マイセン 【アフロディテ・ヴィーナス誕生・826901】 19cmプレート・23501 50%Off
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祝・体育の日記念フェア ( 9/ 5~10/10) 末広がり 八枚限定
通常35%オフ 祝・体育の日記念フェア ( 9/ 5~10/10) 50%Off
ミロのヴィーナスは 波間の泡からとか 海の貝から 産まれたと伝えられております。
アレクサンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生』(1863年)
アレクサンドル・カバネル(1823年9月28日 - 1889年)は、フランスの画家。成功したアカデミック画家として、カバネルが1863年に描いた『ヴィーナスの誕生』は、19世紀のアカデミック絵画で最もよく知られている絵である。この絵はナポレオン3世が購入した。印象派とは表現も思想も正反対のところにある、この絵画は、印象派の殿堂ともいえるオルセー美術館に所蔵されている。
ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に小作農であったヨルゴス・ケントロタスによってオスマン帝国統治下のミロス島で発見された。彼は最初、官吏に見つからぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。後に、フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像を見て価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。これは修復された後に、ルイ18世に献上された。ルイ18世は、これをルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。
この門外不出の国宝が 後にも先にも たったの1度 東京(国立西洋美術館)と京都(京都市美術館)で 特別展示されております。人口に膾炙する話ですが 歌舞伎役者 十五代市村羽左衛門が ルーヴルで ミロのヴィーナス像を前に 感想を聞かれた際 「手の切れた女に 用はない」と述べたのを さすがは洒脱な人柄と 持て囃されたそうですが それもそうでしょうが 何のことはない 美術的批評に窮し 手の切れた女=別れた女と掛けた ただの駄洒落だったのでしょう。
ミロのヴィーナスは ギリシア神話におけるアフロディテの像と考えられている。さて昔から ヴィーナスの手の行く先が 色々取りざたされてきましたが ほぼ定説は トロイア戦争の際、アテーナーとヘーラーを出し抜いて パリスから得た黄金の林檎を持っていたのだろうとされております。
フルトヴェングラー 両腕復元像 『ヴィーナス誕生』(1879年)W・ブーグロー オルセー美術館蔵
ギリシア神話のアフロディテは ウゥルカーヌスの妻ですが、性に大らかな時代 マールス、メルクリウス、アドーニス、アンキセスたちとも浮名を流していました。このうちのアンキセスとの間の子アイネイアースは ローマ建国の祖にして、ガイウス・ユリウス・カエサルの属するユリウス氏族の祖とされた。ここからカエサルは ヴィーナスを祖神として、彼女を祀る為の壮麗な神殿を奉献したという。 また、カエサルの祖神として 軍神ともされました。
ハインツ・ヴェルナー教授原作 2000年限定受注
発表時の作品に グリーンの挿し色なし 珍品中の珍品
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で
14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温の焼き
付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なもので
した。
(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ
当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む
フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いの
ですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達に(アウグスト強襲王は この一番争いの諍いを口実に 呉須調合の成功者に 支払うとの報奨金10万ターレルの公表を反故にして「漁夫の利」を得 2人は「鷸蚌の争い」を演じた)より 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
呉須の中国での発明後
5世紀を経た 1817年 緑色の染付顔料を 世界に先駆けて マイセンが発明
アフロディテ・ヴィーナス誕生 青と緑の染付作品 #8
グロッサー・アウシュニット型
偉大なマンネリズムを 標榜する一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニット型に ハインツ・ヴェルナー教授 絵付けによる「アフロディテ」「アラビアンナイト1001夜」「ブルーオーキッド」等のヒット作が ここから生まれました。
マイセン 【アフロディテ・ヴィーナス誕生・826901】 19cmプレート・2350150%Off のお求めはコチラ
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シェープ
マイセン 【 アフロディテ・ヴィーナス誕生・826901 】 祝・体育の日記念フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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3人の天才ヨハン
1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
3人の天才ヨハン-2
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い難く ベトガーや シュテルツェルやケラーらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。(ベトガーが 持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウグスブルグのハウスマーレライ・無所属の絵付師らに 売り渡されておりました。
アウクスブルク 水路 こんな磁器街道だったのでしょうか?
マイセン社史では 贋作に手を貸す この不名誉な事は あえて触れられておりません。) ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて 高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグスト王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門 (ヨーロッパにおいて高値を呼んだ) にも 臆せず挑み 王の満足する ヘロルトの 「柿右衛門写し」 は 欧州二大ジャポネズリの筆頭として マイセンの名声を 弥が上にも高めました。ちなみにもう一方は ロイヤルクラウンダービーの 伊万里金襴手写しです。
天才は 狂気なり。
ヘロルトは 出世欲の権化でした。出世のための 名誉であり 守銭奴でもありました。マイセン ひいては 窯業界に与えた 今に生きる功績は 一将功成り 万骨枯る 功罪相半ばするでしょう。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-2 ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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アレクサンドル・カバネル(1823年9月28日 - 1889年)は、フランスの画家。成功したアカデミック画家として、カバネルが1863年に描いた『ヴィーナスの誕生』は、19世紀のアカデミック絵画で最もよく知られている絵である。この絵はナポレオン3世が購入した。印象派とは表現も思想も正反対のところにある、この絵画は、印象派の殿堂ともいえるオルセー美術館に所蔵されている。
ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に小作農であったヨルゴス・ケントロタスによってオスマン帝国統治下のミロス島で発見された。彼は最初、官吏に見つからぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。後に、フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像を見て価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。これは修復された後に、ルイ18世に献上された。ルイ18世は、これをルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。
この門外不出の国宝が 後にも先にも たったの1度 東京(国立西洋美術館)と京都(京都市美術館)で 特別展示されております。人口に膾炙する話ですが 歌舞伎役者 十五代市村羽左衛門が ルーヴルで ミロのヴィーナス像を前に 感想を聞かれた際 「手の切れた女に 用はない」と述べたのを さすがは洒脱な人柄と 持て囃されたそうですが それもそうでしょうが 何のことはない 美術的批評に窮し 手の切れた女=別れた女と掛けた ただの駄洒落だったのでしょう。
ミロのヴィーナスは ギリシア神話におけるアフロディテの像と考えられている。さて昔から ヴィーナスの手の行く先が 色々取りざたされてきましたが ほぼ定説は トロイア戦争の際、アテーナーとヘーラーを出し抜いて パリスから得た黄金の林檎を持っていたのだろうとされております。
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ギリシア神話のアフロディテは ウゥルカーヌスの妻ですが、性に大らかな時代 マールス、メルクリウス、アドーニス、アンキセスたちとも浮名を流していました。このうちのアンキセスとの間の子アイネイアースは ローマ建国の祖にして、ガイウス・ユリウス・カエサルの属するユリウス氏族の祖とされた。ここからカエサルは ヴィーナスを祖神として、彼女を祀る為の壮麗な神殿を奉献したという。 また、カエサルの祖神として 軍神ともされました。
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14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で
14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温の焼き
付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なもので
した。
(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ
当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む
フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いの
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偉大なマンネリズムを 標榜する一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニット型に ハインツ・ヴェルナー教授 絵付けによる「アフロディテ」「アラビアンナイト1001夜」「ブルーオーキッド」等のヒット作が ここから生まれました。
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3人の天才ヨハン
1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
3人の天才ヨハン-2
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い難く ベトガーや シュテルツェルやケラーらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。(ベトガーが 持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウグスブルグのハウスマーレライ・無所属の絵付師らに 売り渡されておりました。
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マイセン社史では 贋作に手を貸す この不名誉な事は あえて触れられておりません。) ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて 高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグスト王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門 (ヨーロッパにおいて高値を呼んだ) にも 臆せず挑み 王の満足する ヘロルトの 「柿右衛門写し」 は 欧州二大ジャポネズリの筆頭として マイセンの名声を 弥が上にも高めました。ちなみにもう一方は ロイヤルクラウンダービーの 伊万里金襴手写しです。
天才は 狂気なり。
ヘロルトは 出世欲の権化でした。出世のための 名誉であり 守銭奴でもありました。マイセン ひいては 窯業界に与えた 今に生きる功績は 一将功成り 万骨枯る 功罪相半ばするでしょう。
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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