マイセン 【バラと忘れな草・古作】 兼用C/S・582 35%Off
マイセン 【バラと忘れな草・古作】 兼用C/S・582 35%Off
祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) ラッキーセブン 7客限定
通常30%Off 祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) 35%Off
美女バラ 勿忘草紫苑の花瓣
リチャード・ウェストール作「西風によってヴェールを剥がされたフローラ」
フローラは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。
オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
また、フローラが 夫のユーピテルが 自分でミネルウァを産んだため 正妻としての面目を失った神々の女王ユーノーに 触れた女が 自然に子を身籠もる魔法の花を与え 戦士神マールスの誕生を助けたという説話も残されている。
(解説1)オウィディウス プブリウス・オウィディウス・ナソ(紀元前43年3月20日 - 紀元17年)は、古代ローマのアウグストゥスの時代に生きた詩人。代表作は『恋愛術』、『変身物語』など。紀元1年ごろ(一般に 紀元元年だが ISOや天文学的には 0年があるので 紀元2年になる)、ギリシア神話を参考にして『恋愛術』を書いた。しかし余に露骨な性描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、8年、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ一生流された。)
(解説2)ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
ヒュラスとニンフたち /19世紀の象徴主義 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 1897年
ギリシャ神話に登場する美少年ヒュラスは、金羊毛を求めてのアルゴ船の遠征にヘラクレスの侍童として加わりました。ある晩にミュラス島に上陸すると、彼は水差しを持って真水を汲みに行かされました。水浴していたナイアスたち(泉と川のニンフ)は、彼の美しさに魅せられ、彼を水中へと誘い込みます。こうして彼はそれっきり行方不明となってしまいました。
ダモクレスの剣
ダモクレス(紀元前4世紀)はシラクサの僭主・ディオニュシオス(1世または2世)の廷臣とされる人物。
ある日、ダモクレスがシチリアの僭主・ディオニュシオスの権力と栄光を羨み、追従の言葉を述べた。すると後日、ダモクレスは僭主から豪華な宴の招待を受けた。宴は贅を極めたものであったが、その豪華な席からダモクレスがふと頭上を見上げると、天井から今にも切れそうな細い糸(馬の尾の毛)で、剣が吊るされていた。僭主・ディオニュシオスは、ダモクレスの羨んでいる僭主という立場が、いかに命の危険をともなうものであるかを示したのである。
この故事から、ヨーロッパ文化圏で「ダモクレスの剣」は、常に戦々恐々としている状況、あるいはそのような状況をもたらすものの譬えに用いられるようになった。
リチャード・ウェストール『ダモクレスの剣』(1812年)
この逸話が日本でよく知られるようになったのは、ケネディ大統領の国連演説(1961年)である。
地球のすべての住人は、いずれこの星が居住に適さなくなってしまう可能性に思いをはせるべきであろう。老若男女あらゆる人が、核というダモクレスの剣の下で暮らしている。世にもか細い糸でつるされたその剣は、事故か誤算か狂気により、いつ切れても不思議はないのだ。
ケンドラー作 ノイエ・アウスシュニット型
忘れな草(Forget me not)は バラに恋しているのでしょうか
まるで纏わって バラを引き立てている様です。
やはり花はマイセン。
学校を出て 親方(マイスター)に弟子入した ペインターの卵達が まず 最初に習うのが お花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に 精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
マイセン 【バラと忘れな草・古作】 兼用C/S・582 35%Off のお求めはコチラ
古作 バラ絵名人 No.454 流石に薔薇が生きています。
写真はクリック拡大
ソーサー絵 反対面 把手面
マイセン 【 バラと忘れな草・古作 】 祝母の日フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-5
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や 男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は 死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐらいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為 マイセンロゴに採用しました。片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産業スパイを 図らずも呼び集めました。固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりま・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 ベトガー 5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) ラッキーセブン 7客限定
通常30%Off 祝母の日フェア ( 本日~ 5/14) 35%Off
美女バラ 勿忘草紫苑の花瓣
リチャード・ウェストール作「西風によってヴェールを剥がされたフローラ」
フローラは、ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。
オウィディウスの説によると、彼女はかつてクローリスという名のギリシアのニュムペーだった。しかし、春の訪れを告げる豊穣の風 西風の神であるゼピュロスによって イタリアに攫われ、誘拐後に自らの罪を悔いて 彼女を神の地位に押し上げ 以後フローラは 花の女神になったという。
また、フローラが 夫のユーピテルが 自分でミネルウァを産んだため 正妻としての面目を失った神々の女王ユーノーに 触れた女が 自然に子を身籠もる魔法の花を与え 戦士神マールスの誕生を助けたという説話も残されている。
(解説1)オウィディウス プブリウス・オウィディウス・ナソ(紀元前43年3月20日 - 紀元17年)は、古代ローマのアウグストゥスの時代に生きた詩人。代表作は『恋愛術』、『変身物語』など。紀元1年ごろ(一般に 紀元元年だが ISOや天文学的には 0年があるので 紀元2年になる)、ギリシア神話を参考にして『恋愛術』を書いた。しかし余に露骨な性描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、8年、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ一生流された。)
(解説2)ニュムペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)である。山や川、森や谷に宿り、これらを守っている。英語ではニンフと呼ばれる。なお、ギリシア語の普通名詞としては「花嫁」や「新婦」を意味する。
その一方、粗野な妖精とする伝承もあり、人間の若者に恋をし、しばしば攫っていく。このため女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアという言葉の語源となった。
ヒュラスとニンフたち /19世紀の象徴主義 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 1897年
ギリシャ神話に登場する美少年ヒュラスは、金羊毛を求めてのアルゴ船の遠征にヘラクレスの侍童として加わりました。ある晩にミュラス島に上陸すると、彼は水差しを持って真水を汲みに行かされました。水浴していたナイアスたち(泉と川のニンフ)は、彼の美しさに魅せられ、彼を水中へと誘い込みます。こうして彼はそれっきり行方不明となってしまいました。
ダモクレスの剣
ダモクレス(紀元前4世紀)はシラクサの僭主・ディオニュシオス(1世または2世)の廷臣とされる人物。
ある日、ダモクレスがシチリアの僭主・ディオニュシオスの権力と栄光を羨み、追従の言葉を述べた。すると後日、ダモクレスは僭主から豪華な宴の招待を受けた。宴は贅を極めたものであったが、その豪華な席からダモクレスがふと頭上を見上げると、天井から今にも切れそうな細い糸(馬の尾の毛)で、剣が吊るされていた。僭主・ディオニュシオスは、ダモクレスの羨んでいる僭主という立場が、いかに命の危険をともなうものであるかを示したのである。
この故事から、ヨーロッパ文化圏で「ダモクレスの剣」は、常に戦々恐々としている状況、あるいはそのような状況をもたらすものの譬えに用いられるようになった。
リチャード・ウェストール『ダモクレスの剣』(1812年)
この逸話が日本でよく知られるようになったのは、ケネディ大統領の国連演説(1961年)である。
地球のすべての住人は、いずれこの星が居住に適さなくなってしまう可能性に思いをはせるべきであろう。老若男女あらゆる人が、核というダモクレスの剣の下で暮らしている。世にもか細い糸でつるされたその剣は、事故か誤算か狂気により、いつ切れても不思議はないのだ。
ケンドラー作 ノイエ・アウスシュニット型
忘れな草(Forget me not)は バラに恋しているのでしょうか
まるで纏わって バラを引き立てている様です。
やはり花はマイセン。
学校を出て 親方(マイスター)に弟子入した ペインターの卵達が まず 最初に習うのが お花の絵です。一人前になっても 自然のお花を 工房に飾って 写生に 精を出します。マイセンでは お花を描くのは 旨くて当たり前なのです。
マイセン 【バラと忘れな草・古作】 兼用C/S・582 35%Off のお求めはコチラ
古作 バラ絵名人 No.454 流石に薔薇が生きています。
写真はクリック拡大
ソーサー絵 反対面 把手面
マイセン 【 バラと忘れな草・古作 】 祝母の日フェア お宝倉庫 に買い物籠 有ります。
どの写真もクリックで拡大
錬金術師-5
ベトガーは 1711年 囚われの身のまま 王より男爵に叙せられておりました。ベトガーに 自由が許されたのは 1714年4月 32歳のときでした。水銀や 黄色の硫黄を 用いる実験に 没頭し続けたベトガーの体は 日々に蝕まれていくのですが 一向に現れぬ 賢者の石。それゆえの処刑の恐怖から 深酒に溺れる日々。白磁焼成の実験に変わっても 高熱の窯は 熱気 それも猛毒のガスを発します。更に悪いことに アルコール中毒に陥ったベトガー。13年間の過酷な 実験研究により 深い病に陥った ベトガーを やっと王は 哀れな成功者と 気遣って 囚われの身を解放してくれたのです。今にときめく 輝かしきマイセン その基を築いた ベトガーへの評価報奨は 決して満足の出来るものとは いえなかったでしょう。事実 ベトガーの死後 マイセン工場への出費や 男爵としての 生活維持の借金を 清算すると 無一文になったそうです。ベトガーの足跡は 死後 妹の婿であるシュタインブリュックが 彼の後を襲って 2代目工場長に就いたことぐらいです。1722年 シュタインブリュツクは 双剣(アウグスト強襲王紋章)を 贋作防止の為 マイセンロゴに採用しました。片や一方で アウグスト王の成功は 輝かしく喧伝されました。
羨望と競争心から 秘密であるはずのアルブレヒト城のある マイセン市に 多国の王の産業スパイを 図らずも呼び集めました。固く防御する 王の意図に反し 秘法は 瞬く間にヨーロッパ中に広がりま・・・・・
「欧州磁器戦争史 錬金術師 ベトガー 5」 詳しくは コチラをクリック してください。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。一方 本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。
コメント
コメントの投稿
« ウェッジウッド 【プシュケ】 兼用(リー)C/S 21%Off l Home l バカラ 【 ドンペリニヨン 1-136-103】 ラージワイン 20.7cm 15%Off »