マイセン 【鳥と小蝶】 兼用C/S-1 35%Off
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祝 勤労感謝の日フェア (10/ 4~11/23) 1客限定
ドイツには 個人財団のマイセン美術館がたくさんあります。
そこには当時最高のぺインターさんの作品が蒐集されております。
今でも メッセに出てくる よい作品は ドイツの大物政財界人や 蒐集家の手におち 私など あちこちに手を回し よい作品を 愛好家のために 苦労して蒐集しております。私の持論ですが アンティークは古いから良いのではありません。古の刀剣 正宗や 村正などには こんなに化学が進んだ現代でも おいそれとは並べません。今では 技術や伝承が廃れ 美の再現の困難なものこそがアンティークの値打ちではないでしょうか?
古マイセン 鳥と小蝶
毛1本から描きあげる細密画の鳥
鳥は生きており 今にも飛び立ちそうです。
ここまでで無くても どの窯でも 鳥は最高のペインターにのみ許される 画題です。エンツゥィーステッドハンドル
ケンドラー作 ノイエ・アウスシュニット型
ピカピカの 新品です。現品 即納
マイセン 【鳥と小蝶】 兼用C/S-1 35%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
反対面 ソーサー絵 取っ手面
マイセン 【 鳥と小蝶 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-5
ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りましたが 彼が求
める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費であり 心から喜べなかったようです。彼は 実
験室の壁に 自虐的に書いております。「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の商品化に
追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立て直す必要から ベト
ガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を 目論んだのです。しかし 商品
化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けておりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは 新しい強
力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。
この研磨機は その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
た 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐものの 出現はありませ
んでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付
用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て
中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程
困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の ま
ぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を
含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も
無いのですが・・・・)
「欧州磁器戦争史 錬金術師 ベトガー 5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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古マイセン 鳥と小蝶
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鳥は生きており 今にも飛び立ちそうです。
ここまでで無くても どの窯でも 鳥は最高のペインターにのみ許される 画題です。エンツゥィーステッドハンドル
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錬金術師-5
ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りましたが 彼が求
める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費であり 心から喜べなかったようです。彼は 実
験室の壁に 自虐的に書いております。「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の商品化に
追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立て直す必要から ベト
ガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を 目論んだのです。しかし 商品
化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けておりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは 新しい強
力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。
この研磨機は その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
た 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐものの 出現はありませ
んでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付
用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て
中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程
困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
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含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
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