ヘレンド 【ウィーンのバラ VRH】 19cmクレセントディッシュ530 15%Off
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祝勤労感謝の日労フェア(本日~ 11/23) 1枚限定
通常10%Off 祝勤労感謝の日労フェア(本日~ 11/23) 15%Off
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
過日 若い美人客(ご来店の女性客は 老若を問わず 皆 美しく見えます。)が このクレセントを見て「あっ 髭皿!」と小さく叫ばれました。
私は 「お客さん 髭皿をご存知なのですか?」と思わず言いました。
実は ヘレンドのクレセントは 形は少し似てますが 髭皿では有りません。
でも お若いのに 髭皿を知っておられるのに 感心しました。
髭皿とは 昔の紳士が 身嗜みに 髭を当るとき 喉元に当てて用いたものです。おしゃれを競う紳士達は 自分専用の逸品を 特注して 誇っておりました。高じて わざわざ 海を渡り 東洋まで手を伸ばす 豪の者もいました。 磁器が 白い黄金と尊ばれ 憧憬品であったころ 在り来りの東洋磁器に飽き足らず オランダ東インド会社(V・O・C)に シン・ドゥ・コマンド(西洋から東洋への注文品)を輸入させ 憧れのシノワズリ・ジャポネズリを 謳歌しておりました。17世紀中・後期 明から 清への政変期 景徳鎮窯の停滞に 日本の有田諸窯が 間隙を縫って 大いに活動しました。
紋章入りの有田焼髭皿に かつての紳士達の 男伊達と 顕示欲の強さが偲ばれます。
色絵紋章入り髭皿 有田窯
同業者が 公正取引委員会へ 代理店から輸入妨害を受けていると訴え出ました。(当時 日本は加工貿易黒字大国で 通産省MITIは 世界中から 失業の輸出と非難されておりました。そこでMITIは 先進国で唯一 代理店契約のあるブランドの並行輸入を合法としました。)公正取引委員会の立ち入り検査で アインも妨害を受けていると判り アインにも被害届を出すようにと電話をしてきました。ヘレンド社は 代理店間の兄弟喧嘩をさせないでほしい。アインには 代理店並みの便宜を図るからと連絡がありました。以後アインにはマスターペインターサインを許され 一般品でも手の良い物の気配りを頂けるようになりました。
主だったお店を調べましたが 在庫を持っているお店は何処も無く 中古品ならいざ知らず新品でこの美品が これだけ安いのは どうやらお熟成アインだけです。
それではお熟成アインは何故 お安いのでしょう ? それは売るのが下手で旧作のお品がまだあるからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手に高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今では これだけの美品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
「薔薇女」
バラの宮廷画家 ルドゥーテ
ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (1759年 - 1840年)は、南ネーデルラント出身のベルギーの画家、植物学者。 ユリやバラなどの植物を描いた博物画を多く残しており、「バラの画家」「花の画家」「花のラファエロ」として知られる。 銅版画による多色刷り印刷を確立した人物と言われる場合もあるが、彼の作品はすべて手彩色による修正が施されている。
ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌがマルメゾン城にバラ園を営み、世界中からバラを蒐集していることを知ったルドゥーテはバラの絵を描く事を思い立ち、ジョゼフィーヌからバラ園の出入りの許可を得た。以来、ルドゥーテはマルメゾン城のバラや他の植物の絵を描くことになった。ルドゥーテはいくつかの植物図譜を著すが、その中でも「バラ図譜(Les Roses)」は最高傑作と言われる。「バラ図譜」はジョゼフィーヌの死後の1817年から1824年にかけて全3巻に分けて出版される。「バラ図譜」には169種のバラが精密に描かれ、芸術的価値だけではなく植物学上も重要な資料となっている。「バラ図譜」の原画は1837年にベリー公妃マリー=カロリーヌの口利きで国家に買い上げられることとなるが、1871年のルーブルの図書館の火災で焼失したと言われている。
インダス文明を生んだドラヴィダ人と「高貴な」アーリア人の血の混交がこれほどの美女を生むのでしょうか ?
因みに人種差別や優生学を美化したヒットラーのナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋「高貴な」アーリア人であるとする見解は 現在では疑似科学(科学的方法に基づいていると誤って考えられたり、あるいは科学的事実だと間違って位置付けられてしまった一連の信念)だと見なされている。
「死の丘」 モヘンジョ=ダロに蘇る 薔薇の美女
ヨーロッパ大陸のバラは ウィーン様式が元祖で 花と茎枝と葉が自然に描かれ ロココに乗り遅れたマイセンでも 同列です。
島国英国は 連ねたバラの両端に葉を添え花のみの美しさを引き立てるのが主流で 大陸とは1線を画しております。
ウィーン様式 大陸のバラ 島国英国 連ねたバラ
ウルムの戦いを制した、1805年11月、フランス軍は既に放棄されたオーストリアの首都ウィーンに入城した。ロシア軍は戦わずしてウィーンからチェコへ退却し、神聖ローマ皇帝フランツ2世もチェコのオルミュッツに逃れた。オルミュッツに集結した軍団は、イタリアから北上してくるカール大公の軍を待つことになった。フェルディナンド大公率いるオーストリア軍一万八千もプラハに展開していた。オーストリア軍には集結させると十万近い軍団がまだ健在であった。ウィーンにいるナポレオンを北と南から挟撃しようとした。
この連合軍の動きに対してナポレオンは先制攻撃を加える。ボヘミアに軍団を進軍させてオーストリア=ロシア連合軍とで対峙をした。ナポレオンの手元には六万五千の手勢しか残っていなかった。
11月29日にナポレオンは休戦交渉を開始した。これは自分が弱気になっていると連合軍に思わせる芝居であった。このナポレオンからの講和の申し入れに若いアレクサンドルはすっかり気を良くして、連合軍は決戦を急ぐというナポレオンの思惑にすっかり乗ってしまい、戦いの火ぶたが切られた。12月1日、ロシア軍はブライツェン高地を攻撃してこれを奪った。アレクサンドル1世はフランス軍の脆弱さに調子にのり、ますます油断をした。
1805年12月 アウステルリッツの戦い フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから「三帝会戦」とも呼ばれる。
アウステルリッツの戦い「三帝会戦」
連合軍は まんまとナポレオンの作戦の乗せられる形となり ついには南の凍結したザッチャン湖に向かって敗走を始めた。ナポレオンは凍った湖に砲撃を浴びせ、連合軍兵士は冷たい湖の中に次々と沈んでいった。
午後4時ごろまでに連合軍の組織的抵抗は完全に終わり、フランツ帝はその日のうちにナポレオンに降伏。アレクサンドル帝はロシアへ逃げ帰った。連合軍は一万六千の死傷者と、三万の捕虜を出して壊滅した。フランス軍は千三百の戦死者と七千の負傷者を出したが、フランスの圧倒的勝利で終わった。
ナポレオン戦争により ヨーロッパ中が 疲弊する中 ハプスブル家も埒外たりえず 衰退を同じくし それに連なるウィーン窯も 1864年 120年の幕を閉じる事になりました。ヘレンドは ウィーン窯のオールドウインナーローズ(ウィーン宮廷専用)に代わり ウィーンのバラを ご下命され 制作を引き受けております。第1次世界大戦により ハブスブルグ王家が退位するまで ウィーンのバラは 王家御用達で 一般には 禁じられておりました。
オジア・シェープ
ヘレンドの主流シェープ
マイセンの#01シェープに同じ
ヘレンドには オジア,ロカイユ,リッセ,エステルハージ,シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02,ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分 時代を読み誤ったのでしょう? もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフetc.) で シェープは デコラティブな貴族趣味を旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は見られません。
本来 ハンガリー国ですから 東洋の真珠と謳われた 美しい都 ブタペストのバラと 名乗るところ ハプスブルク家の 銘窯ウィーンの代表作 ウィーンのバラを名乗ることを 許されました。当時 ウィーンはヨーロッパ一の 文化香る 憧れの都でした。
1864年 休窯した ウィーン窯の オールドウインナーローズ(ウィーン宮廷用)に代わり ヘレンドに ウィンナーローズが ご下命されました。
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。いかに調べても マジャル人がハンガリーに移住してきた頃で 建国とする根拠が判らないのです。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいない。
(「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて判ったのは ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。現ハンガリー第三共和国のヘレンドは 1996年を 建国1100年記念年として 清の花籠, 2001年 ヘレンド創立175周年記念に カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがて オリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
「欧州磁器戦争史 秘法漏洩 番外編 ヘレンド窯」 詳しくは コチラをクリック して下さい。
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バラの宮廷画家 ルドゥーテ
ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (1759年 - 1840年)は、南ネーデルラント出身のベルギーの画家、植物学者。 ユリやバラなどの植物を描いた博物画を多く残しており、「バラの画家」「花の画家」「花のラファエロ」として知られる。 銅版画による多色刷り印刷を確立した人物と言われる場合もあるが、彼の作品はすべて手彩色による修正が施されている。
ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌがマルメゾン城にバラ園を営み、世界中からバラを蒐集していることを知ったルドゥーテはバラの絵を描く事を思い立ち、ジョゼフィーヌからバラ園の出入りの許可を得た。以来、ルドゥーテはマルメゾン城のバラや他の植物の絵を描くことになった。ルドゥーテはいくつかの植物図譜を著すが、その中でも「バラ図譜(Les Roses)」は最高傑作と言われる。「バラ図譜」はジョゼフィーヌの死後の1817年から1824年にかけて全3巻に分けて出版される。「バラ図譜」には169種のバラが精密に描かれ、芸術的価値だけではなく植物学上も重要な資料となっている。「バラ図譜」の原画は1837年にベリー公妃マリー=カロリーヌの口利きで国家に買い上げられることとなるが、1871年のルーブルの図書館の火災で焼失したと言われている。
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ヨーロッパ大陸のバラは ウィーン様式が元祖で 花と茎枝と葉が自然に描かれ ロココに乗り遅れたマイセンでも 同列です。
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ウィーン様式 大陸のバラ 島国英国 連ねたバラ
ウルムの戦いを制した、1805年11月、フランス軍は既に放棄されたオーストリアの首都ウィーンに入城した。ロシア軍は戦わずしてウィーンからチェコへ退却し、神聖ローマ皇帝フランツ2世もチェコのオルミュッツに逃れた。オルミュッツに集結した軍団は、イタリアから北上してくるカール大公の軍を待つことになった。フェルディナンド大公率いるオーストリア軍一万八千もプラハに展開していた。オーストリア軍には集結させると十万近い軍団がまだ健在であった。ウィーンにいるナポレオンを北と南から挟撃しようとした。
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11月29日にナポレオンは休戦交渉を開始した。これは自分が弱気になっていると連合軍に思わせる芝居であった。このナポレオンからの講和の申し入れに若いアレクサンドルはすっかり気を良くして、連合軍は決戦を急ぐというナポレオンの思惑にすっかり乗ってしまい、戦いの火ぶたが切られた。12月1日、ロシア軍はブライツェン高地を攻撃してこれを奪った。アレクサンドル1世はフランス軍の脆弱さに調子にのり、ますます油断をした。
1805年12月 アウステルリッツの戦い フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから「三帝会戦」とも呼ばれる。
アウステルリッツの戦い「三帝会戦」
連合軍は まんまとナポレオンの作戦の乗せられる形となり ついには南の凍結したザッチャン湖に向かって敗走を始めた。ナポレオンは凍った湖に砲撃を浴びせ、連合軍兵士は冷たい湖の中に次々と沈んでいった。
午後4時ごろまでに連合軍の組織的抵抗は完全に終わり、フランツ帝はその日のうちにナポレオンに降伏。アレクサンドル帝はロシアへ逃げ帰った。連合軍は一万六千の死傷者と、三万の捕虜を出して壊滅した。フランス軍は千三百の戦死者と七千の負傷者を出したが、フランスの圧倒的勝利で終わった。
ナポレオン戦争により ヨーロッパ中が 疲弊する中 ハプスブル家も埒外たりえず 衰退を同じくし それに連なるウィーン窯も 1864年 120年の幕を閉じる事になりました。ヘレンドは ウィーン窯のオールドウインナーローズ(ウィーン宮廷専用)に代わり ウィーンのバラを ご下命され 制作を引き受けております。第1次世界大戦により ハブスブルグ王家が退位するまで ウィーンのバラは 王家御用達で 一般には 禁じられておりました。
オジア・シェープ
ヘレンドの主流シェープ
マイセンの#01シェープに同じ
ヘレンドには オジア,ロカイユ,リッセ,エステルハージ,シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02,ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分 時代を読み誤ったのでしょう? もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフetc.) で シェープは デコラティブな貴族趣味を旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は見られません。
本来 ハンガリー国ですから 東洋の真珠と謳われた 美しい都 ブタペストのバラと 名乗るところ ハプスブルク家の 銘窯ウィーンの代表作 ウィーンのバラを名乗ることを 許されました。当時 ウィーンはヨーロッパ一の 文化香る 憧れの都でした。
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