マイセン 【青い花・614701】 22.5cmプレート・28472 25%Off
マイセン 【青い花・614701】 22.5cmプレート・28472 22%Off
祝母の日フェア ( 本日~ 5/13) ラッキーセブン 7枚限定
通常20%Off 祝母の日フェア ( 本日~ 5/13) 22%Off
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べまして 8~10ヶ月後お渡しの予約店を一軒見つけましたが どうやら美しい旧作の新品在庫は お熟成アインにしかないのに お熟成アインは 美しい旧作の新品を 今作よりお安くしております。
マイセン社は制作を半分に抑えて プライスを大幅に上げております おいそれとは誰も手が出ないようです。
それではお熟成アインは 旧作の美品が何故 有って 何故 お安いのでしょう ? それは今を去る18年前 ある日本の大手スーパーさんからの注文らしいが 半年間待たされて まだ待てと言われて困っていた欧州大手マイセン代理店の依頼で 約250枚の在庫をお引き受けしたからです。多すぎましたが 大変美しいお品に感激して 20年お熟成してもよい覚悟で 思い切って購入しました。お陰で 今では如何ほど積んでもこれだけの美品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !
こだわりの 岡本 笥椎(ジュンスイ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
『青い花』は、ノヴァーリス(1772年 - 1801年 ドイツ・ロマン主義の詩人・小説家・思想家・鉱山技師。)の未完の小説。原題は『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』 詩人ハインリヒが夢の中で見た青い花に恋い焦がれ、その面影を求めて各地を遍歴し、その途上で様々な人に会って成長していく様を多くの詩を織り込みつつ描いている。本作は未完でありながらロマン派文学の代表作の一つとされ、以降青い花は思春期の若者が抱く理想の恋愛像の文学的象徴となった。
このとき青年がいやおうなしに惹きつけられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈の高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸びかがやく葉が青年の体にふれた。この花のまわりに、ありとあらゆる色彩の花々がいっぱい咲きみだれ、芳香があたりに満ちていた。青年は青い花に目を奪われ、しばらくいとおしげにじっと立っていたが、ついに花に顔を近づけようとした。すると花はつと動いたかとみると、姿を変えはじめた。葉が輝きをまして、ぐんぐん伸びる茎にぴたりとまつわりつくと、花は青年に向かって首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、中にほっそりとした顔がほのかにゆらいで見えた。この奇異な変身のさまにつれて、青年のここちよい驚きはいやが上にも高まっていった。
と突然、母の声がして目をさますと、すでに朝日で金色にそまったわが家にいる自分に気がついた。
ハインリヒは夢で見た青い花のことを忘れられなくなります。聖ヨハネ祭が終わると、自分の父に孫の顔を見せてやりたいという母親の長年の願いを叶えるため、アウクスブルクに旅立つことになりました。
ノヴァーリスは この 青い花 ヤグルマギクに 幻影を見たそうです。
マイセン 磁器街道 (詩人ハインリヒが旅立った)アウクスブルク
3人の天才ヨハン 2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い難く ベトガーや シュテルツェルやケラーらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。
(ベトガーが 持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウグスブルクのハウスマーレライ・無所属の絵付師らに 売り渡されておりました。マイセン社史では 贋作に手を貸す この不名誉な事は あえて触れられておりません。)
アウクスブルク 水路 こんな磁器街道だったのでしょうか?
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に1400゜Cもの高温の焼き付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
ヴェレンシュピール
ザビーネ・ワックス女史達が マイセン伝統の優雅さを
失う事無く 使っても楽しい「用の美」を求め 口縁に白い波を表現した 染付作品集です。
偉大なマンネリズムを 標榜し 伝統を受け継ぐ一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術
集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニッ
ト型が ここから生まれました。
1975年には 更に若い世代によるクンストラー・コレクティヴが立ち上げられ
ヴェレンシュピール型「波の戯れホワイト」や「青い花」を 生み出しております。
今作 色淡く 筆静かで 平面的。 土が違う。
マイセン 【青い花・614701】 22.5cmプレート・28472 22%Off のお求めはコチラ
二昔前の当店所蔵品 墨痕鮮やかに 躍動感あり 立体的
どの小さい写真もクリックで拡大
シェープ
マイセン 【 青 い 花・614701 】 祝母の日フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
3人の天才ヨハン-5
1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1817 緑色の染付顔料 酸化クロム発明
1827 グランツゴールド 金彩を完成 H・G・キューン
1833ごろから 銅版転写染付・印判手
1839 焼成燃料に 石炭
1852 虹色のシラー彩(ラスター) H・G・キューン
1853 蒸気機関 採用
1860~1865 新トリービッシュタール工場へ移転
18世紀、中国の泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。 これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
マイセン・翠の月(パテ・シュール・パテ)931689 磁板画95168 30%Off のお求めはコチラ
拡大写真
マイセン・翠の月931689 パテ・シュール・パテ 金箔額装磁板画 G・アーノルド作 当店所蔵
余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 商売人にあっては 名窯セーヴルのルイ・ソロンを引き合いに 誇大宣伝したいのでしょう。山高きが故に 貴からず。セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート, 17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレースです。
イギリス スリップウェア鳥文鉢 1769
最近ある同業者から「泥漿で絵を描き釉薬をかけた絵付けがルイソロンの発明ですよ」と言われましたが 間違っています。
未だに多くのパテシュールパテ ソロン党の方に 蒙昧な信仰から目を覚ましてもらいたい。
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿があります。泥漿と釉薬の組み合わせはイギリス スリップウェア鳥文鉢 1769年をご覧になればお判りの様に 1860年代のマリク・ルイ・ソロンの発明でも何でもありません。ただ彼の名誉のために言いますが 道半ばとはいえ 芸術への進歩 それが素晴らしいのです。
ルイ・ソロンの功績は本家英国陶器のスリップウェアをさておいて 新手法でもあるかの如く磁器世界ミントンにパテ・シュール・パテを持ち込みました。ご存知のようにミントンで花開き素晴らしい芸術への昇華を遂げるのです。その先鞭をつけた功績です。
ちなみに英国スリップウェアは 日本でも大いに賞賛されています。バーナード・リーチや富本憲吉は1913年に東京の丸善で購入したチャールズ・ロマックスの『古風な英国陶器』という本の中で、初めてスリップウェアの存在を知った。リーチと濱田庄司は1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰った。柳宗悦や河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えた。
(スリップと呼ばれる泥漿でもって筆で描いたり、スポイトから垂らす手法は日本の作陶における「筒描き」「いっちん盛り」と同じ手法であり、古くから日本の染色でも行われていた。)
ヘレンドでも 1860~1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛)を加飾しております。20世紀のリチャードジノリでも パールブルーにある 私命名の粉彩リングは 中国の泥彩由来のパテシュールパテの転写版です。粉彩は主に水泥(スリップ状磁土)を地に施したものです。 陶器などでは普通に行われていた自然釉期待の素焼をヒントにしたのか マイセンが 18世紀の中世を席捲したウェッジウッドのジャスバーに対抗して焼き締め陶器(ハードストーンウェア)に先祖返りしたのがビスク焼と呼んでいるものです。ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 パテ・シュール・パテ技法を習得し セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
中国泥彩象嵌鶴文水指 高さ18、8cm 白泥鉄絵緑彩松樹鶴文(遠景の山々は白泥)
セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺 1880年 ジュール・アンドレア作
初期のセーブル窯パテ・シュール・パテは 中国泥彩とあまり大差はありません。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-5」 詳しくは コチラをクリック してください。
1918 第1次世界大戦末期 ザクセン王国瓦解 マイセンは 国立窯に
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『青い花』は、ノヴァーリス(1772年 - 1801年 ドイツ・ロマン主義の詩人・小説家・思想家・鉱山技師。)の未完の小説。原題は『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』 詩人ハインリヒが夢の中で見た青い花に恋い焦がれ、その面影を求めて各地を遍歴し、その途上で様々な人に会って成長していく様を多くの詩を織り込みつつ描いている。本作は未完でありながらロマン派文学の代表作の一つとされ、以降青い花は思春期の若者が抱く理想の恋愛像の文学的象徴となった。
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ヴェレンシュピール
ザビーネ・ワックス女史達が マイセン伝統の優雅さを
失う事無く 使っても楽しい「用の美」を求め 口縁に白い波を表現した 染付作品集です。
偉大なマンネリズムを 標榜し 伝統を受け継ぐ一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術
集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニッ
ト型が ここから生まれました。
1975年には 更に若い世代によるクンストラー・コレクティヴが立ち上げられ
ヴェレンシュピール型「波の戯れホワイト」や「青い花」を 生み出しております。
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1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
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1817 緑色の染付顔料 酸化クロム発明
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1852 虹色のシラー彩(ラスター) H・G・キューン
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18世紀、中国の泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。 これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
マイセン・翠の月(パテ・シュール・パテ)931689 磁板画95168 30%Off のお求めはコチラ
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マイセン・翠の月931689 パテ・シュール・パテ 金箔額装磁板画 G・アーノルド作 当店所蔵
余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 商売人にあっては 名窯セーヴルのルイ・ソロンを引き合いに 誇大宣伝したいのでしょう。山高きが故に 貴からず。セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート, 17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレースです。
イギリス スリップウェア鳥文鉢 1769
最近ある同業者から「泥漿で絵を描き釉薬をかけた絵付けがルイソロンの発明ですよ」と言われましたが 間違っています。
未だに多くのパテシュールパテ ソロン党の方に 蒙昧な信仰から目を覚ましてもらいたい。
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿があります。泥漿と釉薬の組み合わせはイギリス スリップウェア鳥文鉢 1769年をご覧になればお判りの様に 1860年代のマリク・ルイ・ソロンの発明でも何でもありません。ただ彼の名誉のために言いますが 道半ばとはいえ 芸術への進歩 それが素晴らしいのです。
ルイ・ソロンの功績は本家英国陶器のスリップウェアをさておいて 新手法でもあるかの如く磁器世界ミントンにパテ・シュール・パテを持ち込みました。ご存知のようにミントンで花開き素晴らしい芸術への昇華を遂げるのです。その先鞭をつけた功績です。
ちなみに英国スリップウェアは 日本でも大いに賞賛されています。バーナード・リーチや富本憲吉は1913年に東京の丸善で購入したチャールズ・ロマックスの『古風な英国陶器』という本の中で、初めてスリップウェアの存在を知った。リーチと濱田庄司は1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰った。柳宗悦や河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えた。
(スリップと呼ばれる泥漿でもって筆で描いたり、スポイトから垂らす手法は日本の作陶における「筒描き」「いっちん盛り」と同じ手法であり、古くから日本の染色でも行われていた。)
ヘレンドでも 1860~1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛)を加飾しております。20世紀のリチャードジノリでも パールブルーにある 私命名の粉彩リングは 中国の泥彩由来のパテシュールパテの転写版です。粉彩は主に水泥(スリップ状磁土)を地に施したものです。 陶器などでは普通に行われていた自然釉期待の素焼をヒントにしたのか マイセンが 18世紀の中世を席捲したウェッジウッドのジャスバーに対抗して焼き締め陶器(ハードストーンウェア)に先祖返りしたのがビスク焼と呼んでいるものです。ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 パテ・シュール・パテ技法を習得し セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
中国泥彩象嵌鶴文水指 高さ18、8cm 白泥鉄絵緑彩松樹鶴文(遠景の山々は白泥)
セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺 1880年 ジュール・アンドレア作
初期のセーブル窯パテ・シュール・パテは 中国泥彩とあまり大差はありません。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-5」 詳しくは コチラをクリック してください。
1918 第1次世界大戦末期 ザクセン王国瓦解 マイセンは 国立窯に
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