マイセン 【松竹梅虎文 401110】 兼用C/S 35%Off
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祝父の日フェア ( 本日~ 6/18) 4客限定
通常30%オフ 祝父の日フェア ( 本日~ 6/18) 35%Off
松竹梅虎文1924年6色(この先生が提示されているロゴは 1815~1924年まで)かなりカラフルに様式化
竹に虎文19世紀後半8色(ロゴの提示がないのでわかりません) へロルを離れ完全デザイン化
1730頃のヘロルト原画は 柿右衛門ほどではないが もう少し絵画的で 松の幹も リアルで 濃色であったし 竹も 竹の緑色でした。時代を経るごとに 様式化され 色もカラフルになって行きました。後には 完全にデザイン化され 洗練されていくのですが 原画の力強さは失われていきました。
ヘロルト
柿右衛門
虎を竹に絡め牙をむかせ、梅の樹(龍を暗示)と対峙させ、余白を生かしつつ、よりデザイン的、象徴的な完成度をめざした
柿右衛門 チェルシー
龍虎とは 甲陽軍鑑や江戸時代の講談などで 武田信玄と上杉謙信等を両雄となぞられたことから来ており この龍虎図は 日本発祥で 柿右衛門の創作と断定されます。
ヘロルトの柿右衛門の中で この花鳥虎文402110の鳥は どう見ても柿右衛門では有りません。多分 ヘロルトが 松竹梅虎文の松梅文に替わり 欧風の鳥(鸛でしょうか 柿右衛門の鶴の丹頂を載せた不思議な鳥を様式化し 和風に描いています)を 欧風の柿右衛門の虎(翼を持ち グリフィンを連想させている)に対峙させ 独創性と 柿右衛門への優越性を 評価されたかったのでは? 後作であるのは 柄番号からも判ります。マイセンでは 4で始まる ジャポネズリに分類しておりますが 虎といい 鳥といい 柿右衛門から離れすぎており 強引が過ぎるのでは。
マイセン 【花鳥虎文・402110】 582 兼用C/S 30%%Off のお求めはコチラ
ピカピカの 新品です。現品 即納
3人の天才ヨハンによる伝統の 復刻版
1)ヨハン・フリードリヒ・ベトガーによる ヨーロッパ 初の ポースレーン
2)ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト原画
3)ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型 エンツゥィーステッドハンドル
ジャポネズリ 柿右衛門写し
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。やがて アウグスト強襲王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門(ヨーロッパにおいて高値を呼んだ)にも 臆せず挑んだ ヘロルトの 柿右衛門写しの出来栄えに 王は マイセンが 遂に 柿右衛門に並んだと ご満悦。王の満足するヘロルトの柿右衛門は マイセンの名声を 弥が上にも高めました。時につれ ペインターたちは 余白の美・和風の作品を 生み出し 王達を楽しませました。
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ソーサー絵・カップ正面
写真はクリック拡大
シェープ 反対面 把手面
マイセン 【 松竹梅虎文 401110 】 祝父の日フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-4
こんな怖いところに ベトガーを移したのは 失敗は許さぬという 王の不退転の決意表明では・・・・)に 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました。1707年9月のことでした。それから半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達しました。(景徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリン山は 磁土で出来ている山で あったので 西洋でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと 雪花石膏アラバスターから成っており 東洋のカオリンと 白不子から成るものより 僅かに黄味がかっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や若き錬金術師ベトガーの手中にありました。
アルブレヒト城壁画 アウグスト強襲王
錬金術師ベトガー
1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない白磁を 手に入れたのです。この年の10月に ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみから逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。ベトガーが 王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができたのは 1709年3月の事でした。(真の東洋の白磁完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりませんでした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしきマイセンの誕生となったのです。・・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 4」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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錬金術師ベトガー
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