マイセン 【ブルーオニオン】 14cmナノプレート 40%Off
マイセン 【ブルーオニオン】 14cmナノプレート 40%Off
お中元ギフトフェア ( 6/ 2~ 7/15) 24枚限定
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット・シェープ
ピカピカの 新品です。
クレッチマー原作 1739年に 中国や 日本の伊万里写し ブルーオニオンを完成。
竹・桃・ザクロ(玉葱)は 不老長寿や 子孫繁栄の 縁起の良い絵柄として 慣れ親しまれ
約3世紀の 長き伝統を 生き続けている 誰知らぬ人なき 銘作です。
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
マイセンに限らず 多くの王立窯は 王国の名誉にかけて 採算無視の 美術工芸品作りに
勤しみます。結果 経営難に陥りますが 面子上 手を抜くわけに行かず破綻の危機を迎えます。
マイセンは 危機に際し 資金を算段する為 他窯の憧れの的 ブルーオニオンの意匠の使用を
フッチェンロイターや カールスバード等にも 有償で許しておりました。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿「染付」
素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温で焼き付けます。この高温に 耐え
うる 酸化コバルト(呉須)の ヨーロッパでの調合は ベトガーの見果てぬ夢のまま 亡くなる
1719年に いがみ合う2人の高弟 ケラーと シュテルツェルにより マイセンで完了。
マイセン 【ブルーオニオン】 14cmナノプレート 40%Off のお求めはコチラ
14cmナノプレート 写真前左
18cmプレート 25000→17500円 本体価格
20cmプレート 28000→19600円
23cmプレート 33000→23100円
25cmプレート 36000→25200円
26cmプレート 36000→25200円
14cmナノプレート
どの小さい写真もクリックで拡大
シェープ
マイセン 【 ブルーオニオン 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-5
ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りましたが 彼が求
める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費であり 心から喜べなかったようです。彼は 実
験室の壁に 自虐的に書いております。「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の商品化に
追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立て直す必要から ベト
ガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を 目論んだのです。しかし 商品
化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けておりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは 新しい強
力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。
この研磨機は その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
た 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐものの 出現はありませ
んでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付
用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て
中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程
困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の ま
ぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を
含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も
無いのですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床に
あったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくの
ですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成
の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに ア
ルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガ
ーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の
出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や
男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は
死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐ
らいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の
為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産
業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
「欧州磁器戦争史 錬金術師 1~5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。古磁器を経て 紀元6世
紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオ
リンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。日本を
黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナと 賞賛し
た白磁です。やがて14世紀には 染付の完成を見ます。東洋では 1000年の長きに亘る
多くの職人の勘と 経験を積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧
れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師ベドガーは わずか3~5年で 1710年
に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウスの 白磁研究の基礎に 助
けられたとはいえ ベドガーの西洋的手法の 優越性は 個人的資質の賞賛のみにとどまらず
明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 東洋は 西
洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
お中元ギフトフェア ( 6/ 2~ 7/15) 24枚限定
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット・シェープ
ピカピカの 新品です。
クレッチマー原作 1739年に 中国や 日本の伊万里写し ブルーオニオンを完成。
竹・桃・ザクロ(玉葱)は 不老長寿や 子孫繁栄の 縁起の良い絵柄として 慣れ親しまれ
約3世紀の 長き伝統を 生き続けている 誰知らぬ人なき 銘作です。
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
マイセンに限らず 多くの王立窯は 王国の名誉にかけて 採算無視の 美術工芸品作りに
勤しみます。結果 経営難に陥りますが 面子上 手を抜くわけに行かず破綻の危機を迎えます。
マイセンは 危機に際し 資金を算段する為 他窯の憧れの的 ブルーオニオンの意匠の使用を
フッチェンロイターや カールスバード等にも 有償で許しておりました。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿「染付」
素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温で焼き付けます。この高温に 耐え
うる 酸化コバルト(呉須)の ヨーロッパでの調合は ベトガーの見果てぬ夢のまま 亡くなる
1719年に いがみ合う2人の高弟 ケラーと シュテルツェルにより マイセンで完了。
マイセン 【ブルーオニオン】 14cmナノプレート 40%Off のお求めはコチラ
14cmナノプレート 写真前左
18cmプレート 25000→17500円 本体価格
20cmプレート 28000→19600円
23cmプレート 33000→23100円
25cmプレート 36000→25200円
26cmプレート 36000→25200円
14cmナノプレート
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シェープ
マイセン 【 ブルーオニオン 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-5
ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りましたが 彼が求
める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費であり 心から喜べなかったようです。彼は 実
験室の壁に 自虐的に書いております。「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の商品化に
追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立て直す必要から ベト
ガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を 目論んだのです。しかし 商品
化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けておりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは 新しい強
力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。
この研磨機は その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
た 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐものの 出現はありませ
んでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付
用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て
中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程
困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の ま
ぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を
含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も
無いのですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床に
あったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくの
ですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成
の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに ア
ルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガ
ーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の
出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や
男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は
死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐ
らいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の
為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産
業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
「欧州磁器戦争史 錬金術師 1~5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。古磁器を経て 紀元6世
紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオ
リンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。日本を
黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナと 賞賛し
た白磁です。やがて14世紀には 染付の完成を見ます。東洋では 1000年の長きに亘る
多くの職人の勘と 経験を積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧
れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師ベドガーは わずか3~5年で 1710年
に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウスの 白磁研究の基礎に 助
けられたとはいえ ベドガーの西洋的手法の 優越性は 個人的資質の賞賛のみにとどまらず
明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 東洋は 西
洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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