ヘレンド 【セーブル風小バラ金彩】 ティーC/S 20724 35%Off
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小バラの妖精
『ディアナに扮したポンパドゥール夫人』(1746) ジャン=マルク・ナティエ
イチイの木の舞踏会で彼女が扮したのは狩りの女神「ディアナ」
ジャン=マルク・ナティエ(1685年 - 1766年)は、フランスの画家。ルイ15世時代のフランスで肖像画家として一世を風靡した。
ブリュードロワ(王者の青) フランスはセーヴルで発明された王家禁色で 美の権化ポンパドール夫人が命名。マイセンでは これに次ぎます。夫人は 1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まり ポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて夫と別居し、1745年 正式に公妾として認められた。ヴァンセンヌ窯を自分の別荘地のセーヴルに写し 王30%陶工のグラヴァンを始めとする7人の民間人70%の株式会社セーブル窯を立ち上げました。彼女のあくなき 美の追求は ついにはセーヴル窯の存亡の危機を招いたほどです。民間人7人は 王に願い出て「あなたの寵姫が 仕出かした事ですから 責任を取ってください」ということでセーブルは放蕩王ルイ15世の王立窯になりました。夫人は 湯水のように金を使い(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅)などあちこちに邸宅を建てさせ やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。
ブーシェ 「ポンパドゥール夫人」1756年
フランソワ・ブーシェ(1703年 - 1770年)は、フランスの画家、素描家、エッチング製作者。ロココを代表する画家であり、上流社会の肖像画や神話画などを描いた。多作家として知られ、生涯に1000点以上の絵画、少なくとも200点の版画、約10000点の素描を制作し、壁画装飾、タピスリーや磁器の下絵制作、舞台デザインの仕事をこなした。18世紀フランスの美術愛好家ピエール゠ジャン・マリエットはブーシェの才能を高く評価し、「筆を手にして生まれた」、すなわち画家となるべく運命づけられた人間で、「我らがフランス画派にとっての大いなる名誉」であると絶賛している。
フランソワ・ブーシェ – シノワズリ (1750) ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館
政治に関心の薄いルイ15世に代わって 政治好きのポンパドゥール侯爵夫人は 1756年には、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなる。夫人は美貌ばかりでなく ヴォルテールなどの啓蒙思想家と親交を結び フランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった。
綺麗すぎ 賢すぎるけど夜伽嫌いすぎる夫人 「二十年は処女、七年は娼婦、八年は女衒たりしもの、ここに眠る。」1764年4月15日享年42歳で他界したポンパドゥール夫人に向けたパリの街で流行った戯れ歌である。30歳を越えたころからルイ15世へのお褥ご辞退となったが、代わりに息のかかった女性を紹介した。ルイ15世は夫人が42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。鹿の園を建ててルイ15世好みの女を住まわせたというが、いわゆるハーレムのようなものではなかったという。当時の貴族の女性はこぞってポンパドゥール夫人のファッションを真似、その髪型をポンパドゥール と呼ぶようになった。
売り切れ品 入荷しました。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。このお品も 去年の夏の終わりに 発注したお品です。
エステルハージシェープ
ロカイユ(ロココ)や オジアでは エンボスが 繊細な花絵と手描き金彩の邪魔をします。さりとて リッセでは シンプルすぎて 高級感に欠けます。この作品には エステルハージしかないでしょう。
セーブルを好とした 3代目オーナー ファルカシャジーによる 主に フランスや スイス向けの お品の流れを汲むものです。 パリのエスプリの効いた 佳作品。
ファルカシャジー
オーストリア・ハンガリー二重帝国 最初の経済恐慌に ヘレンドも埒外たり得ず 傷心の中 引退したモール・フィシェルの偉大な継承は 革新を阻み 彼の息子たちの後継は 文字通りの後継で 引き続く経済恐慌に なす術もなく 1884年 国に身売りする 羽目に至りました。1896年 フランスやドイツで 磁器芸術を修得した 孫のファルカシャージは 国より工場を買戻し 祖父フィシェルの呪縛を解き放ち 新風を吹き込み 再びヘレンドに活気を取り戻しました。
ヘレンドには オジア,ロカイユ,リッセ,エステルハージ,シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02,ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分 時代を読み誤ったのでしょう? もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフetc.) で シェープは デコラティブな貴族趣味を旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は見られません。
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ソーサー絵・カップ正面 把手面
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モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。いかに調べても マジャル人がハンガリーに移住してきた頃で 建国とする根拠が判らないのです。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいない。10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。現ハンガリー第三共和国のヘレンドは 1996年を 建国1100年記念年として 清の花籠と カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセン オリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
「欧州磁器戦争史 秘法漏洩-番外編 ヘレンド窯」 詳しくは コチラをクリック して下さい。
「ウィーンを嫌い ヘレンドに 親しんだエリザベート」
「2代目国立窯後 フィシェルの孫 3代目ファルカシャージ」
「ウィーン窯閉窯時の ヘレンドへの係わり」
「ウィーン窯と ヘレンドの4シェープ」 加筆しました。
秘法漏洩-1,2,3,の次にあります。
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「ウィーン窯閉窯時の ヘレンドへの係わり」
「ウィーン窯と ヘレンドの4シェープ」 加筆しました。
秘法漏洩-1,2,3,の次にあります。
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