リチャードジノリ 【赤にわとり(レッドコック)】 ティーC/S 35%Off
リチャードジノリ 【赤にわとり(レッドコック)】 ティーC/S 35%Off
お歳暮ギフトフェア ( 本日~12/10) ラッキーセブン 7客限定
通常30%Off お歳暮ギフトフェア ( 本日~12/10) 35%Off
お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。
18年前 ヨーロッパ最大のドイツの リチャードジノリ代理店が代理店契約終了に当たり 在庫の処理を巡り リチャードジノリ社とトラブっておりましたので アインが 40フィートコンテナ2本分の在庫を引き受けました。超一流店として アインに足らざるブランド洋食器300年の歴史と伝統を買いました。
以来 グッチジノリになるまで フィレンツェ本店から 直接仕入れておりました..。
主だったお店を調べましたが どうやら旧新品在庫は お熟成アインにしかないようです。
クッチシノリ社は 安売りをして倒産するのは嫌だと公言して プライスを大幅に上げております。苦労していれても 割引ができません。損を覚悟で10%ffがせいぜいです。
それではお熟成アインは何故 お安いのでしょう ? それは売るのが下手で旧ジノリ社のお品がまだあるからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりしてさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今では これだけの美品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ 清少納言(62番) 『後拾遺集』雑・940
清少納言と藤原行成のざれ誘いを当意即妙に受け答えしている歌です。2人は宮中で冗談を言い合ったりする、仲のいい関係でしたから 軽いたわむれの歌です。
清少納言 百人一首画帖:国立博物館蔵
蔵人頭の藤原行成が、中宮定子の御座所で夜更けまで女房たちと語らっていました。深夜2時頃(草木も眠る丑三つ時)、明日は宮中で物忌(陰陽道の禁忌の一種。災いから免れるため,一定期間食事や行動を慎み,不浄を避け,家内にこもることをいう。)が行われるからと行成は帰っていきました。先に帰った藤原行成が、明け方に清少納言へ言い訳の文をよこしてきました。曰く「鶏の鳴き声にせかされてしまって昨夜はいそいそと帰ってしまいました」
清少納言は「うそおっしゃい。中国の函谷関の故事にある、鶏の空鳴きでしょう」と答えます。
「函谷関の故事」というのは、中国の史記にある孟嘗君の話です。秦国に入って捕まった孟嘗君が逃げるとき、一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の関所を、鳥の鳴き真似上手な部下に鶏の鳴き真似をさせたのでした。すると関守は、「もう朝か」と勘違いし、門を開けます。そのおかげで孟嘗君一行は逃げ延び、命が助かりました。いかにも漢文の教養が深かった清少納言らしく、司馬遷の『史記』にある孟嘗君の故事をふまえた返事です。
清少納言の機知に富んだ文に行成は「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」と弁解します。
そこで清少納言が詠んだのがこの歌です。
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ
「鶏の鳴き真似で、函谷関の関守は騙せたとしても、この逢坂の関は絶対開きませんよ。私はそうはいきませんよ。」
逢坂の関は蝉丸の歌(これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸 10番 『後撰集』雑一・1089)に出てくる京都と大津の境にあった古代の関所で、男女が「逢う」…すなわち関係を持つことを暗に指しています。つまり、あなたと関係を持てなくて惜しかったですという意味がこめられています。
即座にこれだけの教養を盛り込んだ歌を返すとは、さすが清少納言。ずば抜けた知性を感じさせます
清少納言と藤原行成の機知に富んだやり取りはたちまち宮中で話題になります。さすがは清少納言。教養の深い女性だと。
片や 藤原行成は当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」と称された。書道世尊寺流の祖。
紫陽花双鶏図 伊藤若冲筆 1759年 宮内庁三の丸尚蔵館蔵
伊名 ギャリ・ロッシ
英名 レッド・コック
ジノリの誇り ドッチア窯 金ロゴ
朱色絵を 焼付け後 金転写を焼き付け 金と朱のラインは 手描きという 手間隙かけた 本格的作品です。
柿右衛門を思わす 余白の美(アウグスト強襲王も 大絶賛)が 西洋でも 日本でも享けるようです。
粟鶉文 八角鉢 柿右衛門 濁手 江戸時代1670年頃
日本で流行した有田の粟鶉文を 余白の美に傾倒する カルロジノリ公もお気に入り 写しました。「神のマナ 鶉」 は やがて鶏に代わり この「赤にわとり」になりました。グッチジノリに至り オロディドッチアでは 余白の美を離れ 随分欧風になりました。
旧約聖書 出エジプト記 第16章
エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、イスラエルの人々はモーセとアロンにつぶやいた。、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。」。 モーセはイスラエルの人々に言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。」。 夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。
(農耕民族的)
また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。 その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。 イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「マナ(これはなんであろう)」。
神からの下されもの 尊いマナとうずらは 鶏に代わりました。
ベッキオシェープ
ベッキオとは 古い伝統の という意味です。今でこそベッキオシェイプは ジノリの十八番と なっておりますが 洋食器ファンの ご明察どおり 昔から たくさんの 銘窯で焼かれており マイセン(#02)や ロイヤルコペンハーゲン(カーブ) ヘレンド(ロカイユ)等でも 現在まで 継続 存在しており 慣れ親しまれたシェイプです。
お店で 赤にわとりを 見たお客さんが言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
二代目 ジノリ侯のお眼にかない 二百数十年生き続けた 美術品です。それにしても 手描き金彩 余白美に満ちた この器を見て 美しいと言われる 貴方のお眼眼は 時空を超えて 侯のお眼眼と 一体です。
今作 間に合わせ 黄色ロゴ
今作
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旧作 当店
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拡大写真 ソーサー絵・カップ正面 反対面
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把手面 ドッチア窯金ロゴ
リチャードジノリ 【 赤にわとり(レッドコック) 】 お歳暮ギフトフェア お宝倉庫に 買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
類稀な 美貌と知性の女性は 鄙に生まれながら 自らの運命に従い 皇帝の妃に。
生まれながら 王家の姫は 運命られし縁に 時の王妃へと。
「悠久の歴史の中に埋もれし 英雄・姫妃との出会い」コチラをクリック してください。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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清少納言と藤原行成のざれ誘いを当意即妙に受け答えしている歌です。2人は宮中で冗談を言い合ったりする、仲のいい関係でしたから 軽いたわむれの歌です。
清少納言 百人一首画帖:国立博物館蔵
蔵人頭の藤原行成が、中宮定子の御座所で夜更けまで女房たちと語らっていました。深夜2時頃(草木も眠る丑三つ時)、明日は宮中で物忌(陰陽道の禁忌の一種。災いから免れるため,一定期間食事や行動を慎み,不浄を避け,家内にこもることをいう。)が行われるからと行成は帰っていきました。先に帰った藤原行成が、明け方に清少納言へ言い訳の文をよこしてきました。曰く「鶏の鳴き声にせかされてしまって昨夜はいそいそと帰ってしまいました」
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次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
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