マイセン 【イヤープレート】 2000年・ハングライダーオットーリリエンタール夢の初飛行 50%Off
マイセン 【イヤープレート】 2000年・ハングライダーオットーリリエンタール夢の初飛行 50%Off
祝・新春初売フェア (12/16~ 1/15) 3枚限定
ヨーロッパでは 西暦が生まれた6世紀には インドで生まれた 0の概念がなく 0年は存在しなかったのです。ヨーロッパ人には 17世紀まで0年はなく 1年が1世紀幕開け年とされてきました。1600年間親しんできた 1年 開幕年は 世俗的には何ら不都合なく 1601年を 17世紀開幕年とした通り 2001年を 21世紀幕開け年とし 2000年を 20世紀最終年としております。天文学的に 正式には 1999年が 20世紀最終年 2000年が 21世紀幕開け年になります。
キリスト生誕 2000年は 大聖年「ジュビレオ」
キリスト教終末論の1つに 千年王国説があり 信者を ミレナリーと呼称します。
新約聖書 ヨハネの黙示録の真偽の論争 信仰の有無など 立場の違いから 諸説
(一つに言う。 悔い改めのクリスチャンを 患難前携挙により天に救い ハルマゲドンの戦いでキリストが サタンと悔い改めのない人を 地獄に落とし 勝利する。神が地上を 統治し 1000年後 天国が始まる)がありますが 差し障りのないところで こんなのはどうでしょうか?

ジョン・マーティン(英 1789年 - 1854年) 最後の審判 天国の平原
1000年に1度 天国の扉が開かれる。悔い改めたる善人は キリストより天国の扉を開くカギを預かる 聖ペテロ(イエスキリストから 権威を与えられた 初代ローマ教皇。 代々の教皇は これを継承。余談ですが 教皇を選ぶ選挙を コンクラーベといいますが 何回も入れ札を繰り返す 根競べを言うものではありません。 教徒は ひと夜に及ぶこともある 煙突の1筋の煙を待ちわびます。)に導かれ 天国で キリスト様の横に列せられる。罪人は 天国入りに漏れる。(懲役300年などの刑は 来るべき天国入りに 漏れる罪人ですよのご託宣) 罪を犯すな 罪を悔い改めよの御教えです。罪多き 岡本には 耳の痛い教えですが 素直に聞けますね。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
ハインツ・ヴェルナー教授
風をテーマに3作目 21世紀開幕年
年号は裏面に有りますので 飾り絵皿としても 楽しんでいただけます。
1972年から 現在のロゴになりました。
もう10年以上前になりますか?
日本百貨店のマイセン展に いつも2~3枚のウォールプレートが出ていました。当店は それらを参考に ドイツ各地の代理店より 未使用の新品を集めておりました。 当時は よく売れましたが 日本代理店さんも 新品が無くなってから 展示販売をしなくなりました。当店でも 新品が入手しずらくなり 今は 売れてしまえば おしまいです。当店にとって マイセン代理店さんの 過去の新品上代しか 参考はありません。
φ27cm
マイセン 【イヤープレート】 2000年・ハングライダーオットーリリエンタール夢の初飛行 50%Off のお求めはコチラ

どの小さい写真もクリックで拡大
ハインツ・ヴェルナー サイン
マイセン 【 イヤープレート 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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3人の天才ヨハン-4
避難命令を受けたヘロルトは これ幸いとフランクフルトに 避難しましたが ケンドラーは
マイセンの火を消すまいと踏み止まりました。ケンドラーは アウグスト三世の 巨大な磁器
の騎馬像を作り遂げたいと 執念を燃やしていましたので 尚更 マイセンを離れられなかっ
たのです。ヘロルトとの長年の確執に 決着をつけるべく 完成すれば 9Mを超える 磁器
の巨像を 是が非でも完成させたかったのです。(ドレスデン磁器博物館には 前哨戦として
作られた 小型版が 今も展示されていて 館の目玉的 展示品になっております。)
マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を立ち上げ やがて
ジャーマンロココを 確立していきました。ロココに取って代る ネオクラシックの大波は
海を越えて 英国から襲ってきました。1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発する
のですが これの大ブレークの前に マイセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいまし
た。一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシック
の新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられま
した。傷心のケンドラーは アシェの立場で かって追い落とした ヘロルト(享年78歳)の
後を追うように 同1775年 享年68歳で 失意のうちに この世を去りました。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-4 ケンドラー」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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ヨーロッパでは 西暦が生まれた6世紀には インドで生まれた 0の概念がなく 0年は存在しなかったのです。ヨーロッパ人には 17世紀まで0年はなく 1年が1世紀幕開け年とされてきました。1600年間親しんできた 1年 開幕年は 世俗的には何ら不都合なく 1601年を 17世紀開幕年とした通り 2001年を 21世紀幕開け年とし 2000年を 20世紀最終年としております。天文学的に 正式には 1999年が 20世紀最終年 2000年が 21世紀幕開け年になります。
キリスト生誕 2000年は 大聖年「ジュビレオ」
キリスト教終末論の1つに 千年王国説があり 信者を ミレナリーと呼称します。
新約聖書 ヨハネの黙示録の真偽の論争 信仰の有無など 立場の違いから 諸説
(一つに言う。 悔い改めのクリスチャンを 患難前携挙により天に救い ハルマゲドンの戦いでキリストが サタンと悔い改めのない人を 地獄に落とし 勝利する。神が地上を 統治し 1000年後 天国が始まる)がありますが 差し障りのないところで こんなのはどうでしょうか?

ジョン・マーティン(英 1789年 - 1854年) 最後の審判 天国の平原
1000年に1度 天国の扉が開かれる。悔い改めたる善人は キリストより天国の扉を開くカギを預かる 聖ペテロ(イエスキリストから 権威を与えられた 初代ローマ教皇。 代々の教皇は これを継承。余談ですが 教皇を選ぶ選挙を コンクラーベといいますが 何回も入れ札を繰り返す 根競べを言うものではありません。 教徒は ひと夜に及ぶこともある 煙突の1筋の煙を待ちわびます。)に導かれ 天国で キリスト様の横に列せられる。罪人は 天国入りに漏れる。(懲役300年などの刑は 来るべき天国入りに 漏れる罪人ですよのご託宣) 罪を犯すな 罪を悔い改めよの御教えです。罪多き 岡本には 耳の痛い教えですが 素直に聞けますね。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
ハインツ・ヴェルナー教授
風をテーマに3作目 21世紀開幕年
年号は裏面に有りますので 飾り絵皿としても 楽しんでいただけます。
1972年から 現在のロゴになりました。
もう10年以上前になりますか?
日本百貨店のマイセン展に いつも2~3枚のウォールプレートが出ていました。当店は それらを参考に ドイツ各地の代理店より 未使用の新品を集めておりました。 当時は よく売れましたが 日本代理店さんも 新品が無くなってから 展示販売をしなくなりました。当店でも 新品が入手しずらくなり 今は 売れてしまえば おしまいです。当店にとって マイセン代理店さんの 過去の新品上代しか 参考はありません。
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マイセンの火を消すまいと踏み止まりました。ケンドラーは アウグスト三世の 巨大な磁器
の騎馬像を作り遂げたいと 執念を燃やしていましたので 尚更 マイセンを離れられなかっ
たのです。ヘロルトとの長年の確執に 決着をつけるべく 完成すれば 9Mを超える 磁器
の巨像を 是が非でも完成させたかったのです。(ドレスデン磁器博物館には 前哨戦として
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マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を立ち上げ やがて
ジャーマンロココを 確立していきました。ロココに取って代る ネオクラシックの大波は
海を越えて 英国から襲ってきました。1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発する
のですが これの大ブレークの前に マイセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいまし
た。一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシック
の新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられま
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後を追うように 同1775年 享年68歳で 失意のうちに この世を去りました。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-4 ケンドラー」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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