マイセン 【シノワズリ緑龍・333310】 兼用C/S 40%Off
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通常30%オフ 祝・体育の日記念フェア (本日~10/10) 40%Off
この龍を 柿右衛門描くところの龍を 中国の原作に近づけたものとする日本の先生方の定説がありますが これは逆説で 中国原作の龍を ヘロルトが 自分の感性で消化して表現した龍ではないでしょうか? 明らかにシノワズリに分類されており Mingdrachen,grun(マイセン源名 もしこれを知っていれば こんな荒唐無稽な説は 恥ずかしくて言えないでしょう。多分一人が言い出したのを 多くが子引孫引して定説化したのでしょう)の銘々からもわかります。日本へ 蛇神信仰として 伝来しました龍は 3爪でした。従って よしんば柿右衛門の龍があったとしても 3爪のはずです。マイセンの龍は 4爪です。中国伝来の龍は 禁断の5爪下の 4爪だったのです。ヘロルトが この龍の顛末を知っていたかどうかはさておいて シノワズリの龍を高貴なものとして アウグスト強襲王に 献上しました。王が柿右衛門の余白の美に傾倒されていたことは事実ですが アウグスト強襲王のお気に召された この龍を 柿右衛門贔屓と結びつけたのは 話を面白くする人の日本贔屓がなせる業で 贔屓の引き倒しになっております。
今回柿右衛門の龍をやっと探しあてました。やはり 私の予言通りの3爪でした。
初代柿右衛門は(1596慶長~1666寛文)の人ですから 初期柿右衛門(1596~1679)の4代目(1640~1679)の作品になります。銘は見ておりませんが 所在と 所蔵先からみて 下記認定は信じられます。
(柿右衛門手丸文龍磁板(延宝年間1677年建立の西本願寺内・腰瓦)福岡県立美術館所蔵
龍の起源は 中国神話にあります。長髭をたくわえ 喉下に逆鱗 顎下に宝珠を持っており 天子の象徴でした。時代によって多少は変わりますが おおむね 天子の龍は5爪 貴人の龍は 4爪 3爪とされ 天子以外の 5爪龍は 死罪にもあたるとされておりました。インドに渡った龍(中国伝来のインドの龍は 禁断の5爪でなく 4爪でした。マイセンに渡ったこの龍も 矢張り4爪でした。)は コブラ信仰のナーガとなり 中国への仏教伝来とともに 土俗の蛇神信仰として里帰りしました。日本へも 蛇神信仰として 伝来しました龍は 3爪でした。平安京大内裏に接して造営された禁苑 神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ 天長元年(824年) 西寺の守敏と 東寺の空海が祈雨の法を競い 空海が勝ち 以後東寺の支配下に入りました。
天子の龍に遠慮がなくなると日本でも5爪龍(龍を調べていて 初代柿右衛門1596~1666よりまだ古い 1338年 開基足利尊氏、開山夢窓疎石の天龍寺のこの五爪の龍に行き当たって魂消ました。1997年作と判り 自説の正しさに冷や水物でした。)
1997 夢窓国師650年遠諱記念「雲龍図」 天龍寺 加山又造画
中国 南宋時代 天子に憚り 4爪龍
「九龍図巻」陳容画(南宋)、ボストン美術館蔵
日本では 江戸時代でも 龍は3爪
釈迦八相記今様写絵(二代目歌川国貞 19世紀)
気焔を 吐く シノワズリドラゴン
代々描き次がれてきたドラゴンですが今時のドラゴンと違って「緑 龍」は描きこまれた迫力が違い 技量の差は歴然です。いや コスト面からの簡略化かもしれませんが?
3人の天才ヨハンによる伝統の 復刻版
ヨハン・フリードリヒ・ベトガーによる ヨーロッパ 初の ポースレーン
ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型・エンツゥイーステッドハンドル
ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト原画
マイセン 人気のシノワズリ
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに宮廷画家として確固たる地位を確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて 高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。
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ソーサー絵 反対面 把手面
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3人の天才ヨハン
1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
3人の天才ヨハン-2
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
天才は 狂気なり。
ヘロルトは 出世欲の権化でした。出世のための 名誉であり 守銭奴でもありました。マイセン ひいては 窯業界に与えた 今に生きる功績は 一将功成り 万骨枯る 功罪相半ばするでしょう。
ヘロルトは ベトガー亡き後 非凡な絵付けの才と ケーラーや シュテルツェルを踏み台に 調合しえた極彩色の顔料で為しえたシノワズリやジャポネズリを武器に マイセン委員会を慇懃無礼に 我が意に添わせ 宮廷画家の地位と 高額の分け前を 確保していった。肩書に見合う 裕福な町の名士の娘と結婚もしたが あまり幸せな結婚ではなかった。10年の間に 7人の子を生したが 皆7歳を見ずなくなった。彼の意固地な性格は さらに助長され 親方の徒弟いびりに輪をかけ マイセン内では この早死には 不行跡の報いと噂の花を咲かせた。彼は職人たちの腕を食い物にし マイセンから受け取る金のほんの1分しか払わなかった。挙句 腕のいい職人たちが 独自の画風を確立して 1本立ちして 自分の立場を脅かすことを恐れ 画題を制限して才能の開花を妨げ 作品への署名などは 勿論禁じておりました。中には うまく隠しサインを入れたものもおり 今も その名残で 意匠の中にサインを隠した作品を見ますが それは作品に秘密性を持たせ 高価を装う話題作りになっております。彼は 新米への教育手当も受け取りながら 才能の開花を恐れ 訓練はおざなりで マイセン委員会の指摘には 腕をあげて転籍され秘密漏洩の防衛手段としてと言いひらきしていました。そんな中で 多少なり腕を磨いたものは ヘロルトに離反して 結果マイセンを離れ マイセンは多大の損害を被った。権力者ヘロルトの魔の手からうまく逃げ出せた者は良いが 最初からの弟子ハインツェは 才能がありながら 虐げられ 生活の糧の為 白磁をこっそり盗み出し 家で絵付けをし それを捌き 生活にあてた。露見して獄につながれるのですが ヘロルトの手から逃れるために脱獄し成功し 作品の1つは シュットガルト州立博物館に収蔵されております。逃亡に失敗した1人 遠縁のクリスティアン・フリードリヒ等は 前職の腕を生かし 生活の為 銅板の琺瑯絵付けの内職をしたのですが 実力に懸念を抱いていたヘロルトは 罪に陥れ逮捕させました。彼はこの場は磁器への絵付けではないと言い逃れ すきを見ては逃亡を図るのですがいつも阻止され 40年を耐えさされました。しかし40年後に 生活の為 昇給を願い出るのですが ヘロルトは 秩序転覆罪で 彼を獄につないだのです。1779年 79歳で亡くなるのですが
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-2 ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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今回柿右衛門の龍をやっと探しあてました。やはり 私の予言通りの3爪でした。
初代柿右衛門は(1596慶長~1666寛文)の人ですから 初期柿右衛門(1596~1679)の4代目(1640~1679)の作品になります。銘は見ておりませんが 所在と 所蔵先からみて 下記認定は信じられます。
(柿右衛門手丸文龍磁板(延宝年間1677年建立の西本願寺内・腰瓦)福岡県立美術館所蔵
龍の起源は 中国神話にあります。長髭をたくわえ 喉下に逆鱗 顎下に宝珠を持っており 天子の象徴でした。時代によって多少は変わりますが おおむね 天子の龍は5爪 貴人の龍は 4爪 3爪とされ 天子以外の 5爪龍は 死罪にもあたるとされておりました。インドに渡った龍(中国伝来のインドの龍は 禁断の5爪でなく 4爪でした。マイセンに渡ったこの龍も 矢張り4爪でした。)は コブラ信仰のナーガとなり 中国への仏教伝来とともに 土俗の蛇神信仰として里帰りしました。日本へも 蛇神信仰として 伝来しました龍は 3爪でした。平安京大内裏に接して造営された禁苑 神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ 天長元年(824年) 西寺の守敏と 東寺の空海が祈雨の法を競い 空海が勝ち 以後東寺の支配下に入りました。
天子の龍に遠慮がなくなると日本でも5爪龍(龍を調べていて 初代柿右衛門1596~1666よりまだ古い 1338年 開基足利尊氏、開山夢窓疎石の天龍寺のこの五爪の龍に行き当たって魂消ました。1997年作と判り 自説の正しさに冷や水物でした。)
1997 夢窓国師650年遠諱記念「雲龍図」 天龍寺 加山又造画
中国 南宋時代 天子に憚り 4爪龍
「九龍図巻」陳容画(南宋)、ボストン美術館蔵
日本では 江戸時代でも 龍は3爪
釈迦八相記今様写絵(二代目歌川国貞 19世紀)
気焔を 吐く シノワズリドラゴン
代々描き次がれてきたドラゴンですが今時のドラゴンと違って「緑 龍」は描きこまれた迫力が違い 技量の差は歴然です。いや コスト面からの簡略化かもしれませんが?
3人の天才ヨハンによる伝統の 復刻版
ヨハン・フリードリヒ・ベトガーによる ヨーロッパ 初の ポースレーン
ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型・エンツゥイーステッドハンドル
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ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに宮廷画家として確固たる地位を確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて 高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。
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錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
3人の天才ヨハン-2
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
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