マイセン 【アフロディテ・ヴィーナス誕生・826901】 19cmプレート・23501 40%Off
マイセン 【アフロディテ・ヴィーナス誕生・826901】 19cmプレート・23501 40%Off
ホワイトデーフェア (本日~ 3/14) 末広がり 八枚限定
通常35%オフ ホワイトデーフェア (本日~ 3/14) 40%Off
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが どうやら新品は お熟成アインにしか無く したがって一番安いようです。
マイセン社は制作を半分に抑えて プライスを大幅に上げております。なかなか誰も手が出ないようです。 苦労していれても 割引ができません。損を覚悟で10%ffがせいぜいです。
それではお熟成アインは 何故 一番安いのでしょう ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりしてさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今では如何ほど積んでもこれだけの美品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
ミロのヴィーナスは 波間の泡からとか 海の貝から 産まれたと伝えられております。
『ヴィーナスの誕生』 アレクサンドル・カバネル(1863年)
アレクサンドル・カバネル(1823年 - 1889年)は、フランスの画家。
アカデミックなスタイルで、歴史、古典、宗教をテーマに絵を描いた。肖像画家としても有名だったカバネルは アール・ポンピエの典型であり、フランス皇帝ナポレオン3世のお気に入りの画家だった。
カバネルとウィリアム・アドルフ・ブグローが印象派画家エドゥアール・マネなどの絵のサロンでの展示を拒否したことが、1863年の落選展の騒動を招いた。
絵画界のスキャンダル
マネは、1863年のサロンに応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念したナポレオン3世が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する落選展を開催することを命じた。マネの『水浴』(後に『草上の昼食』と改題)等も落選展に展示された。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛されたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。
成功したアカデミック画家として、カバネルが1863年に描いた『ヴィーナスの誕生』は、19世紀のアカデミック絵画で最もよく知られている絵である。この絵はナポレオン3世が購入した。印象派とは表現も思想も正反対のところにある、この絵画は、印象派の殿堂ともいえるオルセー美術館に所蔵されている。オルセーでは、印象派やポスト印象派など19世紀末パリの前衛芸術のコレクションが世界的に有名だが、19世紀の主流派美術で後に忘却されたアカデミズム絵画(アール・ポンピエ)を多数収蔵・展覧し、その再評価につなげていることもこの美術館の重要な活動の側面である。
オスマントルコ帝国のミロス島で発掘された ミロのヴィーナスは ギリシア神話におけるアフロディテの像と考えられている。この像は ブルボン王朝のルイ18世に贈られ 後にルーヴル美術館に収められ 今に至っております。この門外不出の国宝が 後にも先にも たったの1度 東京(国立西洋美術館)と京都(京都市美術館)で 特別展示されております。人口に膾炙する話ですが 歌舞伎役者 十五代市村羽左衛門が ルーヴルで ミロのヴィーナス像を前に 感想を聞かれた際 「手の切れた女に 用はない」と述べたのを さすがは洒脱な人柄と 持て囃されたそうですが 何のことはない 美術的批評に窮し 手の切れた女=別れた女と掛けた ただの駄洒落だったのでしょう。
ミロのヴィーナスは ギリシア神話におけるアフロディテの像と考えられている。さて昔から ヴィーナスの手の行く先が 色々取りざたされてきましたが ほぼ定説は トロイア戦争の際、アテーナーとヘーラーを出し抜いて パリスから得た黄金の林檎を持っていたのだろうとされております。
フルトヴェングラー 両腕復元像 『ヴィーナス誕生』(1879年)W・ブーグロー オルセー美術館蔵
さて昔から ヴィーナスの手の行く先が 色々取りざたされてきましたが ほぼ定説は トロイア戦争の際、アテーナーとヘーラーを出し抜いて パリスから得た黄金の林檎を持っていたのだろうとされております。
南オランダの画家フランス・ハルスの1550年頃の作品『パリスの審判』
パリスの審判は、ギリシア神話の一挿話で、トロイア戦争の発端とされる事件である。
イリオス(トロイア)王プリアモスの息子パリス(アレクサンドロス)が、神々の女王ヘーラー・知恵の女神アテーナー・愛と美の女神アプロディーテー(ローマ神話においては、ユーノー・ミネルウァ・ウェヌス)という天界での抜群の三美神のうちで誰が最も美しいかを判定させられた。この時、女神たちは様々な賄賂による約束をしてパリスを買収しようとした。ヘーラーは「アシアの君主の座」、アテーナーは「戦いにおける勝利」を与えることを申し出た。しかし、結局「最も美しい女を与える」としたアプロディーテーが勝ちを得た。「最も美しい女」とはすでにスパルタ王メネラーオスの妻となっていたヘレネーのことで、これがイリオス攻め(トロイア戦争)の原因となった。神々の肩入れは ギリシア側にはポセイドン、そして3女神の争いでパリスに選ばれなかったヘーラーとアテーナー トロイア側にはアフロディーテ、アポロン、アルテミス、アレス。
パリスは、戦いの途中に死んでしまいます。すると今度はパリスの弟たちがヘレネを争うのです
遂に、ギリシア側のオヂュッセウスの知恵でトロイの木馬が登場します。
カサンドラはこのことも予言したのに・・・やはり誰も信じなかったのです。
なお古い伝承ではパリスがアプロディーテーの加護の下に置かれ、ヘレネーが連れ去られたとするが、後にゼウスの娘であるヘレネーは半神とみなされ、不敬を避けるためパリスが略奪したのは、ヘレネーに似せて作られた雲で出来た像であったとする説ができた。
カサンドラ
プリアモス王とヘカベーとの間に生まれた。長兄にイーリオスの英雄ヘクトール、兄に「パリスの審判」で知られイーリオスに戦乱(ひいては滅亡)をもたらしたパリスを持つ(ヘレネの次、つまり世界で二番目に美しい女)。同じく予言能力を持つヘレノスとは双子だという。
アポローンに愛され、アポローンの恋人になる代わりに予言能力を授かった。しかし予言の力を授かった瞬間、アポローンの愛が冷めて自分を捨て去ってゆく未来が見えてしまったため、アポローンの愛を拒絶してしまう。憤慨したアポローンは、「カッサンドラーの予言を誰も信じないように」という呪いをかけてしまった。カッサンドラーは、パリスがヘレネーをさらってきたときも、トロイアの木馬をイリオス市民が市内に運び込もうとしたときも、これらが破滅につながることを予言して抗議したが、誰も信じなかった。
イーリオス陥落の際、小アイアースにアテーナーの神殿において凌辱された。
アテーナーの像の前のカサンドラを凌辱するアイアース
小アイアースは、これによってアテーナーの怒りを買い、ギリシアへの航海の途中で溺死させられた。カッサンドラーはアガメムノーンの戦利品となり、ミュケーナイにつれてゆかれた。そして、アガメムノーンと共に、アガメムノーンの妻クリュタイムネーストラーの手にかかり、命を落とした。
これにちなんで、イタリア語では日常の会話で「カッサンドラー」で「不吉、破局」といった意味を持たせて使う。(カサンドラ症候群)
ギリシア神話のアフロディテは ウゥルカーヌスの妻ですが、性に大らかな時代 マールス、メルクリウス、アドーニス、アンキセスたちとも浮名を流していました。このうちのアンキセスとの間の子アイネイアースは ローマ建国の祖にして、ガイウス・ユリウス・カエサルの属するユリウス氏族の祖とされた。ここからカエサルは ヴィーナスを祖神として、彼女を祀る為の壮麗な神殿を奉献したという。 また、カエサルの祖神として 軍神ともされました。
アンキーセースは、ギリシア神話の人物である。
トロイア王イーロスの娘の子。愛と美の女神アプロディーテーに愛されたことで知られ、アイネイアースをもうけた。
アプロディーテーとの恋
ブーシェの「アイネイアス(アイネイアース)のために造った武器をウェヌスへ贈るウルカヌス」
フランソワ・ブーシェ(1703年 - 1770年)は、ロココを代表するフランスの画家。
神話によれば、ゼウスはアプロディーテーが余りにも好色なので人間アンキーセースへの恋を吹き込んだ。
アプロディーテーはイーデー山で暮らすアンキーセースを見て恋の虜になった。そこでアプロディーテーはキュプロスに帰って身なりを整え、再びアンキーセースを訪ねた。アンキーセースはアプロディーテーを見て、あまりの美しさに女神ではないかと疑った。しかしアプロディーテーは神の姿を隠し、プリュギア王オトレウスの娘であると偽り、ヘルメース神がアンキーセースの妻とするために自分をさらって連れて来たと言った。アンキーセースは愛欲に逆らえず、アプロディーテーと一夜をともにした。
翌朝、アプロディーテーは神の姿に戻り、アンキーセースを起したが、目覚めたアンキーセースはその姿を見てすっかりおびえてしまった。彼は女神と交わった男は精を失うと信じていたので、精を失った身体で生き続けることがないよう懇願した。アプロディーテーはアンキーセースをなだめ、彼の子(後のローマ建国の祖アイネイアース)を身ごもったこと、その子を5年間ニュムペーに育てさせた後に連れてくること、そしてアプロディーテーに子供を生ませたことをみだりに話すと怒ったゼウスが雷を投げつけるだろうことを伝えて去っていった。
ハインツ・ヴェルナー教授原作 2000年限定受注
発表時の作品に グリーンの挿し色なし 珍品中の珍品
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で
14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温の焼き
付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なもので
した。
(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ
当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む
フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いの
ですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床に
あったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
呉須の中国での発明後
5世紀を経た 1817年 緑色の染付顔料を 世界に先駆けて マイセンが発明
アフロディテ・ヴィーナス誕生 青と緑の染付作品 #8 826901・23633
グロッサー・アウシュニット型
偉大なマンネリズムを 標榜する一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニット型に ハインツ・ヴェルナー教授 絵付けによる「アフロディテ」「アラビアンナイト1001夜」「ブルーオーキッド」等のヒット作が ここから生まれました。
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シェープ
マイセン 【 アフロディテ・ヴィーナス誕生・826901 】 ホワイトデーフェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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岡本 笥椎
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1727年 アウグスト強襲王は 磁器宮殿内の2階回廊に 磁器動物園を思い立ちました。さてそうなると ベテラン造形師が必要になります。当時マイセンには 絵付け師ヘロルトが シノワズリ ジャポネズリを確立し 権威をふるっておりました。造形は 絵付けの引き立て役程度に 抑えられておりました。そこで ヨハン・ゴットリーブ・キルヒナーやヨハン・クリストフ・リュッケなどの彫刻家を 招聘して 動物造形に挑ましたのですが 磁器の扱いは難しく 思うようにはいきませんでした。1728年 21歳の彫刻士キルヒナーの自信は 数ヶ月で造形士たちの侮辱の的と化した。嘲笑と不評化に耐えられなくなったキルヒナーは 売春宿通いで憂さを晴らすのですが悪いことに重い性病に侵されるのです。業を煮やしたマイセン特別委員会はキルヒナーを解雇決定しました。
公式サイト
「インドサイ」紀元80年、ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイ。その銅版画をもとに1732年、ヨハン・ゴットリープ・キルヒナーがマイセン磁器による大きなサイを作り上げました。2010年、マイセン磁器製作所はこの記念碑的作品を小さなサイズで発表しました。それはアルブレヒト・デューラーの有名な木版画の手本となり、1583年にはアブラハム・デ・ブルンが銅版画にしています。
とありますが間違いだらけ(デューラーの有名な木版画は1515年作で キルヒナーの1732年作の彫像を手本にできません。1583年作のブルンの銅版画も1732年作を手本にできません。ブルン作を手本にしたのはキルヒナーの方です。キルヒナーの優秀さを言いたい為に時系列を逆転してまで捏造するのは無知ゆえか もしくは故意なら悪辣です。)で 真実は以下になります。
MEISSENメモ(22):マイセン「動物彫像」のご紹介 | GKジャパン スタッフ 2015年6月23日
内容は公式サイトに同じ。以後何回か公式サイトや 引用による百貨店広告 発表
ついにマイセン代理店社員のブログに捏造の証拠を見つけました。
マイセン アニヴァーサリー・コレクション (12)|ト音痴記号のブログ 2010-02-07
インドサイが初めてヨーロッパに来たのは紀元80年。皇帝ティトスが連れてきて、ローマのコロセウムで大評判となりました。
二度目は、1515年。リサボンにもたらされたサイの姿は、そこの田舎芸術家によって木版画にされ、それを見たアルブレヒト・デューラーがエッチングを製作。本物見ずの想像はふくらみ、のちに「デューラーのちび角」と呼ばれる小さな角が背中についています。
この有名なエッチングは幾度もコピーされ、さらにドゥ・ブリュン(de Bryn)の銅版画(1583年)を元に、キルヒナー(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)が1732年、磁器でサイの大きなフィギュアを製作。以来マイセン工房に保管されていますが、300周年を記念して、縮小版で登場です!(原文のまま)
(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)の件以外はほぼ正解です。この一文を先に公表している以上 誇大広告の捏造を知らぬとは言えません。
日本においては小さな人形の類がフィギュアと呼ばれている。この場合 フィギュリンが相応しいのでは ?
ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイの銅版画 ?
1515年 アルブレヒト・デューラーの有名な木版画
1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。肩に実物にはない「デューラーのちび角」と呼ばれるものがある。
1583年 アブラハム・デ・ブルンの銅版画 デューラーを手本にしたのか「デューラーのちび角」がある。
1728年 マイセンを首になったキルヒナーは ワイマール公爵邸で石造彫刻師の職を得 性病も治ったのか 妻をめとりそれなりの幸せにあった。マイセンはキルヒナーの代わりに入れたリュッケも ものの役に立たず首にしており 困った工場査察官のラインハルトは まだましなキルヒナーを呼び戻そうと画策しました。造形の親方の地位を餌に復帰にこぎつけました。親方になってようやく作り上げたライオン エレファントやインドサイも実物を知らぬとはいえ 静的で精彩を欠いたもので滑稽でさえありました。
ライオン H53.3cm 1730
エレファント H61cm 1731 実物を見てないとはいえ どちらも人の顔
インドサイ 1732年原作。2010年 復刻 H28cm。 アブラハム・デ・ブルンの銅版画を手本にしたので「デューラーのちび角」がある。
(2010年 落第生のキルヒナーをもてはやし 落第作のインドサイを鳴り物入りで復刻するに至っては 無知の露呈か はたまた売らんかなの商人根性か いずれにしろ偉大な3人のヨハンのマイセンを貶めるものです。7年間 書くべきか 書かざるべきか煩悶してきましたが 当店の周りでこのインドサイをつかまされた人が出るに及んで ついに意を決して公表するに及びました。)
キルヒナーにつづきリュッケもマイセン特別委員会が解雇通知するにいたり 不甲斐なさに立腹するアウグスト強襲王は 灯台下暗し 宝物庫「緑の丸天井」で 宮廷彫刻家の若い助手 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの仕事ぶりに マイセンの造形問題解決への閃きを 見出しました。1731年 アルブレヒト城に やってきたケンドラーは たちどころに 如何なく天分を発揮し 成功を収めていきました。王は 自らの先見の明を立証した この若者を 親方に任じ 寵遇しました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。
格下の親方であったケンドラーが 次々に成功をおさめ 王の覚え芽出度いうえ 給料が少なかったことに憤慨して キルヒナーは1733年 自らマイセンを去りました。ケンドラーに満足するマイセンからは体の良い厄介払いと 慰留の声もかかりませんでした。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-3」 詳しくは コチラをクリック してください。
マイセン 【フィギュリン】 天球上の穢れ無きマリア・72075 H44cm 30%Off のお求めはコチラ
天球上の穢れ無きマリア H44cm
これがキルヒナーのインドサイと同値(\3.780.000)と聞けば どう思いますか ?
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ミロのヴィーナスは 波間の泡からとか 海の貝から 産まれたと伝えられております。
『ヴィーナスの誕生』 アレクサンドル・カバネル(1863年)
アレクサンドル・カバネル(1823年 - 1889年)は、フランスの画家。
アカデミックなスタイルで、歴史、古典、宗教をテーマに絵を描いた。肖像画家としても有名だったカバネルは アール・ポンピエの典型であり、フランス皇帝ナポレオン3世のお気に入りの画家だった。
カバネルとウィリアム・アドルフ・ブグローが印象派画家エドゥアール・マネなどの絵のサロンでの展示を拒否したことが、1863年の落選展の騒動を招いた。
絵画界のスキャンダル
マネは、1863年のサロンに応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念したナポレオン3世が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する落選展を開催することを命じた。マネの『水浴』(後に『草上の昼食』と改題)等も落選展に展示された。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛されたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。
成功したアカデミック画家として、カバネルが1863年に描いた『ヴィーナスの誕生』は、19世紀のアカデミック絵画で最もよく知られている絵である。この絵はナポレオン3世が購入した。印象派とは表現も思想も正反対のところにある、この絵画は、印象派の殿堂ともいえるオルセー美術館に所蔵されている。オルセーでは、印象派やポスト印象派など19世紀末パリの前衛芸術のコレクションが世界的に有名だが、19世紀の主流派美術で後に忘却されたアカデミズム絵画(アール・ポンピエ)を多数収蔵・展覧し、その再評価につなげていることもこの美術館の重要な活動の側面である。
オスマントルコ帝国のミロス島で発掘された ミロのヴィーナスは ギリシア神話におけるアフロディテの像と考えられている。この像は ブルボン王朝のルイ18世に贈られ 後にルーヴル美術館に収められ 今に至っております。この門外不出の国宝が 後にも先にも たったの1度 東京(国立西洋美術館)と京都(京都市美術館)で 特別展示されております。人口に膾炙する話ですが 歌舞伎役者 十五代市村羽左衛門が ルーヴルで ミロのヴィーナス像を前に 感想を聞かれた際 「手の切れた女に 用はない」と述べたのを さすがは洒脱な人柄と 持て囃されたそうですが 何のことはない 美術的批評に窮し 手の切れた女=別れた女と掛けた ただの駄洒落だったのでしょう。
ミロのヴィーナスは ギリシア神話におけるアフロディテの像と考えられている。さて昔から ヴィーナスの手の行く先が 色々取りざたされてきましたが ほぼ定説は トロイア戦争の際、アテーナーとヘーラーを出し抜いて パリスから得た黄金の林檎を持っていたのだろうとされております。
フルトヴェングラー 両腕復元像 『ヴィーナス誕生』(1879年)W・ブーグロー オルセー美術館蔵
さて昔から ヴィーナスの手の行く先が 色々取りざたされてきましたが ほぼ定説は トロイア戦争の際、アテーナーとヘーラーを出し抜いて パリスから得た黄金の林檎を持っていたのだろうとされております。
南オランダの画家フランス・ハルスの1550年頃の作品『パリスの審判』
パリスの審判は、ギリシア神話の一挿話で、トロイア戦争の発端とされる事件である。
イリオス(トロイア)王プリアモスの息子パリス(アレクサンドロス)が、神々の女王ヘーラー・知恵の女神アテーナー・愛と美の女神アプロディーテー(ローマ神話においては、ユーノー・ミネルウァ・ウェヌス)という天界での抜群の三美神のうちで誰が最も美しいかを判定させられた。この時、女神たちは様々な賄賂による約束をしてパリスを買収しようとした。ヘーラーは「アシアの君主の座」、アテーナーは「戦いにおける勝利」を与えることを申し出た。しかし、結局「最も美しい女を与える」としたアプロディーテーが勝ちを得た。「最も美しい女」とはすでにスパルタ王メネラーオスの妻となっていたヘレネーのことで、これがイリオス攻め(トロイア戦争)の原因となった。神々の肩入れは ギリシア側にはポセイドン、そして3女神の争いでパリスに選ばれなかったヘーラーとアテーナー トロイア側にはアフロディーテ、アポロン、アルテミス、アレス。
パリスは、戦いの途中に死んでしまいます。すると今度はパリスの弟たちがヘレネを争うのです
遂に、ギリシア側のオヂュッセウスの知恵でトロイの木馬が登場します。
カサンドラはこのことも予言したのに・・・やはり誰も信じなかったのです。
なお古い伝承ではパリスがアプロディーテーの加護の下に置かれ、ヘレネーが連れ去られたとするが、後にゼウスの娘であるヘレネーは半神とみなされ、不敬を避けるためパリスが略奪したのは、ヘレネーに似せて作られた雲で出来た像であったとする説ができた。
カサンドラ
プリアモス王とヘカベーとの間に生まれた。長兄にイーリオスの英雄ヘクトール、兄に「パリスの審判」で知られイーリオスに戦乱(ひいては滅亡)をもたらしたパリスを持つ(ヘレネの次、つまり世界で二番目に美しい女)。同じく予言能力を持つヘレノスとは双子だという。
アポローンに愛され、アポローンの恋人になる代わりに予言能力を授かった。しかし予言の力を授かった瞬間、アポローンの愛が冷めて自分を捨て去ってゆく未来が見えてしまったため、アポローンの愛を拒絶してしまう。憤慨したアポローンは、「カッサンドラーの予言を誰も信じないように」という呪いをかけてしまった。カッサンドラーは、パリスがヘレネーをさらってきたときも、トロイアの木馬をイリオス市民が市内に運び込もうとしたときも、これらが破滅につながることを予言して抗議したが、誰も信じなかった。
イーリオス陥落の際、小アイアースにアテーナーの神殿において凌辱された。
アテーナーの像の前のカサンドラを凌辱するアイアース
小アイアースは、これによってアテーナーの怒りを買い、ギリシアへの航海の途中で溺死させられた。カッサンドラーはアガメムノーンの戦利品となり、ミュケーナイにつれてゆかれた。そして、アガメムノーンと共に、アガメムノーンの妻クリュタイムネーストラーの手にかかり、命を落とした。
これにちなんで、イタリア語では日常の会話で「カッサンドラー」で「不吉、破局」といった意味を持たせて使う。(カサンドラ症候群)
ギリシア神話のアフロディテは ウゥルカーヌスの妻ですが、性に大らかな時代 マールス、メルクリウス、アドーニス、アンキセスたちとも浮名を流していました。このうちのアンキセスとの間の子アイネイアースは ローマ建国の祖にして、ガイウス・ユリウス・カエサルの属するユリウス氏族の祖とされた。ここからカエサルは ヴィーナスを祖神として、彼女を祀る為の壮麗な神殿を奉献したという。 また、カエサルの祖神として 軍神ともされました。
アンキーセースは、ギリシア神話の人物である。
トロイア王イーロスの娘の子。愛と美の女神アプロディーテーに愛されたことで知られ、アイネイアースをもうけた。
アプロディーテーとの恋
ブーシェの「アイネイアス(アイネイアース)のために造った武器をウェヌスへ贈るウルカヌス」
フランソワ・ブーシェ(1703年 - 1770年)は、ロココを代表するフランスの画家。
神話によれば、ゼウスはアプロディーテーが余りにも好色なので人間アンキーセースへの恋を吹き込んだ。
アプロディーテーはイーデー山で暮らすアンキーセースを見て恋の虜になった。そこでアプロディーテーはキュプロスに帰って身なりを整え、再びアンキーセースを訪ねた。アンキーセースはアプロディーテーを見て、あまりの美しさに女神ではないかと疑った。しかしアプロディーテーは神の姿を隠し、プリュギア王オトレウスの娘であると偽り、ヘルメース神がアンキーセースの妻とするために自分をさらって連れて来たと言った。アンキーセースは愛欲に逆らえず、アプロディーテーと一夜をともにした。
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ハインツ・ヴェルナー教授原作 2000年限定受注
発表時の作品に グリーンの挿し色なし 珍品中の珍品
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で
14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に 1400゜Cもの高温の焼き
付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なもので
した。
(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・
ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の
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フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いの
ですが・・・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達
により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床に
あったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
呉須の中国での発明後
5世紀を経た 1817年 緑色の染付顔料を 世界に先駆けて マイセンが発明
アフロディテ・ヴィーナス誕生 青と緑の染付作品 #8 826901・23633
グロッサー・アウシュニット型
偉大なマンネリズムを 標榜する一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニット型に ハインツ・ヴェルナー教授 絵付けによる「アフロディテ」「アラビアンナイト1001夜」「ブルーオーキッド」等のヒット作が ここから生まれました。
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シェープ
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岡本 笥椎
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあらば 椎の葉に盛る 有間皇子 万葉集 巻二(一四二)
(私の号する笥椎とは 華やぐ器 実用の器を意味します。まあ茶碗というところです。)
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1727年 アウグスト強襲王は 磁器宮殿内の2階回廊に 磁器動物園を思い立ちました。さてそうなると ベテラン造形師が必要になります。当時マイセンには 絵付け師ヘロルトが シノワズリ ジャポネズリを確立し 権威をふるっておりました。造形は 絵付けの引き立て役程度に 抑えられておりました。そこで ヨハン・ゴットリーブ・キルヒナーやヨハン・クリストフ・リュッケなどの彫刻家を 招聘して 動物造形に挑ましたのですが 磁器の扱いは難しく 思うようにはいきませんでした。1728年 21歳の彫刻士キルヒナーの自信は 数ヶ月で造形士たちの侮辱の的と化した。嘲笑と不評化に耐えられなくなったキルヒナーは 売春宿通いで憂さを晴らすのですが悪いことに重い性病に侵されるのです。業を煮やしたマイセン特別委員会はキルヒナーを解雇決定しました。
公式サイト
「インドサイ」紀元80年、ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイ。その銅版画をもとに1732年、ヨハン・ゴットリープ・キルヒナーがマイセン磁器による大きなサイを作り上げました。2010年、マイセン磁器製作所はこの記念碑的作品を小さなサイズで発表しました。それはアルブレヒト・デューラーの有名な木版画の手本となり、1583年にはアブラハム・デ・ブルンが銅版画にしています。
とありますが間違いだらけ(デューラーの有名な木版画は1515年作で キルヒナーの1732年作の彫像を手本にできません。1583年作のブルンの銅版画も1732年作を手本にできません。ブルン作を手本にしたのはキルヒナーの方です。キルヒナーの優秀さを言いたい為に時系列を逆転してまで捏造するのは無知ゆえか もしくは故意なら悪辣です。)で 真実は以下になります。
MEISSENメモ(22):マイセン「動物彫像」のご紹介 | GKジャパン スタッフ 2015年6月23日
内容は公式サイトに同じ。以後何回か公式サイトや 引用による百貨店広告 発表
ついにマイセン代理店社員のブログに捏造の証拠を見つけました。
マイセン アニヴァーサリー・コレクション (12)|ト音痴記号のブログ 2010-02-07
インドサイが初めてヨーロッパに来たのは紀元80年。皇帝ティトスが連れてきて、ローマのコロセウムで大評判となりました。
二度目は、1515年。リサボンにもたらされたサイの姿は、そこの田舎芸術家によって木版画にされ、それを見たアルブレヒト・デューラーがエッチングを製作。本物見ずの想像はふくらみ、のちに「デューラーのちび角」と呼ばれる小さな角が背中についています。
この有名なエッチングは幾度もコピーされ、さらにドゥ・ブリュン(de Bryn)の銅版画(1583年)を元に、キルヒナー(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)が1732年、磁器でサイの大きなフィギュアを製作。以来マイセン工房に保管されていますが、300周年を記念して、縮小版で登場です!(原文のまま)
(マイセンに磁器造形芸術を定着させた人)の件以外はほぼ正解です。この一文を先に公表している以上 誇大広告の捏造を知らぬとは言えません。
日本においては小さな人形の類がフィギュアと呼ばれている。この場合 フィギュリンが相応しいのでは ?
ローマ皇帝ティトゥスによって初めてヨーロッパにもたらされたインドサイの銅版画 ?
1515年 アルブレヒト・デューラーの有名な木版画
1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。肩に実物にはない「デューラーのちび角」と呼ばれるものがある。
1583年 アブラハム・デ・ブルンの銅版画 デューラーを手本にしたのか「デューラーのちび角」がある。
1728年 マイセンを首になったキルヒナーは ワイマール公爵邸で石造彫刻師の職を得 性病も治ったのか 妻をめとりそれなりの幸せにあった。マイセンはキルヒナーの代わりに入れたリュッケも ものの役に立たず首にしており 困った工場査察官のラインハルトは まだましなキルヒナーを呼び戻そうと画策しました。造形の親方の地位を餌に復帰にこぎつけました。親方になってようやく作り上げたライオン エレファントやインドサイも実物を知らぬとはいえ 静的で精彩を欠いたもので滑稽でさえありました。
ライオン H53.3cm 1730
エレファント H61cm 1731 実物を見てないとはいえ どちらも人の顔
インドサイ 1732年原作。2010年 復刻 H28cm。 アブラハム・デ・ブルンの銅版画を手本にしたので「デューラーのちび角」がある。
(2010年 落第生のキルヒナーをもてはやし 落第作のインドサイを鳴り物入りで復刻するに至っては 無知の露呈か はたまた売らんかなの商人根性か いずれにしろ偉大な3人のヨハンのマイセンを貶めるものです。7年間 書くべきか 書かざるべきか煩悶してきましたが 当店の周りでこのインドサイをつかまされた人が出るに及んで ついに意を決して公表するに及びました。)
キルヒナーにつづきリュッケもマイセン特別委員会が解雇通知するにいたり 不甲斐なさに立腹するアウグスト強襲王は 灯台下暗し 宝物庫「緑の丸天井」で 宮廷彫刻家の若い助手 ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの仕事ぶりに マイセンの造形問題解決への閃きを 見出しました。1731年 アルブレヒト城に やってきたケンドラーは たちどころに 如何なく天分を発揮し 成功を収めていきました。王は 自らの先見の明を立証した この若者を 親方に任じ 寵遇しました。王は 己の眼の確かさに満足し 若きケンドラーを 親方に抜擢しました。
格下の親方であったケンドラーが 次々に成功をおさめ 王の覚え芽出度いうえ 給料が少なかったことに憤慨して キルヒナーは1733年 自らマイセンを去りました。ケンドラーに満足するマイセンからは体の良い厄介払いと 慰留の声もかかりませんでした。
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-3」 詳しくは コチラをクリック してください。
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これがキルヒナーのインドサイと同値(\3.780.000)と聞けば どう思いますか ?
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