マイセン 【五つ花・100110】 兼用C/S・582-3 35%Off
マイセン 【五つ花・100110】 兼用C/S・582-3 35%Off
ホワイトデーフェア (本日~ 3/14) 1客限定
通常30%オフ ホワイトデーフェア (本日~ 3/14) 35%Off
No.1 No.2 No.4 売り切れました。
ブランド箱 378円
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが どうやら新品は お熟成アインにしか無く したがって一番安いようです。
マイセン社は制作を半分に抑えて プライスを大幅に上げております。なかなか誰も手が出ないようです。 苦労していれても 割引ができません。損を覚悟で10%ffがせいぜいです。
それではお熟成アインは 何故 一番安いのでしょう ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりしてさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今では如何ほど積んでもこれだけの美品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
フローラは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。
オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
また、フローラが 夫のユーピテルが 自分でミネルウァを産んだため 正妻としての面目を失った神々の女王ユーノーに 触れた女が 自然に子を身籠もる魔法の花を与え 戦士神マールスの誕生を助けたという説話も残されている。
「フローラ」 カルロ・チニャーニ
カルロ・チニャーニ (1628 – 1719) イタリアの画家、アクティブなバロック時代。
(解説1)オウィディウス プブリウス・オウィディウス・ナソ(紀元前43年3月20日 - 紀元17年)は、古代ローマのアウグストゥスの時代に生きた詩人。代表作は『恋愛術』、『変身物語』など。紀元1年ごろ(一般に 紀元元年だが ISOや天文学的には 0年があるので 紀元2年になる)、ギリシア神話を参考にして『恋愛術』を書いた。しかし余に露骨な性描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、8年、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ一生流された。)
『変身物語』 海王星人間の破壊を描く オランダ、1589年発行
(解説2)ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
『ヒュラスとニンフ』 フランソワ・ジェラール 1826年
フランソワ・パスカル・シモン、バロンジェラール(1770~1837 )、ローマで生まれたフランスの画家でした。彼の母親はイタリア人だった。帝国の男爵として、彼は時にはバロンジェラールと呼ばれます。
ギリシャ神話に登場する美少年ヒュラスは、金羊毛を求めてのアルゴ船の遠征にヘラクレスの侍童として加わりました。ある晩にミュラス島に上陸すると、彼は水差しを持って真水を汲みに行かされました。水浴していたナイアスたち(泉と川のニンフ)は、彼の美しさに魅せられ、彼を水中へと誘い込みます。こうして彼はそれっきり行方不明となってしまいました。
17世紀初頭の花卉画は、ブーケは花の集合体としての描き方で、ポートレートスタイル、平面的でしたが、次第に明暗法を取り入れ立体的になり、光と影の遠近効果が表れます。 その後は、さらにいくつかの花にスポットライトをあて、際立った陰影をつけるライティング効果で描きます。茎の曲げや向きなど、自由自在に思うようにつくりあげ(プラスチック効果)、更なる陰影で奥行きを深めて宇宙空間をも表現します。 デザインにエレガンスが加わり、花はたおやかに、動きはキャスケードにえがかれ、芸術的にリズミカルなアラベスク、18世紀には超現実主義な絵となりました。
18世紀前半のオランダを代表する花卉画家 ヤン・ファン・ハイスムの「大理石の台座の上の壺の花」
オランダでこの時代に活躍した画家の一部は、マイセンで磁器の花の絵付けに携わることになります。
五つ花 という名称は マイセン社には ありません。 これは GKジャパンさんが 日本向けに マイセン社の 二種類のお花が描かれているシリーズで 価格帯の同じものを集めて 付けられた総称です。 一つ花 二つ花 三つ花 四つ花 六つ花 も 総て同趣旨の 日本向けのネーミングです。
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型
ピカピカの 新品です。
現品 即納
やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入りした ペインターの卵たちが
まず 最初に習うのがお花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
マイセン 【五つ花・100110】 兼用C/S・582-3 35%Off のお求めはコチラ
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シェープ 反対面 把手面
マイセン 【 五つ花・100110 】 ホワイトデーフェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
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3人の天才ヨハン-5
1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1817 緑色の染付顔料 酸化クロム発明
1827 グランツゴールド 金彩を完成 H・G・キューン
1833ごろから 銅版転写染付・印判手
1839 焼成燃料に 石炭
1852 虹色のシラー彩(ラスター) H・G・キューン
1853 蒸気機関 採用
1860~1865 新トリービッシュタール工場へ移転18世紀、中国の泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。 これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
マイセン・翠の月(パテ・シュール・パテ)931689 G・アーノルド作 磁板画95168 30%Off のお求めはコチラ
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マイセン・翠の月931689 パテ・シュール・パテ G・アーノルド作 金箔額装磁板画 当店所蔵
余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 商売人にあっては 名窯セーヴルのルイ・ソロンを引き合いに 誇大宣伝したいのでしょう。山高きが故に 貴からず。セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、
ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート,
ブリュッセルの壁画は、「ズグラッフィート」2層漆喰(泥漿)を重ね塗りと、掻き落としの装飾技法。(巷にあふれる「セーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作」は誇大宣伝。この名画と言えど古代ローマのポートランドの壺やカメオと同技法)
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレースです。(イギリス スリップウェア鳥文鉢 1769)
ヘレンドでも 1860~1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛)を加飾しております。
19世紀末 KPMのテオドールヘルマンは ズグラッフィート(パテシュールパテ)を独自に応用開発しておりました。
20世紀のリチャードジノリでも パールブルーにある 私命名の粉彩リングは 中国の泥彩由来のパテシュールパテの転写版です。粉彩は主に水泥(スリップ状磁土)を地に施したものです。 陶器などでは普通に行われていた自然釉期待の素焼をヒントにしたのか マイセンが 18世紀の中世を席捲したウェッジウッドのジャスバーに対抗して焼き締め陶器(ハードストーンウェア)に先祖返りしたのがビスク焼と呼んでいるものです。
マイセン ウェッジウッドのネオクラシックの華 ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。
ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
1773年頃の エトラスカン・ダンサーズ・プラクウ ウェッジウッド美術館蔵
本日 私は大変なことに気が付きました。ヨーロッパ中を席捲したこのジャスバーウェアーこそ 紛れもなく パテシュールパテ そのものです。筆描きアンダーグレースと型押し無施釉の違いはありますが 100年も前にジョサイアは ルイ・ソロンをはるかに絵画的表現において凌駕しております。近代になってミントンの進化したパテシュールパテにも遜色はありません。ただ残念なのは 今のジャスパーはルイ・ソロン並みに退化しております。それにしてもジャスパーに痛めつけられて模倣までした(1817~24)マイセンに所属したハインツェ博士は ルイ・ソロンのパテシュールパテを見たとき(1873)に 何故気が付かなかったのでしょうか ? まさか釉薬に惑わされたというのでしょうか ? ルイ・ソロンが猛威を振るったジャスパーを知らなかったのは確かと思われますのは 知っていれば 恥ずかしくて創作などとは言えなかったでしょう。かくいう岡本もパテシュールパテの研究を始めて1年半 折に付け ジャスパーを俎上に載せながら パテシュールパテのすべてが見えていなかったようです。
セーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作説が巷に蔓延しております。赤信号みんなで渡れば怖く無い てんで 子引き孫引き 流布しております。「一犬 虚に吠ゆれば 万犬 実を伝う(一人がいいかげんなことを言うと、世間の多くの人はそれを真実のこととして広めてしまう)」如く 間違いが蔓延しております。もし異論 反論有ればどうぞ申し出てください。
(ルイ・ソロン教の方々が陥っておられる頑迷を晴らすために ルイソロンの泥彩画のアンダーグレースをもって発明とされる方々には 既に17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアはアンダーグレースですから発明とは言えない事を明記します。又 スリップウェアの最古のものは紀元前5000年以来の歴史を持ち 到底ルイ・ソロンの発明とは言えません。美術的にも勿論言えません。ルイソロンは発明だと言わず 祭り上げられたルイソロンにはいい迷惑で その彼の名誉のためにも敢えて申します。)
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 パテ・シュール・パテ技法を習得し セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
中国泥彩象嵌鶴文水指 高さ18、8cm 白泥鉄絵緑彩松樹鶴文(遠景の山々は白泥)
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺 1880年 ジュール・アンドレア作
初期のセーブル窯パテ・シュール・パテは 中国泥彩とあまり大差はありません。
ミントンは 大陸の王立窯 特にフランスのセーヴルから 工芸家を招聘して 腕に磨きをかけておりました。工場内では 英語に引けを取らないぐらいフランス語が飛び交っておりました。1871年 ルイ・ソロン(18世紀、中国人により編み出された泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立したパテ・シュール・パテ技法)を招聘して 美しいパテ・シュール・パテ技法を マイセンに先駆けて 自家薬籠中のものにして 更に 世界の王侯貴族をうならす 貴族趣味の芸術品をものにした 「パテ・シュール・パテのミントン」の名声は セーヴルを 出し抜くほどでした。)
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-5」 詳しくは コチラをクリック してください。
1918 第1次世界大戦末期 ザクセン王国瓦解 マイセンは 国立窯に
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オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
また、フローラが 夫のユーピテルが 自分でミネルウァを産んだため 正妻としての面目を失った神々の女王ユーノーに 触れた女が 自然に子を身籠もる魔法の花を与え 戦士神マールスの誕生を助けたという説話も残されている。
「フローラ」 カルロ・チニャーニ
カルロ・チニャーニ (1628 – 1719) イタリアの画家、アクティブなバロック時代。
(解説1)オウィディウス プブリウス・オウィディウス・ナソ(紀元前43年3月20日 - 紀元17年)は、古代ローマのアウグストゥスの時代に生きた詩人。代表作は『恋愛術』、『変身物語』など。紀元1年ごろ(一般に 紀元元年だが ISOや天文学的には 0年があるので 紀元2年になる)、ギリシア神話を参考にして『恋愛術』を書いた。しかし余に露骨な性描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、8年、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ一生流された。)
『変身物語』 海王星人間の破壊を描く オランダ、1589年発行
(解説2)ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
『ヒュラスとニンフ』 フランソワ・ジェラール 1826年
フランソワ・パスカル・シモン、バロンジェラール(1770~1837 )、ローマで生まれたフランスの画家でした。彼の母親はイタリア人だった。帝国の男爵として、彼は時にはバロンジェラールと呼ばれます。
ギリシャ神話に登場する美少年ヒュラスは、金羊毛を求めてのアルゴ船の遠征にヘラクレスの侍童として加わりました。ある晩にミュラス島に上陸すると、彼は水差しを持って真水を汲みに行かされました。水浴していたナイアスたち(泉と川のニンフ)は、彼の美しさに魅せられ、彼を水中へと誘い込みます。こうして彼はそれっきり行方不明となってしまいました。
17世紀初頭の花卉画は、ブーケは花の集合体としての描き方で、ポートレートスタイル、平面的でしたが、次第に明暗法を取り入れ立体的になり、光と影の遠近効果が表れます。 その後は、さらにいくつかの花にスポットライトをあて、際立った陰影をつけるライティング効果で描きます。茎の曲げや向きなど、自由自在に思うようにつくりあげ(プラスチック効果)、更なる陰影で奥行きを深めて宇宙空間をも表現します。 デザインにエレガンスが加わり、花はたおやかに、動きはキャスケードにえがかれ、芸術的にリズミカルなアラベスク、18世紀には超現実主義な絵となりました。
18世紀前半のオランダを代表する花卉画家 ヤン・ファン・ハイスムの「大理石の台座の上の壺の花」
オランダでこの時代に活躍した画家の一部は、マイセンで磁器の花の絵付けに携わることになります。
五つ花 という名称は マイセン社には ありません。 これは GKジャパンさんが 日本向けに マイセン社の 二種類のお花が描かれているシリーズで 価格帯の同じものを集めて 付けられた総称です。 一つ花 二つ花 三つ花 四つ花 六つ花 も 総て同趣旨の 日本向けのネーミングです。
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型
ピカピカの 新品です。
現品 即納
やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入りした ペインターの卵たちが
まず 最初に習うのがお花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
マイセン 【五つ花・100110】 兼用C/S・582-3 35%Off のお求めはコチラ
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1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1817 緑色の染付顔料 酸化クロム発明
1827 グランツゴールド 金彩を完成 H・G・キューン
1833ごろから 銅版転写染付・印判手
1839 焼成燃料に 石炭
1852 虹色のシラー彩(ラスター) H・G・キューン
1853 蒸気機関 採用
1860~1865 新トリービッシュタール工場へ移転18世紀、中国の泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。 これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
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マイセン・翠の月931689 パテ・シュール・パテ G・アーノルド作 金箔額装磁板画 当店所蔵
余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 商売人にあっては 名窯セーヴルのルイ・ソロンを引き合いに 誇大宣伝したいのでしょう。山高きが故に 貴からず。セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、
ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート,
ブリュッセルの壁画は、「ズグラッフィート」2層漆喰(泥漿)を重ね塗りと、掻き落としの装飾技法。(巷にあふれる「セーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作」は誇大宣伝。この名画と言えど古代ローマのポートランドの壺やカメオと同技法)
17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレースです。(イギリス スリップウェア鳥文鉢 1769)
ヘレンドでも 1860~1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛)を加飾しております。
19世紀末 KPMのテオドールヘルマンは ズグラッフィート(パテシュールパテ)を独自に応用開発しておりました。
20世紀のリチャードジノリでも パールブルーにある 私命名の粉彩リングは 中国の泥彩由来のパテシュールパテの転写版です。粉彩は主に水泥(スリップ状磁土)を地に施したものです。 陶器などでは普通に行われていた自然釉期待の素焼をヒントにしたのか マイセンが 18世紀の中世を席捲したウェッジウッドのジャスバーに対抗して焼き締め陶器(ハードストーンウェア)に先祖返りしたのがビスク焼と呼んでいるものです。
マイセン ウェッジウッドのネオクラシックの華 ジャスパー・エトラスカンダンサーをビスク焼で模倣。1817~24。
ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
1773年頃の エトラスカン・ダンサーズ・プラクウ ウェッジウッド美術館蔵
本日 私は大変なことに気が付きました。ヨーロッパ中を席捲したこのジャスバーウェアーこそ 紛れもなく パテシュールパテ そのものです。筆描きアンダーグレースと型押し無施釉の違いはありますが 100年も前にジョサイアは ルイ・ソロンをはるかに絵画的表現において凌駕しております。近代になってミントンの進化したパテシュールパテにも遜色はありません。ただ残念なのは 今のジャスパーはルイ・ソロン並みに退化しております。それにしてもジャスパーに痛めつけられて模倣までした(1817~24)マイセンに所属したハインツェ博士は ルイ・ソロンのパテシュールパテを見たとき(1873)に 何故気が付かなかったのでしょうか ? まさか釉薬に惑わされたというのでしょうか ? ルイ・ソロンが猛威を振るったジャスパーを知らなかったのは確かと思われますのは 知っていれば 恥ずかしくて創作などとは言えなかったでしょう。かくいう岡本もパテシュールパテの研究を始めて1年半 折に付け ジャスパーを俎上に載せながら パテシュールパテのすべてが見えていなかったようです。
セーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作説が巷に蔓延しております。赤信号みんなで渡れば怖く無い てんで 子引き孫引き 流布しております。「一犬 虚に吠ゆれば 万犬 実を伝う(一人がいいかげんなことを言うと、世間の多くの人はそれを真実のこととして広めてしまう)」如く 間違いが蔓延しております。もし異論 反論有ればどうぞ申し出てください。
(ルイ・ソロン教の方々が陥っておられる頑迷を晴らすために ルイソロンの泥彩画のアンダーグレースをもって発明とされる方々には 既に17~18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアはアンダーグレースですから発明とは言えない事を明記します。又 スリップウェアの最古のものは紀元前5000年以来の歴史を持ち 到底ルイ・ソロンの発明とは言えません。美術的にも勿論言えません。ルイソロンは発明だと言わず 祭り上げられたルイソロンにはいい迷惑で その彼の名誉のためにも敢えて申します。)
セーブルがパテ・シュール・パテ技法を創作といったかどうかは知りませんが マイセンのハインツェ博士も セーブルの創作と思って 後塵を拝している決定的一大事件と思い 約10年間の研究の末 パテ・シュール・パテ技法を習得し セーヴルに追いついたとマイセンあげて喜びました。
中国泥彩象嵌鶴文水指 高さ18、8cm 白泥鉄絵緑彩松樹鶴文(遠景の山々は白泥)
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺 1880年 ジュール・アンドレア作
初期のセーブル窯パテ・シュール・パテは 中国泥彩とあまり大差はありません。
ミントンは 大陸の王立窯 特にフランスのセーヴルから 工芸家を招聘して 腕に磨きをかけておりました。工場内では 英語に引けを取らないぐらいフランス語が飛び交っておりました。1871年 ルイ・ソロン(18世紀、中国人により編み出された泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立したパテ・シュール・パテ技法)を招聘して 美しいパテ・シュール・パテ技法を マイセンに先駆けて 自家薬籠中のものにして 更に 世界の王侯貴族をうならす 貴族趣味の芸術品をものにした 「パテ・シュール・パテのミントン」の名声は セーヴルを 出し抜くほどでした。)
「欧州磁器戦争史 3人の天才ヨハン-5」 詳しくは コチラをクリック してください。
1918 第1次世界大戦末期 ザクセン王国瓦解 マイセンは 国立窯に
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