マイセン 【リアルな花と蝶】 兼用C/S-3,4, ペア 30%Off
マイセン 【リアルな花と蝶】 兼用C/S-3,4, ペア 30%Off
山の日記念 (本日 ~ 8/11) 1ペア限定
通常25%Off 山の日記念 (本日 ~ 8/11) 30%Off
ブランド箱 378X2=756円 ギフト包装用に正規代理店から購入
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが これだけの高額美術品になると 誰も手が出なくて お熟成アインにしか無く 従ってお熟成アインが一番お安くなります。
それではお熟成アインは何故お安いのでしょう ? それは売るのが下手で二昔前のの新品が まだあるからです。お花絵の2人の大家(ペインターNo.100とNo.367)に ドイツの基数4を 2柄づつ特別注文で制作して頂きました。大概のお店は もし手に入ったとしても色々な宣伝広告に金をかけたり ポイントで釣ったたりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今ではこれだけの美術品はおいそれとは手に入りません。それを25%Off もするのですから お熟成アインの真骨頂 ! !
あるご夫婦のお客さんから 「アインさんは 他所にない良い物をたくさんお持ちですが あまり有名にならないでいてほしい。買いたいものが色々あるのですが 自分たちは そんなに余裕がないから 少しずつしか買えないので あまり有名になられて どんどん売切れていくのが心配です。」と言われました。当店の返事は「大丈夫ですよ。宣伝広告するぐらいなら その広告代をいつか巡り合うお客さんに還元したいので 宣伝広告したことありませんから」でした。
でも宣伝の力って凄いですね。宣伝して有名になると高くても売れるんですから !
手持ちの不動産を売っては 洋食器を仕込み 耐震力のある店舗倉庫ビルを買い求め 大好きな洋食器を大切に展示備蓄しておりますが 一生の仕事と一所懸命「楽しく」頑張っております。今では この高級ブランド洋食器の世界では 品揃え世界一と羨ましがられております。
今月18日の朝7時58分ごろ、大阪府北部を震源とするM6.1、最大震度6弱の地震が発生した。大阪では1923年の観測開始以来最大の地震となり、死者や数百人の負傷者などの被害も報告されている。
ご報告
ご心配おかけしましたが 頑丈が取り柄のこの耐震ビルは 食器さんたちをピクリとも揺らさず 安全に守ってくれました。
地震当時 岡本は パソコンに向かっていたのですが 突き上げる揺れをかすかに感じ 地震かと思い お店を見ました。食器さんたちは こともなく 静かに佇んでおりました。次々飛び込んでくる 地震のニュースやお見舞いに このビルを選んだ安堵と さあ来い 南海トラフと構えております。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
昔々、天の川の東に、織物を織るのがとても上手な織女がいました。織る機はとても美しく、さまざまな色に光り輝いていました。
しかし織女は年頃になって化粧もせず遊びにも行かず織物ばかりを織り続けるので、織女の父である天帝は不憫に思い、婿探しを始めます。一方その頃、天の川の西には真面目に働く牛飼いの青年、牽牛がいました。天帝は牽牛の噂を聞きつけ、「是非娘と結婚してくれ」と願い出ました。牽牛はその話を有り難く引き受け、2人は結婚することになったのです。ところが、結婚してからというもの、あれだけ一生懸命に働いていた2人は、毎日天の川のほとりで話をするばかりで全く働かなくなってしまったのです。織女が織物を織らなくなったので機織り機にはほこりが積もり、牽牛が牛の世話をしなくなったので牛たちは弱っていきます。これを見た天帝はすっかりお怒りになり、二人を引き離してしまいました。織女は泣いて天帝に頼んだところ、前のようにしっかり働くのなら 年に一度、7月7日だけ天の川を渡って、二人が会うことを許されたのだそうです。
7月7日に雨が降ると天の川の水が増水してわたることができないの で、カササギが二人の橋渡しをします。そして今でも二人は、織姫星と牽牛星(彦星)として天の川のほとりで輝いているのだそうです。
マイセン 【リアルな花と蝶】 四柄 各一客 の写真は コチラを クリック してください。
フローラは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。
オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
また、フローラが 夫のユーピテルが 自分でミネルウァを産んだため 正妻としての面目を失った神々の女王ユーノーに 触れた女が 自然に子を身籠もる魔法の花を与え 戦士神マールスの誕生を助けたという説話も残されている。
パルマ・ヴェッキオ フローラ 1520
(解説1)オウィディウス プブリウス・オウィディウス・ナソ(紀元前43年3月20日 - 紀元17年)は、古代ローマのアウグストゥスの時代に生きた詩人。代表作は『恋愛術』、『変身物語』など。ラテン文学史上は「黄金の時代」の掉尾を飾る詩人とされる。オウィディウスの詩作品は後期古代から中世にかけての時代に多くの詩人に模倣され、西洋美術と西洋文学に絶大な影響を与えた。ウェルギリウスやホラティウスよりは一世代若い世代に属する。彼らの時代から下ること数十年後の修辞学者クインティリアヌスはオウィディウスを最後のラテン恋愛悲劇作家と評した。
紀元1年ごろ(一般に 紀元元年だが ISOや天文学的には 0年があるので 紀元2年になる)、ギリシア神話を参考にして『恋愛術』を書いた。しかし余に露骨な性描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、西暦8年、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ一生流された。
「スキタイ人たちのもとに追放されたオウィディウス」 ウジェーヌ・ドラクロワ画 1859年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ (1798年 - 1863年) は、フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。
トミスは黒海に面した港町で、当時はローマの勢力圏が及ぶ範囲の端になっていた。この配流は、一切の法に基づく裁判が行われず、皇帝個人の独断的な干渉により決まった。元老院による助言もなかった。この事件は以後の作品のすべてに決定的な影響を及ぼす。オウィディウスは追放の原因を 「一つの詩と一つの過ち」と表現し、「わが罪は殺人より重く」「誰かを傷つけること、詩よりもはなはだしい」と詠んだ。皇帝の孫である小ユリアとユッルス・アントニウスもまた、オウィディウスの配流と時をほぼ同じくして配流されている。小ユリアの夫、ルキウス・アエミリウス・パウルスが皇帝に対する謀議に加わったとして誅殺されたが、オウィディウスはこの陰謀を知っていて庇ったのかもしれない。アウグストゥス帝により紀元前18年に制定されたユリア法は獣姦や姦通など「不自然な天理に背く行為」を規定しこれに刑罰を設定した法であるが、出生率を上げるために一夫一婦制を推進し、ローマ人の意識に新風を吹き込むことでローマの風俗を改良しようとするものであった。オウィディウスの『恋の技法』はユリア法に照らして重い姦通となる行為を扱っている。皇帝が定めた風紀を破壊しかねない「恋のてくだ」をはじめとする彼の抒情詩ゆえに、彼は追放の憂き目にあったのかもしれない。しかしながら、この作品の公表(紀元前1年)から追放(西暦8年)まで、長い時間が経過していることに鑑みると、アウグストゥスは何かもっと個人的な理由でオウィディウスの追放を決心し、風紀紊乱は口実に過ぎないのではないかという説もある。当時自由に流布していたプロペルティウス、ティブッルス、ホラティウスの作品の中には、下品さという点で「恋のてくだ」とそう変わらないものが多数あるという事実によってもこの説は補強される。オウィディウスの追放の原因がはっきりしないため、現代に至るまで幾多の学者たちが終わりのない論争を続けることとなった。中にはオウィディウスがローマを追放されたことは一度もなく、追放後の作品のすべては詩人の豊かな想像力の産物である、という説まである。
(解説2)ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
映画『ニンフォマニアック Vol.2』
17世紀初頭の花卉画は、ブーケは花の集合体としての描き方で、ポートレートスタイル、平面的でしたが、次第に明暗法を取り入れ立体的になり、光と影の遠近効果が表れます。 その後は、さらにいくつかの花にスポットライトをあて、際立った陰影をつけるライティング効果で描きます。茎の曲げや向きなど、自由自在に思うようにつくりあげ(プラスチック効果)、更なる陰影で奥行きを深めて宇宙空間をも表現します。 デザインにエレガンスが加わり、花はたおやかに、動きはキャスケードにえがかれ、芸術的にリズミカルなアラベスク、18世紀には超現実主義な絵となりました。
Van Dael 17-18世紀 Fontainebleau Musee 黄金期の作品。
オランダでこの時代に活躍した画家の一部は、マイセンで磁器の花の絵付けに携わることになります。
マイセン社「最高の芸術品」自称
絵付けだけでも4~5回窯に入る力作です。
花絵を堪能してもらう為に シェープは 到ってシンプルです。
やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入した ペインターの卵達が まず 最初に習うのが お花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に 精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
その中でも マイセン花絵の双肩大家 ペインターNo.367に 絵付けしてもらいました。
マイセン 【リアルな花と蝶】 兼用C/S-3,4, ペア 30%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
ソーサー絵・カップ正面 反対面 把手面
マイセン 【 リアルな花と蝶 】 山の日記念 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-5
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や 男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は 死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐらいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産業スパイを 図らずも呼び集めました。固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 ベトガー 5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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しかし織女は年頃になって化粧もせず遊びにも行かず織物ばかりを織り続けるので、織女の父である天帝は不憫に思い、婿探しを始めます。一方その頃、天の川の西には真面目に働く牛飼いの青年、牽牛がいました。天帝は牽牛の噂を聞きつけ、「是非娘と結婚してくれ」と願い出ました。牽牛はその話を有り難く引き受け、2人は結婚することになったのです。ところが、結婚してからというもの、あれだけ一生懸命に働いていた2人は、毎日天の川のほとりで話をするばかりで全く働かなくなってしまったのです。織女が織物を織らなくなったので機織り機にはほこりが積もり、牽牛が牛の世話をしなくなったので牛たちは弱っていきます。これを見た天帝はすっかりお怒りになり、二人を引き離してしまいました。織女は泣いて天帝に頼んだところ、前のようにしっかり働くのなら 年に一度、7月7日だけ天の川を渡って、二人が会うことを許されたのだそうです。
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オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
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パルマ・ヴェッキオ フローラ 1520
(解説1)オウィディウス プブリウス・オウィディウス・ナソ(紀元前43年3月20日 - 紀元17年)は、古代ローマのアウグストゥスの時代に生きた詩人。代表作は『恋愛術』、『変身物語』など。ラテン文学史上は「黄金の時代」の掉尾を飾る詩人とされる。オウィディウスの詩作品は後期古代から中世にかけての時代に多くの詩人に模倣され、西洋美術と西洋文学に絶大な影響を与えた。ウェルギリウスやホラティウスよりは一世代若い世代に属する。彼らの時代から下ること数十年後の修辞学者クインティリアヌスはオウィディウスを最後のラテン恋愛悲劇作家と評した。
紀元1年ごろ(一般に 紀元元年だが ISOや天文学的には 0年があるので 紀元2年になる)、ギリシア神話を参考にして『恋愛術』を書いた。しかし余に露骨な性描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、西暦8年、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ一生流された。
「スキタイ人たちのもとに追放されたオウィディウス」 ウジェーヌ・ドラクロワ画 1859年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ (1798年 - 1863年) は、フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。
トミスは黒海に面した港町で、当時はローマの勢力圏が及ぶ範囲の端になっていた。この配流は、一切の法に基づく裁判が行われず、皇帝個人の独断的な干渉により決まった。元老院による助言もなかった。この事件は以後の作品のすべてに決定的な影響を及ぼす。オウィディウスは追放の原因を 「一つの詩と一つの過ち」と表現し、「わが罪は殺人より重く」「誰かを傷つけること、詩よりもはなはだしい」と詠んだ。皇帝の孫である小ユリアとユッルス・アントニウスもまた、オウィディウスの配流と時をほぼ同じくして配流されている。小ユリアの夫、ルキウス・アエミリウス・パウルスが皇帝に対する謀議に加わったとして誅殺されたが、オウィディウスはこの陰謀を知っていて庇ったのかもしれない。アウグストゥス帝により紀元前18年に制定されたユリア法は獣姦や姦通など「不自然な天理に背く行為」を規定しこれに刑罰を設定した法であるが、出生率を上げるために一夫一婦制を推進し、ローマ人の意識に新風を吹き込むことでローマの風俗を改良しようとするものであった。オウィディウスの『恋の技法』はユリア法に照らして重い姦通となる行為を扱っている。皇帝が定めた風紀を破壊しかねない「恋のてくだ」をはじめとする彼の抒情詩ゆえに、彼は追放の憂き目にあったのかもしれない。しかしながら、この作品の公表(紀元前1年)から追放(西暦8年)まで、長い時間が経過していることに鑑みると、アウグストゥスは何かもっと個人的な理由でオウィディウスの追放を決心し、風紀紊乱は口実に過ぎないのではないかという説もある。当時自由に流布していたプロペルティウス、ティブッルス、ホラティウスの作品の中には、下品さという点で「恋のてくだ」とそう変わらないものが多数あるという事実によってもこの説は補強される。オウィディウスの追放の原因がはっきりしないため、現代に至るまで幾多の学者たちが終わりのない論争を続けることとなった。中にはオウィディウスがローマを追放されたことは一度もなく、追放後の作品のすべては詩人の豊かな想像力の産物である、という説まである。
(解説2)ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
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17世紀初頭の花卉画は、ブーケは花の集合体としての描き方で、ポートレートスタイル、平面的でしたが、次第に明暗法を取り入れ立体的になり、光と影の遠近効果が表れます。 その後は、さらにいくつかの花にスポットライトをあて、際立った陰影をつけるライティング効果で描きます。茎の曲げや向きなど、自由自在に思うようにつくりあげ(プラスチック効果)、更なる陰影で奥行きを深めて宇宙空間をも表現します。 デザインにエレガンスが加わり、花はたおやかに、動きはキャスケードにえがかれ、芸術的にリズミカルなアラベスク、18世紀には超現実主義な絵となりました。
Van Dael 17-18世紀 Fontainebleau Musee 黄金期の作品。
オランダでこの時代に活躍した画家の一部は、マイセンで磁器の花の絵付けに携わることになります。
マイセン社「最高の芸術品」自称
絵付けだけでも4~5回窯に入る力作です。
花絵を堪能してもらう為に シェープは 到ってシンプルです。
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錬金術師-5
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や 男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は 死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐらいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産業スパイを 図らずも呼び集めました。固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 ベトガー 5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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