マイセン 【和風花鳥文金彩 465110】 兼用C/S 00582 35%Off
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通常30%Off 祝父の日フェア ( 本日~ 6/18) 35%Off
和風花鳥
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型
エンツゥィーステッドハンドル
ジャポネズリ 465110
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。やがて アウグスト強襲王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門(ヨーロッパにおいて高値を呼んだ)にも 臆せず挑んだ。 ヘロルトの 柿右衛門写しの出来栄えに 王は マイセンが 遂に 柿右衛門に並んだと ご満悦。王の満足するヘロルトの柿右衛門は マイセンの名声を 弥が上にも高めました。時につれ ペインターたちは やがては柿右衛門の模倣を離れ 余白の美・和風の作品を 生み出し 王達を楽しませました。(この和風花鳥文金彩を 柿右衛門に分類しているのが散見されますが マイセン創作のジャポネズリです。ひどいのは シノワズリとしております。)
有田焼か 柿右衛門などで マイセン・和風花鳥文金彩の参考になるものを探しましたが見つかりません。やはりマイセン・ペインターの シャポネズリ創作だったのでしょうか?。
再度探してみましたら 有田磁器 「色絵梅竹鳥文輪花皿 梅竹に小禽.」 を見つけました。また、南川原柿右衛門B窯から本品同手品のずばりの陶片も出土しているそうです。
これも中国写しであるのは太湖石から判ります。
「梅竹に小禽」の説明には 和風染付繋ぎ文 とされておりますが これはまぎれもなく太湖石文だと思われます。
柿右衛門さんは 初期の作品には柿右衛門銘を入れておりません。騙るとは言いませんが 本家中国制への錯覚を期待したのでしょう。やがて中国の模倣から 和風を確立し本家中国でも柿右衛門の余白の美が評価・模倣されるようになると 柿右衛門銘は 誇りの窯印となっていきました。中国・太湖石を和風染付繋ぎ文と呼び自家薬籠中に取り込んでいきました。
これらの構図にマイセンの「和風花鳥文」が比較的似ております。右側に余白を取ったものは 和洋ともに珍しく ヘロルト後の マイセンペインターの創作的模倣だったのでしょう。
「梅竹に小禽」は ヴィルヘルム8世陶磁器コレ クション ドイツへッセン州立(カッセル)博物館蔵 有田磁器「色絵竹梅鳥椿文皿」の中央見込部分と酷似しております。
膨大なヘッセン方伯蔵品のうちのヴィルヘルム8世陶磁器コレクションの一名宝ですが、17世紀末の内乱によって下火になった中国・景徳鎮磁器の間隙をぬって ヨーロッパ向け有田磁器の特需期にオランダ東インド会社を介してヨーロッパに送られた一連の色絵磁器でしょう。
和風花鳥文 古マイセン 金彩絵なく より和風だが 躍動感あり。洗練は 今作にあり。
安物 安いのは当たり前
良いもの安いのが アインさん
マイセン 【和風花鳥文金彩 465110】 兼用C/S 00582 35%Off のお求めはコチラ
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錬金術師-2
監視の緩んだのを見計らって ベトガーは今度は アウグスト王からの逃亡を
企てました。又も 失敗するのですが 王宮の科学者達は ベトガーの非凡さを言い立て 王の
処刑を免れさせました。その後も ベトガーの研究は 続くのですが 秘法は成就しませんでし
た。王は 3年以上だまされ続けた 今 己の威信にかけて 決断を迫られる時に有りました。
投資の失敗の不名誉から王を 又 詐術師の処刑からベトガーを 救ったのが 宮廷科学顧問
官 チルンハウスでした。 彼は いくつかの科学的成果を 国に及ぼし 実績を上げ 為に
王の信任厚く 1694年 王より 東洋の美しい白磁の 秘法発見を 下命されておりました。
彼は 研究半ばにして 年老いてしまった自分の後を 天才ベトガーに托したいと 王に申し
出ました。王は 渡りに船と ベトガーに 白磁焼成の後継を 認めました。
1705年9月 ベトガーは ご存知 アルブレヒト城に 移されました・・・・・・・・
アルブレヒト城(マイセン)
「欧州磁器戦争史 錬金術師 2」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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再度探してみましたら 有田磁器 「色絵梅竹鳥文輪花皿 梅竹に小禽.」 を見つけました。また、南川原柿右衛門B窯から本品同手品のずばりの陶片も出土しているそうです。
これも中国写しであるのは太湖石から判ります。
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柿右衛門さんは 初期の作品には柿右衛門銘を入れておりません。騙るとは言いませんが 本家中国制への錯覚を期待したのでしょう。やがて中国の模倣から 和風を確立し本家中国でも柿右衛門の余白の美が評価・模倣されるようになると 柿右衛門銘は 誇りの窯印となっていきました。中国・太湖石を和風染付繋ぎ文と呼び自家薬籠中に取り込んでいきました。
これらの構図にマイセンの「和風花鳥文」が比較的似ております。右側に余白を取ったものは 和洋ともに珍しく ヘロルト後の マイセンペインターの創作的模倣だったのでしょう。
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
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