ヘレンド 【トゥッピーニの角笛】 ティーC/S 0724 35%Off
ヘレンド 【トゥッピーニの角笛】 ティーC/S 0724 35%Off
祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) 6客限定
通常30%オフ 祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) 35%Off
エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル(Ertuğrul Fırkateyni)が、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し司令官オスマン・パシャをはじめ500名以上の犠牲者を出した事件。
エルトゥールル号遭難
インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい第34代皇帝・アブデュルハミト2世(在位:1876年 - 1909年)の意志が働いており、台風時期の出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。
9月16日21時ごろに、折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、沈没した。住民は 生存者たちの救護に努めた結果、69名が救出され、生還することが出来た。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金・弔慰金も寄せられた。
日本海軍のコルベット艦、「比叡」と「金剛」が、翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブルに生存乗員69名を送り届けた。なお2隻には、秋山真之ら海兵17期生が少尉候補生として乗り組んだ。
現在に至るまで串本町では5年に一度、追悼式典が行われており、2008年(平成20年)、訪日していたアブドゥラー・ギュル大統領は、同国の大統領として初めてこの地を訪れ、遭難慰霊碑前で行われた追悼式典に出席し献花を行った。
エルトゥールルの残骸は、2007年(平成19年)から、トルコを中心とする数カ国からなる水中考古学の調査団 2008年(平成20年)1月-2月には、アメリカ合衆国海洋考古学研究所のトルコ人スタッフらが発掘調査を行い、遺骨や弾丸など1000点以上の遺品を引き揚げた。
エルトゥールルの遭難は 大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、好印象を抱いたといわれている。
日露戦争が起こり 日本の勝利に帰すと、長らくロシアから圧力を受け続け、同様にロシアの南下圧力にさらされる日本に対して、親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。
1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫し、この戦争でイギリスら連合国の側についた大日本帝国は、オスマン帝国とは敵同士となり、戦後のオスマン帝国の解体とトルコ共和国の成立という目まぐるしい情勢の変化を経て、1924年(大正13年)発効のローザンヌ条約締結・1925年(大正14年)の大使館開設により、大日本帝国政府とトルコ共和国政府は正式に国交を結んだ。
エルトゥールル号遭難事件は、日土友好関係の起点として記憶されることになった。日本においては、遭難現場近くの串本町以外ではあまり記憶されておらず、公的な場で語られることもまれであった。
事件から125年となった2015年、トルコ海軍の軍艦が下関・串本・東京の3港を訪れ、串本町で行われた追悼式典に参加した。
トルコエカイユ(鱗文)を 白いスリップ状磁土を盛り上げて 装飾すると言う 手の込んだ逸品。トルコブルー(ターコイズ)を基調に 4度の窯入れにして 成り立つ細密画の傑作。
1860年代にマリク・ルイ・ソロンがセーヴルで「創作」した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法と 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり 誇大宣伝されておりますが 同時代 ヘレンドでも このトゥッピーニの角笛に 紀元前5000年の古代中国発祥の泥彩画を取り入れております。マリク・ルイ・ソロンが 中国の泥彩画からか 17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿からヒントを得て より絵画的に進化させたものかでしょうが「創作」説は為にする捏造です。
遅咲きのヘレンドですが シノワズリに独自性を打ち立てましたように シノワズリ鱗文を 洋食器に取り入れたのも ヘレンドのオリジナルです。フランス語でエカイユは 鱗のことですが フランスの名窯で エカイユを 取り入れているのは 寡聞にて 聞きません。リモージュの矜持が ヘレンドの後追いを許さなかったのでしょうか?
コペンハーゲンでは 王立になった1775年から マイセンに影響を受けたブルーフルーテッドにエカイユがありますが 伊万里写しのジャポネズリで派違いです。
海を渡る 英国ロイヤルウースター社にて 創窯の18世紀半ば スケールブルー(染付の鱗文)によるシノワズリが流行しました。これは 大きな白抜きの地模様で ヘレンドの小紋と違い 発想や 表現の違いから 同根ではありません。本来 鱗文は 三角文として 古くから各民族に共通して創造、再生、繁殖などの 呪模様として存在していました。
この鱗文をトルコ発祥としている日本の先生がおりますが 否定するために 同じ鱗文の梅瓶を示します。
五彩麒麟文梅瓶 景徳鎮 中国陶磁器
麒麟は四神獣の一つで、吉祥の化身ともいわれる想像上の珍獣である。頭が龍で蹄は牛、尾は獅子で身体に鱗があり、仙人が乗るものとされている。この麒麟が天界から運んだ子を神童と呼び、成人して科挙試験に首席で合格するというので、人々は麒麟が子供を送り届けてくれるように祈るのである。(麒麟送子) 尚、日本でも聡明な児童のほめことばを、麒麟児というが、この由来による。
梅瓶とは 小さい口造りの丈長の瓶の事。酒を入れた瓶。形も時代と共に少しずつ変り、13世紀の宋・磁州窯に多く見られるように、口造りは小さく低く、肩の張らない卵形で、下は直線的に順次細る、頸は猪首形で胴継ぎの成形法。
牧羊国 オスマン(トルコ)皇帝への献上品
神聖ローマ帝国(実質:オーストリア=ハンガリー帝国)はヨーロッパの東南端で オスマン(トルコ)と何度か戦火を交え 対峙しておりました。(ハンガリーは 1526年 モハーチの戦いに敗れ オスマン(トルコ)に 国土の1/3を占領され その後150年間 支配下に置かれた。この支配を解いたのがハブスブルグ家ですが また その統治下におかれました。1870年代 訪欧のパーディシャー(スルタン)に この高度な美術品により 国力・文化を誇示し 一方で 荒ぶる夷 懐柔のため下賜(神聖ローマ帝国側) 献上(オスマン帝国側)したものです。(散見しますが トゥッピーニの角笛が贈られたのを ペルシアのシャハン・シャーとするのはまちがいです。正しくはオスマントルコ帝国皇帝パーディシャーになります。ペルシアとは イランのことですが 荒ぶるイランに比べ ペルシアというと なんとなくエキゾチックですね。シャーというと ペルシャと思いたくなるんですね。でも 歴史的に間違いです。)
今回 オスマン帝国皇帝(パーディシャーを欧風に)を特定するために 帝国の歴史を2時間がかりで紐解きました。
アブデュルアズィズ(1830- 1876年)は、オスマン帝国の第32代皇帝(在位:1861年 - 1876年)。
パリを訪問するアブデュルアズィズ(馬車中央の人物。右隣はナポレオン3世)
1867年 パリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国の皇帝としては史上初となる西欧諸国歴訪を行った。その折に列強の持つ装甲艦に魅了された彼は、のちに海軍力の増強に力を入れ、その結果この時期のオスマン帝国海軍は軍艦の保有数だけ(中古艦多く 欧列強の傭兵による莫大な維持管理に 国を傾けた。)では世界有数となった。また、パリ、ロンドン、ウィーンなどの博物館も視察し、帰国後にイスタンブール考古学博物館を設立した。
産業革命に先駆けた欧米列強に オスマン帝国は追う立場にありました。 オーストリア世襲皇帝(1804年 神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し フランツ一世として初代オーストリア皇帝に) 3代目フランツヨーゼフ一世は 陰るオーストリア・ハンガリー帝国の矜持から 牧畜国オスマン帝国に優越性の底意を 慇懃無礼に この逸品を 下賜したつもりでしょう。
マスターペインター サイン(代理店と アインのにしか書かれていません)
マスターペインター サインが有るのと無いのでは 格式に雲泥の差が付きます。ですから無い一般品を 代理店価格から 何十%Offと表示するのは大変いかがわしいのですが このことにヘレンド社とアイン以外 誰も気が付いておりません。
花絵画 中国画 細密画を 良く卒業した人に 与えられるサインロゴ マスターペインターの称号
つい一言 蘊蓄を 傾けたくなる逸品が あるんですね。アインには!
流石は マスターペインターさん 色濃く 貫禄ある重厚感が違います。
売り切れ品 入荷しました。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。このお品も 去年の夏に 発注したお品です。
オジア・シェープ
ヘレンドの主流シェープ
マイセンの#01シェープに同じ
ヘレンドには オジア,ロカイユ,リッセ,エステルハージ,シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02,ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分時代を読み誤ったのでしょう。もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは 誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフetc.) で シェープは デコラティブな貴族趣味を旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は見られません。
ヘレンド 【トゥッピーニの角笛】 ティーC/S 0724 35%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
ソーサー絵 反対面 把手面
ヘレンド 【 トゥッピーニの角笛 】 祝 体育の日記念フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。いかに調べても マジャル人がハンガリーに移住してきた頃で 建国とする根拠が判らないのです。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいない。10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。現ハンガリー第三共和国のヘレンドは 1996年を 建国1100年記念年として 清の花籠と カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがて オリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
「欧州磁器戦争史 秘法漏洩 番外編 ヘレンド窯」 詳しくは コチラをクリック して下さい。
「ウィーンを嫌い ヘレンドに 親しんだエリザベート」
「2代目国立窯後 フィシェルの孫 3代目ファルカシャージ」
「ウィーン窯閉窯時の ヘレンドへの係わり」
「ウィーン窯と ヘレンドの4シェープ」 加筆しました。
秘法漏洩-1,2,3,の次にあります。
祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) 6客限定
通常30%オフ 祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) 35%Off
エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル(Ertuğrul Fırkateyni)が、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し司令官オスマン・パシャをはじめ500名以上の犠牲者を出した事件。
エルトゥールル号遭難
インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい第34代皇帝・アブデュルハミト2世(在位:1876年 - 1909年)の意志が働いており、台風時期の出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。
9月16日21時ごろに、折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、沈没した。住民は 生存者たちの救護に努めた結果、69名が救出され、生還することが出来た。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金・弔慰金も寄せられた。
日本海軍のコルベット艦、「比叡」と「金剛」が、翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブルに生存乗員69名を送り届けた。なお2隻には、秋山真之ら海兵17期生が少尉候補生として乗り組んだ。
現在に至るまで串本町では5年に一度、追悼式典が行われており、2008年(平成20年)、訪日していたアブドゥラー・ギュル大統領は、同国の大統領として初めてこの地を訪れ、遭難慰霊碑前で行われた追悼式典に出席し献花を行った。
エルトゥールルの残骸は、2007年(平成19年)から、トルコを中心とする数カ国からなる水中考古学の調査団 2008年(平成20年)1月-2月には、アメリカ合衆国海洋考古学研究所のトルコ人スタッフらが発掘調査を行い、遺骨や弾丸など1000点以上の遺品を引き揚げた。
エルトゥールルの遭難は 大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、好印象を抱いたといわれている。
日露戦争が起こり 日本の勝利に帰すと、長らくロシアから圧力を受け続け、同様にロシアの南下圧力にさらされる日本に対して、親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。
1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫し、この戦争でイギリスら連合国の側についた大日本帝国は、オスマン帝国とは敵同士となり、戦後のオスマン帝国の解体とトルコ共和国の成立という目まぐるしい情勢の変化を経て、1924年(大正13年)発効のローザンヌ条約締結・1925年(大正14年)の大使館開設により、大日本帝国政府とトルコ共和国政府は正式に国交を結んだ。
エルトゥールル号遭難事件は、日土友好関係の起点として記憶されることになった。日本においては、遭難現場近くの串本町以外ではあまり記憶されておらず、公的な場で語られることもまれであった。
事件から125年となった2015年、トルコ海軍の軍艦が下関・串本・東京の3港を訪れ、串本町で行われた追悼式典に参加した。
トルコエカイユ(鱗文)を 白いスリップ状磁土を盛り上げて 装飾すると言う 手の込んだ逸品。トルコブルー(ターコイズ)を基調に 4度の窯入れにして 成り立つ細密画の傑作。
1860年代にマリク・ルイ・ソロンがセーヴルで「創作」した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法と 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり 誇大宣伝されておりますが 同時代 ヘレンドでも このトゥッピーニの角笛に 紀元前5000年の古代中国発祥の泥彩画を取り入れております。マリク・ルイ・ソロンが 中国の泥彩画からか 17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿からヒントを得て より絵画的に進化させたものかでしょうが「創作」説は為にする捏造です。
遅咲きのヘレンドですが シノワズリに独自性を打ち立てましたように シノワズリ鱗文を 洋食器に取り入れたのも ヘレンドのオリジナルです。フランス語でエカイユは 鱗のことですが フランスの名窯で エカイユを 取り入れているのは 寡聞にて 聞きません。リモージュの矜持が ヘレンドの後追いを許さなかったのでしょうか?
コペンハーゲンでは 王立になった1775年から マイセンに影響を受けたブルーフルーテッドにエカイユがありますが 伊万里写しのジャポネズリで派違いです。
海を渡る 英国ロイヤルウースター社にて 創窯の18世紀半ば スケールブルー(染付の鱗文)によるシノワズリが流行しました。これは 大きな白抜きの地模様で ヘレンドの小紋と違い 発想や 表現の違いから 同根ではありません。本来 鱗文は 三角文として 古くから各民族に共通して創造、再生、繁殖などの 呪模様として存在していました。
この鱗文をトルコ発祥としている日本の先生がおりますが 否定するために 同じ鱗文の梅瓶を示します。
五彩麒麟文梅瓶 景徳鎮 中国陶磁器
麒麟は四神獣の一つで、吉祥の化身ともいわれる想像上の珍獣である。頭が龍で蹄は牛、尾は獅子で身体に鱗があり、仙人が乗るものとされている。この麒麟が天界から運んだ子を神童と呼び、成人して科挙試験に首席で合格するというので、人々は麒麟が子供を送り届けてくれるように祈るのである。(麒麟送子) 尚、日本でも聡明な児童のほめことばを、麒麟児というが、この由来による。
梅瓶とは 小さい口造りの丈長の瓶の事。酒を入れた瓶。形も時代と共に少しずつ変り、13世紀の宋・磁州窯に多く見られるように、口造りは小さく低く、肩の張らない卵形で、下は直線的に順次細る、頸は猪首形で胴継ぎの成形法。
牧羊国 オスマン(トルコ)皇帝への献上品
神聖ローマ帝国(実質:オーストリア=ハンガリー帝国)はヨーロッパの東南端で オスマン(トルコ)と何度か戦火を交え 対峙しておりました。(ハンガリーは 1526年 モハーチの戦いに敗れ オスマン(トルコ)に 国土の1/3を占領され その後150年間 支配下に置かれた。この支配を解いたのがハブスブルグ家ですが また その統治下におかれました。1870年代 訪欧のパーディシャー(スルタン)に この高度な美術品により 国力・文化を誇示し 一方で 荒ぶる夷 懐柔のため下賜(神聖ローマ帝国側) 献上(オスマン帝国側)したものです。(散見しますが トゥッピーニの角笛が贈られたのを ペルシアのシャハン・シャーとするのはまちがいです。正しくはオスマントルコ帝国皇帝パーディシャーになります。ペルシアとは イランのことですが 荒ぶるイランに比べ ペルシアというと なんとなくエキゾチックですね。シャーというと ペルシャと思いたくなるんですね。でも 歴史的に間違いです。)
今回 オスマン帝国皇帝(パーディシャーを欧風に)を特定するために 帝国の歴史を2時間がかりで紐解きました。
アブデュルアズィズ(1830- 1876年)は、オスマン帝国の第32代皇帝(在位:1861年 - 1876年)。
パリを訪問するアブデュルアズィズ(馬車中央の人物。右隣はナポレオン3世)
1867年 パリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国の皇帝としては史上初となる西欧諸国歴訪を行った。その折に列強の持つ装甲艦に魅了された彼は、のちに海軍力の増強に力を入れ、その結果この時期のオスマン帝国海軍は軍艦の保有数だけ(中古艦多く 欧列強の傭兵による莫大な維持管理に 国を傾けた。)では世界有数となった。また、パリ、ロンドン、ウィーンなどの博物館も視察し、帰国後にイスタンブール考古学博物館を設立した。
産業革命に先駆けた欧米列強に オスマン帝国は追う立場にありました。 オーストリア世襲皇帝(1804年 神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し フランツ一世として初代オーストリア皇帝に) 3代目フランツヨーゼフ一世は 陰るオーストリア・ハンガリー帝国の矜持から 牧畜国オスマン帝国に優越性の底意を 慇懃無礼に この逸品を 下賜したつもりでしょう。
マスターペインター サイン(代理店と アインのにしか書かれていません)
マスターペインター サインが有るのと無いのでは 格式に雲泥の差が付きます。ですから無い一般品を 代理店価格から 何十%Offと表示するのは大変いかがわしいのですが このことにヘレンド社とアイン以外 誰も気が付いておりません。
花絵画 中国画 細密画を 良く卒業した人に 与えられるサインロゴ マスターペインターの称号
つい一言 蘊蓄を 傾けたくなる逸品が あるんですね。アインには!
流石は マスターペインターさん 色濃く 貫禄ある重厚感が違います。
売り切れ品 入荷しました。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。このお品も 去年の夏に 発注したお品です。
オジア・シェープ
ヘレンドの主流シェープ
マイセンの#01シェープに同じ
ヘレンドには オジア,ロカイユ,リッセ,エステルハージ,シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02,ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分時代を読み誤ったのでしょう。もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは 誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフetc.) で シェープは デコラティブな貴族趣味を旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は見られません。
ヘレンド 【トゥッピーニの角笛】 ティーC/S 0724 35%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
ソーサー絵 反対面 把手面
ヘレンド 【 トゥッピーニの角笛 】 祝 体育の日記念フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。いかに調べても マジャル人がハンガリーに移住してきた頃で 建国とする根拠が判らないのです。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいない。10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。現ハンガリー第三共和国のヘレンドは 1996年を 建国1100年記念年として 清の花籠と カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがて オリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
「欧州磁器戦争史 秘法漏洩 番外編 ヘレンド窯」 詳しくは コチラをクリック して下さい。
「ウィーンを嫌い ヘレンドに 親しんだエリザベート」
「2代目国立窯後 フィシェルの孫 3代目ファルカシャージ」
「ウィーン窯閉窯時の ヘレンドへの係わり」
「ウィーン窯と ヘレンドの4シェープ」 加筆しました。
秘法漏洩-1,2,3,の次にあります。
コメント
コメントの投稿
« バカラ 【アルクール】 1702 252 アメリカンタンブラー 260cc 35%Off l Home l リチャードジノリ 【インペロブラック】 ティーC/S 35%Off »