マイセン 【二つ花 40110】 クリーマー ・8763 50%Off
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今だけセール (11/25~12/ 9) 1点限り
#08シェープ 立花文レリーフ
やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入りした ペインターの卵達が
まず 最初に習うのがお花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
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マイセン 【 二つ花 40110 】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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ピカピカの 新品です。
1996年復刻イヤープレート 1956年・マイセン市クリスマス市場
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φ18cm 復刻ロゴ
「欧州磁器戦争史 錬金術師 1~5」 詳しくは コチラをクリック してください。
錬金術師-4
ヨーロッパ諸窯で行われていた 焼き締め陶器を ガラス質の炻器に変成し得たベトガー。
次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュタイン要塞への 避難命
令が 発令されました。 ポーランド王でもあった アウグストは スウェーデン王カール12
世と 領有権をめぐり 戦争の渦中にありましたが,戦いに敗れ ザクセン本国へまで その
侵攻を被る 羽目に陥っておりました。錬金術への信奉 並々ならぬ カール12世から,ベト
ガーを とられまいとする為の 緊急避難命令でした。それから1年 煉獄生活のすることの
ない 無聊に 不慣れなベトガーは あてがわれる酒でも癒せない苦しみを 王に訴え 実験
再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いたドレスデンの
乙女の砦ユングフェルンに 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました。1707年9月のことで
した。それから半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達しま
した。(景徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリン山は 磁土で出来ている山で あったので
西洋でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと 雪花
石膏アラバスターから成っており 東洋の カオリンと白不子から成るものより 僅かに黄味
がかっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や 若
き錬金術師ベトガーの手中にありました。1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金ならぬ
白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない 白磁を手に入れたのです。この年の10月に ベト
ガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみから
逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。ベトガーが 王への手紙に「中
国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができたのは 1709年3月の事でした。(真の
東洋の白磁完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりませ
んでした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に
マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしきマイセンの誕生となったのです。
欧州磁器戦争史 錬金術師-5 に続く
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。古磁器を経て 紀元6世
紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオ
リンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。日本を
黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナと 賞賛し
た白磁です。やがて14世紀には 染付の完成を見ます。東洋では 1000年の長きに亘る
多くの職人の勘と 経験を積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧
れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師ベドガーは わずか3~5年で 1710年
に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウスの 白磁研究の基礎に 助
けられたとはいえ ベドガーの西洋的手法の 優越性は 個人的資質の賞賛のみにとどまらず
明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 東洋は 西
洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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