マイセン 【青い花・614701】 クリーマー・300cc 15%Off
マイセン 【青い花・614701】 クリーマー・300cc 15%Off
祝勤労感謝の日労フェア(本日~ 11/23) 3台限定
通常10%Off 祝勤労感謝の日労フェア(本日~ 11/23) 15%Off
青い花 眠れる森の美女
『青い花』安房直子 ☆ 青い傘の奇跡
裏通りに小さい傘屋がありました。その主人はまだ若者でしたが、立派な腕前の持ち主でした。あるとき街角で雨にぬれている、水色の服を着た小さな女の子に出会いました。その女の子が選んだ青い布で、傘を作ってあげました。その日から、不思議なことが起こったのです。
不思議な青い傘。
「海の色ににているわ」と、女の子はいいました。
「うん、ぼくもそうおもったよ」
「このかさをさしていると、まるで青いやねの、いえのなかにいるみたい」
「ああ、ぼくもそうおもった!」かさやは、すっかりうれしくなりました。
そして、その日から青い傘の注文が殺到するようになり、お金持ちになる
それまで傘の修繕が中心だったのに、それは放ってしまうようになる
まもなく、商売敵が登場して傘の注文がなくなってしまった
そんなとき、あの女の子が傘の修理が終わったかどうかを店に確認しにやってくる
かさ屋は忙しさで修理を受けたことを忘れていた
おもえばそれは、いちばんさいしょに、まごころこめてつくった雨がさでした。それからあと、じぶんは、どれだけたくさんのかさを、なにもおもわずに つくってきたことでしょうか・・・・・。
そして、海の色にも、空の色にもにていない、ただの青い雨がさが、どれだけ町にあふれたことでしょうか。かさやは、なんとなくぞっとしました。
同時に真心のこもっていない仕事をしていたことに恐れをなした
大急ぎで修理して次の日にかさを届けに行くと そこにあったのはあじさいの花だった
中国の陶磁器では、新石器時代から清時代に至る中国の陶磁工芸の流れと技法を概観する。
中国陶磁の歴史は新石器時代の紅陶や彩文土器から始まり、さまざまな技術革新を重ね、三彩、白磁、青磁、青花、五彩などの華麗な器を作り出し、世界の陶磁界をリードしてきた。英語のチャイナという単語は、普通名詞としては「磁器」を意味するが、このことに象徴されるように、中国は世界に先駆けてガラス質の白いやきものである磁器を生み出した。中国磁器は中国の宮廷で用いられたのみならず、主要な貿易品の一つとして、アジア諸国、イスラム圏、ヨーロッパなどにも大量に輸出された。こうした中国磁器は、日本では茶の湯の道具に取り入れられ、イスラム圏やヨーロッパでは王侯貴族のコレクションに収まるなど、世界の陶磁器の発展に多大な影響を及ぼしてきた。
青花五彩
青花とは「青い文様」の意で、白地に青い文様を表した磁器である。同様のものを日本語では「染付」という。青花は釉下彩、すなわち素地に直接絵付けしてその上から透明釉を掛けたものである。酸化コバルト顔料で図柄を描いた上に透明釉を掛け、高火度焼成すると、顔料は青く発色する。同様の釉下彩には、鉄絵具を用いた鉄絵や、銅呈色の釉裏紅がある。五彩とは、多色の絵具を用いて白磁の釉上に図柄を描いた磁器である。素地に透明釉を掛けて高火度焼成した後、釉上に上絵具で図柄を描き、錦窯という小型の窯で再び低火度焼成する。1つの器に五彩と青花を併用する場合もある。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に1400゜Cもの高温の焼き付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
ヴェレンシュピール
ザビーネ・ワックス女史達が マイセン伝統の優雅さを
失う事無く 使っても楽しい「用の美」を求め 口縁に白い波を表現した 染付作品集です。
偉大なマンネリズムを 標榜し 伝統を受け継ぐ一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術
集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニッ
ト型が ここから生まれました。
1975年には 更に若い世代によるクンストラー・コレクティヴが立ち上げられ
ヴェレンシュピール型「波の戯れホワイト」や「青い花」を 生み出しております。
19cmプレート 今作 色淡く 筆静かで 平面的
19cmプレート 二昔前の当店所蔵品 墨痕鮮やかに 躍動感あり 立体的
マイセン 【青い花・614701】 クリーマー・300cc 15%Off のお求めはコチラ
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注ぎ口面 反対面 把手面
錬金術師-4
こんな怖いところに ベトガーを移したのは 失敗は許さぬという 王の不退転の決意表明
では・・・・)に 実験窯を新設し ベトガーを呼び戻しました。1707年9月のことでした。それ
から半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達しました。(景
徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリン山は 磁土で出来ている山で あったので 西洋
でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと 雪花石膏
アラバスターから成っており 東洋のカオリンと 白不子から成るものより 僅かに黄味が
かっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や若き
錬金術師ベトガーの手中にありました。
アルブレヒト城壁画 アウグスト強襲王
錬金術師ベトガー
1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない白磁を 手に入れたのです。この年の10月に ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみから逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。ベトガーが 王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができたのは 1709年3月の事でした。(真の東洋の白磁完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりませんでした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしきマイセンの誕生となったのです・・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 4」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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青い花 眠れる森の美女
『青い花』安房直子 ☆ 青い傘の奇跡
裏通りに小さい傘屋がありました。その主人はまだ若者でしたが、立派な腕前の持ち主でした。あるとき街角で雨にぬれている、水色の服を着た小さな女の子に出会いました。その女の子が選んだ青い布で、傘を作ってあげました。その日から、不思議なことが起こったのです。
不思議な青い傘。
「海の色ににているわ」と、女の子はいいました。
「うん、ぼくもそうおもったよ」
「このかさをさしていると、まるで青いやねの、いえのなかにいるみたい」
「ああ、ぼくもそうおもった!」かさやは、すっかりうれしくなりました。
そして、その日から青い傘の注文が殺到するようになり、お金持ちになる
それまで傘の修繕が中心だったのに、それは放ってしまうようになる
まもなく、商売敵が登場して傘の注文がなくなってしまった
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おもえばそれは、いちばんさいしょに、まごころこめてつくった雨がさでした。それからあと、じぶんは、どれだけたくさんのかさを、なにもおもわずに つくってきたことでしょうか・・・・・。
そして、海の色にも、空の色にもにていない、ただの青い雨がさが、どれだけ町にあふれたことでしょうか。かさやは、なんとなくぞっとしました。
同時に真心のこもっていない仕事をしていたことに恐れをなした
大急ぎで修理して次の日にかさを届けに行くと そこにあったのはあじさいの花だった
中国の陶磁器では、新石器時代から清時代に至る中国の陶磁工芸の流れと技法を概観する。
中国陶磁の歴史は新石器時代の紅陶や彩文土器から始まり、さまざまな技術革新を重ね、三彩、白磁、青磁、青花、五彩などの華麗な器を作り出し、世界の陶磁界をリードしてきた。英語のチャイナという単語は、普通名詞としては「磁器」を意味するが、このことに象徴されるように、中国は世界に先駆けてガラス質の白いやきものである磁器を生み出した。中国磁器は中国の宮廷で用いられたのみならず、主要な貿易品の一つとして、アジア諸国、イスラム圏、ヨーロッパなどにも大量に輸出された。こうした中国磁器は、日本では茶の湯の道具に取り入れられ、イスラム圏やヨーロッパでは王侯貴族のコレクションに収まるなど、世界の陶磁器の発展に多大な影響を及ぼしてきた。
青花五彩
青花とは「青い文様」の意で、白地に青い文様を表した磁器である。同様のものを日本語では「染付」という。青花は釉下彩、すなわち素地に直接絵付けしてその上から透明釉を掛けたものである。酸化コバルト顔料で図柄を描いた上に透明釉を掛け、高火度焼成すると、顔料は青く発色する。同様の釉下彩には、鉄絵具を用いた鉄絵や、銅呈色の釉裏紅がある。五彩とは、多色の絵具を用いて白磁の釉上に図柄を描いた磁器である。素地に透明釉を掛けて高火度焼成した後、釉上に上絵具で図柄を描き、錦窯という小型の窯で再び低火度焼成する。1つの器に五彩と青花を併用する場合もある。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に1400゜Cもの高温の焼き付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
東洋伝来の 把手の無いお湯呑は アラブにおいては トルココーヒーカップとして 又 西洋では ティーボールと呼ばれ 紅茶用とされていました。同柄の深い皿を 飲用器としてセットにする頃 ボールは 茶葉やシュガーを 調合するポットの役割を担うようになりました。やがて 金属器のマグから 熱さ避けのハンドルを 付ける様になりました。ティーが王侯貴族にもてはやされ もっと優雅にとの思いから 金属器から C/Sと同柄の 磁器のポットを創り 貴賓と優雅さに満ちた テーブルマナーを 調えていきました。後に東洋でも 西洋への輸出用にハンドルC/Sや ポットなどが作られるようになりました。
ヴェレンシュピール
ザビーネ・ワックス女史達が マイセン伝統の優雅さを
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集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニッ
ト型が ここから生まれました。
1975年には 更に若い世代によるクンストラー・コレクティヴが立ち上げられ
ヴェレンシュピール型「波の戯れホワイト」や「青い花」を 生み出しております。
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錬金術師-4
こんな怖いところに ベトガーを移したのは 失敗は許さぬという 王の不退転の決意表明
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から半年を経ずして ベトガーは 磁器の主成分である磁土カオリンに 到達しました。(景
徳鎮近郊の高嶺山 中国発音カオリン山は 磁土で出来ている山で あったので 西洋
でも磁土のことを カオリンと呼びます。この時のベトガーの磁器は カオリンと 雪花石膏
アラバスターから成っており 東洋のカオリンと 白不子から成るものより 僅かに黄味が
かっていました)。西洋中が 数世紀 孜々として研究 待望した磁器の秘法は 今や若き
錬金術師ベトガーの手中にありました。
アルブレヒト城壁画 アウグスト強襲王
錬金術師ベトガー
1708年1月 遂に 錬金術師ベトガーは 黄金ならぬ白い黄金 本家東洋に さほど遜色のない白磁を 手に入れたのです。この年の10月に ベトガーは 師とも 父とも仰ぐチルンハウスを 彼の看病も空しく なくしました。悲しみから逃れるように より東洋の白磁を目指し 実験を続けました。ベトガーが 王への手紙に「中国に 勝るとも劣らぬ 白磁完成」を 認める事ができたのは 1709年3月の事でした。(真の東洋の白磁完成は 雪花石膏媒溶剤から 長石・石英に至る1724年まで 待たねばなりませんでした。)更にその後も 商品化に向けてベトガーの実験・研究は進み アルブレヒト城に マイセン工場が 1710年6月 秘密裏に設立され 輝かしきマイセンの誕生となったのです・・・・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 4」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
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