マイセン 【波の戯れホワイト】 コーヒーC/S 25%Off
マイセン【波の戯れホワイト】 コーヒーC/S 25%Off
ヴェレンシュピール
ザビーネ・ワックス女史達が マイセン伝統の優雅さを 失う事無く
使っても楽しい「用の美」を求め 繊細な 白いさざ波を表現
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秘法漏洩-3
財政難のパキエに 見切りを付けたフンガーも 出奔し イタリアのヴェッツィ
窯に秘法を 売り込みました。ここからフンガーの マイセン秘法漏洩の 旅
が始まり 利を求めて スゥエーデン デンマーク ロシアへと続きました。
本間ものの アルカニストでない フンガーは マイセンにとって 余り脅威で
は 有りませんでしたが ウィーン窯で マイセン秘法を会得し アルカニスト
となった リングラーの恋の放浪は マイセンにとって 大変な脅威でした。
1747年 弱冠17歳のリングラーは ベドガーの窯の設計図を持って マイセンの
絵付師レーベンフィンクの興した ヘキスト窯に秘法を伝えました。ここには
ウィーン窯の先輩ペンクグラフが 先に移っていたのですが 未完の彼は リン
グラーから 秘法を完全に会得し 1763年フリードリヒ大王立ベルリン窯の 創
立に 秘法を伝えております。一方 マイセン最大の脅威 リングラーがアウグ
スト強襲王の孫娘 マリア・アンナ・ゾフィア 嫁ぐところのバイエルンの ニ
ンフェンブルク窯の前身設立に 秘法を伝えたと言うのも 皮肉な話です。
マイセンの堅固な秘法防御は 自国の財力の強大化と 何よりも自国の文化教養度
を 誇りたい国王達の前に 僅か半世紀を経ずして 破られていきました。
余談ですが アウグスト強襲王の強襲は 多くのご婦人方の貞操を破った 強精力
をも 言っていると 半ば呆れ 半ば羨ましがられておったそうです。何せ 男の
幸せの時代 でもご婦人方も パブ犬秘密結社とか 結構オープンな時代でした。
ケンドラー作の ご婦人方のクリノリンスカートの下から のぞくパグ犬は 可愛
いだけではないのです。恥ずかしげも無く おおらかな時代は 打ち続く小競り合
いの 反面でしょう。死後の アウグスト強襲王の 心臓が納められた 教会の
地下室の近くを 可愛い娘さんが通ると いまだに心臓の鼓動が聞こえるそうです。
秘法漏洩-2
アウグスト王は 決して手を拱いて 見ていた訳では有りませんが 事を荒立てる
ことは出来ませんでした。丁度 嫡出子(後の3世)と オーストリア皇帝の姪
マリアヨゼファとの縁談をまとめ 神聖ローマ帝国ハプスブルク家と血縁となり
有力な立場を得ようと 画策していた時期ですから 皇帝と事を構えるわけには
いきませんでした。王は 腹心のアナカーを シュテルツェルに近ずけ 命の保障
と引き換えに マイセンに戻ることを勧めました。良心の呵責と パキエの財政難
から 約束の金が払われなかったにも 嫌気をさしていましたので 渡りに船と
1720年 元来た道を戻りました。マイセンへの忠誠を示す為 パキエの窯で 新進
気鋭の 絵付師 ヘロルトを 引き抜いて 連れていきました。シュテルツェルに
中途半端に おいて行かれたパキエは 余り出来のよくない磁器に シュバルツロ
ート(黒絵装飾)を 細々と続けながら 自分の有たけの化学的知識を駆使し 1年
後にはマイセン磁器を再現 やがては フンガーの残した数少ない功績 顔料の開
発に弾みをつけ ヘロルトが残した シノワズリを 良くするようになりました。
マイセンの 独占は この時を以って 破れました。
マイセンでもそうであったように 磁器の開発と それに続く商品化には 莫大な
資金がかかり 絶えず財政難にあったパキエに 遂に倒産の危機が迫った 1744年
帝立窯にすることで マリアテレジアが 救いました。ウィーン窯の 誕生です。
秘法漏洩-1
ヨーロッパで いち早く マイセンの秘法を基に 磁器の焼成に成功したのが
ウィーン窯の前身です。オランダ生まれの ウィーン軍務宮廷官 デュ・パキエは
マイセンの成功を聞き 1716年頃から 独自に 秘法発見に 挑戦しました。
しかし 天才ならぬパキエに うまくいくはずも無く やむなく 地位を利用
して ドレスデン宮廷に 手を回しました。堅固な防御を 潜り抜け 金細工師
フンガーを 共同経営者の餌で釣って マイセンから引き抜きました。
1718年 パキエは オーストリア皇帝から オーストリアでの磁器独占権を 与
えられました。その特権は 皇帝の資金援助無しの 条件付でしたので 資産家
のウィーン商人と ツェルダー大臣を共同経営者に募り 4人で窯を立上げました。
それから1年 酔ったベドガーから 秘法を聞きだしたという 自称アルカニスト
(秘法師)フンガーは 結局 磁器の焼成を 成し遂げられませんでした。
パキエは 又 マイセンに色々手を回し 遂に ベドガーの一番弟子 シュテル
ツェルに 辿り着きました。 1719年 死の床にあったベドガーは 10年の苦労を
共にした弟子の離反を 知る由も無く かえって悩み 悲しむ事もありませんでした。
パキエの窯に移ったシュテルツェルは さすがに経験を積んでおり すぐに 問題が
磁土に有ると見抜きました。そこで ベドガーが 文字どうり 身を焦がす実験の
成果で得た 磁土を使えば 成功は手っ取り早いと ここでも堅固な防御網を 掻い
潜り 磁土を獲得しました。シュテルツェルは この磁土の届くのを待つ間に 窯も
ベドガーの 開発したものに替えました。当然 パキエは ヨーロッパで 2番目に
本間ものの マイセン磁器を手に入れることができました。
錬金術師-5
ベドガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りま
したが 彼が求める 賢者の石を思えば 科学的才能の浪費を 心から 喜べな
かったようです。彼は 実験室の扉の上に 書いております。
「創造主なる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベドガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の
商品化に 追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立
て直す必要から ベドガーに注ぎ込んだ投資金の回収と あがるべき莫大な利益を
目論んだのです。しかし 商品化には これまでの苦労以上のもの が待っており
ました。
赤色磁器は 今までの窯業界が 経験したことのない 硬質性から ベドガーは
新しい強力な研磨機の 開発に迫られ これを 成し遂げました。この研磨機は
その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベドガーは 新耐火
煉瓦を使った 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐも
のの 出現はありませんでした。この2例を見ても やはりベドガーは 素晴らし
い 科学技術者でありました。
美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料
特に 染付用の 呉須の完成に 迫られました。中国の景徳鎮で 14世紀に
磁器の 千数百年の発達史を経て 発見された呉須(酸化コバルト)は 秘法発
見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト王は 竜騎兵600騎を 後に
大王と呼ばれるフリードリヒから シャルロッテンブルク宮殿の染付磁器約120点と
交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の
事でした。王は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ軍に 大敗を喫しま
す。)何度かの偶然の末 ベドガーの無くなる1719年に 彼の徒弟シュテルツェル
たちにより それは完成するのですが 死の床にあったベドガーに 朗報は 届い
たのでしょうか?
ベドガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベドガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベドガーを やっと王は
哀れな成功者と 気遣ってくれたのです。
高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを 発します。さらに悪いことに 一向に
現れぬ 賢者の石 それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベドガーへの評価は 決し
て十分とは いえなかったでしょう。
片や一方では アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝され 多くの王の 羨望と
競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城 マイセン市に 他国の多くの
産業スパイを 図らずも呼び集めました。
固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間に ヨーロッパ中に広がりました。
錬金術師-4
ヨーロッパ諸窯で行われていた 焼き締め陶器を ガラス質の器に変成し得た
ベドガー。次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュ
タイン要塞への 避難命令が 発令されました。 ポーランド王でもあった ア
ウグストは スウェーデン王カール12世と 領有権をめぐり 戦争の渦中にあり
ましたが 戦いに敗れ ザクセン本国へまで その侵攻を被る 羽目に陥ってお
りました。錬金術への信奉 並々ならぬ カール12世から ベドガーを とられ
まいとする為の 緊急避難命令でした。それから1年 煉獄生活のすることのない
怠惰に 不慣れなベドガーは あてがわれる酒でも癒せない苦しみを 王に訴え
実験再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いた
ドレスデンの 乙女の砦ユングフェルンに 実験窯を新設し ベドガーを呼び戻し
ました。1707年9月のことでした。
それから半年を経ずして ベドガーは 磁器の主成分であるカオリンに 到達しま
した。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や 若き
錬金術師ベドガーの手中にありました。
1708年1月 遂に 錬金術師ベドガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東洋に さほど
遜色のない 白磁を手に入れたのです。(磁土カオリン;景徳鎮近郊の高嶺山 中国
発音カオリンシャンは 磁土で出来ている山で あったので 西洋でも磁土のことを
カオリンと呼びます。この時のベドガーの磁器は カオリンと 雪花石膏アラバス
ターから成っており 東洋の カオリンと白不子から成るものより 僅かに黄味がか
っていました)ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病空しく
この年の10月に なくしました。悲しみから逃れるように より東洋の白磁を目指し
実験を続けました。遂に1709年3月 ベドガーは 王に「中国に 勝るとも 劣らぬ
白磁完成」を 手紙に認めました。更にその後も 商品化に向けて実験・研究が進み
アルブレヒト城に マイセン工場が秘密裏に設立されたのが 1710年6月で 輝かしき
マイセン の誕生となりました。
錬金術師-3
錬金術師-2
錬金術師-1
【マイセン人形】 猿の音楽隊 ホルン・60009 30%Off お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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ケンドラー/リュッケ原作 1765
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財政難のパキエに 見切りを付けたフンガーも 出奔し イタリアのヴェッツィ
窯に秘法を 売り込みました。ここからフンガーの マイセン秘法漏洩の 旅
が始まり 利を求めて スゥエーデン デンマーク ロシアへと続きました。
本間ものの アルカニストでない フンガーは マイセンにとって 余り脅威で
は 有りませんでしたが ウィーン窯で マイセン秘法を会得し アルカニスト
となった リングラーの恋の放浪は マイセンにとって 大変な脅威でした。
1747年 弱冠17歳のリングラーは ベドガーの窯の設計図を持って マイセンの
絵付師レーベンフィンクの興した ヘキスト窯に秘法を伝えました。ここには
ウィーン窯の先輩ペンクグラフが 先に移っていたのですが 未完の彼は リン
グラーから 秘法を完全に会得し 1763年フリードリヒ大王立ベルリン窯の 創
立に 秘法を伝えております。一方 マイセン最大の脅威 リングラーがアウグ
スト強襲王の孫娘 マリア・アンナ・ゾフィア 嫁ぐところのバイエルンの ニ
ンフェンブルク窯の前身設立に 秘法を伝えたと言うのも 皮肉な話です。
マイセンの堅固な秘法防御は 自国の財力の強大化と 何よりも自国の文化教養度
を 誇りたい国王達の前に 僅か半世紀を経ずして 破られていきました。
余談ですが アウグスト強襲王の強襲は 多くのご婦人方の貞操を破った 強精力
をも 言っていると 半ば呆れ 半ば羨ましがられておったそうです。何せ 男の
幸せの時代 でもご婦人方も パブ犬秘密結社とか 結構オープンな時代でした。
ケンドラー作の ご婦人方のクリノリンスカートの下から のぞくパグ犬は 可愛
いだけではないのです。恥ずかしげも無く おおらかな時代は 打ち続く小競り合
いの 反面でしょう。死後の アウグスト強襲王の 心臓が納められた 教会の
地下室の近くを 可愛い娘さんが通ると いまだに心臓の鼓動が聞こえるそうです。
秘法漏洩-2
アウグスト王は 決して手を拱いて 見ていた訳では有りませんが 事を荒立てる
ことは出来ませんでした。丁度 嫡出子(後の3世)と オーストリア皇帝の姪
マリアヨゼファとの縁談をまとめ 神聖ローマ帝国ハプスブルク家と血縁となり
有力な立場を得ようと 画策していた時期ですから 皇帝と事を構えるわけには
いきませんでした。王は 腹心のアナカーを シュテルツェルに近ずけ 命の保障
と引き換えに マイセンに戻ることを勧めました。良心の呵責と パキエの財政難
から 約束の金が払われなかったにも 嫌気をさしていましたので 渡りに船と
1720年 元来た道を戻りました。マイセンへの忠誠を示す為 パキエの窯で 新進
気鋭の 絵付師 ヘロルトを 引き抜いて 連れていきました。シュテルツェルに
中途半端に おいて行かれたパキエは 余り出来のよくない磁器に シュバルツロ
ート(黒絵装飾)を 細々と続けながら 自分の有たけの化学的知識を駆使し 1年
後にはマイセン磁器を再現 やがては フンガーの残した数少ない功績 顔料の開
発に弾みをつけ ヘロルトが残した シノワズリを 良くするようになりました。
マイセンの 独占は この時を以って 破れました。
マイセンでもそうであったように 磁器の開発と それに続く商品化には 莫大な
資金がかかり 絶えず財政難にあったパキエに 遂に倒産の危機が迫った 1744年
帝立窯にすることで マリアテレジアが 救いました。ウィーン窯の 誕生です。
秘法漏洩-1
ヨーロッパで いち早く マイセンの秘法を基に 磁器の焼成に成功したのが
ウィーン窯の前身です。オランダ生まれの ウィーン軍務宮廷官 デュ・パキエは
マイセンの成功を聞き 1716年頃から 独自に 秘法発見に 挑戦しました。
しかし 天才ならぬパキエに うまくいくはずも無く やむなく 地位を利用
して ドレスデン宮廷に 手を回しました。堅固な防御を 潜り抜け 金細工師
フンガーを 共同経営者の餌で釣って マイセンから引き抜きました。
1718年 パキエは オーストリア皇帝から オーストリアでの磁器独占権を 与
えられました。その特権は 皇帝の資金援助無しの 条件付でしたので 資産家
のウィーン商人と ツェルダー大臣を共同経営者に募り 4人で窯を立上げました。
それから1年 酔ったベドガーから 秘法を聞きだしたという 自称アルカニスト
(秘法師)フンガーは 結局 磁器の焼成を 成し遂げられませんでした。
パキエは 又 マイセンに色々手を回し 遂に ベドガーの一番弟子 シュテル
ツェルに 辿り着きました。 1719年 死の床にあったベドガーは 10年の苦労を
共にした弟子の離反を 知る由も無く かえって悩み 悲しむ事もありませんでした。
パキエの窯に移ったシュテルツェルは さすがに経験を積んでおり すぐに 問題が
磁土に有ると見抜きました。そこで ベドガーが 文字どうり 身を焦がす実験の
成果で得た 磁土を使えば 成功は手っ取り早いと ここでも堅固な防御網を 掻い
潜り 磁土を獲得しました。シュテルツェルは この磁土の届くのを待つ間に 窯も
ベドガーの 開発したものに替えました。当然 パキエは ヨーロッパで 2番目に
本間ものの マイセン磁器を手に入れることができました。
錬金術師-5
ベドガーにとって 世俗的な白い黄金の 秘法成就は ある達成感は 有りま
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かったようです。彼は 実験室の扉の上に 書いております。
「創造主なる神は 錬金術師を 陶工にしたもうた」
ベドガーは 工場監督に任命され 休む間もなく 赤色磁器(朱泥器)や白磁の
商品化に 追い回されました。王としては 戦費などで 枯渇した国家財政を 立
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その後 宝石業界にも 寄与する所となりました。
白磁を焼くのにも 従来の窯では 安定した高温を得がたく ベドガーは 新耐火
煉瓦を使った 大型の窯を 開発しました。それから1世紀 この窯を しのぐも
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美しい白磁の完成の喜びに 浸る間もなく 彼を待っていたのは 絵付けの顔料
特に 染付用の 呉須の完成に 迫られました。中国の景徳鎮で 14世紀に
磁器の 千数百年の発達史を経て 発見された呉須(酸化コバルト)は 秘法発
見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト王は 竜騎兵600騎を 後に
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たちにより それは完成するのですが 死の床にあったベドガーに 朗報は 届い
たのでしょうか?
ベドガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。
ベドガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。
13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベドガーを やっと王は
哀れな成功者と 気遣ってくれたのです。
高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを 発します。さらに悪いことに 一向に
現れぬ 賢者の石 それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。
今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベドガーへの評価は 決し
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片や一方では アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝され 多くの王の 羨望と
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固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間に ヨーロッパ中に広がりました。
錬金術師-4
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ベドガー。次こそは 磁器にとはやる彼に 王より 実験中止と ケーニヒシュ
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ましたが 戦いに敗れ ザクセン本国へまで その侵攻を被る 羽目に陥ってお
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実験再開を求めました。アウグストは ポーランド王を退位し 政情の落ち着いた
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ました。1707年9月のことでした。
それから半年を経ずして ベドガーは 磁器の主成分であるカオリンに 到達しま
した。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や 若き
錬金術師ベドガーの手中にありました。
1708年1月 遂に 錬金術師ベドガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東洋に さほど
遜色のない 白磁を手に入れたのです。(磁土カオリン;景徳鎮近郊の高嶺山 中国
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カオリンと呼びます。この時のベドガーの磁器は カオリンと 雪花石膏アラバス
ターから成っており 東洋の カオリンと白不子から成るものより 僅かに黄味がか
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この年の10月に なくしました。悲しみから逃れるように より東洋の白磁を目指し
実験を続けました。遂に1709年3月 ベドガーは 王に「中国に 勝るとも 劣らぬ
白磁完成」を 手紙に認めました。更にその後も 商品化に向けて実験・研究が進み
アルブレヒト城に マイセン工場が秘密裏に設立されたのが 1710年6月で 輝かしき
マイセン の誕生となりました。
錬金術師-3
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