ヘレンド 【インドの華 多彩色FD】 19cmプレート517 30%Off
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インドの華 女
ウジェニー・ド・モンティジョ(1826年 - 1920年)は、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后。
結婚にともない、フランス皇后アンペラトリス・ウジェニーとなった。父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、やがてヨーロッパ各国へ伝わって行った。彼女は各国の王侯貴族から求婚されているが、すべてを断り続け、やがて鉄の処女と言われるようになる。1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。1855年、皇帝と共に。結婚を反対されたヴィクトリア女王らを公式訪問した。ウジェニーは ヴィクトリア女王から非常に気に入られ、画家のフランツ・ヴィンターハルターを紹介され、多くの肖像画を残している。
ヴィンターハルターの名作_フランス皇后ウジェニー
その妃ウージェニーは パリファッションのパトロン的存在であり、1867年のパリ万国博覧会の主催者でした。これは日本が初めて参加した万国博覧会で、浮世絵や漆器がヨーロッパに日本ブームを巻き起こしたきっかけとして広く知られます。ヘレンドもジャポニスム勃興の中 重厚感あるジャポネズリを 東洋風散花文 「インドの花」のブランドが知名度高く 定着しておりましたので 柿右衛門写しの「インドの華」として出品したのです。ウージェニーは 一目で気に入り 大きなサービスを 注文しました。
数年後にウイーンで万国博覧会を予定するオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフが視察を兼ねてパリを訪れます。そのときウージェニーは皇帝をエリゼー宮に招待し、"お国"のへレンド製「インドの華」のディナーセットでおもてなしをしたのです。最高に晴れがましいデビューでした。以来へレンドを日本と結びつける最もシンボリックな作品として、"ヘレンドグリーン"と呼ばれる独特の清楚な緑色とあいまって根強い人気を誇っています。
格調高い柿右衛門写し
オランダの東インド貿易会社によって もたらされた白磁に絵付けされている異郷の花の絵は 多分インドの華に違いないとして この柿右衛門描くところの日本の花を インドの華と名づけました。マイセンのインドの花ではほんの1部しか判りませんが ヘレンドは 竹垣まで柿右衛門のとおりに 写しておりますので 本家が判りました。実際は 1839年ヘレンド創窯の頃には マイセンでも柿右衛門と判っており シノワズリの分類から シャボネズリに変えており 高値を呼ぶ 柿右衛門名に変更したかったのですが すでに東洋風散花文 インドの花は ブランドとして知名度高く 定着しておりましたので 名称は 継続されました。
マイセン・インドの花多彩色・451110 兼用C/S・582 30%Off のお求めはコチラ
マイセン インドの花 ジャポネズリ
柿右衛門様式 濁手赤絵柴垣松竹梅鳥文皿
『濁手』は柿右衛門様式の美しい赤絵に最も調和する素地で、初代柿右衛門の晩年に始まり 二代目柿右衛門の1670年代にその製法が完成したとされます。しかし江戸中期(1700年代)になると、内乱によって下火になっていた中国・景徳鎮磁器の輸出が再び本格化し、「柿右衛門様式」に変わり金・赤を多用した「金襴手様式」が色絵の主流となり 濁手は高度な技術を要し 高価なこともあって次第に廃れていきました。その後時代は明治、大正、昭和と移り、濁手の復興が待ち望まれる中、十二代柿右衛門(1878生~1963没)はその子十三代柿右衛門(1906生~1982没)とともに長い間途絶えていた濁手素地を復元させるため、柿右衛門家に伝わる『土合帳』等の古文書を基に試行錯誤を重ねます。そして1953(昭和28)年、ようやくこれに成功し、その技法は1955(昭和30)年3月、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されました。
この作品は 今回精査しますとヘロルトの見た初期濁手の柿右衛門でなく 十二,十三代柿右衛門以後の若い作と思われます。
ヘロルトが柿右衛門の太湖石を柿右衛門の柴垣に変えたものを 十五代柿右衛門が写したのがこの作品です。これ結構深い話なんですよ。もしご興味のある方は ともに勉強しませんか? 09.05.2017.
オジア・シェープ
ヘレンドの主流シェープ
マイセンの#01シェープに同じ
ヘレンドには オジア,ロカイユ,リッセ,エステルハージ,シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02,ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分 時代を読み誤ったのでしょう? もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフetc.) で シェープは デコラティブな貴族趣味を旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は見られません。
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柄拡大 シェープ
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ウルスラの伝説は、歴史的な背景を恐らく持っていないと思えるが、ローマ系ブリトン人の王の娘であるウルスラは、南西イングランドにあったドゥムノニア王国の父王ドノートに イングランドに君臨する異教徒の王の息子アイテリウスとの結婚を求められた。ウルスラはこれに同意したが、三つの条件を提示し、アイテリウスにもまたこの条件を満たすことを求めた。三年以内に、王子アイテリウスは洗礼を受けること。十人の同伴者と更に1万1千人の乙女の一団を編制すること。こうしてウルスラは彼女らと共に、ローマへと巡礼の旅に出発することであった。
ウルスラは従う者たちと共にローマへと向かい、教皇やまたラヴェンナ司教スルピキウスに対し、彼女たちと合流するよう説いたとされる。フン族に包囲されていたコローニュ(ケルン)へと進発して後、従う処女たちは全員、恐るべき虐殺のなかで命を失った。こうして、383年と想定されているが、フン族の首長がウルスラを弓で射殺し、彼女は殉教した。
結婚を拒否した聖ウルスラを矢で突き刺すフン王。M・M・ダ・カラヴァッジオ画、1610年。
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。いかに調べても マジャル人がハンガリーに移住してきた頃で 建国とする根拠が判らないのです。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいない。
(「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて判ったのは ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。現ハンガリー第三共和国のヘレンドは 1996年を 建国1100年記念年として 清の花籠と カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがて オリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
「欧州磁器戦争史 秘法漏洩 番外編 ヘレンド窯」 詳しくは コチラをクリック して下さい。
「ウィーンを嫌い ヘレンドに 親しんだエリザベート」
「2代目国立窯後 フィシェルの孫 3代目ファルカシャージ」
「ウィーン窯閉窯時の ヘレンドへの係わり」
「ウィーン窯と ヘレンドの4シェープ」 加筆しました。
秘法漏洩-1,2,3,の次にあります。
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ヴィンターハルターの名作_フランス皇后ウジェニー
その妃ウージェニーは パリファッションのパトロン的存在であり、1867年のパリ万国博覧会の主催者でした。これは日本が初めて参加した万国博覧会で、浮世絵や漆器がヨーロッパに日本ブームを巻き起こしたきっかけとして広く知られます。ヘレンドもジャポニスム勃興の中 重厚感あるジャポネズリを 東洋風散花文 「インドの花」のブランドが知名度高く 定着しておりましたので 柿右衛門写しの「インドの華」として出品したのです。ウージェニーは 一目で気に入り 大きなサービスを 注文しました。
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(「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて判ったのは ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。現ハンガリー第三共和国のヘレンドは 1996年を 建国1100年記念年として 清の花籠と カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがて オリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
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「2代目国立窯後 フィシェルの孫 3代目ファルカシャージ」
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