マイセン 【ブルーオニオン】 エスプレッソC/Sスワン頭ハンドル・14630 30%Off
マイセン 【ブルーオニオン】 エスプレッソC/Sスワン頭ハンドル・14630 30%Off
海の日記念フェア ( 7/26~ 7/31) 6客限定 青い器
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
クレッチマー原作 1739年に 中国や 日本の伊万里写し ブルーオニオンを完成。
竹・桃・ザクロ(玉葱)は 不老長寿や 子孫繁栄の 縁起の良い絵柄として 慣れ親しまれ 約3世紀の 長き伝統を 生き続けている 誰知らぬ人なき 銘作です。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
マイセンに限らず 多くの王立窯は 王国の名誉にかけて 採算無視の 美術工芸品作りに
勤しみます。結果 経営難に陥りますが 面子上 手を抜くわけに行かず破綻の危機を迎えます。
マイセンは 危機に際し 資金を算段する為 他窯の憧れの的 ブルーオニオンの意匠の使用を
フッチェンロイターや カールスバード等にも 有償で許しておりました。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿「染付」
素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温で焼き付けます。この高温に 耐え
うる 酸化コバルト(呉須)の ヨーロッパでの調合は ベトガーの見果てぬ夢のまま 亡くなる
1719年に いがみ合う2人の高弟 ケラーと シュテルツェルにより マイセンで完了。
マイセン 【ブルーオニオン】 エスプレッソC/Sスワン頭ハンドル・14630 30%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
反対面 ソーサー絵・カップ正面 取っ手面
マイセン 【 ブルーオニオン 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-5
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床に
あったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくの
ですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成
の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに ア
ルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガ
ーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の
出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や
男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は
死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐ
らいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の
為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産
業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
「欧州磁器戦争史 錬金術師-5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
海の日記念フェア ( 7/26~ 7/31) 6客限定 青い器
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
クレッチマー原作 1739年に 中国や 日本の伊万里写し ブルーオニオンを完成。
竹・桃・ザクロ(玉葱)は 不老長寿や 子孫繁栄の 縁起の良い絵柄として 慣れ親しまれ 約3世紀の 長き伝統を 生き続けている 誰知らぬ人なき 銘作です。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
マイセンに限らず 多くの王立窯は 王国の名誉にかけて 採算無視の 美術工芸品作りに
勤しみます。結果 経営難に陥りますが 面子上 手を抜くわけに行かず破綻の危機を迎えます。
マイセンは 危機に際し 資金を算段する為 他窯の憧れの的 ブルーオニオンの意匠の使用を
フッチェンロイターや カールスバード等にも 有償で許しておりました。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿「染付」
素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温で焼き付けます。この高温に 耐え
うる 酸化コバルト(呉須)の ヨーロッパでの調合は ベトガーの見果てぬ夢のまま 亡くなる
1719年に いがみ合う2人の高弟 ケラーと シュテルツェルにより マイセンで完了。
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反対面 ソーサー絵・カップ正面 取っ手面
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あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床に
あったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくの
ですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成
の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに ア
ルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガ
ーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の
出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や
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死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐ
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為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
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固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
「欧州磁器戦争史 錬金術師-5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
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