マイセン 【フィギュリン】 キューピット 情熱 H13cm 15%Off
マイセン 【フィギュリン】 キューピット 情熱 H13cm 15%Off
メリークリスマスフェア (本日~ 12/25) 1人限定
通常10%Off メリークリスマスフェア (本日~ 12/25) 15%Off
純潔の守護神ディアナは 恋情をかき立てる金の矢や100年の恋をも冷ます鉛の矢を見境なしに射かけては、厄介な揉め事を引き起こして喜ぶキューピッドを目の敵にしており 悪戯っ子の弓を奪い取り、力任せにへし折ろうとしています。傍若無人なキューピッドにとってもさすがにディアナは怖い女神、しかも大切な商売道具を取られては手も足も出せません。切羽詰まった表情で膝をついて「ああっ、どうかやめてください!」と懇願する姿が観る者のほほ笑みを誘います。叱りながらも 優美な微笑みから ディアナの貴賓が魅惑に溢れてきます。微笑の何と魅力的なことでしょう!
ディアナとキューピッド ポンピオー・バトーニ 1761年 メトロポリタン美術館蔵
18世紀ローマ派を代表する画家ポンピオー・バトーニの技量を十分に見せつける、洗練極まりなき美品です。
キューピッド武装解除 バイ WILLIAM ETTY (1787-1849,
クピードーは、ローマ神話の愛の神。日本語では長母音を省略してクピドとも表記される。アモールとも呼ばれる。日本では、英語読みのキューピッドやキューピットで知られる。ギリシア神話のエロースと同一視される。
エロースと若干異なり、背中に翼をつけて恋の矢を撃つ気紛れな子供として描かれることが多い。そのため、恋人達の恋愛成就の助けになることを「恋のキューピッド」ということが多い。
誰が為の 願いを込めてか 今まさに 君に放たん 情熱の弓矢
1775年
4月19日 - アメリカ独立戦争勃発(-1783年9月3日)。
アメリカ合衆国独立戦争は、1775年から1783年までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命もしくは革命戦争と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている。
戦力 アメリカ軍 250,000名 フランス軍 15,000名 スペイン軍 8,000名 総計: 273,000名
イギリス軍 12,000名 ロイヤリスト 50,000名 ドイツ人傭兵 40,000名 インディアン 5,000名 総計: 107,000名
この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。
アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍とフランス王国発遣軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。
4月23日 - ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、画家 誕生 (+ 1851年)
10月2日(安永4年9月8日) - 加賀千代女、俳人(* 1703年) 死去
アシェ原作 1775
一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形(動的)に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシック(静的)の新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられました。傷心のケンドラーは アシェの立場で かって追い落とした ヘロルトの後を追うように 同1775年 失意のうちにこの世を去りました。
お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
マイセン 【フィギュリン】 キューピット 情熱 H13cm 15%Off のお求めはコチラ
H13cm
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1727年 アウグスト強襲王は 磁器宮殿内の2階回廊に 磁器動物園を思い立ちました。さてそうなると ベテラン造形師が必要になります。当時マイセンには 絵付け師ヘロルトが シノワズリ ジャポネズリを確立し 権威をふるっておりました。造形は 絵付けの引き立て役程度に 抑えられておりました。そこで ヨハン・ゴットリーブ・キルヒナーやヨハン・クリストフ・リュッケなどの彫刻家を 招聘して 動物造形に挑ましたのですが 磁器の扱いは難しく 思うようにはいきませんでした。1728年 21歳の彫刻士キルヒナーの自信は 数ヶ月で造形士たちの侮辱の的と化した。嘲笑と不評化に耐えられなくなったキルヒナーは 売春宿通いで憂さを晴らすのですが悪いことに重い性病に侵されるのです。業を煮やしたマイセン特別委員会はキルヒナーを解雇決定しました。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-3」 詳しくは コチラをクリック してください。
公式サイト
「インドサイ」紀元80年、ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイ。その銅版画をもとに1732年、ヨハン・ゴットリープ・キルヒナーがマイセン磁器による大きなサイを作り上げました。2010年、マイセン磁器製作所はこの記念碑的作品を小さなサイズで発表しました。それはアルブレヒト・デューラーの有名な木版画の手本となり、1583年にはアブラハム・デ・ブルンが銅版画にしています。
とありますが間違いだらけ(デューラーの有名な木版画は1515年作で キルヒナーの1732年作の彫像を手本にできません。1583年作のブルンの銅版画も1732年作を手本にできません。ブルン作を手本にしたのはキルヒナーの方です。キルヒナーの優秀さを言いたい為に時系列を逆転してまで捏造するのは無知ゆえか もしくは故意なら悪辣です。)で 真実は以下になります。
MEISSENメモ(22):マイセン「動物彫像」のご紹介 | GKジャパン スタッフ 2015年6月23日
内容は公式サイトに同じ。以後何回か公式サイトや 引用による百貨店広告 発表
ついにマイセン代理店社員のブログに捏造の証拠を見つけました。
マイセン アニヴァーサリー・コレクション (12)|ト音痴記号のブログ 2010-02-07
インドサイが初めてヨーロッパに来たのは紀元80年。皇帝ティトスが連れてきて、ローマのコロセウムで大評判となりました。
二度目は、1515年。リサボンにもたらされたサイの姿は、そこの田舎芸術家によって木版画にされ、それを見たアルブレヒト・デューラーがエッチングを製作。本物見ずの想像はふくらみ、のちに「デューラーのちび角」と呼ばれる小さな角が背中についています。
この有名なエッチングは幾度もコピーされ、さらにドゥ・ブリュン(de Bryn)の銅版画(1583年)を元に、キルヒナー(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)が1732年、磁器でサイの大きなフィギュアを製作。以来マイセン工房に保管されていますが、300周年を記念して、縮小版で登場です!(原文のまま)
(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)の件以外はほぼ正解です。この一文を先に公表している以上 誇大広告の捏造を知らぬとは言えません。
日本においては小さな人形の類がフィギュアと呼ばれている。この場合 フィギュリンが相応しいのでは ?
ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイの銅版画 ?
1515年 アルブレヒト・デューラーの有名な木版画
1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。肩に実物にはない「デューラーのちび角」と呼ばれるものがある。
1583年 アブラハム・デ・ブルンの銅版画 デューラーを手本にしたのか「デューラーのちび角」がある。
1728年 マイセンを首になったキルヒナーは ワイマール公爵邸で石造彫刻師の職を得 性病も治ったのか 妻をめとりそれなりの幸せにあった。マイセンはキルヒナーの代わりに入れたリュッケも ものの役に立たず首にしており 困った工場査察官のラインハルトは まだましなキルヒナーを呼び戻そうと画策しました。造形の親方の地位を餌に復帰にこぎつけました。親方になってようやく作り上げたライオン エレファントやインドサイも実物を知らぬとはいえ 静的で精彩を欠いたもので滑稽でさえありました。
ライオン H53.3cm 1730
エレファント H61cm 1731 実物を見てないとはいえ どちらも人の顔
インドサイ 1732年原作。2010年 復刻 H28cm。 アブラハム・デ・ブルンの銅版画を手本にしたので「デューラーのちび角」がある。
(2010年 落第生のキルヒナーをもてはやし 落第作のインドサイを鳴り物入りで復刻するに至っては 無知の露呈か はたまた売らんかなの商人根性か いずれにしろ偉大な3人のヨハンのマイセンを貶めるものです。7年間 書くべきか 書かざるべきか煩悶してきましたが 当店の周りでこのインドサイをつかまされた人が出るに及んで ついに意を決して公表するに及びました。)
キルヒナーにつづきリュッケもマイセン特別委員会が解雇通知するにいたり 不甲斐なさに立腹するアウグスト強襲王は 灯台下暗し 宝物庫「緑の丸天井」で 宮廷彫刻家の若い助手 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの仕事ぶりに マイセンの造形問題解決への閃きを 見出しました。1731年 アルブレヒト城に やってきたケンドラーは たちどころに 如何なく天分を発揮し 成功を収めていきました。王は 自らの先見の明を立証した この若者を 親方に任じ 寵遇しました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。
格下の親方であったケンドラーが 次々に成功をおさめ 王の覚え芽出度いうえ 給料が少なかったことに憤慨して キルヒナーは1733年 自らマイセンを去りました。ケンドラーに満足するマイセンからは体の良い厄介払いと 慰留の声もかかりませんでした。
マイセン 【フィギュリン】 天球上の穢れ無きマリア・72075 H44cm 15%Off のお求めはコチラ
天球上の穢れ無きマリア H44cm
これがキルヒナーのインドサイと同値(\3.780.000)と聞けば どう思いますか ?
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ディアナとキューピッド ポンピオー・バトーニ 1761年 メトロポリタン美術館蔵
18世紀ローマ派を代表する画家ポンピオー・バトーニの技量を十分に見せつける、洗練極まりなき美品です。
キューピッド武装解除 バイ WILLIAM ETTY (1787-1849,
クピードーは、ローマ神話の愛の神。日本語では長母音を省略してクピドとも表記される。アモールとも呼ばれる。日本では、英語読みのキューピッドやキューピットで知られる。ギリシア神話のエロースと同一視される。
エロースと若干異なり、背中に翼をつけて恋の矢を撃つ気紛れな子供として描かれることが多い。そのため、恋人達の恋愛成就の助けになることを「恋のキューピッド」ということが多い。
誰が為の 願いを込めてか 今まさに 君に放たん 情熱の弓矢
1775年
4月19日 - アメリカ独立戦争勃発(-1783年9月3日)。
アメリカ合衆国独立戦争は、1775年から1783年までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命もしくは革命戦争と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている。
戦力 アメリカ軍 250,000名 フランス軍 15,000名 スペイン軍 8,000名 総計: 273,000名
イギリス軍 12,000名 ロイヤリスト 50,000名 ドイツ人傭兵 40,000名 インディアン 5,000名 総計: 107,000名
この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。
アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍とフランス王国発遣軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。
4月23日 - ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、画家 誕生 (+ 1851年)
10月2日(安永4年9月8日) - 加賀千代女、俳人(* 1703年) 死去
アシェ原作 1775
一世を 風靡した ケンドラーのロココ風造形(動的)に 秋風が吹き始めた頃 ネオクラシック(静的)の新進気鋭のミッシェル・ヴィクトール・アシェが 主任造型師としてパリから 迎えられました。傷心のケンドラーは アシェの立場で かって追い落とした ヘロルトの後を追うように 同1775年 失意のうちにこの世を去りました。
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3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1727年 アウグスト強襲王は 磁器宮殿内の2階回廊に 磁器動物園を思い立ちました。さてそうなると ベテラン造形師が必要になります。当時マイセンには 絵付け師ヘロルトが シノワズリ ジャポネズリを確立し 権威をふるっておりました。造形は 絵付けの引き立て役程度に 抑えられておりました。そこで ヨハン・ゴットリーブ・キルヒナーやヨハン・クリストフ・リュッケなどの彫刻家を 招聘して 動物造形に挑ましたのですが 磁器の扱いは難しく 思うようにはいきませんでした。1728年 21歳の彫刻士キルヒナーの自信は 数ヶ月で造形士たちの侮辱の的と化した。嘲笑と不評化に耐えられなくなったキルヒナーは 売春宿通いで憂さを晴らすのですが悪いことに重い性病に侵されるのです。業を煮やしたマイセン特別委員会はキルヒナーを解雇決定しました。
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「インドサイ」紀元80年、ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイ。その銅版画をもとに1732年、ヨハン・ゴットリープ・キルヒナーがマイセン磁器による大きなサイを作り上げました。2010年、マイセン磁器製作所はこの記念碑的作品を小さなサイズで発表しました。それはアルブレヒト・デューラーの有名な木版画の手本となり、1583年にはアブラハム・デ・ブルンが銅版画にしています。
とありますが間違いだらけ(デューラーの有名な木版画は1515年作で キルヒナーの1732年作の彫像を手本にできません。1583年作のブルンの銅版画も1732年作を手本にできません。ブルン作を手本にしたのはキルヒナーの方です。キルヒナーの優秀さを言いたい為に時系列を逆転してまで捏造するのは無知ゆえか もしくは故意なら悪辣です。)で 真実は以下になります。
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インドサイが初めてヨーロッパに来たのは紀元80年。皇帝ティトスが連れてきて、ローマのコロセウムで大評判となりました。
二度目は、1515年。リサボンにもたらされたサイの姿は、そこの田舎芸術家によって木版画にされ、それを見たアルブレヒト・デューラーがエッチングを製作。本物見ずの想像はふくらみ、のちに「デューラーのちび角」と呼ばれる小さな角が背中についています。
この有名なエッチングは幾度もコピーされ、さらにドゥ・ブリュン(de Bryn)の銅版画(1583年)を元に、キルヒナー(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)が1732年、磁器でサイの大きなフィギュアを製作。以来マイセン工房に保管されていますが、300周年を記念して、縮小版で登場です!(原文のまま)
(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)の件以外はほぼ正解です。この一文を先に公表している以上 誇大広告の捏造を知らぬとは言えません。
日本においては小さな人形の類がフィギュアと呼ばれている。この場合 フィギュリンが相応しいのでは ?
ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイの銅版画 ?
1515年 アルブレヒト・デューラーの有名な木版画
1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。肩に実物にはない「デューラーのちび角」と呼ばれるものがある。
1583年 アブラハム・デ・ブルンの銅版画 デューラーを手本にしたのか「デューラーのちび角」がある。
1728年 マイセンを首になったキルヒナーは ワイマール公爵邸で石造彫刻師の職を得 性病も治ったのか 妻をめとりそれなりの幸せにあった。マイセンはキルヒナーの代わりに入れたリュッケも ものの役に立たず首にしており 困った工場査察官のラインハルトは まだましなキルヒナーを呼び戻そうと画策しました。造形の親方の地位を餌に復帰にこぎつけました。親方になってようやく作り上げたライオン エレファントやインドサイも実物を知らぬとはいえ 静的で精彩を欠いたもので滑稽でさえありました。
ライオン H53.3cm 1730
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インドサイ 1732年原作。2010年 復刻 H28cm。 アブラハム・デ・ブルンの銅版画を手本にしたので「デューラーのちび角」がある。
(2010年 落第生のキルヒナーをもてはやし 落第作のインドサイを鳴り物入りで復刻するに至っては 無知の露呈か はたまた売らんかなの商人根性か いずれにしろ偉大な3人のヨハンのマイセンを貶めるものです。7年間 書くべきか 書かざるべきか煩悶してきましたが 当店の周りでこのインドサイをつかまされた人が出るに及んで ついに意を決して公表するに及びました。)
キルヒナーにつづきリュッケもマイセン特別委員会が解雇通知するにいたり 不甲斐なさに立腹するアウグスト強襲王は 灯台下暗し 宝物庫「緑の丸天井」で 宮廷彫刻家の若い助手 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの仕事ぶりに マイセンの造形問題解決への閃きを 見出しました。1731年 アルブレヒト城に やってきたケンドラーは たちどころに 如何なく天分を発揮し 成功を収めていきました。王は 自らの先見の明を立証した この若者を 親方に任じ 寵遇しました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。
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