ロイヤルベルリンKPM 【ロカイユ・ポツダム城の花】 コーヒーテテアテテセット 25%Off
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KPM最高のロカイユ(ロココ)シリーズ そのまた最高のポッダム城の花
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「欧州磁器戦争史 (3)」 はコチラ
ケンドラーを贔屓にするブリュール伯(ヴィルトシャフテン・山羊に乗った仕立て屋さんの注
文主)が 「白鳥のサービス」を 注文する頃 2人の優劣は ケンドラーに軍配が上ってお
りました。この中世最大のサービスは バロック様式を 代表する窯業界の 佳作でしたが
時は これを厳格なバロックの 最後の徒花となし 優雅なロココ様式のセーヴルが マイセ
ンに取って代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝ルイ15世は 東洋の磁器で
マイセンの 後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。15世は
1738年設立のヴァンサンヌ窯を 1756年 寵妃ポンパドール夫人のセーヴルの地に 王立窯に
して移しました。(ロココ生みの親とも賞賛される ポンパドール夫人の 贅の限りを尽くした
制作注文に ヴァンサンヌ窯は 経営破綻にいたりました。8人の共同経営者から 王が 寵
妃の不始末の責任をとらされたというのが 王立窯誕生の内実でした。どの王立窯でも 国の
面目をかけて 採算無視の 銘品を競っておりました。以来 銘窯は 王無き後 国や 公的
機関 又 文化芸術を愛する 民間の富豪に支えられて 存続しております。)
セーヴルとしては フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 中国は勿論 マイセンにも
勝ち目の無いのは 明らかです。やがて時代は セーヴルの欧風ロココが シノワズリ・バロ
ックのマイセンを旧となし 新潮流となっていきました。
(結局 セーヴルは 捜し求めた カオリンを 1768年に リモージュ近郊の サン・イリョ
ーで 発見するまで 硬質磁器を 焼成出来ませんでした)
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは占領されました。
ヘロルトは フランクフルトに 避難しましたが ケンドラーは マイセンの火を消すまいと
踏み止まりました。マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を
立ち上げ やがてジャーマンロココを 確立していきました。
ロココに取って代る ネオクラシックの大波は 海を越えて 英国から襲ってきました。
1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発するのですが これの大ブレークの前に マ
イセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいました。1775年 ヘロルト(享年78歳)の後を
おって ケンドラー(享年68歳)も 失意のうちに この世を去りました。
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ンに取って代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝ルイ15世は 東洋の磁器で
マイセンの 後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。15世は
1738年設立のヴァンサンヌ窯を 1756年 寵妃ポンパドール夫人のセーヴルの地に 王立窯に
して移しました。(ロココ生みの親とも賞賛される ポンパドール夫人の 贅の限りを尽くした
制作注文に ヴァンサンヌ窯は 経営破綻にいたりました。8人の共同経営者から 王が 寵
妃の不始末の責任をとらされたというのが 王立窯誕生の内実でした。どの王立窯でも 国の
面目をかけて 採算無視の 銘品を競っておりました。以来 銘窯は 王無き後 国や 公的
機関 又 文化芸術を愛する 民間の富豪に支えられて 存続しております。)
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(結局 セーヴルは 捜し求めた カオリンを 1768年に リモージュ近郊の サン・イリョ
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18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
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した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは占領されました。
ヘロルトは フランクフルトに 避難しましたが ケンドラーは マイセンの火を消すまいと
踏み止まりました。マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を
立ち上げ やがてジャーマンロココを 確立していきました。
ロココに取って代る ネオクラシックの大波は 海を越えて 英国から襲ってきました。
1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発するのですが これの大ブレークの前に マ
イセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいました。1775年 ヘロルト(享年78歳)の後を
おって ケンドラー(享年68歳)も 失意のうちに この世を去りました。
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