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『V I P』 とは、聖書・イザヤ書43 章1、4 節 “Very Important Person in God's eyes”
神は人に こう言われています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
『預言者イザヤ』 「システィナ礼拝堂天井画」 1508年から1512年 ミケランジェロ
ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(1475年 - 1564年)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能の人」と呼ばれる。
ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある。
ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『ピエタ』(1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と『ダヴィデ像』(1504年、アカデミア美術館)は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画、システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いている。
聖書は言います。「神は この様に、人をご自身の形に創造された。神の形に彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
創世記 1 章27 節
『創世記』、第2章と3章 最初の人(アダム)は、創造主ヤハウェ・エロヒムによってその息吹と土から創造され、エデンの園を耕し守るために置かれた男とされている。
人間は、偶然に生まれてきたのではなく、神によって「神のかたち」に創造されたのです。
キリストはこう言われています。「人は、たとえ全世界を得ても、命を失ったら、何を得たことになるでしょう。失った自分の命を買い戻すために、人はいったい何を持って購うのでしょう。」
イザヤ書 45 章22 節
「地の果ての総ての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。他にはいない。」
創世記2章21-22節
「神はアダムを深く眠らせ、アダムは眠った。神は彼の肋骨を1本取り、そこを肉で塞いだ。そして神はアダムから取った肋骨で女性を作り、彼女をアダムの元に遣わせた。」
ヘンリー・フュースリー 「イブの創造」
ヨハン・ハインリヒ・フュースリーまたはヘンリー・フュースリー(1741年 - 1825年)は、イギリスで活躍したドイツ系スイス人の画家。
フュースリーはスイスのチューリッヒに、18人の子供の第2子として生まれた。父親のヨハン・カスパー・フュースリーは肖像画や風景画を描いていた画家で、『ヘルヴェティアの画家の生涯』という本の著者でもあった。息子を聖職者にしたかった父親の意向で、フュースリーはチューリッヒのカロリン・カレッジに入学、最高水準の教育を受けた。1761年、不正な行政官を非難した親友を支援したかどで、フュースリーは国外追放令を受け、スイスを離れた。最初、ドイツに行ったが、1765年、イギリスに渡った。
マイセンで 日本酒やるのも 乙なもの
お猪口
1722年 ベトガーに次ぐ 2代目マイセン工場長シュタインブリュック(ベトガーの妹婿)により 贋作対策として 採用された ザクセン王国の双剣ロゴ。マイセンの誇りを いま小さなカップに
本来 中国から輸入された 煎茶湯呑。トルココーヒーカップとして使われていました。(煎茶湯呑と茶托としても 正当です)
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小肴皿(5柄揃え)
アウグスト強襲王は 白磁に対する 赤色磁器とも呼んでいましたが 正式には 朱泥セッ器。 この時代 ドイツ諸国で セッ器(ストーンウェア)は 広く行われていましたが 焼き締め陶器の域を出ず ガラス質の中国宜興窯に 勝るとも劣らぬ 煉瓦色のストーンウェアを 1707年 ベドガーが完成。いま小皿に
マイセン社は この朱泥炻器小皿を10柄ほど作りました。
そして厳選後この5柄に絞りました。正式には5柄揃えの布張りブランド化粧箱入りで発売しておりました。今 半端品のバラ売りが行われておりますが この由緒正しきお品はアインにしかございません。
1722年 シュタインブリュツク(ベトガーに次ぐ2代目工場長 ベトガーの妹婿でもあります)双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為 マイセンロゴ(染付)に採用。その後も 贋作絶えず 工場責任者の新任(マルコリニー伯の星,ファイファーの点)や 転機(7年戦争終敗戦,ナポレオン戦争,ナチス台頭、250周年)などの 機会あるごとに 双剣に変化をもたせて 贋作対策としました。又一方で 双剣ロゴを 専門に絵付けする人シュベルターに 慣れからか 乱雑なものが現れ ために 変化する必要があったのです。
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
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錬金術師-5
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは 新しい強
力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。
この研磨機は その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
た 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐものの 出現はありませ
んでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付
用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て
中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程
困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の ま
ぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を
含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も
無いのですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨
金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)により
何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあった
ベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 ベトガー 5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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神は人に こう言われています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
『預言者イザヤ』 「システィナ礼拝堂天井画」 1508年から1512年 ミケランジェロ
ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(1475年 - 1564年)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能の人」と呼ばれる。
ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある。
ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『ピエタ』(1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と『ダヴィデ像』(1504年、アカデミア美術館)は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画、システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いている。
聖書は言います。「神は この様に、人をご自身の形に創造された。神の形に彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
創世記 1 章27 節
『創世記』、第2章と3章 最初の人(アダム)は、創造主ヤハウェ・エロヒムによってその息吹と土から創造され、エデンの園を耕し守るために置かれた男とされている。
人間は、偶然に生まれてきたのではなく、神によって「神のかたち」に創造されたのです。
キリストはこう言われています。「人は、たとえ全世界を得ても、命を失ったら、何を得たことになるでしょう。失った自分の命を買い戻すために、人はいったい何を持って購うのでしょう。」
イザヤ書 45 章22 節
「地の果ての総ての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。他にはいない。」
創世記2章21-22節
「神はアダムを深く眠らせ、アダムは眠った。神は彼の肋骨を1本取り、そこを肉で塞いだ。そして神はアダムから取った肋骨で女性を作り、彼女をアダムの元に遣わせた。」
ヘンリー・フュースリー 「イブの創造」
ヨハン・ハインリヒ・フュースリーまたはヘンリー・フュースリー(1741年 - 1825年)は、イギリスで活躍したドイツ系スイス人の画家。
フュースリーはスイスのチューリッヒに、18人の子供の第2子として生まれた。父親のヨハン・カスパー・フュースリーは肖像画や風景画を描いていた画家で、『ヘルヴェティアの画家の生涯』という本の著者でもあった。息子を聖職者にしたかった父親の意向で、フュースリーはチューリッヒのカロリン・カレッジに入学、最高水準の教育を受けた。1761年、不正な行政官を非難した親友を支援したかどで、フュースリーは国外追放令を受け、スイスを離れた。最初、ドイツに行ったが、1765年、イギリスに渡った。
マイセンで 日本酒やるのも 乙なもの
お猪口
1722年 ベトガーに次ぐ 2代目マイセン工場長シュタインブリュック(ベトガーの妹婿)により 贋作対策として 採用された ザクセン王国の双剣ロゴ。マイセンの誇りを いま小さなカップに
本来 中国から輸入された 煎茶湯呑。トルココーヒーカップとして使われていました。(煎茶湯呑と茶托としても 正当です)
お煎茶湯呑/茶托・五客 布張ブランド化粧箱
小肴皿(5柄揃え)
アウグスト強襲王は 白磁に対する 赤色磁器とも呼んでいましたが 正式には 朱泥セッ器。 この時代 ドイツ諸国で セッ器(ストーンウェア)は 広く行われていましたが 焼き締め陶器の域を出ず ガラス質の中国宜興窯に 勝るとも劣らぬ 煉瓦色のストーンウェアを 1707年 ベドガーが完成。いま小皿に
マイセン社は この朱泥炻器小皿を10柄ほど作りました。
そして厳選後この5柄に絞りました。正式には5柄揃えの布張りブランド化粧箱入りで発売しておりました。今 半端品のバラ売りが行われておりますが この由緒正しきお品はアインにしかございません。
1722年 シュタインブリュツク(ベトガーに次ぐ2代目工場長 ベトガーの妹婿でもあります)双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為 マイセンロゴ(染付)に採用。その後も 贋作絶えず 工場責任者の新任(マルコリニー伯の星,ファイファーの点)や 転機(7年戦争終敗戦,ナポレオン戦争,ナチス台頭、250周年)などの 機会あるごとに 双剣に変化をもたせて 贋作対策としました。又一方で 双剣ロゴを 専門に絵付けする人シュベルターに 慣れからか 乱雑なものが現れ ために 変化する必要があったのです。
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
マイセン 【マイセンVIP】 お猪口/小肴皿(5柄揃え)・五客 35%Off のお求めはコチラ
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錬金術師-5
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは 新しい強
力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。
この研磨機は その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
た 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐものの 出現はありませ
んでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付
用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て
中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程
困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の ま
ぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を
含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も
無いのですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨
金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)により
何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあった
ベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?・・・・・・・
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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