マイセン 【青い花・614701】 コーヒーポット・28694 1.3L 15%Off
マイセン 【青い花・614701】 コーヒーポット・28694 1.3L 15%Off
祝勤労感謝の日フェア(本日~ 11/23) 三台限定
通常10%Off 祝勤労感謝の日フェア(本日~ 11/23) 15%Off
青い瞳のバービーがロシアに登場。人形ではありません。
ネモフィラはムラサキ科ネモフィラ属に分類される植物の総称。または、ルリカラクサ(瑠璃唐草)のこと。 ネモフィラ属は、APG植物分類体系では、ムラサキ科であるが、新エングラー体系、クロンキスト体系では、ハゼリソウ科に分類される。
ネモフィラ属は、カナダ西部からアメリカ合衆国西部、メキシコにかけてとアメリカ合衆国東南部に11種が分布する。
ルリカラクサは、種として園芸上ネモフィラと呼ばれる。耐寒性一年草。草丈10-20cm 、茎は匍匐性で横に広がる。葉には羽状の深い切れ込みがあり、茎と葉に柔毛がある。花は4月-5月に開花し、花径2cmくらいで、白に空色または青紫色の深い覆輪で、中心部に黒い点が5つある。白色花もある。属名は「林を愛する」の意味で、茂みの中の明るい日だまりに自生していることによる。
美しすぎる青い花絶景 ! 春に咲く「ネモフィラ」
中国の陶磁器では、新石器時代から清時代に至る中国の陶磁工芸の流れと技法を概観する。
中国陶磁の歴史は新石器時代の紅陶や彩文土器から始まり、さまざまな技術革新を重ね、三彩、白磁、青磁、青花、五彩などの華麗な器を作り出し、世界の陶磁界をリードしてきた。英語のチャイナという単語は、普通名詞としては「磁器」を意味するが、このことに象徴されるように、中国は世界に先駆けてガラス質の白いやきものである磁器を生み出した。中国磁器は中国の宮廷で用いられたのみならず、主要な貿易品の一つとして、アジア諸国、イスラム圏、ヨーロッパなどにも大量に輸出された。こうした中国磁器は、日本では茶の湯の道具に取り入れられ、イスラム圏やヨーロッパでは王侯貴族のコレクションに収まるなど、世界の陶磁器の発展に多大な影響を及ぼしてきた。
出手清乾隆青花五彩瓷器
青花と五彩
青花とは「青い文様」の意で、白地に青い文様を表した磁器である。同様のものを日本語では「染付」という。青花は釉下彩、すなわち素地に直接絵付けしてその上から透明釉を掛けたものである。酸化コバルト顔料で図柄を描いた上に透明釉を掛け、高火度焼成すると、顔料は青く発色する。同様の釉下彩には、鉄絵具を用いた鉄絵や、銅呈色の釉裏紅がある。五彩とは、多色の絵具を用いて白磁の釉上に図柄を描いた磁器である。素地に透明釉を掛けて高火度焼成した後、釉上に上絵具で図柄を描き、錦窯という小型の窯で再び低火度焼成する。1つの器に五彩と青花を併用する場合もある。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に1400゜Cもの高温の焼き付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ヴェレンシュピール
ザビーネ・ワックス女史達が マイセン伝統の優雅さを
失う事無く 使っても楽しい「用の美」を求め 口縁に白い波を表現した 染付作品集です。
偉大なマンネリズムを 標榜し 伝統を受け継ぐ一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術
集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニ
ット型が ここから生まれました。
1975年には 更に若い世代によるクンストラー・コレクティヴが立ち上げられ
ヴェレンシュピール型「波の戯れ」や「青い花」を 生み出しております。
安物 安いのは当たり前
良いもの安いのが アインさん
19cmプレート 今作 色淡く 筆静かで 平面的
19cmプレート 二昔前の当店所蔵品 墨痕鮮やかに 躍動感あり 立体的
マイセン 【青い花・614701】 コーヒーポット・28694 1.3L 15%Off のお求めはコチラ
当店 二昔前の当店所蔵品 墨痕鮮やかに 躍動感あり 立体的
写真はクリック拡大
注ぎ口面 把手面 反対面
マイセン・イヤープレート 1973年・森にたたずむ居城 15%Off のお求めはコチラ
年号は裏面に有りますので 飾り絵皿としても 楽しんでいただけます。
忌まわしいナチス台頭 1934年よりのロゴが 1972年 ベトガーに次ぐ 2代目工場長シュタインブリュックによる双剣ロゴ制定250周年を機に 現在のロゴに改新されました。
もう10年以上前になりますか?
日本百貨店のマイセン展に いつも2~3枚のウォールプレートが出ていました。当店は それらを参考に ドイツ各地の代理店より 未使用の新品を集めておりました。 当時はよく売れましたが 日本代理店さんも 新品が無くなってから 展示販売をしなくなりました。当店でも 新品が入手しずらくなり 今は 売れてしまえば おしまいです。当店にとって マイセン代理店さんの過去の新品上代しか 参考はありません。
1973 森にたたずむ居城
貴重な 印判手 φ26cm
『荒城の月』(こうじょうのつき、歴史的仮名遣い:くわうじやうのつき)は、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲による歌曲。哀調をおびたメロディと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。特に、日本で作曲された初めての西洋音楽の歌曲とされ、日本の歴史的に重要な曲である。
春高楼こうろうの花の宴えん めぐる盃さかずきかげさして
千代の松が枝えわけいでし むかしの光いまいずこ
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁かりの数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ
いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌うはただあらし
天上影は替わらねど 栄枯えいこは移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月
錬金術師-4
こんな怖いところに ベトガーを移したのは 失敗は許さぬという 王の不退転の決意表明
では・・・・)に 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました。1707年9月のことでした。それ
から半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達しました。(景
徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリン山は 磁土で出来ている山で あったので 西洋
でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと 雪花石膏
アラバスターから成っており 東洋のカオリンと 白不子から成るものより 僅かに黄味が
かっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や若き
錬金術師ベトガーの手中にありました。
アルブレヒト城壁画 アウグスト強襲王
錬金術師ベトガー
1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない白磁を 手に入れたのです。この年の10月に ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみから逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。ベトガーが 王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができたのは 1709年3月の事でした。(真の東洋の白磁完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりませんでした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしきマイセンの誕生となったのです。 ・・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 4」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
祝勤労感謝の日フェア(本日~ 11/23) 三台限定
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ネモフィラはムラサキ科ネモフィラ属に分類される植物の総称。または、ルリカラクサ(瑠璃唐草)のこと。 ネモフィラ属は、APG植物分類体系では、ムラサキ科であるが、新エングラー体系、クロンキスト体系では、ハゼリソウ科に分類される。
ネモフィラ属は、カナダ西部からアメリカ合衆国西部、メキシコにかけてとアメリカ合衆国東南部に11種が分布する。
ルリカラクサは、種として園芸上ネモフィラと呼ばれる。耐寒性一年草。草丈10-20cm 、茎は匍匐性で横に広がる。葉には羽状の深い切れ込みがあり、茎と葉に柔毛がある。花は4月-5月に開花し、花径2cmくらいで、白に空色または青紫色の深い覆輪で、中心部に黒い点が5つある。白色花もある。属名は「林を愛する」の意味で、茂みの中の明るい日だまりに自生していることによる。
美しすぎる青い花絶景 ! 春に咲く「ネモフィラ」
中国の陶磁器では、新石器時代から清時代に至る中国の陶磁工芸の流れと技法を概観する。
中国陶磁の歴史は新石器時代の紅陶や彩文土器から始まり、さまざまな技術革新を重ね、三彩、白磁、青磁、青花、五彩などの華麗な器を作り出し、世界の陶磁界をリードしてきた。英語のチャイナという単語は、普通名詞としては「磁器」を意味するが、このことに象徴されるように、中国は世界に先駆けてガラス質の白いやきものである磁器を生み出した。中国磁器は中国の宮廷で用いられたのみならず、主要な貿易品の一つとして、アジア諸国、イスラム圏、ヨーロッパなどにも大量に輸出された。こうした中国磁器は、日本では茶の湯の道具に取り入れられ、イスラム圏やヨーロッパでは王侯貴族のコレクションに収まるなど、世界の陶磁器の発展に多大な影響を及ぼしてきた。
出手清乾隆青花五彩瓷器
青花と五彩
青花とは「青い文様」の意で、白地に青い文様を表した磁器である。同様のものを日本語では「染付」という。青花は釉下彩、すなわち素地に直接絵付けしてその上から透明釉を掛けたものである。酸化コバルト顔料で図柄を描いた上に透明釉を掛け、高火度焼成すると、顔料は青く発色する。同様の釉下彩には、鉄絵具を用いた鉄絵や、銅呈色の釉裏紅がある。五彩とは、多色の絵具を用いて白磁の釉上に図柄を描いた磁器である。素地に透明釉を掛けて高火度焼成した後、釉上に上絵具で図柄を描き、錦窯という小型の窯で再び低火度焼成する。1つの器に五彩と青花を併用する場合もある。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に1400゜Cもの高温の焼き付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
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集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニ
ット型が ここから生まれました。
1975年には 更に若い世代によるクンストラー・コレクティヴが立ち上げられ
ヴェレンシュピール型「波の戯れ」や「青い花」を 生み出しております。
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もう10年以上前になりますか?
日本百貨店のマイセン展に いつも2~3枚のウォールプレートが出ていました。当店は それらを参考に ドイツ各地の代理店より 未使用の新品を集めておりました。 当時はよく売れましたが 日本代理店さんも 新品が無くなってから 展示販売をしなくなりました。当店でも 新品が入手しずらくなり 今は 売れてしまえば おしまいです。当店にとって マイセン代理店さんの過去の新品上代しか 参考はありません。
1973 森にたたずむ居城
貴重な 印判手 φ26cm
『荒城の月』(こうじょうのつき、歴史的仮名遣い:くわうじやうのつき)は、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲による歌曲。哀調をおびたメロディと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。特に、日本で作曲された初めての西洋音楽の歌曲とされ、日本の歴史的に重要な曲である。
春高楼こうろうの花の宴えん めぐる盃さかずきかげさして
千代の松が枝えわけいでし むかしの光いまいずこ
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁かりの数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ
いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌うはただあらし
天上影は替わらねど 栄枯えいこは移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月
錬金術師-4
こんな怖いところに ベトガーを移したのは 失敗は許さぬという 王の不退転の決意表明
では・・・・)に 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました。1707年9月のことでした。それ
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徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリン山は 磁土で出来ている山で あったので 西洋
でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと 雪花石膏
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かっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や若き
錬金術師ベトガーの手中にありました。
アルブレヒト城壁画 アウグスト強襲王
錬金術師ベトガー
1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない白磁を 手に入れたのです。この年の10月に ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみから逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。ベトガーが 王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができたのは 1709年3月の事でした。(真の東洋の白磁完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりませんでした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしきマイセンの誕生となったのです。 ・・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 4」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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