ヘレンド 【インドの華】 26cmプレート・ロカイユ 10%Off
ヘレンド 【インドの華】 26cmプレート・ロカイユ 10%Off
ロカイユ(ベッキオ)模様が 額縁に成り 立派な飾皿です。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
同業者が 公正取引委員会へ 代理店から輸入妨害を受けていると訴え出ました。(当時 日本は加工貿易黒字大国で 通産省MITIは 世界中から 失業の輸出と非難されておりました。そこでMITIは 先進国で唯一 代理店契約のあるブランドの並行輸入を合法としました。)公正取引委員会の立ち入り検査で アインも妨害を受けていると判り アインにも被害届を出すようにと電話をしてきました。ヘレンド社は 代理店間の兄弟喧嘩をさせないでほしい。アインには 代理店並みの便宜を図るからと連絡がありました。以後アインにはマスターペインターサインを許され 一般品でも手の良い物の気配りを頂けるようになりました。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。B品 ありません。
主だったお店を調べましたが 何処にも無く どうやらお熟成アインが一番お安いようです。
それではお熟成アインは何故安いのでしょう ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手に高く売っていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お熟成アインの真骨頂 ! !
インドの華
インダス文明を生んだドラヴィダ人と「高貴な」アーリア人の血の混交がこれほどの美女を生むのでしょうか ?
因みに人種差別や優生学を美化したヒットラーのナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋「高貴な」アーリア人であるとする見解は 現在では疑似科学(科学的方法に基づいていると誤って考えられたり、あるいは科学的事実だと間違って位置付けられてしまった一連の信念)だと見なされている。
ウジェニー・ド・モンティジョ(1826年 - 1920年)は、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后。
結婚にともない、フランス皇后アンペラトリス・ウジェニーとなった。父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、やがてヨーロッパ各国へ伝わって行った。彼女は各国の王侯貴族から求婚されているが、すべてを断り続け、やがて鉄の処女と言われるようになる。1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。1855年、皇帝と共に。結婚を反対されたヴィクトリア女王らを公式訪問した。ウジェニーは ヴィクトリア女王から非常に気に入られ、画家のフランツ・ヴィンターハルターを紹介され、多くの肖像画を残している。
「ウジェニー皇后と女官たち」 ヴィンターハルター 1855年 コンピエーニュ城美術館
その妃ウージェニーは パリファッションのパトロン的存在であり、1867年のパリ万国博覧会の主催者でした。これは日本が初めて参加した万国博覧会で、浮世絵や漆器がヨーロッパに日本ブームを巻き起こしたきっかけとして広く知られます。ヘレンドもジャポニスム勃興の中 重厚感あるジャポネズリを 東洋風散花文 「インドの花」のブランドが知名度高く 定着しておりましたので 柿右衛門写しの「インドの華」として出品したのです。ウージェニーは 一目で気に入り 大きなサービスを 注文しました。
数年後にウイーンで万国博覧会を予定するオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフが視察を兼ねてパリを訪れます。そのときウージェニーは皇帝をエリゼー宮に招待し、"お国"のへレンド製「インドの華」のディナーセットでおもてなしをしたのです。最高に晴れがましいデビューでした。以来へレンドを日本と結びつける最もシンボリックな作品として、"ヘレンドグリーン"と呼ばれる独特の清楚な緑色とあいまって根強い人気を誇っています。
柿右衛門様式 濁手垣松竹梅鳥文皿
格調高い柿右衛門写し
オランダの東インド貿易会社によって もたらされた白磁に絵付けされている異郷の花の絵は 多分インドの華に違いないとして この柿右衛門描くところの日本の花を インドの華と名づけました。マイセンのインドの花ではほんの1部しか判りませんが ヘレンドは 竹垣まで柿右衛門のとおりに 写しておりますので 本家が判りました。実際は 1839年ヘレンド創窯の頃には マイセンでも柿右衛門と判っており シノワズリの分類から シャボネズリに変えており 高値を呼ぶ 柿右衛門名に変更したかったのですが すでに東洋風散花文 インドの花は ブランドとして知名度高く 定着しておりましたので 名称は 継続されました。
ウィーン窯に遅れる事 100年の民間・バハン陶器窯として 1826年創立したヘレンドですが 1839年 皇帝フランツ・ヨゼフ一世に 実質的創業者モール・フィシェルが 磁器の制作を許されました。
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
マイセン・インドの花多彩色・451110 兼用C/S・582 5%Off のお求めはコチラ
マイセン インドの花 ジャポネズリ
ロカイユ・シェープ
ヘレンドには オジア,ロカイユ,リッセ,エステルハージ,シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02,ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分 時代を読み誤ったのでしょう? もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフetc.) で シェープは デコラティブな貴族趣味を旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は見られません。
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。いかに調べても マジャル人がハンガリーに移住してきた頃で 建国とする根拠が判らないのです。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいない。
(「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて判ったのは ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。現ハンガリー第三共和国のヘレンドは 1996年を 建国1100年記念年として 清の花籠と カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがて オリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
モヒの戦い もしくはシャイオ河畔の戦いは、1241年に、モンゴル帝国のジュチ家の当主バトゥ率いるモンゴル帝国軍とハンガリー王ベーラ4世率いるハンガリー軍達との間にモヒで行われた戦闘
1236年に始まったいわゆる「バトゥの西征」(モンゴル帝国の東欧侵攻とも呼ぶ)において、モンゴル軍はまずヴォルガ・ブルガールに侵攻(1236年)した。同年、グルジア・アルメニアに侵攻し、翌1237年にはチェチェンに侵攻した。次いでクマン諸族とルーシ諸国をルーシ侵攻(1237年 - 1240年)で征服した。
ポーランド侵攻(1240年後半 - 1241年)では、トゥルスクの戦い(2月13日)に勝利すると、モンゴル軍はサンドミェシュで部隊をふたつに別け、バイダル率いる支隊にポーランド侵攻を任せ、バトゥの本隊はハンガリーへ向かった。ポーランドに残されたバイダル率いる支隊はフミェルニクの戦い(3月18日)に勝利したが、シロンスク公ヘンリク2世はボヘミアからヴァーツラフ1世の率いる援軍がレグニツァへ到着するのを待っていた。一方、バトゥのモンゴル軍本隊は、カルパチア山脈のベレッケ峠を守るハンガリー軍を駆逐し、パンノニア平原に入った。知らせを聞いたハンガリー王ベーラ4世は、シロンスク公ヘンリク2世が北方のレグニツァでモンゴル軍の支隊を引き付ける間に、モンゴル軍本隊を叩くことを決意して十万の大軍を招集し出撃した。
ハンガリーに侵入したモンゴル軍本隊は、バトゥ率いる部隊とスブタイ率いる部隊に分かれており、バトゥ軍はドナウ河まで進んだ頃ハンガリー軍と遭遇した。数に大きく劣るバトゥの部隊は撤退を始め、これを追ってハンガリー軍はシャイオ川とヘルナッド川の合流地点近くのモヒ平原に入った。一方、スブタイ率いる部隊はバトゥの部隊とそれほど離れていなかったが、ハンガリー軍を包囲するためバトゥが使った石橋以外のシャイオ川の渡河地点を探して南方に進んだ。
ベーラ4世はモヒ平原に到着すると、素早くモンゴル軍の前衛部隊を撃破し、シャイオ川の石橋を奪い東岸に橋頭堡を得た。そこでベーラ4世は西岸に主力部隊とともに強固な防御円陣を築き野営した。ハンガリー軍は正面のバトゥ率いるモンゴル軍が自軍より数ではるかに劣るのに安心していたが、バトゥは翌朝7台の投石機(回回砲、トレビュシェット)を前線に投入し、シャイオ川東岸のハンガリー軍の橋頭堡に石弾と矢弾の集中攻撃を行った。「耳を裂くばかりの爆音と閃光」をともなって行われたこの射撃と連携して、モンゴル軍は騎馬隊を突撃させたためハンガリー軍は後退を始め、バトゥは石橋を再び奪取した。石橋を得たモンゴル軍は続々とシャイオ川を渡り進撃したが、数に勝るベーラ4世はモンゴル軍をシャイオ川に追い詰めようと主力を投入し、激戦が行われた。
ハンガリー軍の騎馬隊は何度も突撃を繰り返したが、そのたびにモンゴル軍は投石機と弓矢でハンガリー軍を撃退した。この時ようやくスブタイ率いる別働隊が戦場に到着し、ハンガリー軍を完全に包囲した。大軍を動かすにはモヒ平原は狭すぎ、身動きの取れなくなったハンガリー軍はモンゴル軍からあびせられる大量の石弾と矢弾によって壊滅的打撃を受けた。しばらくしてスブタイは西方のみ包囲を解き、意図的にハンガリー軍のための逃げ口を作った。ハンガリー軍のうち少数は武器や防具を放棄して包囲を脱したが、馬を乗り換えたモンゴル軍の軽騎兵に追いつかれ、ほとんどが討ち取られた。
ベーラ4世は辛うじてモンゴル軍の追撃を逃れ、ダルマチア沖の孤島に避難したものの、この戦闘でハンガリー軍はほとんど壊滅し、ハンガリー全域はモンゴルの占領下に入った。 一方、バイダル率いる支隊はボヘミア軍との衝突を避け、4月9日にレグニツァでヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ連合軍と激突した。レグニツァの戦いにおいて、モンゴル軍は容赦なくドイツ・ポーランド連合軍を殺戮し、ヘンリク2世は戦死した。バイダル率いるモンゴル軍はヴロツワフを破壊するとハンガリー領モラヴィアに移り、1241年にオロモウツでオロモウツの戦いを行なった。
そこで西進中のバトゥ率いる本隊を待って合流し、次の目的地ウィーンを目指した。しかし翌年の1242年に大ハーンオゴデイの死による遠征軍の帰還命令を受けるとバトゥはやむなくハンガリーを放棄し、モンゴル軍はハンガリーから撤退した。
「欧州磁器戦争史 秘法漏洩 番外編 ヘレンド窯」 詳しくは コチラをクリック して下さい。
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インドの華
インダス文明を生んだドラヴィダ人と「高貴な」アーリア人の血の混交がこれほどの美女を生むのでしょうか ?
因みに人種差別や優生学を美化したヒットラーのナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋「高貴な」アーリア人であるとする見解は 現在では疑似科学(科学的方法に基づいていると誤って考えられたり、あるいは科学的事実だと間違って位置付けられてしまった一連の信念)だと見なされている。
ウジェニー・ド・モンティジョ(1826年 - 1920年)は、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后。
結婚にともない、フランス皇后アンペラトリス・ウジェニーとなった。父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、やがてヨーロッパ各国へ伝わって行った。彼女は各国の王侯貴族から求婚されているが、すべてを断り続け、やがて鉄の処女と言われるようになる。1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。1855年、皇帝と共に。結婚を反対されたヴィクトリア女王らを公式訪問した。ウジェニーは ヴィクトリア女王から非常に気に入られ、画家のフランツ・ヴィンターハルターを紹介され、多くの肖像画を残している。
「ウジェニー皇后と女官たち」 ヴィンターハルター 1855年 コンピエーニュ城美術館
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オランダの東インド貿易会社によって もたらされた白磁に絵付けされている異郷の花の絵は 多分インドの華に違いないとして この柿右衛門描くところの日本の花を インドの華と名づけました。マイセンのインドの花ではほんの1部しか判りませんが ヘレンドは 竹垣まで柿右衛門のとおりに 写しておりますので 本家が判りました。実際は 1839年ヘレンド創窯の頃には マイセンでも柿右衛門と判っており シノワズリの分類から シャボネズリに変えており 高値を呼ぶ 柿右衛門名に変更したかったのですが すでに東洋風散花文 インドの花は ブランドとして知名度高く 定着しておりましたので 名称は 継続されました。
ウィーン窯に遅れる事 100年の民間・バハン陶器窯として 1826年創立したヘレンドですが 1839年 皇帝フランツ・ヨゼフ一世に 実質的創業者モール・フィシェルが 磁器の制作を許されました。
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ロカイユ・シェープ
ヘレンドには オジア,ロカイユ,リッセ,エステルハージ,シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02,ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分 時代を読み誤ったのでしょう? もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文, ワインリーフetc.) で シェープは デコラティブな貴族趣味を旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は見られません。
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。いかに調べても マジャル人がハンガリーに移住してきた頃で 建国とする根拠が判らないのです。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいない。
(「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて判ったのは ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。現ハンガリー第三共和国のヘレンドは 1996年を 建国1100年記念年として 清の花籠と カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがて オリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
モヒの戦い もしくはシャイオ河畔の戦いは、1241年に、モンゴル帝国のジュチ家の当主バトゥ率いるモンゴル帝国軍とハンガリー王ベーラ4世率いるハンガリー軍達との間にモヒで行われた戦闘
1236年に始まったいわゆる「バトゥの西征」(モンゴル帝国の東欧侵攻とも呼ぶ)において、モンゴル軍はまずヴォルガ・ブルガールに侵攻(1236年)した。同年、グルジア・アルメニアに侵攻し、翌1237年にはチェチェンに侵攻した。次いでクマン諸族とルーシ諸国をルーシ侵攻(1237年 - 1240年)で征服した。
ポーランド侵攻(1240年後半 - 1241年)では、トゥルスクの戦い(2月13日)に勝利すると、モンゴル軍はサンドミェシュで部隊をふたつに別け、バイダル率いる支隊にポーランド侵攻を任せ、バトゥの本隊はハンガリーへ向かった。ポーランドに残されたバイダル率いる支隊はフミェルニクの戦い(3月18日)に勝利したが、シロンスク公ヘンリク2世はボヘミアからヴァーツラフ1世の率いる援軍がレグニツァへ到着するのを待っていた。一方、バトゥのモンゴル軍本隊は、カルパチア山脈のベレッケ峠を守るハンガリー軍を駆逐し、パンノニア平原に入った。知らせを聞いたハンガリー王ベーラ4世は、シロンスク公ヘンリク2世が北方のレグニツァでモンゴル軍の支隊を引き付ける間に、モンゴル軍本隊を叩くことを決意して十万の大軍を招集し出撃した。
ハンガリーに侵入したモンゴル軍本隊は、バトゥ率いる部隊とスブタイ率いる部隊に分かれており、バトゥ軍はドナウ河まで進んだ頃ハンガリー軍と遭遇した。数に大きく劣るバトゥの部隊は撤退を始め、これを追ってハンガリー軍はシャイオ川とヘルナッド川の合流地点近くのモヒ平原に入った。一方、スブタイ率いる部隊はバトゥの部隊とそれほど離れていなかったが、ハンガリー軍を包囲するためバトゥが使った石橋以外のシャイオ川の渡河地点を探して南方に進んだ。
ベーラ4世はモヒ平原に到着すると、素早くモンゴル軍の前衛部隊を撃破し、シャイオ川の石橋を奪い東岸に橋頭堡を得た。そこでベーラ4世は西岸に主力部隊とともに強固な防御円陣を築き野営した。ハンガリー軍は正面のバトゥ率いるモンゴル軍が自軍より数ではるかに劣るのに安心していたが、バトゥは翌朝7台の投石機(回回砲、トレビュシェット)を前線に投入し、シャイオ川東岸のハンガリー軍の橋頭堡に石弾と矢弾の集中攻撃を行った。「耳を裂くばかりの爆音と閃光」をともなって行われたこの射撃と連携して、モンゴル軍は騎馬隊を突撃させたためハンガリー軍は後退を始め、バトゥは石橋を再び奪取した。石橋を得たモンゴル軍は続々とシャイオ川を渡り進撃したが、数に勝るベーラ4世はモンゴル軍をシャイオ川に追い詰めようと主力を投入し、激戦が行われた。
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ベーラ4世は辛うじてモンゴル軍の追撃を逃れ、ダルマチア沖の孤島に避難したものの、この戦闘でハンガリー軍はほとんど壊滅し、ハンガリー全域はモンゴルの占領下に入った。 一方、バイダル率いる支隊はボヘミア軍との衝突を避け、4月9日にレグニツァでヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ連合軍と激突した。レグニツァの戦いにおいて、モンゴル軍は容赦なくドイツ・ポーランド連合軍を殺戮し、ヘンリク2世は戦死した。バイダル率いるモンゴル軍はヴロツワフを破壊するとハンガリー領モラヴィアに移り、1241年にオロモウツでオロモウツの戦いを行なった。
そこで西進中のバトゥ率いる本隊を待って合流し、次の目的地ウィーンを目指した。しかし翌年の1242年に大ハーンオゴデイの死による遠征軍の帰還命令を受けるとバトゥはやむなくハンガリーを放棄し、モンゴル軍はハンガリーから撤退した。
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