マイセン 【四つ花(豪華なブーケ)・オダマキ080110】 ベース H14cm・50034 15%Off
マイセン 【四つ花(豪華なブーケ)・オダマキ080110】 ベース H14cm・50034 15%Off
祝パラリンピックフェア ( 本日~ 9/ 5) 1本限定
通常10%Off 祝パラリンピックフェア ( 本日~ 9/ 5) 15%Off
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが どうやら新品は お熟成アインにしか無く したがって一番安いようです。
マイセン社は制作を半分に抑えて プライスを大幅に上げております。なかなか誰も手が出ないようです。 苦労していれても 割引ができません。損を覚悟で10%Offがせいぜいです。
それではお熟成アインは 何故 一番安いのでしょう ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりしてさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今では如何ほど積んでもこれだけの美品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
フローラは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。
オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
また、フローラが 夫のユーピテルが 自分でミネルウァを産んだため 正妻としての面目を失った神々の女王ユーノーに 触れた女が 自然に子を身籠もる魔法の花を与え 戦士神マールスの誕生を助けたという説話も残されている。

フローラ ヘンリエッタ・レイ フェイク画
ヘンリエッタ・エマラトクリフ・レイ (1859年- 1928年) は ヴィクトリア朝 時代の著名な、英国人女性画家。

ヴィーナス・エントロンド(1902年) 本ものと比べてください。
まず書き出しは
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。 土佐日記 紀貫之(三十六歌仙の一人。女性に仮託)
男もすなる決闘といふものを、女もしてみむとてするなり。

「女性剣士の決闘」。
女性同士の決闘では、衣服が傷口に押し込まれることによる感染症を防ぐため、上半身を裸にしていました。ヴィクトリア朝時代には恋人や侮辱が原因で、名誉のために女性同士が決闘することがありました。(出版社)
残念ながらこれらは好事家が舞台仕立ての室内スタジオで演出・撮影した妄想ヤラセ写真であってファクトではないんだなあ。むしろ「ヴィクトリア朝時代の富裕層にこうしたヘンタイ写真趣味が流行った」と解釈しないと。(投稿者)
申し訳ございません。Pauline von MetternichとCountess Anastasia Kielmannseggが1892年に決闘した"emancipated duel"のことを本で読み真実かと勘違いいたしました。(出版社)
パウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人(洪)と伯爵夫人アナスタシア・ヘンドリコワ(露)を調べても二人が決闘したことを 正式な史書では確認できませんでした。(岡本)
とってつけたような話を訝しんで調べてみました。
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「女性剣士の決闘」。(今回更に詳しく調べていて この写真と上の白黒写真の背景が同じで 同じスタジオで写された見え見えのヤラセ写真です。)
これは好事家が舞台仕立ての室内スタジオで演出・撮影した妄想ヤラセ写真であって事実ではありません。写真の歴史からすると1800年代は黎明期で ここまでのヤラセをするとは考えられずもっと後代の遊びと思われます。(岡本)

ヴィクトリア朝 娼婦さん
性に関してことさら抑圧的であった ビクトリア朝期には、娼婦でさえここまでの露出は無く ピアノの足にまで ソックスをかぶせて不品行でないことを 強調する風俗すらみられた時代からも 矢張り後代のやらせでしょう。(岡本)
ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
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「ヒュラスと水のニンフ」 ヘンリエッタ・レイ (1909)
ヘンリエッタ・エマラトクリフ・レイ (1859年- 1928年) は ヴィクトリア朝 時代の著名な、英国人女性画家。
ギリシャ神話に登場する美少年ヒュラスは、金羊毛を求めてのアルゴ船の遠征にヘラクレスの侍童として加わりました。ある晩にミュラス島に上陸すると、彼は水差しを持って真水を汲みに行かされました。水浴していたナイアスたち(泉と川のニンフ)は、彼の美しさに魅せられ、彼を水中へと誘い込みます。こうして彼はそれっきり行方不明となってしまいました。
17世紀初頭の花卉画は、ブーケは花の集合体としての描き方で、ポートレートスタイル、平面的でしたが、次第に明暗法を取り入れ立体的になり、光と影の遠近効果が表れます。 その後は、さらにいくつかの花にスポットライトをあて、際立った陰影をつけるライティング効果で描きます。茎の曲げや向きなど、自由自在に思うようにつくりあげ(プラスチック効果)、更なる陰影で奥行きを深めて宇宙空間をも表現します。 デザインにエレガンスが加わり、花はたおやかに、動きはキャスケードにえがかれ、芸術的にリズミカルなアラベスク、18世紀には超現実主義な絵となりました。

ヤーコブ・ファン・ワルスカッペレ《石の花瓶に生けた花と果物》 1677年 シュテーデル美術館
オランダでこの時代に活躍した画家の一部は、マイセンで磁器の花の絵付けに携わることになります。
四つ花 という名称は マイセン社には ありません。 これは 日本代理店が 日本向けに マイセン社の 三種類のお花が描かれているシリーズで 価格帯の同じものを集めて 付けられた総称です。 一つ花 二つ花 三つ花 五つ花 六つ花 も 総て同趣旨の 日本向けのネーミングです。
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型
エンツゥイステッド・ハンドル
ピカピカの 新品です。
現品 即納
やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入りした ペインターの卵たちが
まず 最初に習うのがお花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
マイセン 【四つ花(豪華なブーケ)・オダマキ080110】 ベース H14cm・50034 15%Off のお求めはコチラ

どの小さい写真もクリックで拡大
反対面
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1727年 アウグスト強襲王は 磁器宮殿内の2階回廊に 磁器動物園を思い立ちました。さてそうなると ベテラン造形師が必要になります。当時マイセンには 絵付け師ヘロルトが シノワズリ ジャポネズリを確立し 権威をふるっておりました。造形は 絵付けの引き立て役程度に 抑えられておりました。そこで ヨハン・ゴットリーブ・キルヒナーやヨハン・クリストフ・リュッケなどの彫刻家を 招聘して 動物造形に挑ましたのですが 磁器の扱いは難しく 思うようにはいきませんでした。1728年 21歳の彫刻士キルヒナーの自信は 数ヶ月で造形士たちの侮辱の的と化した。嘲笑と不評化に耐えられなくなったキルヒナーは 売春宿通いで憂さを晴らすのですが悪いことに重い性病に侵されるのです。業を煮やしたマイセン特別委員会はキルヒナーを解雇決定しました。
公式サイト
「インドサイ」紀元80年、ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイ。その銅版画をもとに1732年、ヨハン・ゴットリープ・キルヒナーがマイセン磁器による大きなサイを作り上げました。2010年、マイセン磁器製作所はこの記念碑的作品を小さなサイズで発表しました。それはアルブレヒト・デューラーの有名な木版画の手本となり、1583年にはアブラハム・デ・ブルンが銅版画にしています。
とありますが間違いだらけ(デューラーの有名な木版画は1515年作で キルヒナーの1732年作の彫像を手本にできません。1583年作のブルンの銅版画も1732年作を手本にできません。ブルン作を手本にしたのはキルヒナーの方です。キルヒナーの優秀さを言いたい為に時系列を逆転してまで捏造するのは無知ゆえか もしくは故意なら悪辣です。)で 真実は以下になります。
MEISSENメモ(22):マイセン「動物彫像」のご紹介 | GKジャパン スタッフ 2015年6月23日
内容は公式サイトに同じ。以後何回か公式サイトや 引用による百貨店広告 発表
ついにマイセン代理店社員のブログに捏造の証拠を見つけました。
マイセン アニヴァーサリー・コレクション (12)|ト音痴記号のブログ 2010-02-07
インドサイが初めてヨーロッパに来たのは紀元80年。皇帝ティトスが連れてきて、ローマのコロセウムで大評判となりました。
二度目は、1515年。リサボンにもたらされたサイの姿は、そこの田舎芸術家によって木版画にされ、それを見たアルブレヒト・デューラーがエッチングを製作。本物見ずの想像はふくらみ、のちに「デューラーのちび角」と呼ばれる小さな角が背中についています。
この有名なエッチングは幾度もコピーされ、さらにドゥ・ブリュン(de Bryn)の銅版画(1583年)を元に、キルヒナー(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)が1732年、磁器でサイの大きなフィギュアを製作。以来マイセン工房に保管されていますが、300周年を記念して、縮小版で登場です!(原文のまま)
(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)の件以外はほぼ正解です。この一文を先に公表している以上 誇大広告の捏造を知らぬとは言えません。
日本においては小さな人形の類がフィギュアと呼ばれている。この場合 フィギュリンが相応しいのでは ?
ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイの銅版画 ?
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1515年 アルブレヒト・デューラーの有名な木版画
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1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。肩に実物にはない「デューラーのちび角」と呼ばれるものがある。
1583年 アブラハム・デ・ブルンの銅版画 デューラーを手本にしたのか「デューラーのちび角」がある。

1728年 マイセンを首になったキルヒナーは ワイマール公爵邸で石造彫刻師の職を得 性病も治ったのか 妻をめとりそれなりの幸せにあった。マイセンはキルヒナーの代わりに入れたリュッケも ものの役に立たず首にしており 困った工場査察官のラインハルトは まだましなキルヒナーを呼び戻そうと画策しました。造形の親方の地位を餌に復帰にこぎつけました。親方になってようやく作り上げたライオン エレファントやインドサイも実物を知らぬとはいえ 静的で精彩を欠いたもので滑稽でさえありました。
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ライオン H53.3cm 1730
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エレファント H61cm 1731 実物を見てないとはいえ どちらも人の顔
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インドサイ 1732年原作。2010年 復刻 H28cm。 アブラハム・デ・ブルンの銅版画を手本にしたので「デューラーのちび角」がある。
(2010年 落第生のキルヒナーをもてはやし 落第作のインドサイを鳴り物入りで復刻するに至っては 無知の露呈か はたまた売らんかなの商人根性か いずれにしろ偉大な3人のヨハンのマイセンを貶めるものです。7年間 書くべきか 書かざるべきか煩悶してきましたが 当店の周りでこのインドサイをつかまされた人が出るに及んで ついに意を決して公表するに及びました。)
キルヒナーにつづきリュッケもマイセン特別委員会が解雇通知するにいたり 不甲斐なさに立腹するアウグスト強襲王は 灯台下暗し 宝物庫「緑の丸天井」で 宮廷彫刻家の若い助手 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの仕事ぶりに マイセンの造形問題解決への閃きを 見出しました。1731年 アルブレヒト城に やってきたケンドラーは たちどころに 如何なく天分を発揮し 成功を収めていきました。王は 自らの先見の明を立証した この若者を 親方に任じ 寵遇しました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。
格下の親方であったケンドラーが 次々に成功をおさめ 王の覚え芽出度いうえ 給料が少なかったことに憤慨して キルヒナーは1733年 自らマイセンを去りました。ケンドラーに満足するマイセンからは体の良い厄介払いと 慰留の声もかかりませんでした。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-3」 詳しくは コチラをクリック してください。
マイセン 【フィギュリン】 天球上の穢れ無きマリア・72075 H44cm 30%Off のお求めはコチラ

天球上の穢れ無きマリア H44cm
これがキルヒナーのインドサイと同値(\3.780.000)と聞けば どう思いますか ?
祝パラリンピックフェア ( 本日~ 9/ 5) 1本限定
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フローラは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。
オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
また、フローラが 夫のユーピテルが 自分でミネルウァを産んだため 正妻としての面目を失った神々の女王ユーノーに 触れた女が 自然に子を身籠もる魔法の花を与え 戦士神マールスの誕生を助けたという説話も残されている。
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フローラ ヘンリエッタ・レイ フェイク画
ヘンリエッタ・エマラトクリフ・レイ (1859年- 1928年) は ヴィクトリア朝 時代の著名な、英国人女性画家。
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ヴィーナス・エントロンド(1902年) 本ものと比べてください。
まず書き出しは
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。 土佐日記 紀貫之(三十六歌仙の一人。女性に仮託)
男もすなる決闘といふものを、女もしてみむとてするなり。
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「女性剣士の決闘」。
女性同士の決闘では、衣服が傷口に押し込まれることによる感染症を防ぐため、上半身を裸にしていました。ヴィクトリア朝時代には恋人や侮辱が原因で、名誉のために女性同士が決闘することがありました。(出版社)
残念ながらこれらは好事家が舞台仕立ての室内スタジオで演出・撮影した妄想ヤラセ写真であってファクトではないんだなあ。むしろ「ヴィクトリア朝時代の富裕層にこうしたヘンタイ写真趣味が流行った」と解釈しないと。(投稿者)
申し訳ございません。Pauline von MetternichとCountess Anastasia Kielmannseggが1892年に決闘した"emancipated duel"のことを本で読み真実かと勘違いいたしました。(出版社)
パウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人(洪)と伯爵夫人アナスタシア・ヘンドリコワ(露)を調べても二人が決闘したことを 正式な史書では確認できませんでした。(岡本)
とってつけたような話を訝しんで調べてみました。
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「女性剣士の決闘」。(今回更に詳しく調べていて この写真と上の白黒写真の背景が同じで 同じスタジオで写された見え見えのヤラセ写真です。)
これは好事家が舞台仕立ての室内スタジオで演出・撮影した妄想ヤラセ写真であって事実ではありません。写真の歴史からすると1800年代は黎明期で ここまでのヤラセをするとは考えられずもっと後代の遊びと思われます。(岡本)
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ヴィクトリア朝 娼婦さん
性に関してことさら抑圧的であった ビクトリア朝期には、娼婦でさえここまでの露出は無く ピアノの足にまで ソックスをかぶせて不品行でないことを 強調する風俗すらみられた時代からも 矢張り後代のやらせでしょう。(岡本)
ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
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「ヒュラスと水のニンフ」 ヘンリエッタ・レイ (1909)
ヘンリエッタ・エマラトクリフ・レイ (1859年- 1928年) は ヴィクトリア朝 時代の著名な、英国人女性画家。
ギリシャ神話に登場する美少年ヒュラスは、金羊毛を求めてのアルゴ船の遠征にヘラクレスの侍童として加わりました。ある晩にミュラス島に上陸すると、彼は水差しを持って真水を汲みに行かされました。水浴していたナイアスたち(泉と川のニンフ)は、彼の美しさに魅せられ、彼を水中へと誘い込みます。こうして彼はそれっきり行方不明となってしまいました。
17世紀初頭の花卉画は、ブーケは花の集合体としての描き方で、ポートレートスタイル、平面的でしたが、次第に明暗法を取り入れ立体的になり、光と影の遠近効果が表れます。 その後は、さらにいくつかの花にスポットライトをあて、際立った陰影をつけるライティング効果で描きます。茎の曲げや向きなど、自由自在に思うようにつくりあげ(プラスチック効果)、更なる陰影で奥行きを深めて宇宙空間をも表現します。 デザインにエレガンスが加わり、花はたおやかに、動きはキャスケードにえがかれ、芸術的にリズミカルなアラベスク、18世紀には超現実主義な絵となりました。
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ヤーコブ・ファン・ワルスカッペレ《石の花瓶に生けた花と果物》 1677年 シュテーデル美術館
オランダでこの時代に活躍した画家の一部は、マイセンで磁器の花の絵付けに携わることになります。
四つ花 という名称は マイセン社には ありません。 これは 日本代理店が 日本向けに マイセン社の 三種類のお花が描かれているシリーズで 価格帯の同じものを集めて 付けられた総称です。 一つ花 二つ花 三つ花 五つ花 六つ花 も 総て同趣旨の 日本向けのネーミングです。
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型
エンツゥイステッド・ハンドル
ピカピカの 新品です。
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やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入りした ペインターの卵たちが
まず 最初に習うのがお花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
マイセン 【四つ花(豪華なブーケ)・オダマキ080110】 ベース H14cm・50034 15%Off のお求めはコチラ
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反対面
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1727年 アウグスト強襲王は 磁器宮殿内の2階回廊に 磁器動物園を思い立ちました。さてそうなると ベテラン造形師が必要になります。当時マイセンには 絵付け師ヘロルトが シノワズリ ジャポネズリを確立し 権威をふるっておりました。造形は 絵付けの引き立て役程度に 抑えられておりました。そこで ヨハン・ゴットリーブ・キルヒナーやヨハン・クリストフ・リュッケなどの彫刻家を 招聘して 動物造形に挑ましたのですが 磁器の扱いは難しく 思うようにはいきませんでした。1728年 21歳の彫刻士キルヒナーの自信は 数ヶ月で造形士たちの侮辱の的と化した。嘲笑と不評化に耐えられなくなったキルヒナーは 売春宿通いで憂さを晴らすのですが悪いことに重い性病に侵されるのです。業を煮やしたマイセン特別委員会はキルヒナーを解雇決定しました。
公式サイト
「インドサイ」紀元80年、ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイ。その銅版画をもとに1732年、ヨハン・ゴットリープ・キルヒナーがマイセン磁器による大きなサイを作り上げました。2010年、マイセン磁器製作所はこの記念碑的作品を小さなサイズで発表しました。それはアルブレヒト・デューラーの有名な木版画の手本となり、1583年にはアブラハム・デ・ブルンが銅版画にしています。
とありますが間違いだらけ(デューラーの有名な木版画は1515年作で キルヒナーの1732年作の彫像を手本にできません。1583年作のブルンの銅版画も1732年作を手本にできません。ブルン作を手本にしたのはキルヒナーの方です。キルヒナーの優秀さを言いたい為に時系列を逆転してまで捏造するのは無知ゆえか もしくは故意なら悪辣です。)で 真実は以下になります。
MEISSENメモ(22):マイセン「動物彫像」のご紹介 | GKジャパン スタッフ 2015年6月23日
内容は公式サイトに同じ。以後何回か公式サイトや 引用による百貨店広告 発表
ついにマイセン代理店社員のブログに捏造の証拠を見つけました。
マイセン アニヴァーサリー・コレクション (12)|ト音痴記号のブログ 2010-02-07
インドサイが初めてヨーロッパに来たのは紀元80年。皇帝ティトスが連れてきて、ローマのコロセウムで大評判となりました。
二度目は、1515年。リサボンにもたらされたサイの姿は、そこの田舎芸術家によって木版画にされ、それを見たアルブレヒト・デューラーがエッチングを製作。本物見ずの想像はふくらみ、のちに「デューラーのちび角」と呼ばれる小さな角が背中についています。
この有名なエッチングは幾度もコピーされ、さらにドゥ・ブリュン(de Bryn)の銅版画(1583年)を元に、キルヒナー(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)が1732年、磁器でサイの大きなフィギュアを製作。以来マイセン工房に保管されていますが、300周年を記念して、縮小版で登場です!(原文のまま)
(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)の件以外はほぼ正解です。この一文を先に公表している以上 誇大広告の捏造を知らぬとは言えません。
日本においては小さな人形の類がフィギュアと呼ばれている。この場合 フィギュリンが相応しいのでは ?
ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイの銅版画 ?
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1515年 アルブレヒト・デューラーの有名な木版画
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1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。肩に実物にはない「デューラーのちび角」と呼ばれるものがある。
1583年 アブラハム・デ・ブルンの銅版画 デューラーを手本にしたのか「デューラーのちび角」がある。
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1728年 マイセンを首になったキルヒナーは ワイマール公爵邸で石造彫刻師の職を得 性病も治ったのか 妻をめとりそれなりの幸せにあった。マイセンはキルヒナーの代わりに入れたリュッケも ものの役に立たず首にしており 困った工場査察官のラインハルトは まだましなキルヒナーを呼び戻そうと画策しました。造形の親方の地位を餌に復帰にこぎつけました。親方になってようやく作り上げたライオン エレファントやインドサイも実物を知らぬとはいえ 静的で精彩を欠いたもので滑稽でさえありました。
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ライオン H53.3cm 1730
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エレファント H61cm 1731 実物を見てないとはいえ どちらも人の顔
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インドサイ 1732年原作。2010年 復刻 H28cm。 アブラハム・デ・ブルンの銅版画を手本にしたので「デューラーのちび角」がある。
(2010年 落第生のキルヒナーをもてはやし 落第作のインドサイを鳴り物入りで復刻するに至っては 無知の露呈か はたまた売らんかなの商人根性か いずれにしろ偉大な3人のヨハンのマイセンを貶めるものです。7年間 書くべきか 書かざるべきか煩悶してきましたが 当店の周りでこのインドサイをつかまされた人が出るに及んで ついに意を決して公表するに及びました。)
キルヒナーにつづきリュッケもマイセン特別委員会が解雇通知するにいたり 不甲斐なさに立腹するアウグスト強襲王は 灯台下暗し 宝物庫「緑の丸天井」で 宮廷彫刻家の若い助手 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの仕事ぶりに マイセンの造形問題解決への閃きを 見出しました。1731年 アルブレヒト城に やってきたケンドラーは たちどころに 如何なく天分を発揮し 成功を収めていきました。王は 自らの先見の明を立証した この若者を 親方に任じ 寵遇しました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。
格下の親方であったケンドラーが 次々に成功をおさめ 王の覚え芽出度いうえ 給料が少なかったことに憤慨して キルヒナーは1733年 自らマイセンを去りました。ケンドラーに満足するマイセンからは体の良い厄介払いと 慰留の声もかかりませんでした。
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天球上の穢れ無きマリア H44cm
これがキルヒナーのインドサイと同値(\3.780.000)と聞けば どう思いますか ?
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