マイセン 【ブルーオニオン】 ティーC/S 30%Off
マイセン 【ブルーオニオン】 ティーC/S 30%Off
海の日記念フェア ( 6/25~ 7/20) 末広がり 8客限定 青い器
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を
避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット・シェープ
ピカピカの 新品です。
クレッチマー原作 1739年に 中国や 日本の伊万里写し ブルーオニオンを完成。
竹・桃・ザクロ(玉葱)は 不老長寿や 子孫繁栄の 縁起の良い絵柄として 慣れ親しまれ
約3世紀の 長き伝統を 生き続けている 誰知らぬ人なき 銘作です。
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
マイセンに限らず 多くの王立窯は 王国の名誉にかけて 採算無視の 美術工芸品作りに
勤しみます。結果 経営難に陥りますが 面子上 手を抜くわけに行かず破綻の危機を迎えます。
マイセンは 危機に際し 資金を算段する為 他窯の憧れの的 ブルーオニオンの意匠の使用を
フッチェンロイターや カールスバード等にも 有償で許しておりました。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿「染付」
素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温で焼き付けます。この高温に 耐え
うる 酸化コバルト(呉須)の ヨーロッパでの調合は ベトガーの見果てぬ夢のまま 亡くなる
1719年に いがみ合う2人の高弟 ケラーと シュテルツェルにより マイセンで完了。
マイセン 【ブルーオニオン】 ティーC/S 30%Off のお求めはコチラ
写真はクリック拡大
反対面 ソーサー絵 取っ手面
マイセン 【 ブルーオニオン 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
3人の天才ヨハン-3
「白鳥のサービス」 中世最大のサービスは バロック様式を 代表する窯業界の 佳作で
したが 時は これを厳格なバロックの 最後の徒花となし 優雅なロココ様式のセーヴルが
マイセンに取って代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝ルイ15世は 東洋の
磁器でマイセンの 後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。ルイ
15世は 1738年設立のヴァンサンヌ窯を 1756年(7年戦争勃発年) 寵妃ポンパドール夫人
のセーヴルの地に 王立窯にして移しました。(ロココ生みの親とも賞賛される ポンパドール
夫人の 贅の限りを尽くした制作注文に ヴァンサンヌ窯は 経営破綻にいたりました。8人の
共同経営者から 王が 寵妃の不始末の責任を とらされたというのが 王立窯誕生の内実
でした。どの王立窯でも 国の面目をかけて 採算無視の 銘品を競っておりました。以来
銘窯は 王無き後 国や 公的機関 又 文化芸術を愛する 民間の富豪に支えられて存続
しております。)セーヴルとしては フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 中国は勿論
マイセンにも 勝ち目の無いのは 明らかです。やがて 時代は セーヴルの欧風ロココが
シノワズリ・バロックのマイセンを旧となし 新潮流となっていきました。(結局 セーヴルは
捜し求めた カオリンを 1768年に リモージュ近郊の サン・イリョーで 発見するまで 硬質
磁器を 焼成出来ませんでした)
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン 1~5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。古磁器を経て 紀元6世
紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオ
リンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。日本を
黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナと 賞賛し
た白磁です。やがて14世紀には 染付の完成を見ます。東洋では 1000年の長きに亘る
多くの職人の勘と 経験を積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧
れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師ベドガーは わずか3~5年で 1710年
に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウスの 白磁研究の基礎に 助
けられたとはいえ ベドガーの西洋的手法の 優越性は 個人的資質の賞賛のみにとどまらず
明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 東洋は 西
洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
海の日記念フェア ( 6/25~ 7/20) 末広がり 8客限定 青い器
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を
避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット・シェープ
ピカピカの 新品です。
クレッチマー原作 1739年に 中国や 日本の伊万里写し ブルーオニオンを完成。
竹・桃・ザクロ(玉葱)は 不老長寿や 子孫繁栄の 縁起の良い絵柄として 慣れ親しまれ
約3世紀の 長き伝統を 生き続けている 誰知らぬ人なき 銘作です。
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
マイセンに限らず 多くの王立窯は 王国の名誉にかけて 採算無視の 美術工芸品作りに
勤しみます。結果 経営難に陥りますが 面子上 手を抜くわけに行かず破綻の危機を迎えます。
マイセンは 危機に際し 資金を算段する為 他窯の憧れの的 ブルーオニオンの意匠の使用を
フッチェンロイターや カールスバード等にも 有償で許しておりました。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿「染付」
素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温で焼き付けます。この高温に 耐え
うる 酸化コバルト(呉須)の ヨーロッパでの調合は ベトガーの見果てぬ夢のまま 亡くなる
1719年に いがみ合う2人の高弟 ケラーと シュテルツェルにより マイセンで完了。
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反対面 ソーサー絵 取っ手面
マイセン 【 ブルーオニオン 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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3人の天才ヨハン-3
「白鳥のサービス」 中世最大のサービスは バロック様式を 代表する窯業界の 佳作で
したが 時は これを厳格なバロックの 最後の徒花となし 優雅なロココ様式のセーヴルが
マイセンに取って代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝ルイ15世は 東洋の
磁器でマイセンの 後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。ルイ
15世は 1738年設立のヴァンサンヌ窯を 1756年(7年戦争勃発年) 寵妃ポンパドール夫人
のセーヴルの地に 王立窯にして移しました。(ロココ生みの親とも賞賛される ポンパドール
夫人の 贅の限りを尽くした制作注文に ヴァンサンヌ窯は 経営破綻にいたりました。8人の
共同経営者から 王が 寵妃の不始末の責任を とらされたというのが 王立窯誕生の内実
でした。どの王立窯でも 国の面目をかけて 採算無視の 銘品を競っておりました。以来
銘窯は 王無き後 国や 公的機関 又 文化芸術を愛する 民間の富豪に支えられて存続
しております。)セーヴルとしては フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 中国は勿論
マイセンにも 勝ち目の無いのは 明らかです。やがて 時代は セーヴルの欧風ロココが
シノワズリ・バロックのマイセンを旧となし 新潮流となっていきました。(結局 セーヴルは
捜し求めた カオリンを 1768年に リモージュ近郊の サン・イリョーで 発見するまで 硬質
磁器を 焼成出来ませんでした)
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。古磁器を経て 紀元6世
紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオ
リンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。日本を
黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナと 賞賛し
た白磁です。やがて14世紀には 染付の完成を見ます。東洋では 1000年の長きに亘る
多くの職人の勘と 経験を積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧
れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師ベドガーは わずか3~5年で 1710年
に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウスの 白磁研究の基礎に 助
けられたとはいえ ベドガーの西洋的手法の 優越性は 個人的資質の賞賛のみにとどまらず
明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 東洋は 西
洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
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