マイセン【波の戯れホワイト】 デミタスC/S 80cc 25%Off
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ヴェレンシュピール
ザビーネ・ワックス女史達が マイセン伝統の優雅さを 失う事無く
使っても楽しい「用の美」を求め 繊細な 白いさざ波を表現
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錬金術師-1
古代文明で生まれた 賢者の石(卑金属を黄金に変える秘宝の石)
この研究は やがて 古代ギリシアや アラビアに 迷信的に 深まりました。
中世科学者も その存在を信じ 進歩著しい科学的分析手法を用いて 追い求めました。
皮肉なことに 多くの一流科学者の 熱心な研究は 近代科学的発明に 大いに貢献しました。
近代科学の先駆者 ニュートンでさえ この迷信を 信じていた一人でした。
実を結ぶはずの無い この迷信は 神秘主義に陥り やがては 秘法を手に入れたと吹聴する
詐術者の横行を 生み出しました。 彼らは 各国の王より 研究資金や 原材料費の 名目で
多くの黄金を せしめました。黄金変成の約束期日が近づくと 逃亡を企てるのですが
王の厳しい追跡に ほとんどか捕まり 極刑に処せられました。
ベドガーは小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。
ベルリンの 薬剤師の徒弟になったベドガーは 師から1通り吸収すると 周りの反対を
押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。
研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験をして見せました。
実験は トリックを使ったのか 成功しました。
彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒの耳に 入ってしまいました。
王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン領へ逃亡しました。
手から黄金を こぼした思いの フリードリヒは ザクセン領へ ベドガーを逮捕に 兵を
出しました。1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベド
ガーが錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを拒否しました。
喧嘩腰のプロイセンに対し ベドガーの出生地がザクセン領であるから 自分の臣民であると
主張し アウグストは 大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
1701年11月のことでした。
錬金術師-2
アウグスト王は フリードリヒ王の奪還を警戒して ベドガーを ドレスデン王宮の
黄金の館に 幽閉しました。王宮内に 実験室が整えられ 監視人つきで ベドガーは
賢者の石の発見に 追い立てられました。錬金術師ベドガーの触れ込みに アウグスト王は
大金をつぎ込み 秘法賢者の石を 待ちました。ベドガーは 失敗が 詐術師の烙印を押され
処刑にいたる恐怖に 苛まれました。恐怖から逃れる為に 次第に酒におぼれていきました。
アウグスト王は 懲らしめの為 人の恐れる 断崖にそびえる ケーニヒシュタイン要塞に
ベドガーを幽閉しました。死の恐怖から 荒れるベドガーは 更に深く酒に 溺れていきました。
逆効果に ベドガーが 狂ってしまわないかと 危惧したアウグスト王は 王宮の黄金の館に
呼び戻しました。監視の緩んだのを見計らって ベドガーは今度は アウグスト王からの逃亡を
企てました。又も 失敗するのですが 王宮の科学者達は ベドガーの非凡さを言い立て 王の
処刑を免れさせました。その後も ベドガーの研究は 続くのですが 秘法は成就しませんでし
た。王は 3年以上だまされ続けた 今 己の威信にかけて 決断を迫られる時に有りました。
投資の失敗の不名誉から王を 又 詐術師の処刑からベドガーを 救ったのが 宮廷科学顧問
官 チルンハウスでした。 彼は いくつかの科学的成果を 国に及ぼし 実績を上げ 王の
信任厚く 1694年 王より 東洋の美しい白磁の 秘法発見を 下命されておりました。 彼は
研究半ばにして 年老いてしまった自分の後を 天才ベドガーに托したいと 王に申し出ました。
王は 渡りに船と ベドガーに 白磁焼成の後継を 認めました。
1705年9月 ベドガーは ご存知 アルブレヒト城に 移されました。
錬金術師-3
ベドガーが 人の出入りの多い 黄金の館から 廃墟に近い 山上のアルブレヒト城へ
移されたのは ①大きな窯設置可の広い場所 ②研究に没頭せざるを得ない環境 ③研究が
成就の暁に 秘密を守る為 でした。ベドガーには 3人の監視と 5人の助手(中にウィ
ーン窯に 秘法を伝えることになる 一番弟子シュテルツェルも)が つけられました。
いかに白い黄金と称えられていた 東洋の秘宝といえど 古代メソポタミアに 端を発す
る科学の王道 賢者の石に比べれば 錬金術師ベドガーの誇りにかけて 陶工の真似は
望ましからざるものでした。しかし ベドガーは 処刑を免れる為の 時間稼ぎに 何らか
の成果を あげざるを得ませんでした。磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと
東洋の玄関であった ベネツィアで 先ず試みられました。その後も 欧州各地で 白い黄
金の焼成が試みられますが 総て 陶工であって 磁器のガラス質に惑わされ せいぜい
成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く
セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。他の物質から 黄金への変成を求めた
錬金術師ベドガーは 過去のガラスの研究においても 鉱物を 加熱することによる変成で
目的のものが得られる 経験を知っておりました。ベドガーは 科学系統的な実験により
真理にいたることを 重んじる正当な研究者でしたから 連日 鉱物の加熱実験を 繰り
返しておりました。その過程において ベドガーは 中国の宜興窯に 勝るとも劣らぬ
ガラス質の朱泥器を 副産物として得ました。それは磁器 完成の前兆でもありました。
1706年も終わろうとしておりました。
錬金術師-4
ヨーロッパ諸窯で行われていた 焼き締め陶器を ガラス質の器に変成し得た
ベドガー。次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュ
タイン要塞への 避難命令が 発令されました。 ポーランド王でもあった ア
ウグストは スウェーデン王カール12世と 領有権をめぐり 戦争の渦中にあり
ましたが 戦いに敗れ ザクセン本国へまで その侵攻を被る 羽目に陥ってお
りました。錬金術への信奉 並々ならぬ カール12世から ベドガーを とられ
まいとする為の 緊急避難命令でした。それから1年 煉獄生活のすることのない
無聊に 不慣れなベドガーは あてがわれる酒でも癒せない苦しみを 王に訴え
実験再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いた
ドレスデンの 乙女の砦ユングフェルンに 実験窯を新設し ベドガーを呼び戻し
ました。1707年9月のことでした。
それから半年を経ずして ベドガーは 磁器の主成分であるカオリンに 到達しま
した。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や 若き
錬金術師ベドガーの手中にありました。
1708年1月 遂に 錬金術師ベドガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東洋に さほど
遜色のない 白磁を手に入れたのです。(磁土カオリン;景徳鎮近郊の高嶺山 中国
発音カオリンシャンは 磁土で出来ている山で あったので 西洋でも磁土のことを
カオリンと呼びます。この時のベドガーの磁器は カオリンと 雪花石膏アラバス
ターから成っており 東洋の カオリンと白不子から成るものより 僅かに黄味がか
っていました)ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病空しく
この年の10月に なくしました。悲しみから逃れるように より東洋の白磁を目指し
実験を続けました。遂に1709年3月 ベドガーは 王に「中国に 勝るとも 劣らぬ
白磁完成」を 手紙に認めました。更にその後も 商品化に向けて実験・研究が進み
アルブレヒト城に マイセン工場が秘密裏に設立されたのが 1710年6月で 輝かしき
マイセンの 誕生となりました。
錬金術師-5
ベドガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りま
したが 彼が求める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費を 心から 喜べな
かったようです。彼は 実験室の扉の上に 自虐的に書いております。
「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベドガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の
商品化に 追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立
て直す必要から ベドガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を
目論んだのです。しかし 商品化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けて
おりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性から ベドガーは
新しい強力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。この研磨機は
その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベドガーは 新耐火
煉瓦を使った 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐも
のの 出現はありませんでした。この2例を見ても やはりベドガーは 素晴らし
い 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料
特に 染付用の 呉須の完成に 追われました。中国の景徳鎮で 14世紀に
磁器の 千数百年の発達史を経て 発見された呉須(酸化コバルト)は 秘法発
見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト王は もたつくベドガーへの
あてつけか 後に大王と呼ばれる 最大のライバル フリードリヒの シャルロッ
テンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。
奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。王は 後に
この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ軍に 大敗を喫します。)何度かの偶然の末
ベドガーの無くなる1719年に 彼の徒弟シュテルツェルたちにより それは完成する
のですが 死の床にあったベドガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ベドガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベドガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験を 延々と続けるベドガーの体は 日々に
蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から
深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも
猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベドガー。
13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベドガーを やっと王は
哀れな成功者と 気遣ってくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベドガーへの評価報奨は
決して満足の出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後
マイセン工場への出費や 男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無
一文になったそうです。ベドガーの足跡は 死後 妹の婿であるシュタインブ
リュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐらいです。1722年
シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為
マイセンロゴに採用しました。
片や一方では アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝され 多くの王の 羨望と
競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 他国の
多くの産業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
秘法漏洩-1
ヨーロッパで いち早く マイセンの秘法を基に 磁器の焼成に成功したのが
ウィーン窯の前身です。オランダ生まれの ウィーン軍務宮廷官 デュ・パキエは
マイセンの成功を聞き 1717年頃から イェズス会神父が パリで発刊した 中国
磁器の製法を基に 独自で 秘法発見に 挑戦しました。
しかし 天才ならぬパキエに うまくいくはずも無く やむなく 地位を利用
して ドレスデン宮廷に 手を回しました。堅固な防御を 潜り抜け 金細工師
フンガーを 共同経営者の餌で釣って マイセンから引き抜きました。
1718年 パキエは オーストリア皇帝から 領内での磁器独占権を 与えられま
した。その特権は 皇帝の資金援助無しの 条件付でしたので 資産家のウィーン
商人と ツェルダー大臣を共同経営者に募り フンガーと4人で窯を立上げました。
それから1年 酔ったベドガーから 秘法を聞きだしたという 自称アルカニスト
(秘法師)フンガーは 結局 磁器の焼成を 成し遂げられませんでした。
パキエは 又 マイセンに 色々手を回し 遂に ベドガーの一番弟子 シュテル
ツェルに 辿り着きました。 1719年 死の床にあったベドガーは 10年の苦労を
共にした弟子の離反を 知る由も無く かえって悩み 悲しむ事もありませんでした。
パキエの窯に移ったシュテルツェルは さすがに経験を積んでおり すぐに 問題が
磁土に有ると見抜きました。そこで ベドガーが 文字どうり 身を焦がす実験の
成果で得た 磁土を使えば 成功は手っ取り早いと かつて知ったる マイセンの
弱点を突いて 磁土を獲得しました。シュテルツェルは この磁土の届くのを待つ
間に 窯もベドガーの 開発したものに替えました。当然 パキエは ヨーロッパで
2番目に本間ものの マイセン磁器を手に入れることができました。
秘法漏洩-2
アウグスト王は 決して手を拱いて 見ていた訳では有りませんが 事を荒立てる
ことは出来ませんでした。丁度 嫡出子(後の3世)と オーストリア皇帝の姪
マリアヨゼファとの縁談をまとめ 神聖ローマ帝国ハプスブルク家と血縁となり
有力な立場を得ようと 画策していた時期ですから 皇帝と事を構えるわけには
いきませんでした。王は 腹心のアナカーを シュテルツェルに近ずけ 命の保障
と引き換えに マイセンに戻ることを勧めました。良心の呵責と パキエの財政難
から 約束の金が払われなかった事にも 嫌気をさしていましたので 渡りに船と
1720年 元来た道を戻りました。マイセンへの忠誠を示す為 パキエの窯で 新進
気鋭の 絵付師 ヘロルトを 引き抜いて 連れていきました。シュテルツェルに
不十分なまま おいて行かれたパキエは 余り出来のよくない磁器に シュバルツロ
ート(黒絵装飾)を 細々と続けながら シュテルツェルの成功を踏まえ 自分の
有たけの化学的知識を駆使し 1年後には マイセン磁器を再現 やがては フンガー
の残した数少ない功績 顔料の開発に弾みをつけ ヘロルトが残した シノワズリを
良くするようになりました。
マイセンの 独占は この時を以って 破れました。
マイセンでもそうであったように 磁器の開発と それに続く商品化には 莫大な
資金がかかり 絶えず財政難にあったパキエに 遂に倒産の危機が迫った 1744年
帝立窯にすることで マリアテレジアが 救いました。ウィーン窯の 誕生です。
秘法漏洩-3
財政難のパキエに 見切りを付けたフンガーも 出奔し イタリアのヴェッツィ
窯に秘法を 売り込みました。ここからフンガーの マイセン秘法漏洩の 旅
が始まり 利を求めて スゥエーデン デンマーク ロシアへと続きました。
本間ものの アルカニストでない フンガーは マイセンにとって 余り脅威で
は 有りませんでしたが ウィーン窯で マイセン秘法を会得し アルカニスト
となった リングラーの恋の放浪は マイセンにとって 大変な脅威でした。
1747年 弱冠17歳のリングラーは ベドガーの窯の設計図を持って マイセンの
絵付師レーベンフィンクの興した ヘキスト窯に秘法を伝えました。ここには
ウィーン窯の先輩ペンクグラフが 先に移っていたのですが 未完の彼は リン
グラーから 秘法を完全に会得し 1763年フリードリヒ大王立ベルリン窯の 創
立に 秘法を伝えております。一方 マイセン最大の脅威 リングラーがアウグ
スト強襲王の孫娘 マリア・アンナ・ゾフィア 嫁ぐところのバイエルンの ニ
ンフェンブルク窯の前身設立に 秘法を伝えたと言うのも 皮肉な話です。
マイセンの堅固な秘法防御は 自国の財力の強大化と 何よりも自国の文化教養度
を 誇りたい国王達の前に 僅か半世紀を経ずして 破られていきました。
余談ですが アウグスト強襲王の強襲は 多くのご婦人方の貞操を破った 強精力
をも 言っていると 半ば呆れ 半ば羨ましがられておったそうです。何せ 男の
幸せの時代 でもご婦人方も パブ犬秘密結社とか 結構オープンな時代でした。
ケンドラー作の ご婦人方のクリノリンスカートの下から のぞくパグ犬は 可愛
いだけではないのです。恥ずかしげも無く おおらかな時代は 打ち続く小競り合
いの死の危険の 反面でもあるしょう。死後の アウグスト強襲王の 心臓が納め
られた 教会の地下室の近くを 妙齢の女性が通ると いまだに 王の心臓の鼓動
が聞こえるとの言い伝えは 彼の行いに悪意のないユーモアです。
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錬金術師-1
古代文明で生まれた 賢者の石(卑金属を黄金に変える秘宝の石)
この研究は やがて 古代ギリシアや アラビアに 迷信的に 深まりました。
中世科学者も その存在を信じ 進歩著しい科学的分析手法を用いて 追い求めました。
皮肉なことに 多くの一流科学者の 熱心な研究は 近代科学的発明に 大いに貢献しました。
近代科学の先駆者 ニュートンでさえ この迷信を 信じていた一人でした。
実を結ぶはずの無い この迷信は 神秘主義に陥り やがては 秘法を手に入れたと吹聴する
詐術者の横行を 生み出しました。 彼らは 各国の王より 研究資金や 原材料費の 名目で
多くの黄金を せしめました。黄金変成の約束期日が近づくと 逃亡を企てるのですが
王の厳しい追跡に ほとんどか捕まり 極刑に処せられました。
ベドガーは小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。
ベルリンの 薬剤師の徒弟になったベドガーは 師から1通り吸収すると 周りの反対を
押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。
研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験をして見せました。
実験は トリックを使ったのか 成功しました。
彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒの耳に 入ってしまいました。
王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン領へ逃亡しました。
手から黄金を こぼした思いの フリードリヒは ザクセン領へ ベドガーを逮捕に 兵を
出しました。1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベド
ガーが錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを拒否しました。
喧嘩腰のプロイセンに対し ベドガーの出生地がザクセン領であるから 自分の臣民であると
主張し アウグストは 大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
1701年11月のことでした。
錬金術師-2
アウグスト王は フリードリヒ王の奪還を警戒して ベドガーを ドレスデン王宮の
黄金の館に 幽閉しました。王宮内に 実験室が整えられ 監視人つきで ベドガーは
賢者の石の発見に 追い立てられました。錬金術師ベドガーの触れ込みに アウグスト王は
大金をつぎ込み 秘法賢者の石を 待ちました。ベドガーは 失敗が 詐術師の烙印を押され
処刑にいたる恐怖に 苛まれました。恐怖から逃れる為に 次第に酒におぼれていきました。
アウグスト王は 懲らしめの為 人の恐れる 断崖にそびえる ケーニヒシュタイン要塞に
ベドガーを幽閉しました。死の恐怖から 荒れるベドガーは 更に深く酒に 溺れていきました。
逆効果に ベドガーが 狂ってしまわないかと 危惧したアウグスト王は 王宮の黄金の館に
呼び戻しました。監視の緩んだのを見計らって ベドガーは今度は アウグスト王からの逃亡を
企てました。又も 失敗するのですが 王宮の科学者達は ベドガーの非凡さを言い立て 王の
処刑を免れさせました。その後も ベドガーの研究は 続くのですが 秘法は成就しませんでし
た。王は 3年以上だまされ続けた 今 己の威信にかけて 決断を迫られる時に有りました。
投資の失敗の不名誉から王を 又 詐術師の処刑からベドガーを 救ったのが 宮廷科学顧問
官 チルンハウスでした。 彼は いくつかの科学的成果を 国に及ぼし 実績を上げ 王の
信任厚く 1694年 王より 東洋の美しい白磁の 秘法発見を 下命されておりました。 彼は
研究半ばにして 年老いてしまった自分の後を 天才ベドガーに托したいと 王に申し出ました。
王は 渡りに船と ベドガーに 白磁焼成の後継を 認めました。
1705年9月 ベドガーは ご存知 アルブレヒト城に 移されました。
錬金術師-3
ベドガーが 人の出入りの多い 黄金の館から 廃墟に近い 山上のアルブレヒト城へ
移されたのは ①大きな窯設置可の広い場所 ②研究に没頭せざるを得ない環境 ③研究が
成就の暁に 秘密を守る為 でした。ベドガーには 3人の監視と 5人の助手(中にウィ
ーン窯に 秘法を伝えることになる 一番弟子シュテルツェルも)が つけられました。
いかに白い黄金と称えられていた 東洋の秘宝といえど 古代メソポタミアに 端を発す
る科学の王道 賢者の石に比べれば 錬金術師ベドガーの誇りにかけて 陶工の真似は
望ましからざるものでした。しかし ベドガーは 処刑を免れる為の 時間稼ぎに 何らか
の成果を あげざるを得ませんでした。磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと
東洋の玄関であった ベネツィアで 先ず試みられました。その後も 欧州各地で 白い黄
金の焼成が試みられますが 総て 陶工であって 磁器のガラス質に惑わされ せいぜい
成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く
セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。他の物質から 黄金への変成を求めた
錬金術師ベドガーは 過去のガラスの研究においても 鉱物を 加熱することによる変成で
目的のものが得られる 経験を知っておりました。ベドガーは 科学系統的な実験により
真理にいたることを 重んじる正当な研究者でしたから 連日 鉱物の加熱実験を 繰り
返しておりました。その過程において ベドガーは 中国の宜興窯に 勝るとも劣らぬ
ガラス質の朱泥器を 副産物として得ました。それは磁器 完成の前兆でもありました。
1706年も終わろうとしておりました。
錬金術師-4
ヨーロッパ諸窯で行われていた 焼き締め陶器を ガラス質の器に変成し得た
ベドガー。次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュ
タイン要塞への 避難命令が 発令されました。 ポーランド王でもあった ア
ウグストは スウェーデン王カール12世と 領有権をめぐり 戦争の渦中にあり
ましたが 戦いに敗れ ザクセン本国へまで その侵攻を被る 羽目に陥ってお
りました。錬金術への信奉 並々ならぬ カール12世から ベドガーを とられ
まいとする為の 緊急避難命令でした。それから1年 煉獄生活のすることのない
無聊に 不慣れなベドガーは あてがわれる酒でも癒せない苦しみを 王に訴え
実験再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いた
ドレスデンの 乙女の砦ユングフェルンに 実験窯を新設し ベドガーを呼び戻し
ました。1707年9月のことでした。
それから半年を経ずして ベドガーは 磁器の主成分であるカオリンに 到達しま
した。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や 若き
錬金術師ベドガーの手中にありました。
1708年1月 遂に 錬金術師ベドガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東洋に さほど
遜色のない 白磁を手に入れたのです。(磁土カオリン;景徳鎮近郊の高嶺山 中国
発音カオリンシャンは 磁土で出来ている山で あったので 西洋でも磁土のことを
カオリンと呼びます。この時のベドガーの磁器は カオリンと 雪花石膏アラバス
ターから成っており 東洋の カオリンと白不子から成るものより 僅かに黄味がか
っていました)ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病空しく
この年の10月に なくしました。悲しみから逃れるように より東洋の白磁を目指し
実験を続けました。遂に1709年3月 ベドガーは 王に「中国に 勝るとも 劣らぬ
白磁完成」を 手紙に認めました。更にその後も 商品化に向けて実験・研究が進み
アルブレヒト城に マイセン工場が秘密裏に設立されたのが 1710年6月で 輝かしき
マイセンの 誕生となりました。
錬金術師-5
ベドガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りま
したが 彼が求める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費を 心から 喜べな
かったようです。彼は 実験室の扉の上に 自虐的に書いております。
「創造主たる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベドガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の
商品化に 追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立
て直す必要から ベドガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を
目論んだのです。しかし 商品化には これまでの 苦労以上のものが待ち受けて
おりました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性から ベドガーは
新しい強力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。この研磨機は
その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベドガーは 新耐火
煉瓦を使った 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐも
のの 出現はありませんでした。この2例を見ても やはりベドガーは 素晴らし
い 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料
特に 染付用の 呉須の完成に 追われました。中国の景徳鎮で 14世紀に
磁器の 千数百年の発達史を経て 発見された呉須(酸化コバルト)は 秘法発
見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト王は もたつくベドガーへの
あてつけか 後に大王と呼ばれる 最大のライバル フリードリヒの シャルロッ
テンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。
奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。王は 後に
この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ軍に 大敗を喫します。)何度かの偶然の末
ベドガーの無くなる1719年に 彼の徒弟シュテルツェルたちにより それは完成する
のですが 死の床にあったベドガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
ベドガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベドガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験を 延々と続けるベドガーの体は 日々に
蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から
深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも
猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベドガー。
13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベドガーを やっと王は
哀れな成功者と 気遣ってくれたのです。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベドガーへの評価報奨は
決して満足の出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後
マイセン工場への出費や 男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無
一文になったそうです。ベドガーの足跡は 死後 妹の婿であるシュタインブ
リュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐらいです。1722年
シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為
マイセンロゴに採用しました。
片や一方では アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝され 多くの王の 羨望と
競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 他国の
多くの産業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりました。
秘法漏洩-1
ヨーロッパで いち早く マイセンの秘法を基に 磁器の焼成に成功したのが
ウィーン窯の前身です。オランダ生まれの ウィーン軍務宮廷官 デュ・パキエは
マイセンの成功を聞き 1717年頃から イェズス会神父が パリで発刊した 中国
磁器の製法を基に 独自で 秘法発見に 挑戦しました。
しかし 天才ならぬパキエに うまくいくはずも無く やむなく 地位を利用
して ドレスデン宮廷に 手を回しました。堅固な防御を 潜り抜け 金細工師
フンガーを 共同経営者の餌で釣って マイセンから引き抜きました。
1718年 パキエは オーストリア皇帝から 領内での磁器独占権を 与えられま
した。その特権は 皇帝の資金援助無しの 条件付でしたので 資産家のウィーン
商人と ツェルダー大臣を共同経営者に募り フンガーと4人で窯を立上げました。
それから1年 酔ったベドガーから 秘法を聞きだしたという 自称アルカニスト
(秘法師)フンガーは 結局 磁器の焼成を 成し遂げられませんでした。
パキエは 又 マイセンに 色々手を回し 遂に ベドガーの一番弟子 シュテル
ツェルに 辿り着きました。 1719年 死の床にあったベドガーは 10年の苦労を
共にした弟子の離反を 知る由も無く かえって悩み 悲しむ事もありませんでした。
パキエの窯に移ったシュテルツェルは さすがに経験を積んでおり すぐに 問題が
磁土に有ると見抜きました。そこで ベドガーが 文字どうり 身を焦がす実験の
成果で得た 磁土を使えば 成功は手っ取り早いと かつて知ったる マイセンの
弱点を突いて 磁土を獲得しました。シュテルツェルは この磁土の届くのを待つ
間に 窯もベドガーの 開発したものに替えました。当然 パキエは ヨーロッパで
2番目に本間ものの マイセン磁器を手に入れることができました。
秘法漏洩-2
アウグスト王は 決して手を拱いて 見ていた訳では有りませんが 事を荒立てる
ことは出来ませんでした。丁度 嫡出子(後の3世)と オーストリア皇帝の姪
マリアヨゼファとの縁談をまとめ 神聖ローマ帝国ハプスブルク家と血縁となり
有力な立場を得ようと 画策していた時期ですから 皇帝と事を構えるわけには
いきませんでした。王は 腹心のアナカーを シュテルツェルに近ずけ 命の保障
と引き換えに マイセンに戻ることを勧めました。良心の呵責と パキエの財政難
から 約束の金が払われなかった事にも 嫌気をさしていましたので 渡りに船と
1720年 元来た道を戻りました。マイセンへの忠誠を示す為 パキエの窯で 新進
気鋭の 絵付師 ヘロルトを 引き抜いて 連れていきました。シュテルツェルに
不十分なまま おいて行かれたパキエは 余り出来のよくない磁器に シュバルツロ
ート(黒絵装飾)を 細々と続けながら シュテルツェルの成功を踏まえ 自分の
有たけの化学的知識を駆使し 1年後には マイセン磁器を再現 やがては フンガー
の残した数少ない功績 顔料の開発に弾みをつけ ヘロルトが残した シノワズリを
良くするようになりました。
マイセンの 独占は この時を以って 破れました。
マイセンでもそうであったように 磁器の開発と それに続く商品化には 莫大な
資金がかかり 絶えず財政難にあったパキエに 遂に倒産の危機が迫った 1744年
帝立窯にすることで マリアテレジアが 救いました。ウィーン窯の 誕生です。
秘法漏洩-3
財政難のパキエに 見切りを付けたフンガーも 出奔し イタリアのヴェッツィ
窯に秘法を 売り込みました。ここからフンガーの マイセン秘法漏洩の 旅
が始まり 利を求めて スゥエーデン デンマーク ロシアへと続きました。
本間ものの アルカニストでない フンガーは マイセンにとって 余り脅威で
は 有りませんでしたが ウィーン窯で マイセン秘法を会得し アルカニスト
となった リングラーの恋の放浪は マイセンにとって 大変な脅威でした。
1747年 弱冠17歳のリングラーは ベドガーの窯の設計図を持って マイセンの
絵付師レーベンフィンクの興した ヘキスト窯に秘法を伝えました。ここには
ウィーン窯の先輩ペンクグラフが 先に移っていたのですが 未完の彼は リン
グラーから 秘法を完全に会得し 1763年フリードリヒ大王立ベルリン窯の 創
立に 秘法を伝えております。一方 マイセン最大の脅威 リングラーがアウグ
スト強襲王の孫娘 マリア・アンナ・ゾフィア 嫁ぐところのバイエルンの ニ
ンフェンブルク窯の前身設立に 秘法を伝えたと言うのも 皮肉な話です。
マイセンの堅固な秘法防御は 自国の財力の強大化と 何よりも自国の文化教養度
を 誇りたい国王達の前に 僅か半世紀を経ずして 破られていきました。
余談ですが アウグスト強襲王の強襲は 多くのご婦人方の貞操を破った 強精力
をも 言っていると 半ば呆れ 半ば羨ましがられておったそうです。何せ 男の
幸せの時代 でもご婦人方も パブ犬秘密結社とか 結構オープンな時代でした。
ケンドラー作の ご婦人方のクリノリンスカートの下から のぞくパグ犬は 可愛
いだけではないのです。恥ずかしげも無く おおらかな時代は 打ち続く小競り合
いの死の危険の 反面でもあるしょう。死後の アウグスト強襲王の 心臓が納め
られた 教会の地下室の近くを 妙齢の女性が通ると いまだに 王の心臓の鼓動
が聞こえるとの言い伝えは 彼の行いに悪意のないユーモアです。
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