マイセン 【昼顔】コーヒーポット 35%Off
マイセン 【昼顔】コーヒーポット 35%Off
白い花を ココまで立体的 写実的に 描けるペインターさんは
如何にマイセンといえど そんなに多くは無いでしょう。
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【昼顔】 シュガー 115500→75075円
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【昼顔】 クリーマー 105000→68250円
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【昼顔】 18cmプレート・23501 147000→102900円
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マイセン 【昼顔】 お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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【マイセン磁板画】 931578レイクパーク・95167 30%Off お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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3人の天才ヨハン-2
見出されたケンドラーは 案に違わず 見事な 鳥獣像を 王の磁器動物園のために 完成
させました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。写
実的迫力ある白磁像を前にして 宮廷官ヘロルトは 天才絵付師の立場が 脅かされる危機
感を持ちました。眼力を賞賛された王の ケンドラーへの寵遇にも 今まで マイセンの賞
賛を 一身に浴びてきたヘロルトにとって 好ましからざる事でした。しかし ヘロルトの
シノワズリも 月日を経て ケンドラーの新鮮さに 叶わなくなっていました。ケンドラー
を贔屓にするブリュール伯(ヴィルトシャフテンの 山羊に乗った仕立て屋さんを作らせた)
が 「白鳥のサービス」を 注文する頃2人の優劣は ケンドラーに軍配が上っておりました。
この中世最大のサービスは バロック様式を 代表する窯業界の 佳作でしたが 時は これ
を厳格なバロックの 最後の徒花となし 優雅なロココ様式のセーヴルが マイセンに取って
代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝ルイ15世は 東洋の磁器でマイセンの
後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。15世は 1738年設立
のヴァンサンヌ窯を 1756年 寵妃ポンパドール夫人のセーヴルの地に 王立窯にして移しま
した。フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 勝ち目の無いのは 明らかです。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超えることはありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは占領されました。
ヘロルトは フランクフルトに 難を避けましたが ケンドラーは マイセンの火を消すまいと
踏み止まりました。マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を
立ち上げ やがてジャーマンロココを確立していきました。
ロココに代わる ネオクラシックの大波は 海を越えて 英国から襲ってきました。
1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発するのですが これの大ブレークの前に マイ
センも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいました。1775年 ヘロルトの後をおって ケンド
ラーも 失意のうちに この世を去りました。
3人の天才ヨハン-1
この3人を語らずして マイセンを語ることは出来ません。
まず1人目は ヨハン・フリードリヒ・ベトガー,錬金術師にて ヨーロッパに
東洋の白磁を もたらした天才です。彼の名は マイセンとともに 永久不滅です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い難く
ベトガーや シュテルツェルらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。
パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料に 自らも開発した顔料を以って 彼独特のシノ
ワズリを確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて高い評価を受け 果てには
本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグスト王が 余白の美が美しいと
絶賛する柿右衛門(ヨーロッパにおいて高値を呼んだ)にも 臆せず挑み 王の満足するヘロルト
の柿右衛門は マイセンの名声を 弥が上にも高めました。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
当時名の売れた 彫刻師を以ってしても アウグスト王のお眼鏡に 叶う者無く 色々手を尽く
すうちに 灯台下暗し 王は 己の宮廷彫刻家の若い助手に 天分を見出すのです。
錬金術師-5
ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りま
したが,彼が求める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費であり 心から喜べ
なかったようです。彼は 実験室の扉の上に 自虐的に書いております。
「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の
商品化に 追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立
て直す必要から ベトガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を
目論んだのです。しかし 商品化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けて
おりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは
新しい強力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。この研磨機は
その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火
煉瓦を使った 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐも
のの 出現はありませんでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らし
い 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料
特に 染付用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来の
千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発見された呉須は ベ
トガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト王は
もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる 最大のライバル フリ
ードリヒの シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを
交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の
事でした。王は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ軍に 大敗を喫し
ます。)何度かの偶然の末 ベトガーの亡くなる1719年に 彼の徒弟シュテルツェ
ルたちにより それは完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は
届いたのでしょうか?
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験を 延々と続けたベトガーの体は 日々に
蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から
深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも
猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベトガー。
13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガーを やっと王は
哀れな成功者と 気遣ってくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は
決して満足の出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後
マイセン工場への出費や 男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無
一文になったそうです。ベトガーの足跡は 死後 妹の婿であるシュタインブ
リュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐらいです。1722年
シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為
マイセンロゴに採用しました。
片や一方では アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に
多くの王の産業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
錬金術師-4
ヨーロッパ諸窯で行われていた 焼き締め陶器を ガラス質の器に変成し得た
ベトガー。次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュ
タイン要塞への 避難命令が 発令されました。 ポーランド王でもあった ア
ウグストは スウェーデン王カール12世と 領有権をめぐり 戦争の渦中にあり
ましたが,戦いに敗れ ザクセン本国へまで その侵攻を被る 羽目に陥ってお
りました。錬金術への信奉 並々ならぬ カール12世から,ベトガーを とられ
まいとする為の 緊急避難命令でした。それから1年 煉獄生活のすることのない
無聊に 不慣れなベドガーは あてがわれる酒でも癒せない苦しみを 王に訴え
実験再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いた
ドレスデンの 乙女の砦ユングフェルンに 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻し
ました。1707年9月のことでした。
それから半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達
しました。(景徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリンシャンは 磁土で出来ている
山で あったので 西洋でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベドガ
ーの磁器は カオリンと 雪花石膏アラバスターから成っており 東洋の カオリ
ンと白不子から成るものより 僅かに黄味がかっていました)。西洋中が 数世紀
孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や 若き錬金術師ベトガーの手中に
ありました。1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東
洋に さほど遜色のない 白磁を手に入れたのです。この年の10月に ベトガーは
師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病空しく なくしました。悲しみから
逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。
遂に1709年3月 ベトガーは 王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」
を 認める事ができました。(東洋の白磁の完成は 雪花石膏の媒溶剤を改良し
長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりませんでした。)更にその後も 商品
化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に マイセン工場が 秘密
裏に設立されたのが 1710年6月で 輝かしき マイセンの 誕生となりました。
錬金術師-3
ベトガーが 人の出入りの多い 黄金の館から 廃墟に近い 山上のアルブレヒト城へ
移されたのは ①大きな窯を設置出来る広い場所 ②研究に没頭せざるを得ない環境
③研究が成就の暁に 秘密を守る為 でした。ベトガーには 3人の監視と 5人の助手
(中にウィーン窯に 秘法を伝えることになる 一番弟子シュテルツェルも)が つけら
れました。いかに白い黄金と称えられていた 東洋の秘宝といえど 古代メソポタミアに
端を発する科学の王道 賢者の石に比べれば 錬金術師ベトガーの誇りにかけて 陶工の
真似は 潔き事ではありませんでした。しかし ベトガーは 処刑を免れる為の 時間稼ぎ
に 何らかの成果を あげざるを得ませんでした。磁器の焼成は 16世紀の古きから
アラビアと東洋の玄関口であった ベネツィアで 先ず試みられました。その後も 欧州
各地で 白い黄金の焼成が試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラ
ス質に惑わされた彼らの せいぜい 成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りの
する 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。
他の物質から 黄金への変成を求めた 錬金術師ベトガーは 過去のガラスの研究においても
(ガラス製造技法大全)鉱物を 加熱することによる変成で 目的のものが得られる 経験を
しておりました。ベトガーは 科学系統的な実験により 真理にいたることを 重んじる正当
な研究者でしたから 連日 鉱物の加熱実験を 繰り返しておりました。その過程において
ベトガーは 中国の宜興窯に 勝るとも劣らぬガラス質の朱泥器を 副産物として得ました。
それは磁器 完成の前兆でもありました。1706年も終わろうとしておりました。
錬金術師-2
アウグスト王は フリードリヒ王の奪還を警戒して ベトガーを ドレスデン王宮の
黄金の館に 幽閉しました。王宮内に 実験室が整えられ 監視人つきで ベドガーは
賢者の石の発見に 追い立てられました。錬金術師ベトガーの触れ込みに アウグスト王は
大金をつぎ込み 秘法賢者の石を 待ちました。ベトガーは 失敗が 詐術師の烙印を押され
処刑にいたる恐怖に 苛まれました。恐怖から逃れる為に 次第に酒におぼれていきました。
アウグスト王は 懲らしめの為 人の恐れる 断崖にそびえる ケーニヒシュタイン要塞に
ベドガーを幽閉しました。死の恐怖から 荒れるベトガーは 更に深く酒に 溺れていきました。
逆効果に ベトガーが 狂ってしまわないかと 危惧したアウグスト王は 王宮の黄金の館に
呼び戻しました。監視の緩んだのを見計らって ベトガーは今度は アウグスト王からの逃亡を
企てました。又も 失敗するのですが 王宮の科学者達は ベドガーの非凡さを言い立て 王の
処刑を免れさせました。その後も ベトガーの研究は 続くのですが 秘法は成就しませんでし
た。王は 3年以上だまされ続けた 今 己の威信にかけて 決断を迫られる時に有りました。
投資の失敗の不名誉から王を 又 詐術師の処刑からベドガーを 救ったのが 宮廷科学顧問
官 チルンハウスでした。 彼は いくつかの科学的成果を 国に及ぼし 実績を上げ 為に
王の信任厚く 1694年 王より 東洋の美しい白磁の 秘法発見を 下命されておりました。
彼は 研究半ばにして 年老いてしまった自分の後を 天才ベトガーに托したいと 王に申し
出ました。王は 渡りに船と ベトガーに 白磁焼成の後継を 認めました。
1705年9月 ベトガーは ご存知 アルブレヒト城に 移されました。
錬金術師-1
古代文明で生まれた 賢者の石(卑金属を黄金に変える秘宝の石)
この研究は やがて 古代ギリシアや アラビアに 迷信的に 深まりました。
中世科学者も その迷信を信じ 進歩著しい 科学的分析手法を用いて 追い求めました。
皮肉にも 多くの一流科学者の 熱心な迷信研究は 近代科学的発明に 大いに貢献しました。
近代科学の先駆者 ニュートンでさえ この迷信を 信じていた一人でした。
実を結ぶはずの無い この迷信は 神秘主義に陥り,やがては 秘法を手に入れたと吹聴する
詐術者の横行を 生み出しました。 彼らは 各国の王より 研究資金や 原材料費の 名目で
多くの黄金を せしめました。黄金変成の 約束期日が近づくと 逃亡を企てるのですが,
王の厳しい追跡に ほとんどか捕まり 極刑に処せられました。
ベトガーは 小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。
ベルリンの 薬剤師の徒弟になった ベトガーは 師から1通り吸収すると,周りの反対を
押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。
研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験を して見せました。
実験は トリックを使ったのか 成功しました。
彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒの耳に 入ってしまいました。
王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン領へ逃亡しました。
手から黄金を 零した思いの フリードリヒは ベトガー逮捕に ザクセン領へ出兵しました。
1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベトガーが 有望
な錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを 拒否しました。
喧嘩腰のプロイセンに対し アウグストは ベトガーの出生地が ザクセン領であるから自分
の臣民であるとの主張をし 大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
1701年11月のことでした。
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3人の天才ヨハン-2
見出されたケンドラーは 案に違わず 見事な 鳥獣像を 王の磁器動物園のために 完成
させました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。写
実的迫力ある白磁像を前にして 宮廷官ヘロルトは 天才絵付師の立場が 脅かされる危機
感を持ちました。眼力を賞賛された王の ケンドラーへの寵遇にも 今まで マイセンの賞
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シノワズリも 月日を経て ケンドラーの新鮮さに 叶わなくなっていました。ケンドラー
を贔屓にするブリュール伯(ヴィルトシャフテンの 山羊に乗った仕立て屋さんを作らせた)
が 「白鳥のサービス」を 注文する頃2人の優劣は ケンドラーに軍配が上っておりました。
この中世最大のサービスは バロック様式を 代表する窯業界の 佳作でしたが 時は これ
を厳格なバロックの 最後の徒花となし 優雅なロココ様式のセーヴルが マイセンに取って
代わっていきました。栄耀栄華絶頂の ブルボン王朝ルイ15世は 東洋の磁器でマイセンの
後塵を拝した上は 文化教養の高さで ザクセンを凌ごうとしました。15世は 1738年設立
のヴァンサンヌ窯を 1756年 寵妃ポンパドール夫人のセーヴルの地に 王立窯にして移しま
した。フリット軟質磁器で シノワズリを追っても 勝ち目の無いのは 明らかです。
先行したアウグスト3世も 美術に造詣の深い王で 逸早く ロココの時代を予見しておりま
した。1750年 3世は 娘マリア・ヨゼファが フランス王太子に嫁ぐ時 マイセンの贈り物
を制作したケンドラーを 設置者名目で 偵察に出しました。ケンドラーは ロココの資料を
持ち帰り 模倣を始めるのですが それは遂に セーヴルを超えることはありませんでした。
1756年には 7年戦争が勃発し フリードリヒ大王に ザクセンは占領されました。
ヘロルトは フランクフルトに 難を避けましたが ケンドラーは マイセンの火を消すまいと
踏み止まりました。マイセンの衰退甚だしき一方で 1763年 フリードリヒ大王は 王立窯を
立ち上げ やがてジャーマンロココを確立していきました。
ロココに代わる ネオクラシックの大波は 海を越えて 英国から襲ってきました。
1774年 ウェッジウッドが ジャスパーを 開発するのですが これの大ブレークの前に マイ
センも セーヴルも 全く鳴りを潜めてしまいました。1775年 ヘロルトの後をおって ケンド
ラーも 失意のうちに この世を去りました。
3人の天才ヨハン-1
この3人を語らずして マイセンを語ることは出来ません。
まず1人目は ヨハン・フリードリヒ・ベトガー,錬金術師にて ヨーロッパに
東洋の白磁を もたらした天才です。彼の名は マイセンとともに 永久不滅です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い難く
ベトガーや シュテルツェルらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。
パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料に 自らも開発した顔料を以って 彼独特のシノ
ワズリを確立していきました。ヘロルトのシノワズリは 欧州にて高い評価を受け 果てには
本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。さらに進み アウグスト王が 余白の美が美しいと
絶賛する柿右衛門(ヨーロッパにおいて高値を呼んだ)にも 臆せず挑み 王の満足するヘロルト
の柿右衛門は マイセンの名声を 弥が上にも高めました。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
当時名の売れた 彫刻師を以ってしても アウグスト王のお眼鏡に 叶う者無く 色々手を尽く
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錬金術師-5
ベトガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りま
したが,彼が求める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費であり 心から喜べ
なかったようです。彼は 実験室の扉の上に 自虐的に書いております。
「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベトガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の
商品化に 追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立
て直す必要から ベトガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を
目論んだのです。しかし 商品化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けて
おりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性を有し ベトガーは
新しい強力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。この研磨機は
その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベトガーは 新耐火
煉瓦を使った 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐも
のの 出現はありませんでした。この2例を見ても やはりベトガーは 素晴らし
い 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料
特に 染付用の 呉須(酸化コバルト)の完成に 追われました。古磁器以来の
千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発見された呉須は ベ
トガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト王は
もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる 最大のライバル フリ
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交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の
事でした。王は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ軍に 大敗を喫し
ます。)何度かの偶然の末 ベトガーの亡くなる1719年に 彼の徒弟シュテルツェ
ルたちにより それは完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は
届いたのでしょうか?
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験を 延々と続けたベトガーの体は 日々に
蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から
深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも
猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベトガー。
13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガーを やっと王は
哀れな成功者と 気遣ってくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は
決して満足の出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後
マイセン工場への出費や 男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無
一文になったそうです。ベトガーの足跡は 死後 妹の婿であるシュタインブ
リュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐらいです。1722年
シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為
マイセンロゴに採用しました。
片や一方では アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に
多くの王の産業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
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ベトガー。次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュ
タイン要塞への 避難命令が 発令されました。 ポーランド王でもあった ア
ウグストは スウェーデン王カール12世と 領有権をめぐり 戦争の渦中にあり
ましたが,戦いに敗れ ザクセン本国へまで その侵攻を被る 羽目に陥ってお
りました。錬金術への信奉 並々ならぬ カール12世から,ベトガーを とられ
まいとする為の 緊急避難命令でした。それから1年 煉獄生活のすることのない
無聊に 不慣れなベドガーは あてがわれる酒でも癒せない苦しみを 王に訴え
実験再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いた
ドレスデンの 乙女の砦ユングフェルンに 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻し
ました。1707年9月のことでした。
それから半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達
しました。(景徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリンシャンは 磁土で出来ている
山で あったので 西洋でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベドガ
ーの磁器は カオリンと 雪花石膏アラバスターから成っており 東洋の カオリ
ンと白不子から成るものより 僅かに黄味がかっていました)。西洋中が 数世紀
孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や 若き錬金術師ベトガーの手中に
ありました。1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東
洋に さほど遜色のない 白磁を手に入れたのです。この年の10月に ベトガーは
師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病空しく なくしました。悲しみから
逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。
遂に1709年3月 ベトガーは 王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」
を 認める事ができました。(東洋の白磁の完成は 雪花石膏の媒溶剤を改良し
長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりませんでした。)更にその後も 商品
化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に マイセン工場が 秘密
裏に設立されたのが 1710年6月で 輝かしき マイセンの 誕生となりました。
錬金術師-3
ベトガーが 人の出入りの多い 黄金の館から 廃墟に近い 山上のアルブレヒト城へ
移されたのは ①大きな窯を設置出来る広い場所 ②研究に没頭せざるを得ない環境
③研究が成就の暁に 秘密を守る為 でした。ベトガーには 3人の監視と 5人の助手
(中にウィーン窯に 秘法を伝えることになる 一番弟子シュテルツェルも)が つけら
れました。いかに白い黄金と称えられていた 東洋の秘宝といえど 古代メソポタミアに
端を発する科学の王道 賢者の石に比べれば 錬金術師ベトガーの誇りにかけて 陶工の
真似は 潔き事ではありませんでした。しかし ベトガーは 処刑を免れる為の 時間稼ぎ
に 何らかの成果を あげざるを得ませんでした。磁器の焼成は 16世紀の古きから
アラビアと東洋の玄関口であった ベネツィアで 先ず試みられました。その後も 欧州
各地で 白い黄金の焼成が試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラ
ス質に惑わされた彼らの せいぜい 成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りの
する 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。
他の物質から 黄金への変成を求めた 錬金術師ベトガーは 過去のガラスの研究においても
(ガラス製造技法大全)鉱物を 加熱することによる変成で 目的のものが得られる 経験を
しておりました。ベトガーは 科学系統的な実験により 真理にいたることを 重んじる正当
な研究者でしたから 連日 鉱物の加熱実験を 繰り返しておりました。その過程において
ベトガーは 中国の宜興窯に 勝るとも劣らぬガラス質の朱泥器を 副産物として得ました。
それは磁器 完成の前兆でもありました。1706年も終わろうとしておりました。
錬金術師-2
アウグスト王は フリードリヒ王の奪還を警戒して ベトガーを ドレスデン王宮の
黄金の館に 幽閉しました。王宮内に 実験室が整えられ 監視人つきで ベドガーは
賢者の石の発見に 追い立てられました。錬金術師ベトガーの触れ込みに アウグスト王は
大金をつぎ込み 秘法賢者の石を 待ちました。ベトガーは 失敗が 詐術師の烙印を押され
処刑にいたる恐怖に 苛まれました。恐怖から逃れる為に 次第に酒におぼれていきました。
アウグスト王は 懲らしめの為 人の恐れる 断崖にそびえる ケーニヒシュタイン要塞に
ベドガーを幽閉しました。死の恐怖から 荒れるベトガーは 更に深く酒に 溺れていきました。
逆効果に ベトガーが 狂ってしまわないかと 危惧したアウグスト王は 王宮の黄金の館に
呼び戻しました。監視の緩んだのを見計らって ベトガーは今度は アウグスト王からの逃亡を
企てました。又も 失敗するのですが 王宮の科学者達は ベドガーの非凡さを言い立て 王の
処刑を免れさせました。その後も ベトガーの研究は 続くのですが 秘法は成就しませんでし
た。王は 3年以上だまされ続けた 今 己の威信にかけて 決断を迫られる時に有りました。
投資の失敗の不名誉から王を 又 詐術師の処刑からベドガーを 救ったのが 宮廷科学顧問
官 チルンハウスでした。 彼は いくつかの科学的成果を 国に及ぼし 実績を上げ 為に
王の信任厚く 1694年 王より 東洋の美しい白磁の 秘法発見を 下命されておりました。
彼は 研究半ばにして 年老いてしまった自分の後を 天才ベトガーに托したいと 王に申し
出ました。王は 渡りに船と ベトガーに 白磁焼成の後継を 認めました。
1705年9月 ベトガーは ご存知 アルブレヒト城に 移されました。
錬金術師-1
古代文明で生まれた 賢者の石(卑金属を黄金に変える秘宝の石)
この研究は やがて 古代ギリシアや アラビアに 迷信的に 深まりました。
中世科学者も その迷信を信じ 進歩著しい 科学的分析手法を用いて 追い求めました。
皮肉にも 多くの一流科学者の 熱心な迷信研究は 近代科学的発明に 大いに貢献しました。
近代科学の先駆者 ニュートンでさえ この迷信を 信じていた一人でした。
実を結ぶはずの無い この迷信は 神秘主義に陥り,やがては 秘法を手に入れたと吹聴する
詐術者の横行を 生み出しました。 彼らは 各国の王より 研究資金や 原材料費の 名目で
多くの黄金を せしめました。黄金変成の 約束期日が近づくと 逃亡を企てるのですが,
王の厳しい追跡に ほとんどか捕まり 極刑に処せられました。
ベトガーは 小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。
ベルリンの 薬剤師の徒弟になった ベトガーは 師から1通り吸収すると,周りの反対を
押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。
研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験を して見せました。
実験は トリックを使ったのか 成功しました。
彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒの耳に 入ってしまいました。
王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン領へ逃亡しました。
手から黄金を 零した思いの フリードリヒは ベトガー逮捕に ザクセン領へ出兵しました。
1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベトガーが 有望
な錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを 拒否しました。
喧嘩腰のプロイセンに対し アウグストは ベトガーの出生地が ザクセン領であるから自分
の臣民であるとの主張をし 大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
1701年11月のことでした。
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