リチャードジノリ 【カポデモンテ ホワイト】 ティーC/S プルート 35%Off
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通常30%Off 祝父の日フェア ( 本日~ 6/18) 35 %Off
プルートーは、ローマ神話における冥界を司る神。ギリシア神話のハーデースがローマ神話に取り入れられたものである。
ペルセポネーは、ギリシア神話に登場する女神で冥界の女王である。ゼウスとデーメーテールの娘で、ハーデースの妻として傍らに座しているとされる。地上にいる間はコレーと呼ばれ、冥界に入るとペルセポネーと呼ばれる。日本語では長母音を省略してペルセポネとも呼ぶ。ローマ神話ではプロセルピナと呼ばれ、春をもたらす農耕の女神となっている。
ペルセポネーの略奪 (レンブラント・ファン・レイン画, 1631)
レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(1606年- 1669年)は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。レンブラントの通称で広く知られ、大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。
神話によると、当時のコレーは、ニューサの野原でニュムペーたちと供に花を摘んでいた。するとそこにひときわ美しい水仙の花が咲いていたのである。コレーがその花を摘もうとニュムペーたちから離れた瞬間、急に大地が裂け、黒い馬に乗ったハーデースが現れ彼女は冥府に連れ去られてしまう。
オリュムポスでは、ペルセポネーが行方知れずになったことを不審に思った母デーメーテールが、太陽神ヘーリオスから、ハーデースがペルセポネーを冥府へと連れ去ったことを知る。女神はゼウスの元へ抗議に行くが、ゼウスは取り合わず、「冥府の王であるハーデースであれば夫として不釣合いではない」と発言した。これを聞き、娘の略奪をゼウスらが認めていることにデーメーテールが激怒し、オリュンポスを去り大地に実りをもたらすのをやめ、地上に姿を隠す。
一方、冥府に連れ去られたペルセポネーは丁重に扱われるも、自分から進んで暗い冥府に来た訳ではない為、ハーデースのアプローチに対しても首を縦に振る事は無かった。
ペルセポネーの帰還 (フレデリック・レイトン画, 1891)
初代レイトン男爵フレデリック・レイトン (1830年 - 1896年)は、イギリスの画家・彫刻家。作品は歴史、聖書、古典的題材がほとんどである。
その後ゼウスがヘルメースを遣わし、ハーデースにペルセポネーを解放するように伝え、ハーデースもこれに応じる形でペルセポネーを解放した。その際、ハーデースがザクロの実を差し出す。それまで拒み続けていたペルセポネーであったが、ハーデースから丁重に扱われていた事と、何より空腹に耐えかねて、そのザクロの実の中にあった12粒のうちの4粒を食べてしまった。そして母であるデーメーテールの元に帰還したペルセポネーであったが、冥府のザクロを食べてしまった事を母に告げる。冥界の食べ物を食べた者は、冥界に属するという神々の取り決めがあった為、ペルセポネーは冥界に属さなければならない。デーメーテールはザクロは無理やり食べさせられたと主張してペルセポネーが再び冥府で暮らすことに反対するも、デーメーテールは神々の取り決めを覆す事は出来なかった。そして、食べてしまったザクロの数だけ冥府で暮らす事になり、一年のうちの1/3を冥府で過ごす事となり、彼女は冥府の王妃ペルセポネーとしてハーデースの元に嫁いで行ったのである。そしてデーメーテールは、娘が冥界に居る時期だけは、地上に実りをもたらすのを止めるようになった。これが冬という季節の始まりだという。また、ペルセポネーが地上に戻る時期は、母である豊穣の女神デーメーテールの喜びが地上に満ち溢れるとされる。これが春という季節である。そのため、ペルセポネーは春の女神(もしくはそれに相当する芽吹きの季節の女神)とされる。ペルセポネーの冥界行きと帰還を中軸とするエレウシース(古代ギリシアのアテナイに近い小都市。女神デーメーテールの祭儀の中心地)秘儀は死後の復活や死後の世界における幸福、救済を保証するものだったと考えられている。そもそもペルセポネー自体が本来デーメーテールと同じ神であり、同一神格の別の面が強調されただけではないかともいわれる。このように、ペルセポネーは強制的にハーデースの妻にされてしまったが、ハーデースの妻であることを受け入れ、ギリシャ神話では夫のそばにいる場面が多い。またハーデースの恋人メンテーを厳罰に処すなど、強い嫉妬心を見せるようになった。しかしペルセポネー自身も美しい人間の男・アドーニスを深く愛し、ゼウス公認で一年の3分の1の間、彼を恋人として堂々とそばにおいている。
ナポリ王冠窯印 Ginori ロゴ
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。
ポセイドン
饗宴
プルート
ケレス
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イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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プルートーは、ローマ神話における冥界を司る神。ギリシア神話のハーデースがローマ神話に取り入れられたものである。
ペルセポネーは、ギリシア神話に登場する女神で冥界の女王である。ゼウスとデーメーテールの娘で、ハーデースの妻として傍らに座しているとされる。地上にいる間はコレーと呼ばれ、冥界に入るとペルセポネーと呼ばれる。日本語では長母音を省略してペルセポネとも呼ぶ。ローマ神話ではプロセルピナと呼ばれ、春をもたらす農耕の女神となっている。
ペルセポネーの略奪 (レンブラント・ファン・レイン画, 1631)
レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(1606年- 1669年)は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。レンブラントの通称で広く知られ、大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。
神話によると、当時のコレーは、ニューサの野原でニュムペーたちと供に花を摘んでいた。するとそこにひときわ美しい水仙の花が咲いていたのである。コレーがその花を摘もうとニュムペーたちから離れた瞬間、急に大地が裂け、黒い馬に乗ったハーデースが現れ彼女は冥府に連れ去られてしまう。
オリュムポスでは、ペルセポネーが行方知れずになったことを不審に思った母デーメーテールが、太陽神ヘーリオスから、ハーデースがペルセポネーを冥府へと連れ去ったことを知る。女神はゼウスの元へ抗議に行くが、ゼウスは取り合わず、「冥府の王であるハーデースであれば夫として不釣合いではない」と発言した。これを聞き、娘の略奪をゼウスらが認めていることにデーメーテールが激怒し、オリュンポスを去り大地に実りをもたらすのをやめ、地上に姿を隠す。
一方、冥府に連れ去られたペルセポネーは丁重に扱われるも、自分から進んで暗い冥府に来た訳ではない為、ハーデースのアプローチに対しても首を縦に振る事は無かった。
ペルセポネーの帰還 (フレデリック・レイトン画, 1891)
初代レイトン男爵フレデリック・レイトン (1830年 - 1896年)は、イギリスの画家・彫刻家。作品は歴史、聖書、古典的題材がほとんどである。
その後ゼウスがヘルメースを遣わし、ハーデースにペルセポネーを解放するように伝え、ハーデースもこれに応じる形でペルセポネーを解放した。その際、ハーデースがザクロの実を差し出す。それまで拒み続けていたペルセポネーであったが、ハーデースから丁重に扱われていた事と、何より空腹に耐えかねて、そのザクロの実の中にあった12粒のうちの4粒を食べてしまった。そして母であるデーメーテールの元に帰還したペルセポネーであったが、冥府のザクロを食べてしまった事を母に告げる。冥界の食べ物を食べた者は、冥界に属するという神々の取り決めがあった為、ペルセポネーは冥界に属さなければならない。デーメーテールはザクロは無理やり食べさせられたと主張してペルセポネーが再び冥府で暮らすことに反対するも、デーメーテールは神々の取り決めを覆す事は出来なかった。そして、食べてしまったザクロの数だけ冥府で暮らす事になり、一年のうちの1/3を冥府で過ごす事となり、彼女は冥府の王妃ペルセポネーとしてハーデースの元に嫁いで行ったのである。そしてデーメーテールは、娘が冥界に居る時期だけは、地上に実りをもたらすのを止めるようになった。これが冬という季節の始まりだという。また、ペルセポネーが地上に戻る時期は、母である豊穣の女神デーメーテールの喜びが地上に満ち溢れるとされる。これが春という季節である。そのため、ペルセポネーは春の女神(もしくはそれに相当する芽吹きの季節の女神)とされる。ペルセポネーの冥界行きと帰還を中軸とするエレウシース(古代ギリシアのアテナイに近い小都市。女神デーメーテールの祭儀の中心地)秘儀は死後の復活や死後の世界における幸福、救済を保証するものだったと考えられている。そもそもペルセポネー自体が本来デーメーテールと同じ神であり、同一神格の別の面が強調されただけではないかともいわれる。このように、ペルセポネーは強制的にハーデースの妻にされてしまったが、ハーデースの妻であることを受け入れ、ギリシャ神話では夫のそばにいる場面が多い。またハーデースの恋人メンテーを厳罰に処すなど、強い嫉妬心を見せるようになった。しかしペルセポネー自身も美しい人間の男・アドーニスを深く愛し、ゼウス公認で一年の3分の1の間、彼を恋人として堂々とそばにおいている。
ナポリ王冠窯印 Ginori ロゴ
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。
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イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ジノリ カポデモンテ ナポリ窯 の真贋について
スペイン・ブルボン家のカルロス王子・パルマ公(1716年 - 1788年)は ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)が起こると、フランス王ルイ15世の支援を受け、兵を集めて1734年、オーストリア領シチリアとナポリを占領した。南イタリアは 13世紀から代々スペイン領であったが、先のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)でオーストリアに 奪われた土地であった。1735年 ナポリ王、シチリア王(在位:1735年 - 1759年)に即位してカルロ7世およびカルロ5世となる。当時、ナポリとシチリアは 別々の王国として扱われたが、実質的にはこの時 両シチリア王国が成立したといえる。1738年、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の孫でもある)と結婚した。彼女は王に愛され 生涯にわたり13人の子をなすのですが 初めの40,42年の2人の娘は 喜びも束の間に夭折します。1743年 3人目の娘が無事に生まれ 喜びの中 マリア・アマリアは 磁器王女(マイセン創窯のアウグスト強襲王・ポーランド王の孫娘)に相応しいカポディモンテ窯を創設させました。(蝶よ花よと育てられたこの姫も6歳にしてなくなるのですが 前年には後継ぎのカルロス4世を儲けております。更に前年の長男フェリペは 病により継承辞退。)
1759年、カルロスは 異母兄フェルナンド6世の死去によりスペイン王即位の為、スペインに帰国し カルロス3世に就く。カルロス3世は、ブルボン朝のスペイン王(在位:1759年 - 1788年)スペインの啓蒙専制君主と言われる。帰国に際し、カポディモンテ窯はモールドは 勿論 職人も含めて、総てを スペインのBuen Retiro (1808年まで生産が続けられた。)に譲渡されました。両シチリア王国の王位は 8歳の三男フェルナンド(フェルディナンド1世)に譲られた。
1771年 王妃マリア・カロリーナ ナポリ窯創設の根拠。
フェルディナンド1世(1751年 - 1825年)は、両シチリア王国の最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としてはフェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。
スペイン王カルロス3世とマリア・アマリア・フォン・ザクセンの三男、カルロス4世の弟。妻は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナである。
マリア・カロリーナ
当初はフランス王ルイ16世との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
婚前の約束から、政治に興味を持たなかった夫フェルディナンドに代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を解放し、前国王時代から政治を牛耳っていたベルナルド・タヌッチを追放、兄レオポルト2世にならい士官学校を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリー・アントワネットではなくマリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている。
フェルディナンド1世は アウグスト強襲王(強精と強力は 夙に有名で 両手で 馬の蹄鉄をへし折って 驚く人にご満悦)血筋ゆえか 体力に恵まれ性格も非常に善良であったが、王族としての正式な教育を受けておらず、若い頃から重要な書類には家臣に自分のサインのスタンプを押させ、自らは狩りやスポーツに明け暮れた。性格が正反対と言ってもいいマリア・カロリーナ妃が嫁ぐとすぐに妃に夢中になった。妃からは教養の無さや行儀作法の悪さを「かわいいおばかさん」と呼ばれていた。しかし夫婦仲は良好であり、子に恵まれ家庭生活は幸せなものであった。結婚時の約束の一つに、妃が王子を産めば摂政になれるという約束があり、王子誕生後は政治的実権は完全にマリア・カロリーナが握っており、フェルディナンドは狩りや社交に徹していた。
フェルディナンド1世は女性の手、特に手袋をした手を偏愛しており、マリア・カロリーナは何か頼みごとがある時は長手袋の手をすっと彼に差し出していた。フェルディナンドはうっとりとし、何でも妃の願い事を聞いたという。
庶民の食べ物であった細打ちのパスタ(いわゆるスパゲティ)を気に入り、宮廷で供するよう命じたが、当時スパゲティは手づかみで食べるものであり、マリア・カロリーナから下品であると反対された。このことからパスタを食べるための道具としてフォークが採用されたという。1820年のカルボナリによって引き起こされたナポリ革命後は妃の故里ウィーンに亡命。晩年はアブルッツォやリエーティで暮らし、ナポリで亡くなった。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)
特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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