マイセン 【二つ花】 スカロップ(木瓜型)C/S 30%Off
マイセン 【二つ花】 スカロップ(木瓜型)C/S 30%Off
祝 敬老の日フェア ( 8/11~ 9/21) 1客限定
二つ花 という名称は マイセン社には ありません。 これは 日本代理店が 日本向けに マイセン社の 二種類のお花が描かれているシリーズで 価格帯の同じものを集めて 付けられた総称です。 一つ花 三つ花 四つ花 五つ花 六つ花 も 総て同趣旨の 日本向けのネーミングです。
ピカピカの 新品です。 現品 即納
マイセン伝統の スカロップ(木瓜型)シェープ
ベトガーが 完成した白磁は 雪花石膏を媒溶剤とするもので 少しきめ荒く黄ばんでおりました。1719年 ベトガーの死後も 弟子達の研究は進み 1724年 媒溶剤に長石・石英を用いるにいたり 完全な東洋白磁を物にしました。アウグスト強襲王の磁器宮殿に収められた ヨハネウム・ナンバー付のベトガー磁器に 既にこのスカロップC/Sが見られ 以後 マイセンの誇るシェープとして 現在でも踏襲されております。
又 多くの贋作に 昔から人気の このC/Sが マイセンの高級志向として用いられております。
お客さんご自慢の 如何にもマイセンらしき絵付けの贋作に 私も何度か出会っております。
やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入りした ペインターの卵たちが
まず 最初に習うのがお花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
マイセン 【二つ花】 スカロップ(木瓜型)C/S 30%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
反対面 ソーサー絵 取っ手面
マイセン 【 二 つ 花 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
3人の天才ヨハン
1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
3人の天才ヨハン-4
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは またもや占領されました。
アウグストは ワルシャワに避難するのですが マイセンには 前回同様 隠せるものは隠し
窯などは 破壊して 秘法を守れとの 命令を下しました。そして職人達には 避難命令が下
されました。南のババリア地方に逃れた人たちによって 後のフッチェンロイターや ローゼ
ンタール誕生の種がまかれました。一方 閉鎖された マイセンを占領したフリードリヒは
ザクセンの大臣に 窯を再開させ 製品を略奪するのです。(サンスーシーの三悪人の本領を
発揮したフリードリヒ大王は ザクセンの若き女性を 自国プロイセンの辺境へ拉致し 嫁の
来ての無い男達に 妻合わすのです。18世紀の国際法にさえ 明白に違反する行為を 平然
とやってのけております。1763年の和約で戦争は 終わるのですが フリードリヒの完膚
なき砲撃により ドレスデンの町は廃墟と化しました。第2次世界大戦を予兆するかのように)
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-4 」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
祝 敬老の日フェア ( 8/11~ 9/21) 1客限定
二つ花 という名称は マイセン社には ありません。 これは 日本代理店が 日本向けに マイセン社の 二種類のお花が描かれているシリーズで 価格帯の同じものを集めて 付けられた総称です。 一つ花 三つ花 四つ花 五つ花 六つ花 も 総て同趣旨の 日本向けのネーミングです。
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マイセン伝統の スカロップ(木瓜型)シェープ
ベトガーが 完成した白磁は 雪花石膏を媒溶剤とするもので 少しきめ荒く黄ばんでおりました。1719年 ベトガーの死後も 弟子達の研究は進み 1724年 媒溶剤に長石・石英を用いるにいたり 完全な東洋白磁を物にしました。アウグスト強襲王の磁器宮殿に収められた ヨハネウム・ナンバー付のベトガー磁器に 既にこのスカロップC/Sが見られ 以後 マイセンの誇るシェープとして 現在でも踏襲されております。
又 多くの贋作に 昔から人気の このC/Sが マイセンの高級志向として用いられております。
お客さんご自慢の 如何にもマイセンらしき絵付けの贋作に 私も何度か出会っております。
やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入りした ペインターの卵たちが
まず 最初に習うのがお花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
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マイセン 【 二 つ 花 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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3人の天才ヨハン
1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
3人の天才ヨハン-4
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは またもや占領されました。
アウグストは ワルシャワに避難するのですが マイセンには 前回同様 隠せるものは隠し
窯などは 破壊して 秘法を守れとの 命令を下しました。そして職人達には 避難命令が下
されました。南のババリア地方に逃れた人たちによって 後のフッチェンロイターや ローゼ
ンタール誕生の種がまかれました。一方 閉鎖された マイセンを占領したフリードリヒは
ザクセンの大臣に 窯を再開させ 製品を略奪するのです。(サンスーシーの三悪人の本領を
発揮したフリードリヒ大王は ザクセンの若き女性を 自国プロイセンの辺境へ拉致し 嫁の
来ての無い男達に 妻合わすのです。18世紀の国際法にさえ 明白に違反する行為を 平然
とやってのけております。1763年の和約で戦争は 終わるのですが フリードリヒの完膚
なき砲撃により ドレスデンの町は廃墟と化しました。第2次世界大戦を予兆するかのように)
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-4 」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
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