マイセン 【オレンジのバラと忘れな草】 19cmリーフディッシュ 70%Off
マイセン 【オレンジのバラと忘れな草】 19cmリーフディッシュ 70%Off
1999年 ハウスメッセ・コレクション
今だけセール(1/30~ 2/13) 1枚限り
こんな記念限定の貴重品が なぜ安いかって?
22周年謝恩赤字特価 15日間だけですよ。
出来ればついでに一般品も買ってくださると幸いです。
忘れな草(Forget me not 私を忘れないで)は バラに恋しているのでしょうか?
まるで纏わって バラの美しさをを 引き立てている様です。
やはり花はマイセン。
学校を出て 親方(マイスター)に弟子入した ペインターの卵達が まず 最初に
習うのが お花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
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マイセン 【 オレンジのバラと忘れな草 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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マイセン人形・ヴィルトシャフテン 山羊に乗った仕立て屋さん・73011 20%Off お宝倉庫 のお求めはコチラ
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ピカピカの 新品です。
一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシックの
新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられまし
た。傷心のケンドラーは アシェの立場で かって追い落とした ヘロルトの後を追うように
同1775年 失意のうちにこの世を去りました。
ケンドラー原作 1740年 H21.5cm
1999年 世界限定19体復刻
ヴィルトシャフテン(ドイツ王宮内の仮装宴会)
ブリュール伯は 大変な衣装マニアで ごひいきの仕立て屋さんが 立派な刺繍の衣装を
仕立ててくれた ご褒美に 望みは何かと尋ねました。仕立て屋さんは 王宮の宴席に 連
れて行ってほしいとの 高望みを言いました。ふざけた望ではあるが 自分から言い出した
手前 何とかやってみようと 応えたものの 如何にブリュール伯と言えど 身分の卑しい
者を 宴席にはべらす訳に行かず ケンドラーに 仕立て屋の人形を作らせました。ケンド
ラーにも 茶化された仕立て屋さんは 立派な貴族の衣装に 粗末な仕立て道具を持ち 馬
ならぬ羊にまたがったいでたちで 念願の宴会に列することになりました。アウグスト強襲
王の前に置かれた 仕立て屋さんを見て しゃれを解する 身分尊き一座の面々は 大笑い
して 宴席を盛り上げてくれた 人形に大喜びをしました。このお話は 人口に膾炙して
陽気なテラーさんは 有名人となり 何度か 復刻人形になっております。
どの写真もクリックで拡大
H21.5cm 1999花金数字ロゴ
この一連のケンドラー作の人形は ヨーロッパにおいて 高い評価を受け 宴会や
部屋の装飾用に 上流階級のステイタスシンボルとして 持て囃されておりました。
閨の秘め事を 婉曲に クリノリンスカートから 覗くパグ犬に語らす趣向など
知らねば 野暮な雛の人と 蔑まれるのが落ちでした。
やがて 富裕階級でも アウグスト強襲王の恋人達が演じる 子供園芸家や パリの
行商人や コメディデラルテの 人形を持つことが流行しました。マイセン磁器から
型取模したチェルシー窯の人形は 中産階級に そして地方の名も無き窯まで 庶民
の求めに つましい人形を供するほどの 流行を見ました。
欧州磁器戦争史 錬金術師 1~5」 詳しくは コチラをクリック してください。
錬金術師-5
ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りましたが 彼が求
める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費であり 心から喜べなかったようです。彼は 実
験室の壁に 自虐的に書いております。「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の商品化に
追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立て直す必要から ベト
ガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を 目論んだのです。しかし 商品
化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けておりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは 新しい強
力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。
この研磨機は その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
た 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐものの 出現はありませ
んでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らしい 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料 特に 染付
用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来 千数百年の発達史を経て
中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程
困難なものでした。
(アウグスト王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の ま
ぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を
含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も
無いのですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床に
あったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくの
ですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成
の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに ア
ルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガ
ーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の
出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や
男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は
死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐ
らいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の
為 マイセンロゴに採用しました。
片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産
業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。古磁器を経て 紀元6世
紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオ
リンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。日本を
黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナと 賞賛し
た白磁です。やがて14世紀には 染付の完成を見ます。東洋では 1000年の長きに亘る
多くの職人の勘と 経験を積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧
れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師ベドガーは わずか3~5年で 1710年
に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウスの 白磁研究の基礎に 助
けられたとはいえ ベドガーの西洋的手法の 優越性は 個人的資質の賞賛のみにとどまらず
明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 東洋は 西
洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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学校を出て 親方(マイスター)に弟子入した ペインターの卵達が まず 最初に
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一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシックの
新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられまし
た。傷心のケンドラーは アシェの立場で かって追い落とした ヘロルトの後を追うように
同1775年 失意のうちにこの世を去りました。
ケンドラー原作 1740年 H21.5cm
1999年 世界限定19体復刻
ヴィルトシャフテン(ドイツ王宮内の仮装宴会)
ブリュール伯は 大変な衣装マニアで ごひいきの仕立て屋さんが 立派な刺繍の衣装を
仕立ててくれた ご褒美に 望みは何かと尋ねました。仕立て屋さんは 王宮の宴席に 連
れて行ってほしいとの 高望みを言いました。ふざけた望ではあるが 自分から言い出した
手前 何とかやってみようと 応えたものの 如何にブリュール伯と言えど 身分の卑しい
者を 宴席にはべらす訳に行かず ケンドラーに 仕立て屋の人形を作らせました。ケンド
ラーにも 茶化された仕立て屋さんは 立派な貴族の衣装に 粗末な仕立て道具を持ち 馬
ならぬ羊にまたがったいでたちで 念願の宴会に列することになりました。アウグスト強襲
王の前に置かれた 仕立て屋さんを見て しゃれを解する 身分尊き一座の面々は 大笑い
して 宴席を盛り上げてくれた 人形に大喜びをしました。このお話は 人口に膾炙して
陽気なテラーさんは 有名人となり 何度か 復刻人形になっております。
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この一連のケンドラー作の人形は ヨーロッパにおいて 高い評価を受け 宴会や
部屋の装飾用に 上流階級のステイタスシンボルとして 持て囃されておりました。
閨の秘め事を 婉曲に クリノリンスカートから 覗くパグ犬に語らす趣向など
知らねば 野暮な雛の人と 蔑まれるのが落ちでした。
やがて 富裕階級でも アウグスト強襲王の恋人達が演じる 子供園芸家や パリの
行商人や コメディデラルテの 人形を持つことが流行しました。マイセン磁器から
型取模したチェルシー窯の人形は 中産階級に そして地方の名も無き窯まで 庶民
の求めに つましい人形を供するほどの 流行を見ました。
欧州磁器戦争史 錬金術師 1~5」 詳しくは コチラをクリック してください。
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ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りましたが 彼が求
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験室の壁に 自虐的に書いております。「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の商品化に
追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立て直す必要から ベト
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白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火煉瓦を使っ
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ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
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磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。古磁器を経て 紀元6世
紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオ
リンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。日本を
黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナと 賞賛し
た白磁です。やがて14世紀には 染付の完成を見ます。東洋では 1000年の長きに亘る
多くの職人の勘と 経験を積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧
れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師ベドガーは わずか3~5年で 1710年
に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウスの 白磁研究の基礎に 助
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明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 東洋は 西
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