ美術館
フランチェスコ・ブリナ (1540年 - 1586年)は、 16世紀に活躍するイタリアの マナー主義の 画家です。
さて、カストルとポルックスは共に武勇に優れ、カストルは剣の名人、ポルックスは馬術に優れ、カストルは普通の人間でしたが、ポルックスはゼウスの血を引き不死身の体を持っていました。双子の兄弟はいつも一緒に戦場を駆け巡り、多くの戦功を立てていました。アルゴ号の遠征隊にも参加し、ポルックスはビチュニアの王・アミュコスをも打ち負かし、双子の兄弟は誉れ高い英雄でもありました。後にはメッシナのイダス兄弟とも戦い、この戦いにも大きな勝利を治めます。しかし、この時カストルは流れ矢に当たって、命を落とすことになってしまいました。いつも一緒にいた弟のポルックスは深く悲しみ、兄の死を耐え難いものとして、受け入れることができません。ポルックスは大神・ゼウスに祈り、強く懇願しました。
「わたしたち双子の兄弟はいつも一緒にいて、戦場でも共に戦いました。兄ははかなくも亡くなってしまいましたが、わたしは不死の身である為に、死ぬことはできません。兄とは生まれた時が一緒なのですから、死ぬ時も一緒でありたいと思っていました。ですから、どうかわたしの不死を解いていただけないでしょうか」大神ゼウスは、我が子でもあるカストル(不死 ? )の死を悲しむと共に、兄を慕うポルックスの心に打たれ、その願いを叶えてやります。こうして二人は一緒に夜空にのぼり、ふたご座となったと伝えられています。
ふたご座のα星はカストル、β星はポルックスと名前が付けられていて、冬の夜空に仲良く並んでいるのが見られます。
神話は 変幻自在 融通無碍 二人ともゼウスの子なら 二人とも不死の筈です。でもたちどころに氷解します。
また、レダはゼウスとの間にポルックスを、スパルタ王(元王妃)との間にカストルを産んだとも言われていて、このため、ポルックスは不死の体をもっていたともされています。
やはりカストルは戦場で重症を負いますが、ポルックスがカストルと運命を共にしようとしたとき、ゼウスはポルックスの不死の力の半分をカストルに与えます。そして、ふたりは一緒に、生涯の半分は天で、半分は黄泉の国で暮らさなければならないことになり、半年ごとに天と冥界を行き来しているとも言われています。(1日ごととも、半日ごとなども言われています)
ところで、ふたご座はもっとも古くから知られている星座のひとつでもあって、古代バビロニアの時代には「大きな双子」と呼ばれていたと言われています。その神話では、最高神・マルドゥクと知恵の神・ナブーの姿を表わしているとも言われています。
時代が下ったローマ時代では、ふたご座は船の守り神としてもとらえられています。海で嵐にあったとき、マストの先に「セント・エルモの火」という、火が燃えているように見える現象(静電気による現象と言われています)は、ふたご座が起こしているもので、これが見えれば嵐は治まると信じられていました。
カストルとポルックス神殿
カストルとポルックス神殿はローマのフォロ・ロマーノにある古代の建築物である。紀元前495年、レギッルス湖畔の戦いの勝利への感謝を込めて建設された。カストルとポルックスはディオスクーロイまたはジェミニ(双子)と呼ばれ、ゼウス(ユーピテル)とレーダーの双子の息子を意味する。その信仰はギリシャからマグナ・グラエキアを経由して南イタリアのギリシア文化と共にローマにもたらされた。
王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスは王子セクストゥスの強制性交に端を発するルクレティアの自殺を契機にローマを追放された後、ラテン人たちと共に成立間もない共和政ローマと戦った。この戦いの前に、ローマの独裁官アウルス・ポストゥミウス・アルブスは、戦いに勝ったらディオスクーロイの神殿を建立することを誓った。
伝説によれば、カストルとポルックスは2人の有能な騎手として戦場に現れ、ローマ側に加勢したという。また、ローマが勝利した後にもフォルム・ロマヌムのユートゥルナの泉に現れ、馬に水を飲ませたという。神殿は彼らが現れたと言われている場所に建てられた。ポストゥミウスの息子が神殿を完成させたのは紀元前484年のことだった。
<タルクィニウスとルクレティア> ピーテル・パウル・ルーベンス 1609年から1612年
ルクレティア(紀元前509年没)は紀元前6世紀にローマを王政から共和政へと移行させる契機になったとされる女性。イタリア語ではルクレツィアとなる。他の共和政初期の人物同様実在には疑問がある。
伝承によればルクレティアはS・ルクレティウス・Tの娘で、コッラティヌスの貞淑な妻であった。
紀元前509年、ローマはルトゥリ人のアルデアを攻撃中で、ルクレティアの夫コッラティヌスもこの陣中に滞在していた。この陣中でL・T・スペルブス王の王子タルクィニウスらとコッラティヌスは妻を比べあった結果、陣営を抜け出し実際に妻たちのもとへ行きその貞淑を確かめることになった。王家の妻たちが宴会に興じているのに対してルクレティアだけは夫の留守を守り、貞節を守っていた。この結果を確認したのち一行は陣中に戻っていった。このときルクレティアの姿を見た王子タルクィニウスは彼女に横恋慕し、数日後今度は一人でルクレティアのもとを訪れた。夜になり、タルクィニウスはルクレティアを強制性交しようとし部屋に侵入した。剣で脅したがルクレティアは死をおそれず屈しなかった。しかし殺害後に裸の奴隷の死体とともに置き姦通の最中に殺されたかのようにするとの脅しには、その恥辱に耐えることはできなかった。タルクィニウスの去った後、ルクレティアはローマの父ルクレティウスと陣営の夫コッラティヌスを呼び出した。父はV・ウァレリウスを、夫はL・U・ブルトゥスを伴って駆けつけた。ルクレティアはそろった4人の男の前ですべてを告白し、男たちに復讐を誓わせると短剣で自らの命を絶った。この事件が契機となり復讐を誓った男たちは民衆に呼び掛け、王家はローマから追放された。その後成立した共和政ローマの最初の執政官には 実質的な設立者ブルトゥスとコッラティヌス(妻の命を差し出しただけの無能者と揶揄され ローマから逃避する)が、その後の補充執政官としてウァレリウスとルクレティウスが就任している。その後、亡命した国王タルクィニウスが他のエトルリア人勢力と同盟を結んでローマに侵攻(レギッルス湖畔の戦い、第一次ラティウム戦争)、またローマ内でも王政復古を画策する王党派の陰謀が明るみに出るなど受難が続くが、ルキウスは陰謀に加担していた自分の息子ティトゥスを容赦無く処刑するなど断固とした態度で挑み、共和制維持のために尽力した。また防戦のため、自ら軍を率いて出征を重ねるも、その途上で戦死したと言われている。死後も共和政ローマの理念を象徴する者とされ、ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が王位への野心を露にしたときには、ルキウスの像に「ブルトゥスは最初の執政官となって王を追放したのに、こいつ(シーザー)は執政官を追放して、ついに我々の王位に上り詰めた」と書かれたと伝わっている。ちなみに 後のシーザー暗殺の立役者 ブルータスはブルトゥスの末裔です。「因果はめぐる糸車、明日はわからぬ風車、臼で粉引く水車、我が家の家計は火の車、車は急には止まれない、すべて世の中堂々巡り・・・」
ルクレティアの物語は多くの文学・美術作品の主題となっている。
バロックとは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時に仰々しい豊饒や 壮大さによって特徴づけられる。18世紀半ばにロココ(バロックの延長とも) 18世紀後半には新古典主義へと移行した。
バロックという概念の誕生と発展
バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ている(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる。)
現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった。また、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のBarocoからきたともされる。
スペインの名作、グアディクス、バロック様式の大聖堂
バロック様式 華やかなホワイト
優に300年の古きにわたり 愛され続けた エンボス模様と シェイプは 世界中の プロから アマチュアまでに 大人気
ベッキオシェープ
ベッキオとは 古い伝統の という意味です。今でこそ ベッキオシェイプは ジノリの十八番と なっておりますが 洋食器ファンの ご明察どおり 昔から たくさんの 銘窯で焼かれており マイセン(#02)や ロイヤルコペンハーゲン(カーブ) ヘレンド(ロカイユ)等でも 現在まで 継続 存在しており 慣れ親しまれたシェイプです。
リチャードジノリ 【ベッキオホワイト】 コーヒーC/S・L 200cc 10%Off のお求めはコチラ
どの小さい写真もクリックで拡大
ソーサー 取っ手面
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。
「欧州磁器戦争史 (リチャードジノリ)」 詳しくは コチラをクリック してください。
【海の日・サマーフェア 本日 ~7/17】 ラッキーセブン7 1台限定
通常10%Off 【海の日・サマーフェア 本日 ~7/17】 %Off 各柄1客限定
アントワーヌ・ヴァトー(1684年 - 1721年)は、ロココ時代のフランスの画家。
18世紀のヨーロッパはロココの時代であり、前世紀のバロック様式に代わって、曲線的、装飾的で甘美なロココ様式が全盛となった。絵画の主題においても歴史画や宗教画から、男女の愛の駆け引きを主題にした風俗画が目立つようになる。
「雅びな宴」(フェート・ギャラント)の画家と呼ばれるヴァトーは、若くして亡くなったが、18世紀フランスのロココ様式を代表する画家と見なされている。
『シテール島への巡礼』 (1717年) ルーヴル美術館
ヴァトーの典型的な作品は、 『シテール島の巡礼』のような、田園に集い愛を語り合う若い男女の群れを描いたもので、これらは「雅びな宴」の絵と呼ばれた。
「ユピテルとアンティオペ」 ジャン・アントワーヌ・バトー (1715年)
「天なる父」ローマの主神ユピテルは、ユーノという正妻がありながら、多くの女神や人間の女性たちを誘惑して、数え切れないほどの子供をもうけている「懲りない」神でした。ギリシア神話では ゼウス。そのユピテルが今度は、テバイの摂政の娘のアンティオペを見初めてしまいます。ユピテルは森の精サテュロス(半人半獣)に化けて、眠っているアンティオペの背後から近づき、彼女の美しい裸身に見とれています。さて次は・・・・・・・
ワトー(ヴァトー)の「トワレ(生理的)身繕い インタイム」
『風姿花伝』 室町時代初期の猿楽師世阿弥が父観阿弥の教えにもとづいて書いた理論書です。世阿弥は「花と 面白きと めづらしきと、これ三つは同じ心なり」と書いています。
曰く 秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。
利休は 茶室に続く小道の落ち葉を掃き清めて客を迎えるに 掃き清めた後 2.3枚の落ち葉をさりげなく散らしたそうです。利休 侘び寂びの心です。谷崎潤一郎の「陰影礼賛」 皆然り。
間仕切りのないトイレがあったり モーツァルトのスカトロジーは有名です。日本人から見れば露悪趣味としか言えません。
と言いたいところですが今の東洋人に 慎みは無縁になってきているのでは・・・・・・・。素人の女の子が平気でポルノに出演します。まるで出演のお誘いがないと自分はそれほどのブスかと僻むがおち? 今 巷を騒がすリベンジ(雪辱を知らず ら抜き言葉が主流の若人。昨日の新聞発表)ポルノてなんですか。愛は永遠と信じていたというのですか? 離婚率が高いのを知りませんか? 東洋人の恥の文化 一概に良いとは言いませんが 少しはねー。きりがないのでここらでやめときます。
マイセン 【ワトーグリーン】 兼用C/S 3幅各1客の 写真は コチラをクリック してください。
手描き本金彩(セーヴルでも 金彩は 銅版転写です)
フランス・ロココの大家 アントワーヌ・ワトー原画
ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー原作 窓枠レリーフ エンツゥィーステッドハンドル
安物 安いのは当たり前
良いもの安いのが アインさん
セーヴルとしては フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 中国は勿論 マイセンにも 勝ち目の無いのは 明らかです。やがて時代は セーヴルの欧風ロココが シノワズリ・バロックのマイセンを旧となし 新潮流となっていきました。(結局 セーヴルは 捜し求めた カオリンを 1768年に リモージュ近郊の サン・イリョーで 発見するまで 硬質磁器を 焼成出来ませんでした)
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。磁器において先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりました。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
マイセン 【ワトーグリーン】 兼用C/S A 10%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
拡大写真 ソーサー絵 反対面
錬金術師-5
この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 ベトガー 5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
ラッキーセブン 7点限定。
通常5%Off 祝 新入学・新入社フェア ( 本日~ 4/10) 10%Off
新入荷
ブランド箱 330円 ギフト包装用に正規代理店から購入
グッチジノリより新入荷しました。何と 原価80%です。
品番も 2652に変更されました。
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
夜明けのコーヒー 二人で飲もうと あの人が言った 恋の季節よ~
ネッ スル ? (日本では1994年に、社名を「ネッスル日本」から、「ネスレ日本」に変更している。な~んでか ? ネッ スル ? )
後朝 (きぬぎぬ)の別れ 平安朝は妻問婚でした。夜這い(ヨバヒ)ともいう。
「後朝(きぬぎぬ)」とは、平安時代、まだ男女が通い婚だった時代に、お互いの衣と衣を重ねて一夜を共にした(当時まだ掛け布団はなく、衣を体の上に掛けて寝るのが一般的だった)翌朝、別れるときにそれまでひとつに重ねていた衣を別々に身につけることから転じて、愛を交わした男女が別れる朝の、余情のこと。「 衣衣」とも書く。
後朝 (きぬぎぬ)の別れ
有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし(百人一首 三十 壬生忠岑)
あけぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな (百人一首 五十二 藤原道信朝臣)
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
18年前 ヨーロッパ最大のドイツの リチャードジノリ代理店が代理店契約終了に当たり 在庫の処理を巡り リチャードジノリ社とトラブっておりましたので アインが 40フィートコンテナ2本分の在庫を引き受けました。超一流店として アインに足らざるブランド洋食器300年の歴史と伝統を買いました。
以来 グッチジノリになるまで フィレンツェ本店から 直接仕入れておりました..。
中間業者のマージンのいらないのもお安く売れる秘密の一つでした。
主だったお店を調べまして 一軒セール中のお店を見つけましたので やせ我慢価格で お熟成アインが一番お安くしております。
クッチシノリ社は 安売りをして倒産するのは嫌だと公言して 低価格帯のものは廃盤 継続するものはプライスを大幅に上げております。それではお熟成アインは 何故 何処にも無いお品を 惜しげもなくお安すくできるのでしょう ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 入手できたとしても 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりしてお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今では これだけの美品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !
バロック絵画
戦士(ゼウスの息子達)に略奪されるロイキポス王の娘達 ピーテル・パウル・ルーベンス 1618年 アルテ・ピナコテーク
ピーテル・パウル・ルーベンス 1577~1640
バロック最大の巨匠といえば、フランドルの画家ルーベンスにとどめを刺す。豊潤な色彩、流麗な筆さばき、官能的な裸体表現は見事である。
『レウキッボスの娘たちの略奪』は、ギリシャ神話の主神ゼウスと人間の王妃レダの間に生まれたディオスクーロイ(双子)カストルとポルックスの兄弟(のちに双子座になる)が、叔父レウキッボス王の娘ポイベーとヒーラエイラたちを妻にしようとさらってきた場面を描いた神話画。それぞれにムネーシレーオスとアノーゴーンという名の子供ができた。今ならさしずめ誘拐・婦女暴行事件だが、その現場を激しいポーズをとる男女2人ずつに馬2頭、愛の神キューピッド2人(一人は判りますがもう一人は何処に ? 下のステンドグラスを見ると判ります)をひとかたまりにして、ほぼ正方形の画面ぎりぎりにおさめた構成力は見事というほかない。
バロック期のヨーロッパを代表する画家ルーベンスの代表的神話画『レウキッポスの娘たちの略奪』のステンドグラスです。
なんとも神秘的で迫力のある作品ですね。このステンドグラスは、飯坂ホテル聚楽 ゆらりの入り口脇にあります。
このステンドグラス作者はルーベンスが キューピッドを2人描いているのを知らなかったんですね。
「相棒」の杉下右京さん(水谷 豊)じゃないけれど 小さなことが気になる岡本 笥椎の悪い癖。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
ディオスクーロイまたはジェミ(双子の兄弟)・カストルとポルックス
ふたご座は左右対称の端正な星座で、黄道十二星座としてもよく知られています。
冬の夜空に、東から起き上がるようにして昇り、立ちあっがっている姿で西の空へと沈んでいきます。
この双子の誕生は、やはり大神・ゼウスに関係していて、ゼウスとスパルタの王妃・レダとの間に誕生します。レダは大変美しい女性で、これに魅せられたゼウスは、白鳥の姿になってレダの元に舞い降りていきます。レダはその後ふたつの卵を産みますが、そのひとつからは双子の姉妹、トロイのヘレンと、後にトロイ戦争の時のギリシャの総大将・アガメムノンの妻となったクリュテムメストラが生まれました。そして、もうひとつの卵からは、双子の兄弟、カストルとポルクッスが誕生し、この兄弟が、冬の夜空にふたご座となって描かれることになります。また、レダの元に舞い降りた時の白鳥の姿は、夏の夜空に輝く、はくちょう座になっています。
紀元1世紀 ヴェスヴィオ火山の噴火に埋もれたポンペイ遺跡から出土のフレスコ画
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ティントレット、そして他の多くの芸術作品による絵画に影響を与えた。
ゼウス神は白鳥に変身し、スパルタの女王レダを強制性交した。
《レダと白鳥(失われたミケランジェロ作品に基づく)》 フランチェスコ・ブリーナ1575年頃 カーサ・ブオナローティ美術館
フランチェスコ・ブリナ (1540年 - 1586年)は、 16世紀に活躍するイタリアの マナー主義の 画家です。
さて、カストルとポルックスは共に武勇に優れ、カストルは剣の名人、ポルックスは馬術に優れ、カストルは普通の人間でしたが、ポルックスはゼウスの血を引き不死身の体を持っていました。双子の兄弟はいつも一緒に戦場を駆け巡り、多くの戦功を立てていました。アルゴ号の遠征隊にも参加し、ポルックスはビチュニアの王・アミュコスをも打ち負かし、双子の兄弟は誉れ高い英雄でもありました。後にはメッシナのイダス兄弟とも戦い、この戦いにも大きな勝利を治めます。しかし、この時カストルは流れ矢に当たって、命を落とすことになってしまいました。いつも一緒にいた弟のポルックスは深く悲しみ、兄の死を耐え難いものとして、受け入れることができません。ポルックスは大神・ゼウスに祈り、強く懇願しました。
「わたしたち双子の兄弟はいつも一緒にいて、戦場でも共に戦いました。兄ははかなくも亡くなってしまいましたが、わたしは不死の身である為に、死ぬことはできません。兄とは生まれた時が一緒なのですから、死ぬ時も一緒でありたいと思っていました。ですから、どうかわたしの不死を解いていただけないでしょうか」大神ゼウスは、我が子でもあるカストル(不死 ? )の死を悲しむと共に、兄を慕うポルックスの心に打たれ、その願いを叶えてやります。こうして二人は一緒に夜空にのぼり、ふたご座となったと伝えられています。
ふたご座のα星はカストル、β星はポルックスと名前が付けられていて、冬の夜空に仲良く並んでいるのが見られます。
神話は 変幻自在 融通無碍 二人ともゼウスの子なら 二人とも不死の筈です。でもたちどころに氷解します。
また、レダはゼウスとの間にポルックスを、スパルタ王(元王妃)との間にカストルを産んだとも言われていて、このため、ポルックスは不死の体をもっていたともされています。
やはりカストルは戦場で重症を負いますが、ポルックスがカストルと運命を共にしようとしたとき、ゼウスはポルックスの不死の力の半分をカストルに与えます。そして、ふたりは一緒に、生涯の半分は天で、半分は黄泉の国で暮らさなければならないことになり、半年ごとに天と冥界を行き来しているとも言われています。(1日ごととも、半日ごとなども言われています)
ところで、ふたご座はもっとも古くから知られている星座のひとつでもあって、古代バビロニアの時代には「大きな双子」と呼ばれていたと言われています。その神話では、最高神・マルドゥクと知恵の神・ナブーの姿を表わしているとも言われています。
時代が下ったローマ時代では、ふたご座は船の守り神としてもとらえられています。海で嵐にあったとき、マストの先に「セント・エルモの火」という、火が燃えているように見える現象(静電気による現象と言われています)は、ふたご座が起こしているもので、これが見えれば嵐は治まると信じられていました。
カストルとポルックス神殿
カストルとポルックス神殿はローマのフォロ・ロマーノにある古代の建築物である。紀元前495年、レギッルス湖畔の戦いの勝利への感謝を込めて建設された。カストルとポルックスはディオスクーロイまたはジェミニ(双子)と呼ばれ、ゼウス(ユーピテル)とレーダーの双子の息子を意味する。その信仰はギリシャからマグナ・グラエキアを経由して南イタリアのギリシア文化と共にローマにもたらされた。
王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスは王子セクストゥスの強制性交に端を発するルクレティアの自殺を契機にローマを追放された後、ラテン人たちと共に成立間もない共和政ローマと戦った。この戦いの前に、ローマの独裁官アウルス・ポストゥミウス・アルブスは、戦いに勝ったらディオスクーロイの神殿を建立することを誓った。
伝説によれば、カストルとポルックスは2人の有能な騎手として戦場に現れ、ローマ側に加勢したという。また、ローマが勝利した後にもフォルム・ロマヌムのユートゥルナの泉に現れ、馬に水を飲ませたという。神殿は彼らが現れたと言われている場所に建てられた。ポストゥミウスの息子が神殿を完成させたのは紀元前484年のことだった。
<タルクィニウスとルクレティア> ピーテル・パウル・ルーベンス 1609年から1612年
ルクレティア(紀元前509年没)は紀元前6世紀にローマを王政から共和政へと移行させる契機になったとされる女性。イタリア語ではルクレツィアとなる。他の共和政初期の人物同様実在には疑問がある。
伝承によればルクレティアはS・ルクレティウス・Tの娘で、コッラティヌスの貞淑な妻であった。
紀元前509年、ローマはルトゥリ人のアルデアを攻撃中で、ルクレティアの夫コッラティヌスもこの陣中に滞在していた。この陣中でL・T・スペルブス王の王子タルクィニウスらとコッラティヌスは妻を比べあった結果、陣営を抜け出し実際に妻たちのもとへ行きその貞淑を確かめることになった。王家の妻たちが宴会に興じているのに対してルクレティアだけは夫の留守を守り、貞節を守っていた。この結果を確認したのち一行は陣中に戻っていった。このときルクレティアの姿を見た王子タルクィニウスは彼女に横恋慕し、数日後今度は一人でルクレティアのもとを訪れた。夜になり、タルクィニウスはルクレティアを強制性交しようとし部屋に侵入した。剣で脅したがルクレティアは死をおそれず屈しなかった。しかし殺害後に裸の奴隷の死体とともに置き姦通の最中に殺されたかのようにするとの脅しには、その恥辱に耐えることはできなかった。タルクィニウスの去った後、ルクレティアはローマの父ルクレティウスと陣営の夫コッラティヌスを呼び出した。父はV・ウァレリウスを、夫はL・U・ブルトゥスを伴って駆けつけた。ルクレティアはそろった4人の男の前ですべてを告白し、男たちに復讐を誓わせると短剣で自らの命を絶った。この事件が契機となり復讐を誓った男たちは民衆に呼び掛け、王家はローマから追放された。その後成立した共和政ローマの最初の執政官には 実質的な設立者ブルトゥスとコッラティヌス(妻の命を差し出しただけの無能者と揶揄され ローマから逃避する)が、その後の補充執政官としてウァレリウスとルクレティウスが就任している。その後、亡命した国王タルクィニウスが他のエトルリア人勢力と同盟を結んでローマに侵攻(レギッルス湖畔の戦い、第一次ラティウム戦争)、またローマ内でも王政復古を画策する王党派の陰謀が明るみに出るなど受難が続くが、ルキウスは陰謀に加担していた自分の息子ティトゥスを容赦無く処刑するなど断固とした態度で挑み、共和制維持のために尽力した。また防戦のため、自ら軍を率いて出征を重ねるも、その途上で戦死したと言われている。死後も共和政ローマの理念を象徴する者とされ、ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が王位への野心を露にしたときには、ルキウスの像に「ブルトゥスは最初の執政官となって王を追放したのに、こいつ(シーザー)は執政官を追放して、ついに我々の王位に上り詰めた」と書かれたと伝わっている。ちなみに 後のシーザー暗殺の立役者 ブルータスはブルトゥスの末裔です。「因果はめぐる糸車、明日はわからぬ風車、臼で粉引く水車、我が家の家計は火の車、車は急には止まれない、すべて世の中堂々巡り・・・」
ルクレティアの物語は多くの文学・美術作品の主題となっている。
バロックとは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時に仰々しい豊饒や 壮大さによって特徴づけられる。18世紀半ばにロココ(バロックの延長とも) 18世紀後半には新古典主義へと移行した。
バロックという概念の誕生と発展
バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ている(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる。)
現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった。また、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のBarocoからきたともされる。
スペインの名作、グアディクス、バロック様式の大聖堂
バロック様式 華やかなホワイト
優に300年の古きにわたり 愛され続けた エンボス模様と シェイプは 世界中の プロから アマチュアまでに 大人気
ベッキオシェープ
ベッキオとは 古い伝統の という意味です。今でこそ ベッキオシェイプは ジノリの十八番と なっておりますが 洋食器ファンの ご明察どおり 昔から たくさんの 銘窯で焼かれており マイセン(#02)や ロイヤルコペンハーゲン(カーブ) ヘレンド(ロカイユ)等でも 現在まで 継続 存在しており 慣れ親しまれたシェイプです。
リチャードジノリ 【ベッキオホワイト】 コーヒーC/S・L 200cc 10%Off のお求めはコチラ
どの小さい写真もクリックで拡大
ソーサー 取っ手面
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。
「欧州磁器戦争史 (リチャードジノリ)」 詳しくは コチラをクリック してください。
コメント
コメントの投稿
« ウェッジウッド 【スィートプラム 英国製】 フッテッドマグ H10cm 300cc 10%Off l Home l リチャードジノリ 【ヴェラホワイト】 兼用スクェアC/S 200cc 10%Off »