マイセン 【ブルーオーキッド】 ティーC/S フェア30%Off
マイセン 【ブルーオーキッド】 ティーC/S フェア30%Off
グロッサー・アウスシュニット型
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最後の姿「染付」
花木や蘭を和風にしたジャポニズムの佳作品
祝敬老・体育の日フェア
マイセン 【ブルーオーキッド】 ティーC/S フェア30%Off のお求めはコチラ
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マイセン 【ブルーオーキッド】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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H35.5xW25.5cm
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3人の天才ヨハン-2
見出されたケンドラーは 案に違わず 見事な 鳥獣像を 王の磁器動物園のために 完成さ
せました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。写実的
迫力ある白磁像を前にして 宮廷官ヘロルトは 天才絵付師の立場が 脅かされる危機感を
持ちました。眼力を賞賛された王の ケンドラーへの寵遇にも 今まで マイセンの賞賛を
一身に浴びてきたヘロルトにとって 好ましからざる事でした。しかし ヘロルトのシノワズ
リも 月日を経て ケンドラーの新鮮さに 叶わなくなっていました。ケンドラーを贔屓にす
るブリュール伯(ヴィルトシャフテンの 山羊に乗った仕立て屋さんを作らせた)が 「白鳥
のサービス」を 注文する頃 2人の優劣は ケンドラーに軍配が上っておりました。
この中世最大のサービスは バロック様式を 代表する窯業界の 佳作でしたが 時は これ
を厳格なバロックの 最後の徒花となし 優雅なロココ様式のセーヴルが マイセンに取って
代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝ルイ15世は 東洋の磁器でマイセンの
後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。15世は 1738年設立
のヴァンサンヌ窯を 1756年 寵妃ポンパドール夫人のセーヴルの地に 王立窯にして移しま
した。フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 中国は勿論 マイセンにも 勝ち目の無
いのは 明らかです。やがて時代は 欧風ロココのセーヴルが シノワズリ・バロックのマイ
センを旧となし 新潮流となっていきました。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは占領されました。
ヘロルトは フランクフルトに 避難しましたが ケンドラーは マイセンの火を消すまいと
踏み止まりました。マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を
立ち上げ やがてジャーマンロココを 確立していきました。
ロココに取って代る ネオクラシックの大波は 海を越えて 英国から襲ってきました。
1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発するのですが これの大ブレークの前に マ
イセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいました。1775年 ヘロルト(享年78歳)の後を
おって ケンドラー(享年68歳)も 失意のうちに この世を去りました。
3人の偉業により マイセンは ヨーロッパ諸窯に そして世界に 多大の影響を 与えてき
ました。創窯300年のマイセンは 偉大なマンネリズムを標榜し 3人の残した業績を 踏
襲し続けてきました。時の流れは 変われども(バロック,ロココ,ネオクラシック,エンパイア,
ビーダーマイイヤ,アールヌーボー,アーツ&クラフツ,アールデコ) マイセンに対する 尊敬と
その高い地位は 変わることがありませんでした。
栄えあるマイセンに 3人は 今も 生き続けているのです。
3人の天才ヨハン-1
この3人を語らずして マイセンを語ることは出来ません。
まず1人目は ヨハン・フリードリヒ・ベトガー,錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁
を もたらした天才です。彼の名は マイセンとともに 永久不滅です。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀
宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を
完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海
の寶貝 ポルツェラーナと 賞賛し イタリア・ヨーロッパに紹介した 白磁です。やがて
14世紀には やはり景徳鎮で 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の
長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。
片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することでベトガーは わずか3~5年で 完成
させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウスの 白磁研究の基礎に 助けられ
たとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまら
ず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本を
はじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い難く
ベトガーや シュテルツェルらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。(ベトガーが
持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウグスブルグの絵付師に 売
り渡されておりました) パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料に 自らも開発した顔
料を以って 彼独特のシノワズリを確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて
高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグ
スト王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門(ヨーロッパにおいて高値を呼んだ)にも
臆せず挑み 王の満足するヘロルトの柿右衛門は マイセンの名声を 弥が上にも高めました。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
当時名の売れた 彫刻師を以ってしても アウグスト王のお眼鏡に 叶う者無く 色々手を
尽くすうちに 灯台下暗し 王は 己の宮廷彫刻家の若い助手に 天分を見出すのです。
錬金術師-4
ヨーロッパ諸窯で行われていた 焼き締め陶器を ガラス質の器に変成し得たベトガー。
次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュタイン要塞への 避難命
令が 発令されました。 ポーランド王でもあった アウグストは スウェーデン王カール12
世と 領有権をめぐり 戦争の渦中にありましたが,戦いに敗れ ザクセン本国へまで その
侵攻を被る 羽目に陥っておりました。錬金術への信奉 並々ならぬ カール12世から,ベト
ガーを とられまいとする為の 緊急避難命令でした。それから1年 煉獄生活のすることの
ない 無聊に 不慣れなベトガーは あてがわれる酒でも癒せない苦しみを 王に訴え 実験
再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いたドレスデンの
乙女の砦ユングフェルンに 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました。1707年9月のこと
でした。それから半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達し
ました。(景徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリンシャンは 磁土で出来ている山で あった
ので 西洋でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと
雪花石膏アラバスターから成っており 東洋の カオリンと白不子から成るものより 僅かに
黄味がかっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や
若き錬金術師ベトガーの手中にありました。1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金なら
ぬ白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない 白磁を手に入れたのです。この年の10月に ベ
トガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみか
ら逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。遂に1709年3月 ベトガーは
王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができました。(真の東洋
の白磁の完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりません
でした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に
マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしきマイセンの誕生となりました。
錬金術師-3
ベトガーが 人の出入りの多い 黄金の館から 廃墟に近い 山上のアルブレヒト城へ移された
のは ①大きな窯を設置出来る広い場所 ②研究に没頭せざるを得ない環境 ③研究が成就の
暁に 秘密を守る為 でした。ベトガーには 3人の監視と 5人の助手(中にウィーン窯の
前身に 秘法を伝えることになる 一番弟子シュテルツェルも)が つけられました。いかに
白い黄金と称えられていた 東洋の秘宝といえど 古代メソポタミアに 端を発する科学の王
道 賢者の石に比べれば 錬金術師ベトガーの誇りにかけて 陶工の真似は 潔き事ではあり
ませんでした。しかし ベトガーは 処刑を免れる為の 時間稼ぎに 何らかの成果を あげ
ざるを得ませんでした。磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の玄関口であっ
た ベネツィアで 先ず試みられました。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が試みられ
ますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に惑わされた彼らの せいぜい
成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く
セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。他の物質から 黄金への変成を求めた 錬
金術師ベトガーは 過去のガラスの研究においても(ガラス製造技法大全)鉱物を 加熱する
ことによる変成で 目的のものが得られる 経験をしておりました。ベトガーは 科学系統的
な実験により 真理にいたることを 重んじる正当な研究者でしたから 連日 鉱物の加熱実
験を 繰り返しておりました。その過程において ベトガーは 中国の宜興窯に 勝るとも劣
らぬガラス質の朱泥器を 副産物として得ました。
それは磁器 完成の前兆でもありました。1706年も終わろうとしておりました。
錬金術師-2
アウグスト王は フリードリヒ王の奪還を警戒して ベトガーを ドレスデン王宮の
黄金の館に 幽閉しました。王宮内に 実験室が整えられ 監視人つきで ベドガーは
賢者の石の発見に 追い立てられました。錬金術師ベトガーの触れ込みに アウグスト王は
大金をつぎ込み 秘法賢者の石を 待ちました。ベトガーは 失敗が 詐術師の烙印を押され
処刑にいたる恐怖に 苛まれました。恐怖から逃れる為に 次第に酒におぼれていきました。
アウグスト王は 懲らしめの為 人の恐れる 断崖にそびえる ケーニヒシュタイン要塞に
ベドガーを幽閉しました。死の恐怖から 荒れるベトガーは 更に深く酒に 溺れていきました。
逆効果に ベトガーが 狂ってしまわないかと 危惧したアウグスト王は 王宮の黄金の館に
呼び戻しました。監視の緩んだのを見計らって ベトガーは今度は アウグスト王からの逃亡を
企てました。又も 失敗するのですが 王宮の科学者達は ベトガーの非凡さを言い立て 王の
処刑を免れさせました。その後も ベトガーの研究は 続くのですが 秘法は成就しませんでし
た。王は 3年以上だまされ続けた 今 己の威信にかけて 決断を迫られる時に有りました。
投資の失敗の不名誉から王を 又 詐術師の処刑からベトガーを 救ったのが 宮廷科学顧問
官 チルンハウスでした。 彼は いくつかの科学的成果を 国に及ぼし 実績を上げ 為に
王の信任厚く 1694年 王より 東洋の美しい白磁の 秘法発見を 下命されておりました。
彼は 研究半ばにして 年老いてしまった自分の後を 天才ベトガーに托したいと 王に申し
出ました。王は 渡りに船と ベトガーに 白磁焼成の後継を 認めました。
1705年9月 ベトガーは ご存知 アルブレヒト城に 移されました。
錬金術師-1
古代文明で生まれた 賢者の石(卑金属を黄金に変える秘宝の石)
この研究は やがて 古代ギリシアや アラビアに 迷信的に 深まりました。
中世科学者も その迷信を信じ 進歩著しい 科学的分析手法を用いて 追い求めました。
皮肉にも 多くの一流科学者の 熱心な迷信研究は 近代科学的発明に 大いに貢献しました。
近代科学の先駆者 ニュートンでさえ この迷信を 信じていた一人でした。
実を結ぶはずの無い この迷信は 神秘主義に陥り,やがては 秘法を手に入れたと吹聴する
詐術者の横行を 生み出しました。 彼らは 各国の王より 研究資金や 原材料費の 名目で
多くの黄金を せしめました。黄金変成の 約束期日が近づくと 逃亡を企てるのですが,
王の厳しい追跡に ほとんどが捕まり 極刑に処せられました。
ベトガーは 小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。
ベルリンの 薬剤師の徒弟になった ベトガーは 師から1通り吸収すると,周りの反対を
押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。
研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験を して見せました。
実験は トリックを使ったのか 成功しました。
彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒの耳に 入ってしまいました。
王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン領へ逃亡しました。
手から黄金を 零した思いの フリードリヒは ベトガー逮捕に ザクセン領へ出兵しました。
1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベトガーが 有望
な錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを 拒否しました。
喧嘩腰のプロイセンに対し アウグストは ベトガーの出生地が ザクセン領であるから自分
の臣民であるとの主張をし 大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
1701年11月のことでした。
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3人の天才ヨハン-2
見出されたケンドラーは 案に違わず 見事な 鳥獣像を 王の磁器動物園のために 完成さ
せました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。写実的
迫力ある白磁像を前にして 宮廷官ヘロルトは 天才絵付師の立場が 脅かされる危機感を
持ちました。眼力を賞賛された王の ケンドラーへの寵遇にも 今まで マイセンの賞賛を
一身に浴びてきたヘロルトにとって 好ましからざる事でした。しかし ヘロルトのシノワズ
リも 月日を経て ケンドラーの新鮮さに 叶わなくなっていました。ケンドラーを贔屓にす
るブリュール伯(ヴィルトシャフテンの 山羊に乗った仕立て屋さんを作らせた)が 「白鳥
のサービス」を 注文する頃 2人の優劣は ケンドラーに軍配が上っておりました。
この中世最大のサービスは バロック様式を 代表する窯業界の 佳作でしたが 時は これ
を厳格なバロックの 最後の徒花となし 優雅なロココ様式のセーヴルが マイセンに取って
代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝ルイ15世は 東洋の磁器でマイセンの
後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。15世は 1738年設立
のヴァンサンヌ窯を 1756年 寵妃ポンパドール夫人のセーヴルの地に 王立窯にして移しま
した。フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 中国は勿論 マイセンにも 勝ち目の無
いのは 明らかです。やがて時代は 欧風ロココのセーヴルが シノワズリ・バロックのマイ
センを旧となし 新潮流となっていきました。
マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し
18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで 時代をリードしていきました。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超える事はありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは占領されました。
ヘロルトは フランクフルトに 避難しましたが ケンドラーは マイセンの火を消すまいと
踏み止まりました。マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を
立ち上げ やがてジャーマンロココを 確立していきました。
ロココに取って代る ネオクラシックの大波は 海を越えて 英国から襲ってきました。
1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発するのですが これの大ブレークの前に マ
イセンも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいました。1775年 ヘロルト(享年78歳)の後を
おって ケンドラー(享年68歳)も 失意のうちに この世を去りました。
3人の偉業により マイセンは ヨーロッパ諸窯に そして世界に 多大の影響を 与えてき
ました。創窯300年のマイセンは 偉大なマンネリズムを標榜し 3人の残した業績を 踏
襲し続けてきました。時の流れは 変われども(バロック,ロココ,ネオクラシック,エンパイア,
ビーダーマイイヤ,アールヌーボー,アーツ&クラフツ,アールデコ) マイセンに対する 尊敬と
その高い地位は 変わることがありませんでした。
栄えあるマイセンに 3人は 今も 生き続けているのです。
3人の天才ヨハン-1
この3人を語らずして マイセンを語ることは出来ません。
まず1人目は ヨハン・フリードリヒ・ベトガー,錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁
を もたらした天才です。彼の名は マイセンとともに 永久不滅です。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀
宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を
完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海
の寶貝 ポルツェラーナと 賞賛し イタリア・ヨーロッパに紹介した 白磁です。やがて
14世紀には やはり景徳鎮で 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の
長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。
片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することでベトガーは わずか3~5年で 完成
させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウスの 白磁研究の基礎に 助けられ
たとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまら
ず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本を
はじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い難く
ベトガーや シュテルツェルらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。(ベトガーが
持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウグスブルグの絵付師に 売
り渡されておりました) パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料に 自らも開発した顔
料を以って 彼独特のシノワズリを確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて
高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグ
スト王が 余白の美が美しいと 絶賛する柿右衛門(ヨーロッパにおいて高値を呼んだ)にも
臆せず挑み 王の満足するヘロルトの柿右衛門は マイセンの名声を 弥が上にも高めました。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
当時名の売れた 彫刻師を以ってしても アウグスト王のお眼鏡に 叶う者無く 色々手を
尽くすうちに 灯台下暗し 王は 己の宮廷彫刻家の若い助手に 天分を見出すのです。
錬金術師-4
ヨーロッパ諸窯で行われていた 焼き締め陶器を ガラス質の器に変成し得たベトガー。
次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュタイン要塞への 避難命
令が 発令されました。 ポーランド王でもあった アウグストは スウェーデン王カール12
世と 領有権をめぐり 戦争の渦中にありましたが,戦いに敗れ ザクセン本国へまで その
侵攻を被る 羽目に陥っておりました。錬金術への信奉 並々ならぬ カール12世から,ベト
ガーを とられまいとする為の 緊急避難命令でした。それから1年 煉獄生活のすることの
ない 無聊に 不慣れなベトガーは あてがわれる酒でも癒せない苦しみを 王に訴え 実験
再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いたドレスデンの
乙女の砦ユングフェルンに 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました。1707年9月のこと
でした。それから半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達し
ました。(景徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリンシャンは 磁土で出来ている山で あった
ので 西洋でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと
雪花石膏アラバスターから成っており 東洋の カオリンと白不子から成るものより 僅かに
黄味がかっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や
若き錬金術師ベトガーの手中にありました。1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金なら
ぬ白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない 白磁を手に入れたのです。この年の10月に ベ
トガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみか
ら逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。遂に1709年3月 ベトガーは
王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができました。(真の東洋
の白磁の完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりません
でした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に
マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしきマイセンの誕生となりました。
錬金術師-3
ベトガーが 人の出入りの多い 黄金の館から 廃墟に近い 山上のアルブレヒト城へ移された
のは ①大きな窯を設置出来る広い場所 ②研究に没頭せざるを得ない環境 ③研究が成就の
暁に 秘密を守る為 でした。ベトガーには 3人の監視と 5人の助手(中にウィーン窯の
前身に 秘法を伝えることになる 一番弟子シュテルツェルも)が つけられました。いかに
白い黄金と称えられていた 東洋の秘宝といえど 古代メソポタミアに 端を発する科学の王
道 賢者の石に比べれば 錬金術師ベトガーの誇りにかけて 陶工の真似は 潔き事ではあり
ませんでした。しかし ベトガーは 処刑を免れる為の 時間稼ぎに 何らかの成果を あげ
ざるを得ませんでした。磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の玄関口であっ
た ベネツィアで 先ず試みられました。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が試みられ
ますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に惑わされた彼らの せいぜい
成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く
セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。他の物質から 黄金への変成を求めた 錬
金術師ベトガーは 過去のガラスの研究においても(ガラス製造技法大全)鉱物を 加熱する
ことによる変成で 目的のものが得られる 経験をしておりました。ベトガーは 科学系統的
な実験により 真理にいたることを 重んじる正当な研究者でしたから 連日 鉱物の加熱実
験を 繰り返しておりました。その過程において ベトガーは 中国の宜興窯に 勝るとも劣
らぬガラス質の朱泥器を 副産物として得ました。
それは磁器 完成の前兆でもありました。1706年も終わろうとしておりました。
錬金術師-2
アウグスト王は フリードリヒ王の奪還を警戒して ベトガーを ドレスデン王宮の
黄金の館に 幽閉しました。王宮内に 実験室が整えられ 監視人つきで ベドガーは
賢者の石の発見に 追い立てられました。錬金術師ベトガーの触れ込みに アウグスト王は
大金をつぎ込み 秘法賢者の石を 待ちました。ベトガーは 失敗が 詐術師の烙印を押され
処刑にいたる恐怖に 苛まれました。恐怖から逃れる為に 次第に酒におぼれていきました。
アウグスト王は 懲らしめの為 人の恐れる 断崖にそびえる ケーニヒシュタイン要塞に
ベドガーを幽閉しました。死の恐怖から 荒れるベトガーは 更に深く酒に 溺れていきました。
逆効果に ベトガーが 狂ってしまわないかと 危惧したアウグスト王は 王宮の黄金の館に
呼び戻しました。監視の緩んだのを見計らって ベトガーは今度は アウグスト王からの逃亡を
企てました。又も 失敗するのですが 王宮の科学者達は ベトガーの非凡さを言い立て 王の
処刑を免れさせました。その後も ベトガーの研究は 続くのですが 秘法は成就しませんでし
た。王は 3年以上だまされ続けた 今 己の威信にかけて 決断を迫られる時に有りました。
投資の失敗の不名誉から王を 又 詐術師の処刑からベトガーを 救ったのが 宮廷科学顧問
官 チルンハウスでした。 彼は いくつかの科学的成果を 国に及ぼし 実績を上げ 為に
王の信任厚く 1694年 王より 東洋の美しい白磁の 秘法発見を 下命されておりました。
彼は 研究半ばにして 年老いてしまった自分の後を 天才ベトガーに托したいと 王に申し
出ました。王は 渡りに船と ベトガーに 白磁焼成の後継を 認めました。
1705年9月 ベトガーは ご存知 アルブレヒト城に 移されました。
錬金術師-1
古代文明で生まれた 賢者の石(卑金属を黄金に変える秘宝の石)
この研究は やがて 古代ギリシアや アラビアに 迷信的に 深まりました。
中世科学者も その迷信を信じ 進歩著しい 科学的分析手法を用いて 追い求めました。
皮肉にも 多くの一流科学者の 熱心な迷信研究は 近代科学的発明に 大いに貢献しました。
近代科学の先駆者 ニュートンでさえ この迷信を 信じていた一人でした。
実を結ぶはずの無い この迷信は 神秘主義に陥り,やがては 秘法を手に入れたと吹聴する
詐術者の横行を 生み出しました。 彼らは 各国の王より 研究資金や 原材料費の 名目で
多くの黄金を せしめました。黄金変成の 約束期日が近づくと 逃亡を企てるのですが,
王の厳しい追跡に ほとんどが捕まり 極刑に処せられました。
ベトガーは 小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。
ベルリンの 薬剤師の徒弟になった ベトガーは 師から1通り吸収すると,周りの反対を
押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。
研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験を して見せました。
実験は トリックを使ったのか 成功しました。
彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒの耳に 入ってしまいました。
王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン領へ逃亡しました。
手から黄金を 零した思いの フリードリヒは ベトガー逮捕に ザクセン領へ出兵しました。
1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベトガーが 有望
な錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを 拒否しました。
喧嘩腰のプロイセンに対し アウグストは ベトガーの出生地が ザクセン領であるから自分
の臣民であるとの主張をし 大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
1701年11月のことでした。
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