マイセン 【四つ花(豪華なブーケ)・080110】 ベース H14cm・50034 15%Off
マイセン 【四つ花(豪華なブーケ)・080110オダマキ】 ベース H14cm・50034 15%Off
お中元ギフトフェア ( 本日~ 7/15) 1本限定
通常10%Off お中元ギフトフェア ( 本日~ 7/15) 15%Off
しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな。(静御前)
白拍子の 静御前は、飛び切りの美人で当世一流の売れっ子、これが奇襲戦の名手で連戦連勝の武将
義経と出会い恋に落ちました。
しかし、義経は兄と慕う源頼朝のために戦功を上げたにもかかわらず、うとまれ怒りを買い、冷たくあしらわれた挙句に都を追われてしまいます。都落ちした際、多くの愛人の中で最後まで義経に従ったのは静御前ただ一人、その後の義経と静御前一行の艱難辛苦の逃避行は、ついに吉野の山中を彷徨い生き別れてしまうことになります。
この時、静御前は義経の子を身ごもっていました。
その後、義経探索に血眼で当たっていた頼朝から、静御前は鎌倉の都に呼びつけられます。
頼朝の妻・政子が、「日本一の静御前の舞いが見たい」との名目で、静御前を呼びつけますが、頼朝には、この機会に腹の子(義経の)を裂き殺そうとの狙いがあったのです。
源氏の氏神・鶴岡八幡宮に「鎌倉万歳」を祝う奉納の日が決まり、静御前がその祝いの舞台で日本一の舞を舞うため、鶴岡八幡宮は大変な盛り上がりを見せていました。
舞台に進み出ると「静という白拍子にございます」と名乗り、「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ 恋しき」と、あろうことか義経恋唄を唄い上げ、続けて「しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな」と舞ったのです。
「白拍子として蔑まれながら、鎌倉にまで呼びつけられた私だけれど、義経を想う心に嘘偽りはありません。 昔、華やかだったころの様に、義経とともに幸せに暮らしたい」と詠ったものです。
静御前は、義経を心から愛するが故に、絶体絶命のこの状況下で、「鎌倉万歳」どころか「義経恋しや」と唄い、古今集の「しずのおだまき」に掛けて、「貴方(頼朝)も昔は流人、今は栄華を極めても、やがて衰しき身となるは、世の繰りごと」と、呪い、皮肉ったのです。
これに激怒した頼朝を、妻の政子が「女の気持とはそういうものです。」と諌め、結局、頼朝は衆人の前で恥をさらしたのです。
静御前が見せた毅然とした態度と、これを受けとめた政子の心が、人々を感動させ後世にまで語り継がれる事となったのです。
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
主だったお店を調べましたが どうやら新品は お熟成アインにしか無く したがって一番安いようです。
マイセン社は制作を半分に抑えて プライスを大幅に上げております。なかなか誰も手が出ないようです。 苦労していれても 割引ができません。損を覚悟で10%ffがせいぜいです。
それではお熟成アインは 何故 一番安いのでしょう ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりしてさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今では如何ほど積んでもこれだけの美品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。
フローラは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。
オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
また、フローラが 夫のユーピテルが 自分でミネルウァを産んだため 正妻としての面目を失った神々の女王ユーノーに 触れた女が 自然に子を身籠もる魔法の花を与え 戦士神マールスの誕生を助けたという説話も残されている。
フローラ ヘンリエッタ・レイ
ヘンリエッタ・エマラトクリフ・レイ (1859年- 1928年) は ヴィクトリア朝 時代の著名な、英国人女性画家。
まず書き出しは
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。 土佐日記 紀貫之(三十六歌仙の一人。女性に仮託)
男もすなる決闘といふものを、女もしてみむとてするなり。
「女性剣士の決闘」。
女性同士の決闘では、衣服が傷口に押し込まれることによる感染症を防ぐため、上半身を裸にしていました。ヴィクトリア朝時代には恋人や侮辱が原因で、名誉のために女性同士が決闘することがありました。(出版社)
残念ながらこれらは好事家が舞台仕立ての室内スタジオで演出・撮影した妄想ヤラセ写真であってファクトではないんだなあ。むしろ「ヴィクトリア朝時代の富裕層にこうしたヘンタイ写真趣味が流行った」と解釈しないと。(投稿者)
申し訳ございません。Pauline von MetternichとCountess Anastasia Kielmannseggが1892年に決闘した"emancipated duel"のことを本で読み真実かと勘違いいたしました。(出版社)
パウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人(洪)と伯爵夫人アナスタシア・ヘンドリコワ(露)を調べても二人が決闘したことを 正式な史書では確認できませんでした。(岡本)
とってつけたような話を訝しんで調べてみました。
「女性剣士の決闘」。(今回更に詳しく調べていて この写真と上の白黒写真の背景が同じで 同じスタジオで写された見え見えのヤラセ写真です。)
これは好事家が舞台仕立ての室内スタジオで演出・撮影した妄想ヤラセ写真であって事実ではありません。写真の歴史からすると1800年代は黎明期で ここまでのヤラセをするとは考えられずもっと後代の遊びと思われます。(岡本)
ヴィクトリア朝 娼婦さん
性に関してことさら抑圧的であった ビクトリア朝期には、娼婦でさえここまでの露出は無く ピアノの足にまで ソックスをかぶせて不品行でないことを 強調する風俗すらみられた時代からも 矢張り後代のやらせでしょう。(岡本)
ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
「ヒュラスと水のニンフ」 ヘンリエッタ・レイ (1909)
ヘンリエッタ・エマラトクリフ・レイ (1859年- 1928年) は ヴィクトリア朝 時代の著名な、英国人女性画家。
ギリシャ神話に登場する美少年ヒュラスは、金羊毛を求めてのアルゴ船の遠征にヘラクレスの侍童として加わりました。ある晩にミュラス島に上陸すると、彼は水差しを持って真水を汲みに行かされました。水浴していたナイアスたち(泉と川のニンフ)は、彼の美しさに魅せられ、彼を水中へと誘い込みます。こうして彼はそれっきり行方不明となってしまいました。
17世紀初頭の花卉画は、ブーケは花の集合体としての描き方で、ポートレートスタイル、平面的でしたが、次第に明暗法を取り入れ立体的になり、光と影の遠近効果が表れます。 その後は、さらにいくつかの花にスポットライトをあて、際立った陰影をつけるライティング効果で描きます。茎の曲げや向きなど、自由自在に思うようにつくりあげ(プラスチック効果)、更なる陰影で奥行きを深めて宇宙空間をも表現します。 デザインにエレガンスが加わり、花はたおやかに、動きはキャスケードにえがかれ、芸術的にリズミカルなアラベスク、18世紀には超現実主義な絵となりました。
ヤーコブ・ファン・ワルスカッペレ《石の花瓶に生けた花と果物》 1677年 シュテーデル美術館
オランダでこの時代に活躍した画家の一部は、マイセンで磁器の花の絵付けに携わることになります。
四つ花 という名称は マイセン社には ありません。 これは 日本代理店が 日本向けに マイセン社の 三種類のお花が描かれているシリーズで 価格帯の同じものを集めて 付けられた総称です。 一つ花 二つ花 三つ花 五つ花 六つ花 も 総て同趣旨の 日本向けのネーミングです。
ケンドラー原作 ノイエ・アウスシュニット型
エンツゥイステッド・ハンドル
ピカピカの 新品です。
現品 即納
やはり花はマイセン。学校を出て 親方(マイスター)に弟子入りした ペインターの卵たちが
まず 最初に習うのがお花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に
精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
マイセン 【四つ花(豪華なブーケ)・080110】 ベース H14cm・50034 15%Off のお求めはコチラ
どの小さい写真もクリックで拡大
反対面
錬金術師-1
詐術者は 各国の王より 研究資金や 原材料費の 名目で多くの黄金を せしめました。黄金変成の 約束期日が近づくと 逃亡を企てるのですが,王の厳しい追跡に ほとんどが捕まり 極刑に処せられました。
ベトガーは 小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。ベルリンの 薬剤師の徒弟になった ベトガーは 師から1通りの知識を 吸収すると,周りの反対を押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験を して見せました。実験は トリックを使ったのか 成功しました。彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒ(フリードリヒ大王の祖父)の耳に 入ってしまいました。王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン領へ逃亡しました。手から黄金を 零した思いの フリードリヒは ベトガー逮捕に ザクセン領へ出兵しました。1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベトガーが 有望な錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを 拒否しました。喧嘩腰のプロイセンに対し アウグストは ベトガーの出生地が ザクセン領であるから自分の臣民であるとの主張をし 大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
1701年11月のことでした。・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師-1 」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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男もすなる決闘といふものを、女もしてみむとてするなり。
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ギリシャ神話に登場する美少年ヒュラスは、金羊毛を求めてのアルゴ船の遠征にヘラクレスの侍童として加わりました。ある晩にミュラス島に上陸すると、彼は水差しを持って真水を汲みに行かされました。水浴していたナイアスたち(泉と川のニンフ)は、彼の美しさに魅せられ、彼を水中へと誘い込みます。こうして彼はそれっきり行方不明となってしまいました。
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ベトガーは 小さい頃から 利発な子で 語学や数学を会得すると 化学に興味を持ちました。ベルリンの 薬剤師の徒弟になった ベトガーは 師から1通りの知識を 吸収すると,周りの反対を押し切って 賢者の石の秘法 発見の道へと のめり込んで行きました。研究資金を得る為に 内輪の人に 変成実験を して見せました。実験は トリックを使ったのか 成功しました。彼の固い口止にも拘わらず いつしかプロイセン王フリードリヒ(フリードリヒ大王の祖父)の耳に 入ってしまいました。王からの呼び出しに 成功のいかがわしさが 露見するのを恐れ ザクセン領へ逃亡しました。手から黄金を 零した思いの フリードリヒは ベトガー逮捕に ザクセン領へ出兵しました。1犯人の逮捕に 兵まで出す異常をいぶかった ザクセン王アウグストは ベトガーが 有望な錬金術師と知り フリードリヒへの引渡しを 拒否しました。喧嘩腰のプロイセンに対し アウグストは ベトガーの出生地が ザクセン領であるから自分の臣民であるとの主張をし 大戦を避けた上 錬金術師を得たのです。
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